『チベット死者の書』が説く生まれ変わり 標高3000メートル級の峻厳な山々に囲まれたチベットの地は、原始仏教(金剛大乗仏教)に根ざした高度な心の文化が古くから開花していた。自然環境が厳しいチベットでは自然が優しい日本などとは異なり、ここには人が自然との一体感を得るなどという優しい発想はない。死と自然は対決すべきものであり、人々はその問題から眼を背けずに常に正面から対峙している。
その根底には人が死を逃れることが不可能である以上は、悩み恐れても仕方がないという考えである。従って死は終わりではなく、当然のように死後の自分の存在を考えている。
チベットで肉体を「リュ」と言うそうだが、これは「置き去りにしてゆくもの」の意味で、死とは古くなった衣服を脱ぎ捨てるようなものであると解釈されているらしい。
死んでモノとなった死体は、鳥葬にされハゲタカの餌になる。
『チベット死者の書』は1927年に英訳され出版された。著名な学者であるカール・グスタフ・ユングがこれを絶賛し、欧米に広く知られるようになった。
近年になり臨死体験との一致点が多いことから、終末医療への応用などが試みられているようだ。『チベット死者の書』は臨終に際して、ラマ僧が死者の魂に読み聞かせるあの世の案内書である。その内容は輪廻転生からの脱出に始まり、次にはより良い来世へ導く為に、更には来世も人間としての生を送れるように導くというように段階を踏んでいる。
輪廻転生からの脱出が一番だが、それが叶わなければ良い来世を選ばせるように死者にこれを読み聞かせる事で、より良い道を選ばせるのである。
この『チベット死者の書』の正式名称は、『バルドゥ・トェドル』と呼ばれ、霊界に入る前の中有界に於ける聴聞による大解脱と称する経典のことである。
バルドゥとは死の直後の世界で、私達に馴染みの表現をすれば幽界のことである。ここでは霊性の変化により、生→死→霊位→再生の道か或いは解脱か成仏かの審判をくだされるという。解脱とは輪廻のサイクルから脱出し、もう二度と生まれ変わることはない。
成仏とは解脱していない状態であり、バルドゥを通して霊界へ行き、再び生まれ変わる。
チベットではダライ・ラマに見られるように生まれ変わりは常識であると信じられている。
ルン(風)を乗り物とする死後の意識は、死に際して9つある肉体の門から肉体を抜け出すとされていて、どの門から抜け出すかにより向う霊界や何処に生まれ変わるかが決まる。
上位の門ほど上層の霊界へ向い、下部に成るほど下層の霊界へ向う。頭頂から出たならば、極楽浄土に生まれ変わると考えられているのである。
うろ覚えだが、以前に何か(ポピインディアンの言い伝えだったか)で読んだ記憶では、「頭の蓋は常に開けておけ」と云うような記述が有ったのを思い出した。それはここで述べている頭頂の門と同じものなのであろうか。
チベット仏教では人が死ぬと、意識だけの世界であるバルドゥに入ると説いている。そのバルドゥでは、肉体を持たない意識だけの世界であるから、何も恐れる必要はない。
バルドゥは更に3つに細分されている。
①チカエ・バルドゥ(死の直後に体外離脱した状態)
②チョエニ・バルドゥ(意識だけの状態、本来の中有)
③シパ・バルドゥ(転生に向かい、迷っている状態)
これらの状態にある期間は定められていて、①は49日②は14日③は34日となっている。
この定められた期間により、僧侶は死者の意識の状態を観察しながら7日ごとに7回『チベット死者の書』を読み聞かせるのである。
では、少し詳しく述べて行こう。
第一のチカエ・バルドゥでは「根源の光明」と呼ばれる第一の光が出現する。この時、死者がこの光を自己に備わっている仏性の現れであると知覚すれば、忽ち解脱が叶うという。
臨死体験者はこの第一の光を見た(感じた)段階で、現世へ帰って来るものらしい。
解脱は死の直後に体験するこの光が、自分自身の心の現われであると意識が気付いた瞬間に起こる。輪廻転生のサイクルに入るか、解脱するかはこの時の意識の認識による。
第一の光明で悟れないと、第二の光明が現れる。僧はその時に「それはお前自身の仏性が水に映った月と同じようなものだ」と読み聞かせる。
それでも悟れないと死者のカルマにより現れる大音響や光と光彩が出現して、死者を混乱させる。それでも悟れれば解脱できるので、僧はチョエニ・バルドゥの導きを読み聞かせる。ここでも悟れないとなれば、次のシパ・バルドゥが待っている。
シパ・バルドゥで死者は意識が構成する身体を有するが、思っただけで何処へでも瞬時に移動が出来たり、物質をすり抜けたり出来る。この段階では死者の本来の心の有り様がエネルギーとなり、様々な知覚として具現化し始める。
それが輪廻世界と呼ばれる仮想現実を生み出し、死者は自分が創り出した誤った幻想の世界で死と生のサイクルの中(天界・人界・阿修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界)に閉じ込められる事になる。
余談であるが、これを仏経では六道輪廻という。
更に仏教では六道に四つの界を加えて十界とし、それぞれにも段階があり一つの界に各々10の段階があると説く。その内訳は上から、仏界・菩薩界・声聞界・縁覚界に先述の六道が加わり全部で十界となる。
それが各回でも備わっており、地獄界(最低の境涯)でも仏界が備わっているとする。これを十界互具と呼ぶが、要はどの境涯(意識の状況)にあっても、その中には解脱や成仏の種である仏の光を持っていると説いているのである。
これは『チベット死者の書』で、どのバルドゥであろうと死者が気付けば即解脱できる機会が設けられている事とある意味で共通していると私(ブログ筆者)は思う。
その次には自分が転生する世界の幻影が現れるが、それを求めたり執着してはならないと教える。この段階で死者は自分が死んでいる事に気がつき、苦悩する。
それでも悟れないと、今度は自分の生前の行い全てが、ヤマ王の前で鏡に映し出される。
この段階でもそれが自己の心により生ずる幻影であると気付けば解脱できるが、そうでない場合は輪廻転生の原則により六道の内のいずれかの世界へと転生していく。
この時、僧は「六道の入り口の選択に関する教戒」を読み聞かせ、少しでも良い世界への転生を促す。同じ六道でも天界が最も良い世界であり、責めて天界への転生を選ばせるように配慮されている。
ダライ・ラマも次の様に述べている。
「現世の苦は、あなたのカルマによって生じている。それを浄化する術を知らない限り、あなたはカルマによる苦しみを限りなく受けることになる。ならば今世で人間の身体を有している間に、より大きな苦を体験する方が望ましいというものだ。動物に転生してからの苦しみは、ただ耐え忍ぶしかないだろうからである」
前述の『エジプトの死者の書』と『チベット死者の書』の共通点を比較し、霊の世界を科学的に究明しようと試みた人が本山博氏である。
氏の著作『カルマと再生』では、特に死の直後に入る(中有・バルドゥ)の世界で審判を受け、成仏か解脱、或いは六道の世界に入るかが決まる点が不思議な程に似通っていると指摘している。
また『人間と宗教の研究』では、イスラム教、ギリシャ正教、カトリック、仏教、神道、道教、フィリッピン、マダガスカルの土着宗教などの臨死体験を比較研究して、その共通点を述べている。人種や時空間が大きく隔たった国々の人々が語る、死後の世界への共通点は何を意味するのだろう。その答えはひとつ「大霊界は実在する」に帰するのではないだろうか。