IE9ピン留め
長い題名の本22
臨死体験で会う人々
 臨死体験に関する長期の調査により判明した事実は、臨死体験で見る光景が脳内麻薬による幻覚などではないという事をより強力に後押しする。
研究者たちが長期の調査で分かったことというのは、臨死体験で子供が親を見た場合は、必ずその親は故人であるということだ。しかも親だけでなく臨死体験で誰かに会えたかというと、例外なく心から愛していた人、たとえ一分でも先に亡くなっている人いうのが条件なのである。

キューブラー・ロス博士はその著書『死ぬ瞬間』で、この様な事例を多く示している。
臨死体験で共通するのは、先に亡くなっている近親者など、愛する人の存在を感知したしたことである。自分が来るのを心待ちにしてくれているおばあさん、10ヶ月前に死んだ仲良しだったおじさん、約2年前に拳銃の暴発で死亡したクラスメートなどである。
 批判的で懐疑的な研究者たちに、これらの知覚体験が史実であることをどのように示せばよいのだろうか。
 極めて危険な心臓手術の最中に、意識を失っていた少女が術後に兄に会って心が和んだと父親に語った。その少女は兄と自分は以前から知っていて、生活を共にしたように語った。現実には兄と一緒に育ったことなど無かったのに。
彼女の父親はこれを聞いて、口が利けない程に驚いた。彼女には兄がいたが、彼女が生まれる前に亡くなっていたのだ。

 記憶に新しい新潟中越地震で、母子が車ごと土砂に埋まり、後に赤ん坊だけが助け出された悲惨な事例があった。この様な場合、周囲の人々は母親が死亡したことを伝えない。
幼すぎて、その様な事実に耐えられないだろうし、理解出来ないだろうと思うからだ。
ロス博士の話しも、これと同様な事例である。
 アメリカでは膨大な数の自動車事故が起こり、多くの人々が傷ついたり亡くなったりしている。普通、負傷した子供は現場から最も近い病院に連れて行かれるが、事故の状況や外傷の重傷度によっては専門病院へ運ばれる。
子供たちは死の直前、私(ロス博士)が(透んだ瞬間)と呼ぶひと時を持つ。事故あるいは手術後ずっと昏睡状態にあった子供が目を開いて、とてもしっかりとしている様に見え、大きな痛みや不快感を感じていた子供が、穏やかで安らいだ表情になる。
こういう時に「もし良かったら、今、体験していることを話してもらえませんか?」と尋ねてみるのである。

「今はみんな大丈夫です。お母さんとピーターが僕を待っていてくれるから」と、ある少年は答えた。その少年は満足した笑顔で再びこん睡状態に戻り、静かに死へと移行していった。ロス博士は事故で母親が即死した、しかしピーターは死ななかったことを知っていた。ピーターは救出される前に車が引火した為に、火傷をし重度火傷患者の専門部も課のある別の院へ運ばれていた。
ロス博士は少年の言ったことを確かめるために、ピーターの容態を聞いてみようと決心した。しかしその必要は無かった。
ロス博士がナースステーションの前を通り掛かった時、ピーターの病院から数分前にピーターが亡くなったことを知らせる電話が入ったからだ。

ロス博士はカリフォルニアからオーストラリアのシドニーまで、資料を集めて廻った。白人の子供、黒人の子供、原住民、エスキモー、南アメリカやリビアの瀕死の子供たちについて調査した。
誰かが待っていると、子供が言ったとき、それは当たっていた。その人は、その子供が死ぬ前に(例えそれがほんの少し前であれ)必ず死んでいたのだった。
そしてどの子供も、これらの親族の死を前もって知らされてはいないのだった。
これは偶然であろうか、今までのところ、どんな科学者も統計学者も私に、何らかの合理的で科学的な理由でもって、こうした事が起こりえると納得させてくれた事がないとロス博士は述べている。

 偉大な臨床医であるキューブラー・ロス博士は私達に多くの示唆を与えてくれている。特に彼女が現実に日々、多くの人々の死の瞬間を目の当たりにしていた事実がその主張にこれ以上はない重みを与えている。
 それにしても、子供たちが死にゆく瞬間に、安らぎの時が存在し恐れも無く旅立って行くとは何と素晴しい配慮なのであろうか。
本当であれば全ての人々に、この様な配慮が為されているはずである。それが中有(バルドゥ)で出会う光や、三途の川の向こうで微笑んで手を振っている既に亡くなった親しい人々の姿であったりするのだろう。
# by levin-ae-111 | 2012-01-31 05:12 | Trackback | Comments(0)
長い題名の本21
全盲の人が臨死体験で見る光景 
臨死体験は真実なのか、それとも脳が産みだした幻影なのであろうか。脳が産みだした幻影であるとすれば、先述した「窓の下のテニスシューズ」や臨死体験者に共通した報告の「上から自分を見ている」「周囲の人の言葉や、服装の詳細」などは説明されない事も多い。キューブラー・ロス博士はこう述べている。
「例えば突風のような自動車事故に襲われた場合、人々は自分が身体を抜け出すことをはっきりと知覚して、自分が最初に倒れた場所の近くにいることに気付く。
救急車が到着し、彼を車から救い出し火を消そうとしている光景を、その場面を事細かに描写する。驚くことに彼を潰れた車から救い出すのに使ったガスバーナーの数まで正確に言うのである」

「願望投影説を否定する、最も単純な方法があります。光を知覚できない全盲の人に、臨死体験はどんな風だったか聞くのです。もし単なる願望の投影ならば、自分の周りの状況を正確に描写することなど出来ないはずです。
私達は何人かの全盲の人に、臨死体験について質問しました。彼らは誰が最初に部屋に入って来たか、誰が蘇生を試みたか、その場に居た全員の服装を微に入り細を穿って描写してくれました。
自分を見舞いに来てくれた人々の洋服や宝石の色、セーターやネクタイの色や柄までを見て正確に描写することを確認しているのです」

 有名な臨床医であるキューブラー・ロス博士が、嘘をつくとは思えない。このことは、肉体を離れた意識体(魂)の実在を示す有力な証拠である。どの様な科学者も、これを願望の投影や幻覚とは呼べないのではないだろうか。
ワシントン大学の小児科医であるメルヴィン・モース氏は、1980年代に治療した溺死しかかった少女の臨死体験について語っている。
少女はプールで溺れ、呼吸と脈が19分間も停止した重態だった。そして3日間にも渡り昏睡状態が続いた。
通常は6分間の呼吸停止で脳の破壊が始まると言われるが、この少女は奇跡的に何の障害も残らずに回復した。

 博士が少女にプールで起こった事を聞いた時、少女は「天のお父様に会った時のこと?」と聞き返した。博士が困惑していると、少女はそれ切り口をつぐんでしまい、続きを聞き出せたのは3週間後だった。
少女は博士が自分にどの様な処置を施したかを、全て見ていてそれを正確に覚えていた。鼻にチューブを入れた時のことも正確に描写した。
「最初に先生は私を大きな部屋で治療していたの。それから私を小さな部屋に連れて行って、大きな機械の中に入れたの」
CTスキャンに入れた時のことを、子供が自分の表現で言えば、こうなるであろう。それから彼女は意識のある状態で、博士を見たことは一度もなかった。
それにも関わらず、彼女は母親に博士のことを知っていると主張し、「あのお髭の人が私を手当てしてくれたの」と言っている。

少女が語った臨死体験について、博士は以下のように語る。
世界が暗くなり、だんだん恐ろしくなった。向こうから金髪の女の人がやって来て、それから辺りが明るくなった。エリザベスという名のそり人は、少女を助けに来たと言い天国みたいな場所に連れて行ってくれた。そこには、子供も大人も大勢いた。
死んだばかりの人もいたし、生まれ変わるのを待っている人もいた。それからキリストの様な人に会って、ここで一緒に暮らしたいかどうかを尋ねられた。
少女は居たいと答えたのだが、お前は母親の手伝いをしなければ成らないと言われて、自分の身体に帰された。
それから8年間、モース博士は心臓停止から蘇生した何百人もの子供を診察した。これらの調査で、昏睡状態の子供たちが、自分や看護師の治療の様子や、話した言葉まで知っていることを確認した。また患者の多くが自分の肉体を抜け出して、自分の肉体と治療する人々を上から眺めていた事を確認するに至った。
モース博士は神経科医や精神科医らと「シアトル研究会」と名付けたチームを組み、臨死体験が薬物、感覚遮断、心理的ストレスなどでは起こらないことを証明した。

このチームは主種の薬物を投与されている患者や、心理的ストレスを持つ患者を調査し、それらによる臨死体験が起こらないことを確認して、以下の様に結論している。
「これまでの調査によると、人間はみな死ぬ時点で肉体を離れて、美しくやさしい光に向かって行くような感覚を持つと思って良いと思う。明らかに唯物論的な考えに反するわけだが、なぜ人々が身体から離れて美しい光に向って行くと感じるのか、最も簡単な説明は実際にその事が起こっているということだと思う。
いわゆる全てのデーターを説明する最も単純な仮説が正しいという原則を当てはめれば、臨死体験の一番簡単な説明は、人間には実際に魂があって、それが死の時点で肉体を離れていくというものだ。もっと複雑な説明が出てくると思うが」

また次の様なことも言っている。皮肉なことに臨死体験が多く報告されるのは、現代の医療技術のお陰なのだ。臨終の床の数時間で、死んで行く者がどんな体験をするかを医師や看護師や私達自身が学べば、これまでの医学と生命に関する思い込みは微塵に砕けるだろう。今日の医療には心が、精神性が欠けているように思う。技術と精神性が肩を並べて存在できない理由は何処にもない。

これらの事柄は何れも死後の意識の存在を示しているだろうし、医療関係者たちのこの様な真摯で綿密な検証の結果は十分に、唯物科学の猛襲に耐え得るものであるように見える。
ところで、唯物論者たちが臨死体験をした場合はどう感じるのだろうか?彼らの反応を予測すると、概ね二つに分かれるに違いない。
一つは自分の信念の間違いを認め、死後の生の存在を認める者。もう一方は自分の体験も疑い、相変らず唯物論に固執するケースである。
臨死体験者たちの多くが、体験後により精神的な方向へと人生の考えを転換している事実を考えれば、どちらが豊かな人生に成るのか言うまでもない事だと思うが。
# by levin-ae-111 | 2012-01-30 05:18 | Trackback | Comments(2)
長い題名の本20
科学者たちの反論
 臨死体験とは一連の意識の経験であり、直接的な物理的証拠が存在するわけではない。臨死体験者が目撃した自身を蘇らせようと必死に努力する医療スタッフの会話や、周囲の状況を幾ら提示したところで唯物科学はそれを取り合わなかった。
しかし、現代に到って、それを科学的に実証しようとする動きもある。英国ブリストル大学の脳知覚研究所の講師で、異常心理学・体外離脱現象の科学的解明を専門とするスーザン・ブラックモアは言う。
「近年、国際臨死研究協会は臨死体験は人間の五感による知覚から開放され、テレパシーによるコミュニケーションを意識レベルにまで移行させる超常体験である。
そして臨死体験者は自分が日常世界とは時間、空間的に異なる周波数の高い次元にいる者と定義するに至った」

だが多くの学者たちはその対極にいて、臨死体験の正体をあくまでも苦しみや恐怖を和らげるための脳内現象であるとする見解を指示している。彼らによれば、これまで見て来た臨死体験は、脳内麻薬による幻覚や幻覚であるらしい。
アメリカの心理学者ロン・シーゲルは、どれほど麻薬中毒者が陥る幻覚や幻聴と、臨死体験が似ているかを示して、臨死体験は脳内麻薬による幻覚、幻想であると結論づけている。
また英国の精神科医は、この種の報告をした人に「本当に死んでいる人はいない」とし、臨死体験は生命が脅かされた状態でなくとも起こり得ることであり、化学的にもその状態をつくりだすことは可能だとしている。

臨死体験否定派の考えは、以下のように要約できる。
臨死体験の全ては「死にゆく脳の作用」によるもので、死の苦痛を和らげる脳内分泌物が生み出す幻覚であり、脳が死ねば最終的にストップする。従って臨死体験は、死後の生について何も語っていないことになる。例えギャラップ調査でアメリカ人の70%が死後の生を信じているからといって、臨死体験の証拠にはならないのだ。
そして臨死体験を肯定する根拠に対して、以下のように反論している。
これらの肯定派と否定派の攻防を、あなたはどうお感じになるであろうか。これだけを見れば、如何にも否定派の主張の方が優位なように見える。
だがそれは臨死体験(体外離脱体験を含めて)なる極めて個人的で主観的な体験を、誰にも分かる様に説明し、それが真実であると証明せよという極めて困難な課題の故である。
 
肯定派の根拠
・臨死体験は古今東西同じで、一貫性がある。
・臨死体験は極めてリアルで、現実感がある。
・臨死体験には、科学で説明不能な超常的な体験が含まれている。
・臨死体験で人が変わり良い方向に変わる。精神主義的になり、物質主義的でなくなる。
否定派の反論
・脳やホルモンは神経系など共通であり、従って同じような体験をするのは当然である。
・そう言っても、未体験の人には分からない。
・これも、体験したと主張する当人にしか分からない。
・化学物質の投与で、これらの事は容易に可能である。

こういった状況は、実は臨死体験などのデリケートな事柄に関してだけ発生するものではない。それどころか、私達の日常の行動や考えに常に付きまとう問題なのだ。
臨死体験を否定する学者たちの身にも、当然のようにその問題は降りかかる。と言うのはあの時、あなたはどうして、あの行動をとったのか科学的に証明しなさい、と言われているのと同様であるからだ。無意識の行動を如何に科学的に分析し、証明してみたところで無意味である。
「あの時、こう考えて、ああした」と分析しても、殆ど無数に存在したであろう行動パターンの一つを選択した真実の原因など現代唯物科学で正確に解き明かし、証明することなど本当は不可能なのである。

学者や発明家、芸術家などには時として閃きなるアイディアが何処かから降ってくるものらしい。現実にそういう閃きの恩恵を私達は受けているのである。
不思議なことに、自分の知識では到底及ぶはずのないこういう文章を記述している私(ブログ筆者)にも、正に今、同様のことが発生している。
今日の記述はコンノケンイチ氏の著書に従えば、上記に掲げた肯定派と否定派の部分で終わっている。
閃きというのは少々オーバーであるが、何か不思議な感覚に導かれて今日の記述を続けている。こういう状態は何度も経験しているが、それを証明せよと言われても不可能である。
私達の物質世界の実態とは、唯物化学が主張するような単純な、或いは複雑過ぎる理論では表現し切れるものではないのだ。
 私達の世界は画一的に表現できる事柄など、皆無であると私は考えている。この世界は私達の合意に基く一定のルールにより形成されているに過ぎないと私は思う。
そこにこそ、意識(魂)としての進化発展の余地が存在するのである。確たる物質的法則で縛られているかに見える私達の世界だが、本当は人間個々の意識が強く働く余地が十分に残されている世界なのである。
# by levin-ae-111 | 2012-01-29 12:42 | Trackback | Comments(0)
長い題名の本19
臨死体験に共通するパターン

 臨死体験について自らも経験したキューブラー・ロス博士は次のように説明している。
「愛した人に迎えられ、指導役の存在たちに迎えられると、よくトンネルと表現されるものの中を通ります。トンネルは、ある人には川だったり、門だったり、それぞれに最も相応しいものとして現れます。私の時は野生の花でいっぱいでした。
と言うのは、私にとって天国のイメージは幼い頃のスイスでの楽しい思い出が基だったからです。この様に、死んだ直後のイメージは、各自の過ごした文化によって決まります」

何故ならば、物質のない中幽界(バルドゥ)では、全てが自分のイメージの通りに現れるからである。そこでは、そのビジョンこそが現実であり、彼らから見れば物質に縛られた私達の世界こそが虚しい一種の幻想であるのだとキューブラー・ロス博士は言う。
更に現世に住んでいる私達は臨死体験や中間生を脳が創り出した幻だとして、真面目に取り合わない傾向がある。だがあちら側から見れば、自分の境遇を忘れたまま死後の世界を否定し、物欲に捉われた生活を送る人々がとても哀れに見えるらしい。
 そういった意味で私達の物質世界こそが実態のない幻なのであり、科学が軽んじている心や意識こそが私達の実態であり真実なのだとロス博士は述べている。

 更にロス博士は、「私達の本来の姿は光であり、その波長の高さ(強さ)によって、その眩しさが異なるようです。臨死体験者の証言では、意識レベルが高いほど眩しく輝き、レベルが低いほど暗く沈んで見えるそうです。どの様な人も、本来はみな光なのです」

 この世を獄舎と考えれば、ロス博士の言うことの意味がより鮮明に理解できるであろう。現在では医療技術の進歩によって、夥しい数の人々が心臓発作や末期的病気、事故などの死の淵から蘇っている。
ギャラップ調査(1982年)によると、アメリカの総人口の20%ものアメリカ人が臨死体験を経験しているという。2004年時点でアメリカの総人口は約3億人であるから、15000万人もの人々が臨死体験をしている計算になる。

ケネス・リングは次の様に言っている。
「私は今、集団としての人類が、より高度な意識の境地に目覚めるために苦闘しているのだと思う。臨死体験は何年かの間に何百万の単位で、この変容を引き起こすための進化上の工夫なのではないだろうか」
  
 臨死体験は人によって異なるが、各段階での核となる共通のパターンが存在するのも事実のようだ。心理学者で臨死体験の最初の研究者であるレイモンド・A・ムーディ博士は、30年ほど前に50人もの臨死体験者と面談し、その個々のデーターを比較研究して共通のパターンを洗い出し『垣間見た死の世界』という著書にまとめている。
その博士が説明する典型的な臨死体験のプロセスを見てみよう。

1.耳障りな轟音を聞いて、気付いてみると自分が肉体から遊離している。その時、自分の肉体を真上から見ることが出来る。
2.苦痛も恐怖も消え失せて、静かさと安らぎに至る感情の変容が発生する。
3.視覚や聴覚、意識が極めて鋭敏になり、壁を抜けて移動することが出来る。
4.闇の中に入り、次元を超えた空間を漂い、トンネルの中を急速に移動していく。
5.はるか彼方に光が見え、ぐんぐん引き寄せられて光の輝きと愛に包まれる。
6.次いで天国の様な世界を目にし、妙なる音楽が流れて一体感を味わう。
7.それ以上は先に進めないという境界線に到達し、亡なった親族や友人と出会い、この世に戻るように告げられる。そこで家族の為に、或いは達成していない自分の人生の目的の為に肉体に戻っていく。

ムーディ博士は臨死体験で見聞する世界は、完全なる死後の世界ではなく霊界の入り口に近い、まだ引き返すことの出来る場所であろうと考えている。コンノ氏の言う刑務所の門の付近であり、境界線を越えるまでは引き返すことも選択できる場所であろう。
臨死体験の重要な点は、体験者の各々が人生や常日頃の態度、人間関係を変容させ得ることであり、例外は少ないであろう。
大方の体験者は、死を悪戯に恐れになくなり、より愛情深く忍耐強くなる。それから精神的価値観に重きを置くようになり、ひとつの宗教に捉われなくなり、人類共通の精神性に興味を抱くようになる。
またコネティカット大学・医学部精神科のブルース・グレイソン教授の調査によれば、臨死体験をした自殺経験者は、二度と自殺をしようとしなくなるとしている。
臨死体験により生と死を理屈抜きに受け入れられる様になり、その結果「生の意味」を知り「生きる意味」が改めて強化されるからであろうと述べている。
# by levin-ae-111 | 2012-01-28 05:58 | Trackback | Comments(0)
長い題名の本18
体外離脱と臨死体験の違いは「死」の深み
コンノ氏の行きつけのバーで知り合った男性が、松葉杖をついていたのでどうしたのかと尋ねると、工場で機械の下敷きになり怪我をしたという。そして男性が語り出したのは、下敷きになり一瞬で意識を失った。気がつくと10メートル程度の上空から下敷きになった自分を見下ろしていた。意識は明瞭で、職場の仲間たちが慌てている様子や、騒いでいる話し声も覚えていると言った。その内に身体に引き寄せられて、気がつくと蘇生していた。これは、臨死体験ではなく、体外離脱の方に分類されるであろう。

さて、体外離脱は私や上記の男性、更に先述の女性マリアのような状態であろう。それは比較的に短時間の間に発生し、終息するといった感じがする。
それに対して臨死体験とは、生命の危機に瀕し比較的長い時間に及ぶ経験と言えるのかも知れない。
事故や病気で瀕死の容態に陥り、自分の周囲を取り囲む人々を上から眺めている。やがて暗いトンネルの向こうに光を見つけてそこを抜け、美しい花畑や三途の川などに辿り着く。対岸には昔に亡くなった身内や友人などが、ニコニコと微笑んでいる。
臨死体験者はそこへ行こうとするが、対岸の人々であったり光の存在や、人によっては神仏に「まだ、早い」などと告げられ、気が付くと肉体に戻っているパターンである。
意識が肉体の外から自分を見るなど、共通した部分が多いが、体外離脱と臨死体験の違いは「死の深みの違い」と言えるのかも知れない。

私(ブログ筆者)が考えるに、私達は誰しもが普通に体外離脱体験をしているのである。それは人によって明確な体外離脱体験として意識される場合と、それとは気付かずに体験している場合の二通りのパターンが存在するのではないかというものだ。
私も明確な体外離脱体験は記憶している限り、一度しか経験していない。しかし、よく考えてみれば夢とも幻覚ともつかない寝入り端の時に、何度も壁をすり抜けたりした。
そうして向う世界は、現実とも幻とも分からない世界なのである。

眠りに着こうと床に入り、暫くするとウトウトとし始める。時はヴーンという低いハミング音が聞こえる。そして体重の感覚が次第に薄れ、浮遊感が出てくる。
しかし、これは現実なのか、それとも夢なのか判然としない。そんな状況の中で、訪れる世界は様々である。
この様な状態の時にいつもとは限らないが、体外離脱をしているのではなかろうか。私達が夢と思い込んでいるものの中には、実際の体外離脱が含まれているかも知れない。


臨死体験の印象的な証言
体外離脱にしても臨死体験にしても、どちらの体験も体験者の生死に関する認識に幾分かの影響を与えずおかないだろう。特にそれが実際に死の瀬戸際まで行った人々では、より大きいと予想されるがどうであろうか。
 現在では脳死問題などをきっかけにして、臨死体験への関心が高まっている。心臓が止まって完全な死の兆候を示しながらも、生き返った人々の体験が臨死体験である。
ここで臨死体験をした人々が、体験後に死に対してどのような認識を持っているのか、印象的な証言を挙げてみよう。

マーゴット・グレイ(42歳)
こうして(臨死体験の後)私は、死後も生命がある事を確信したのです。その事を露ほども疑っていません。だから死ぬことが恐ろしくないのです。そう、怖くないんです。
知人の中には酷く死を恐れて、怯えている人がいます。死後の生を疑っている人や、死ねば終わりだと言っているのを聞いたりすると、私はつい微笑んでしまいます。みんな知らないんだと、心の中でつぶやくのだ。

シルビア・マーガレット
死後にも生命があることを、私は知っているんです!!誰にも私の信念を揺るがす事はできません。私は全く疑っていません。それは安らかで、怖がることなど何もないのです。
私が体験したその先に何があるのか、そこまではわかりません。
でも、あれでもう十分なのです。そう、死後の生はあるのです!!私達の想像を超えた、何よりも美しい生が!ただ知るだけなのです。

医師の証言
 昭和大学病院の高宮医師が、中日新聞で語っている。
末期癌患者の深刻な苦悩や死に対する不安や恐怖は、私達の想像を絶するものだが、そういった患者に対して医療関係者はどう対処したら良いのか。
「私の医師としての体験上、肉体の死で全てが無になるとは思っていない。私が信じているのは、患者の臨死体験で語られる死後の世界である。」
高宮医師の担当した5人の患者たちは、皆同じ体験をしていたという。つまり自分が肉体から離脱して、温かい光に包まれてトンネルを抜けて行く。
その先の景色は人それぞれであるが、概ね花畑や芦原、川や湖があったりする。
患者たちの共通の証言として、「死後の世界があんな所だったら、死ぬことはそれほど怖くない」と述べていた。
 それを信じた高宮医師は患者たちに「肉体の死で全てが無になるとは思っていない。死後の世界は良い所だと思っている」と告げると、多くの患者は安心するのだという。
# by levin-ae-111 | 2012-01-27 04:53 | Trackback | Comments(0)
長い題名の本17
獄舎(この世)からの脱走(死)について
身体から抜け出す意識
 

 人間の意識が身体から抜け出して活動する(体外離脱)を欧米では、OOBB(体外遍歴透視)と呼んでいる。スウェデンボルグがロンドンに居ながらにして、自宅の火事を知ったのもOOBBといえるであろう。自分が寝ている姿を上から目撃したり、遠くの光景をそこに居るかの様に直接見るという奇妙な現象は古代から知られていて、宗教的にも重視されてきた。
聖書にもそのような記述があるし、体外離脱は聖者の有するひとつの属性とすら考えられていたようだ。肉体から遊離した意識が自分の姿を見たという話しを聞いた事があるだろう。そして肉体から遊離した意識と、意識が抜け出した肉体の両方が第三者によって目撃されるドッペンゲンガーなる現象も存在している。かつてはゲーテも、馬車に乗った自らの数年後の姿を目撃したという。

私(ブログ筆者)は、肉体から意識が遊離する現象を一度だけ体験した。一瞬だが空間が歪んだ様な気がして、次の瞬間には工場の天井近くの空間から下を見下ろしていた。
見ると意識が遊離しているにも関わらず、私の肉体は何事も無く作業を続けていた。肉体と遊離しているので、私自身(意識の方)は肉体と一体であった時に感じていたあらゆる刺激を全く感知していなかった。
それと同時に肉体の持っている欠陥(視力が弱い)などの弊害の影響も、全く感じていない。
また肉体に対して特別な感情を抱いている、という事も無かった。
私(意識)は、ただクリアな視界や珍しい視点、安らかで落ち着いた気分、それから何とも言えない軽快で新鮮な体験にワクワクしていた。
 それからもっと以前には、私と同じ車(色も型式も同じ)に乗って、同じ様に眼鏡を掛けて同じ色のポロシャツを着た人物の運転する車とすれ違った。と言うよりも、それは私自身だったに違いない。パープルの半そでのポロシャツは、当時の私のお気に入りだった。
その車と出会った日の私は、目撃した車の運転手と同じ色の半そでのポロシャツ姿だった。
日本ではこの様な現象の原因を、悪霊あるいは生霊の仕業とされて来たという。

 この分野の研究は20世紀の最初の研究者は、フランスのヘクター・ダービルと英国の心理学者オリバー・フォックスである。二人とも自らこの不思議な現象の体験者である。
特にオリバーの体験報告は、多くの示唆を含んでいる。
フォックスの最初体験は、夢の中で自分が夢を観ていると自覚することから始まった。ここまでならば誰にでもあるだろうが、フォックスの場合は体験を重ねる内に、自分の身体が思うがままに壁を突き抜けて、外に出られる事を発見した。不安な感じはなく、目前の光景は見慣れた現実のものだった。
眠りにより表層意識が消滅した無意識状態で始まるこのトリップ体験は、夢の中でも明確な意識と現実感を伴っていた。
こういった問題に科学機器を用いて研究を開始したのが、カリフォルニア大学心理学教授であるチャールズ・T・タートだった。被験者は24歳の女性、エリザベス。
エリザベスは子供の頃から体外離脱を頻繁に体験し、それは誰にでも起こることだと思っていた。成人してからも週に2、3回もベッドで寝ている自分の姿を、天井付近から眺めたという。

タートの行った実験は、エリザベスに電極を付けて脳波や眼球運動をチエック出来る状態で、別室に居るタートがランダムに拾い出した5つの数字を、エリザベスが体外離脱して見て来てタートに報告するというものだ。その数字は5桁で、これを当てる確率は10万分の1しかないのだ。
エリザベスは4回の実験で数度の体外離脱を体験し、エリザベスは悉くこれに成功した。
体外離脱は普通には意識的に可能なものではないが、それを意図的に行える人物もいるようだ。大学生だったブルー・ハラレーは、この稀な例でロバート・モリス博士のもとで被験者として実験に参加した。離れた場所の一室に子猫がいて、ハラレーの体外離脱のターゲットはこの子猫だった。指示に従いハラレーは数回の体外離脱を行い、この子猫の所へ向かった。子猫はハラレーが体外離脱を支持された時、とても静かにしていたが、ハラレーが去ると元気に遊び始めるという反応を実験の度に示したという。こうしてモリス博士は、ハラレーの体外離脱を証明したのだった。

最近では体外離脱した意識は、どの程度の距離を移動できるかという実験も行われている。
それによれば、メイン州ポートランドとニューヨークの間でも可能である事が証明されている。それにしても、これらの実験を行った学者たちは本当に好奇心が旺盛だし、勇気があると感じる。学術的な分野に身を置く人々であるからこそ、そう感じるのである。
 体外離脱の例は、他にもある。心臓発作を起こして病院へ運び込まれた女性マリアは、手術中に意識不明となり、その間に体外離脱をしていたと主張した。その証拠として、病院の3階の窓下にテニスシューズが片方だけ落ちているという。
そこは意識して探そうとしない限り目に付く場所ではなかったので、職員が探しに行って見ると、確かにマリアの告げた通りにテニスシューズが片方だけ落ちていたという。
# by levin-ae-111 | 2012-01-26 05:15 | Trackback | Comments(2)
長い題名の本16
ETの魂を持つ人々 
「宇宙人の魂を持つ人々」という本がある。日本語訳されて出版され、ベストセラーになったのでご存知の方も多いと思う。この本の著者はアメリカ人のスコット・マンデルガー博士で、奇しくも私(ブログ筆者)は勝手にこれをブログにして半年以上にも渡って毎日書き続けた。著作権の侵害も懸念されたが、幸いなことにブログ読者の方のご尽力を頂いて博士からOKを頂いた。最後には博士から「まとめて読みたいと思う人も居るだろうから、本にしたらどうか」などと、望外のご提案まで頂き恐縮したものだ。
仲立ちの方が殊の外、上手な説明を博士にして下さった事や、博士の寛大なお心に今でも感謝している。
 
さてここでETの魂を持つ人々と表現されているのは、宇宙人が地球人に成りすまして地球に侵入している、という話しではない。そうではなくて、地球よりも高度に発達した宇宙の文明社会から魂として地球人に生まれて来ている人々の事を扱った内容である。
博士によれば、これには二つのケースが存在する。
①ワンダラー:最初から地球人として生まれた宇宙由来の魂を持つ人々のこと。
②ウォークイン:途中から宇宙由来の魂が、人間の魂と入れ替わった人々のこと。
これらの人々は、地球人類の意識の底上げを目指して、各々のやり方でそれに貢献しようとしている。
 この宇宙由来の魂の持ち主たちの人数は、驚くべきことに1億人は存在するという。つまり60人に一人が、このETの魂を持った人であるということだ。
そして自分が宇宙由来の魂の持ち主であると気付いている人は、全体の15%程度であり、その多くは価値観の違いによる違和感や阻害感に苦しんでいる。
ワンダラーとウォークインの割合は、95:5程度であり、ワンダラーが圧倒的に多いとしている。

コンノ氏の本には、自分がETの魂を持っているかどうかを知るための簡単な質問が、マンデルガー博士の著書に基いて記載されているが、ここでは割愛したい (詳しくは私のブログ「勝手に言っています」及び「勝手に言っています2」やmixiの日記(よしりん)で載せている─タイトルは「ETソウル」─)。
コンノ氏は価値観の違う人として、手塚治虫氏を挙げている。
無論マンデルガー博士が主張する様な現象に対する科学的証拠は何も存在しないのだが、極めて精神的な問題であるから現代唯物科学の検証の網に掛かるはずもない。
しかしマンデルガー博士がコツコツと自分がETだと自覚している人々をインタビューして回り、その証言と自らの経験を基にして書き上げたレポートは圧巻である。
博士の考えの基礎にあるものは、キリスト教的な宇宙論と仏教の輪廻転生論、それに加えて最新のチャネリング情報を基にしたニューエイジ的思想を融合させたニューエイジ哲学とでも呼ぶべきものである。

それによれば、宇宙の本質とはワンネス(完全に調和とた一体性)であり、私達が生きる意味はユニティ(神との一体化)の達成にあるという。それは物質的な進化ではなく、精神的・霊的な進化のことで、それ為に私達は人生経験から真の愛と寛容を学び、自己啓発を続けながら霊的進化の階段を一段ずつ登って行かねば成らないのだ。
基本的で無機的な段階から心と体を持つ動植物の段階を経て、心と霊がスパークして意識を持ち人間のように魂が宿った存在が第三段階だとしている。
ここで人間は魂の選択を迫られ、人間に留まるか第二段階へ落ちるか、或いは進んで第四段階へと上るのか何れかに成るという。
更に英知と光を体得かするにつれ、段階を上り第7次にまで上がると、そこは神仏のレベルであり永遠の存在となって創造主と一体となるのである。

博士のこの主張は、これまでに見て来た霊界の構造に一致している。尤も博士はインド等で瞑想修行を何年も行っており、ある意味でこれは当然のことかも知れない。
キリストの「あの星とこの星の間に、栄光の差がある」という言葉は、正しくETソウルのことを言っているのだ。
昔、日本の牢獄に外国人は居なかった。それが現代では実に多くの国や地域の外国人が収監されている。彼らは異国の牢獄で、強い孤独感と阻害感に苛まれていることだろう。
彼ら外国人の囚人をマンデルガー博士のいう「ETの魂を持つ人々」と置き換えれば、理解し易いであろう。

王任三朗の主張では「この世はあの世(霊界)の写し絵」で、霊界の仕組みが箱庭のようにレプリカとして造られたのがこの世で、しかも日本が最初の鋳型である。
つまり霊界で起こった事が、まず日本でミニュチュア化されて発生し、次いで地球規模へと発展して行くのだ。
王任三朗は「この世の大掃除が迫っている」と主張していたが、現代の情勢を見るとその時が近いのかも知れない。

キューブラー・ロス博士の次の様に述べている。
「私達は今、新しい時代に生きています。恐らく科学技術と物質文明の時代から、本当の霊性の時代に移行したのではないでしょうか。ここで言う霊性とは宗教や、信仰のことではありません。
私達より偉大な何か、即ち宇宙を創り、生命を創造した何かが存在する、そして私達はその重要で不可欠な一部であり、その発展に貢献できる・・・・そういう意識のことです。
 私は精神科医として、とても大切な事を申し上げましょう。手遅れになる前に、この世界を癒さなくてはなりません。世界を癒すためには、まず自分自身を癒さなくてはならないのです」

この世に自分が生きて存在していること、まだ、人間存在の真の意味がわかっていないにしても、そこに超自然的な意義が与えられていること、そして死後にその意味が開示されるのは確かであるようだ。
この世は「獄舎」であり、自分という存在の神秘性を思うことによって、多くの人に希望が生まれる。そのことに全人類が気付けば、現在の多くの危機は乗り越えられるはずである。宇宙(この世)は無意味に存在しているのではない。
人間の運命は永遠の世界に向って開かれ、常に存在しているのだと著者(コンノケンイチ氏)は確信している。
# by levin-ae-111 | 2012-01-25 05:28 | Trackback | Comments(0)
長い題名の本15
この世には地獄界から来た人がウヨウヨいる

 ある年齢までコンノ氏は、人間の生来の資質は善であると信じていたという。それが悪事を働くようになるのは、時代環境や貧富の差が原因であろうと考えていた。
だが、どうやらその認識は間違っていたと述べている。何度も書いた様に、この世があらゆる階層の霊界人の集合体だとすれば、一様に人は善であるとは言い難くなる。
現在の地球の総人口65億の人々は、全員が神界レベルから地獄のレベルまでのあらゆる階層の霊界からこの世に送り込まれているならば、その霊的資質も大きく異なって当然である。

 マフィアややくざに代表される修羅界の人、オレオレ詐欺を働くような餓鬼界の人、自分の娘をレイプする様な父親などは畜生界から転生したのであろう。
コンノ氏はかつては賑やかな繁華街が好きであったが、上記の様な考えを知ってからは繁華街や人混みの雑踏を歩くのが怖くなったと言っている。
それは同じ人間の皮を被って、修羅界や畜生界、餓鬼界や地獄界から転生した魂が闊歩しているからだ。昨今の通り魔事件、強盗、詐欺などの犯罪の増加を見れば、そうした低い霊界からの転生者が増えているのが分かるだろう。
 
 コンノ氏は言う。日本には十二支が存在するが、これを霊界の階層にあてて考えると解り易いという。子・丑・卯・辰・巳・・・・という本性(霊質)の異なる人々が、同じ社会で同じ様に生きているのだ。人間関係なども、ウマが「合う」「合わない」などと表現されるが、これは本質的には人の本性(霊質)が近いか隔たっているかのという事かも知れない。
また「類は友を呼ぶ」と言われ、似た様な心情や生活態度の人々が集まり易いのも、この霊質が似ているからかも知れない。
巳と亥では話しは通じないであろうが、卯と卯や亥と卯ならば少しは通じ合える可能性も高まるであろう。
しかし、普通はこれが分からないので、恋愛などで燃え上がりゴールインしてしまう。最初はアツアツなので気に成らないが、恋愛感情が冷めてしまうと途端に相手のアラが見えてくる。そして、離婚や別れ話のもつれなどのトラブルに発展してしまうのだ。
出身霊界が同じであれば、それこそ本当に赤い糸で繋がっているかも知れず、所帯を持っても幸せになれるであろう。

コンノ氏によれば、どちらが良い悪いの問題でなく、出身霊界が異なる故にトラブルは当然なのだとなる。氏は自分と合った相手かどうかを見分ける簡単な方法があるという。
結婚前なら、その人と一緒に居ると「心が休まり癒される」。既婚者なら、生まれ変わってもまたこの人と一緒に居たいと思える。そんな相手が、同じ霊界層の出身者である可能性が高いと言うのだ。

聖書にも次の様な一節がある。
「全ての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鶏の肉があり、魚の肉がある。天(天上界)に属する体もあれば、地(地獄界)に属する体もある。
天に属する者の栄光は、地に属する者の栄光と違っている。
日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に栄光の差がある」

私(ブログ筆者)も、人混みや雑踏は嫌いである。田舎育ちの故という原因は大きいだろうが、やはりコンノ氏が抱く様な類の恐怖を感じているからであろう。
少し前に紹介した喜文治さんとは、時々お会いしてお話しの相手をして貰っているが、最近は彼の表現を借りれば、この世は「鬼が島」だという。
つまり社会の上層部の人間は鬼であり、その社会で出世しようと思えば、自分も鬼に成るしかないという事である。
人間であっては、出世できないどころか苦痛を感じながら生活しなければ成らないと。
確かにその通りだと、私も思う。身勝手な要求を平気で押し付け、相手の事など意に介さない人も多い。私など人様を観察して、場合によっては以前に飼っていた猫よりも程度が低いと感じる事がある。猫だって、私に気を使ってくれていたのが分かったのにと考えてしまうのだ。ともかく、この喜文治さんの「鬼が島」なる表現は、言い得て妙である。
# by levin-ae-111 | 2012-01-24 05:16 | Trackback | Comments(2)
長い題名の本14
この世の霊位は逆転している
 スウェデンボルグは「この世はあらゆる霊界からの霊人の集合体」と言い、王任三朗は霊界物語で「この世の霊位は逆転している(体主霊従)」と語っている。仏教でいう六道(天上界、精霊界、修羅界、餓鬼界、畜生界、地獄界)の霊順位が、この世では逆転しているというのである。
これらの説が正しいのならば、この世では、地獄界から転生した下位の霊が、上層に君臨しているという事になる。そんな馬鹿なと思われるだろうが、この世は監獄(刑務所)なのである。そこは通常の世間とは異なり、凶悪な犯罪者ほど他の囚人から一目置かれる世界である。
時代劇などの牢屋シーンでは、獄中で畳を積み上げた高い場所で、大きな顔をして座っている牢名主などと呼ばれる人物が登場したりする。現代の刑務所でも、重犯罪者ほど幅を利かせているし、外国も同様である。
マフィアのボスなどは収監されていても個室に、電話まで自由に掛けられ、食事、飲酒も許されているなど別格の扱いを受けているのだ。

 刑務所でなくともこの世の情勢を見渡せば、その事がよく分かる。一人殺せば殺人者だが、一万人を殺せば「英雄」と呼ばれるのである。戦争はその典型である。
先の大戦で日本の諸都市を壊滅させ、最悪の原爆攻撃を指揮した人物カーチス・ルメイは後にもベトナムで爆撃の指揮を執り、多くの人々を殺している。
この悪魔の様な下衆に、後に日本国の総理が叙勲までしているのだから呆れ返るが、それもそのはずである。総理もルメイも、所詮は地獄から転生した同じ仲間であるからだ。
他にも大勢おり、枚挙に暇が無いが近代ではアドルフ・ヒットラー、古代にはローマ帝国の暴君ネロなどは、畜生界、餓鬼界、地獄界の何れからかの転生組みであろう。
現代日本も決して例外では有り得ない。現在の政治経済、マスメディアの上層に君臨する人々の言動を見る限り、決して高位の霊界から転生しているとは思えない。
人並み外れた権勢欲、物欲など修羅界や餓鬼界の生命状態そのものであり、目標達成の為に手段を選ばすに食い合うのは、畜生界の姿そのものである。
この世で如何に権勢を誇り栄耀栄華を極めようと、所詮は刑務所内の争いに過ぎない事を私達は肝に銘ずる必要があろう。

脳研究のパイオニアであり、ノーベル賞受賞者であるジョン・C・エックルスは以下の様に述べている。
「ここで、人類の未来に暗い影を落とす一つの暴力的存在について言及しておかねば成らない。それはホモ・サピエンス(賢い人)ならぬホモ・プリダトリアス(獰猛なる人)の存在である。彼らは様々な仮面を被って人間世界に登場し、社会の至るところ─政界、財界はもとより学会も彼らの舞台になる─で他の人間を支配しようとする。
彼らの頭に在るのは、人を思い通りにする力を貪欲に追求することだけであり、自己の最善を尽くして人間の文化と繁栄に貢献しようなどという気持ちはさらさらない。
この、それと知らぬ間に忍び寄る(獰猛なる人)の驚異に、私達は常にさらされているのである」と。

 世界情勢に目を転じても、各国の指導者たちの人相の悪さが目に付く。先のアメリカ大統領であるブッシュやロシアの指導者プーチン、など悪相と暗い目が共通している。
これらの共通点は何を示しているのだろうか。彼らが高位の霊界から転生しているとは言い難い。どう見ても修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界などの低位の霊界から転生しているとしか思えない。
そうでなければ、アフガンやイラクなどに無慈悲な攻撃を仕掛けることなど出来ないであろう。幾つかの秘密結社がこの世を動かす力を持っているのも、この世では本来の霊界での霊位が逆転しているという事を象徴している。
翻って現在の日本も、全く例外ではない。多くの人々を塗炭の苦しみに陥れながら、責任も取らず謝罪もせず、ましてや更なる電気料金の値上げまで言い出す東京電力は、修羅や餓鬼に支配されているに違いないし、それを手をこまねいて見ている現政権与党も官僚達や野党の政治家も同様である。この苦しい時に、増税などとは全く狂っているとしか思えない。
これらの例を挙げるまでもなく、やはりこの世は霊界の霊位が逆転しているのである。

コンノ氏の著書では、ここから「スカル&ボーンズ」という、強力な権力を持つ秘密結社の入会儀式やその活動などに言及しているが、余りに嫌悪感を伴うのでここでは割愛したい。
キリストは次の様に語っている。
「もしあなたが、この世から出た者であったなら、この世はあなたを自分一人のものとして愛しただろう。しかしあなた方はこの世の者ではない。だから、この世はあなた方を憎むのである」
# by levin-ae-111 | 2012-01-23 05:28 | Trackback | Comments(0)
長い題名の本13
地獄界に墜ちたら
 マイヤーズは「霊界の喜びを知らない」と述べているが、必ずしも精霊界以上の霊界へ行けるとも限らない。地獄界へ墜ちたらどうするのか?そういう不安の声も聞こえて来そうである。無理もない、私も(ブログ筆者)実はそういう不安を抱えている。
スウェデンボルグによれば霊界には概ね三つの世界が存在し、天上界、精霊界、地獄界に分かれている。更にそれが各々三つに分かれているという。
そして下層へ行けば行くほど、凶悪な霊が住む恐ろしい世界になると記している。
仏教では霊界を六道(天上、精霊、阿修羅、餓鬼、畜生、地獄)と教え、ヴェーダ聖典でも神のレベルから、悪魔の支配する地獄界までの存在を説いている。
何れもこの世で過ごした精神レベルに合致した霊界へと、寸分の狂いも無く振り分けられるというから恐ろしい。
ここでは自分の意志とは無関係に、厳格な選別が為されるのである。勿論、誰かが決めるのではなく、自分自身の生きていた時の精神的なレベルがそれを決めるのだ。
こう思うと、とても不安になってしまう。

 たがよく考えてみれば、自分の精神レベルに合致した世界となれば、私達にとって最も住み易い世界と考えることも出来るだろう。
この世の生物を例にとってみても、その環境に最も適した生態を持っている。海底火山の熱水が噴出すチムニーと呼ばれる噴出口にも、驚くべきことに生物がいる。
巨大な水圧と酸性で熱い海の底で、エビや蟹、ゴカイの類が生息している。他の生物にとっては地獄だが、これらの生物にとっては天国であり、逆に彼らはそこでしか生きられないのだ。
人霊にしても周囲が神仏レベルばかりの世界に放り込まれても、普通の人間ならば緊張して萎縮してしまうだろうし、窮屈で落ち着かないに違いない。それよりも、自分と同じ程度のレベルの霊たちと一緒の方が楽しいに違いない。
これは冷酷な様に見えて、何処までも私達のことを考慮してくれている宇宙の愛なのだ。

これまでコンノ氏は多くの場所に移り住んで来たという。戦争中の疎開に始まり、仕事で各地を転々とした。その経験からコンノ氏が感じたことは、その土地なりの独特の気が存在するという事だった。
土地の気と自分の持つ気が合えば、運気も上昇し勢いもつくが、その逆の場合は悲惨なことになると言うのだ。
「水が合う・合わない」という言葉があるが、これがその場所の持つ気で「気の合った場所」かどうか、神経の鋭敏な人なら「気配」で判るはずだと書いている。
これが動植物ならば、先に述べたように決して生存できないのであるから、自分の住み良い世界に住むのはある種の幸福というものである。

 元々は現世の考えなど全く通用しない世界であれば、クヨクヨと心配して考えこんで悩んでも仕方のないことである。ここは「郷に入っては郷に従え」といわれる様に、その世界に馴染むしかない。しかし、そこはあなたの霊質に最も合致した霊界であり、住むには違和感は無いはずである。
だが問題は霊的な進歩を遂げて、より上層の霊界を目指すことが肝要だとされる点にある。
自分の霊質に合致した世界に浸ると、自分の居る霊界がどの程度の階層に属する世界であるか分からない。それに気付かない限り、上の階層へのステップアップは難しいのである。
これは現世の私達にも当てはまる事であり、如何にして外の世界へ意識を向けることが出来るのか日頃から心掛ける必要があるだろう。
テレビやインターネットといった情報が溢れる世界に住む私達は、その点でとても恵まれた環境に居るといって良いだろう。
時には自身の生活と異なる世界の価値観を、こういう道具を用いて覗いてみるのも良いであろう。
# by levin-ae-111 | 2012-01-22 05:23 | Trackback | Comments(0)
長い題名の本12
私達は霊界の喜びを知らない 
  刑務所の囚人たちは刑期が終えて、出所する日を心待ちにしている。それは刑務所の外の世界が、より自由である事を知っているからである。
だがこの世という獄舎に習慣されている私達は、あの世(霊界)の存在も釈放(死ぬこと)後の世界が楽園であることも知らない。この世が人生の全てで、自分という存在が何処から来て、何処へ帰るのかも知らない。だから死(この世からの出所)は恐怖であり、苦である。
しかし真実はそうではなく、死とはこの世という牢獄からの開放であり喜ぶべきことであり、決して恐れるべきものではない。
死後も自己が存在し、霊界という楽園が待っているということが解れば、人生をもっと悠々と気楽に生きられるであろう。

フレデリック・マイヤーズはこう述べている。
「あなた方は霊の世界の喜びを知らない。
そこでは肉体という獄から開放されるので、病も痛みも苦しみもない。行きたいと思えば何処へでも瞬時に行ける。心に思った事がすぐに形や現象となって目の前に現れる。
追求したい事、研究したい事に専念できる。肉体が無いから物質的な欲求もない、だから食べ物や金の心配もない。
生存競争もない。だから弱者が虐められることもない。
地上の人間には死は恐怖の最たるものだが、人間は死んでこそ真に生きることになる。但し、霊的存在になっても決して、全知全能ではない。
私から見れば、皆さんは半ば死んでいるのと同然だ。死によって肉体に封じ込められていた霊が開放されて自由になり、霊界の美しさを満喫できる。
そこは、すべて鮮やかな色彩に満ちており、地上では見られない美しい花、小鳥もいれば植物や動物もいて、山も森も小川も地上とは比較にならない程に美しい。
この世の生には深い意味があり、それが死後に分かることに心を開いておくべきだ」

 ここでマイヤーズが述べているのは精霊界(一般的な霊界)の事だが、そこには私達と同じく多くの一般的な霊界人が住んでいる。人間のおおよそは、この精霊界へ行くと思ってよいであろう。
今、人生のどん底で悩み、苦しんでいる人たちは次の様に考えることで生きる勇気も湧き、人生観も大きく変わるであろう。

・生きるのは辛くて当たり前、だってこの世は天の獄(刑務所)なのだから。
・世俗のことに惑わされないで、心を静かに保てば精神の向上を目指せる。
・誰にも死後、楽園がまっていると思えば、悠々と死を迎えられる。
・この世の価値観など霊界では何の役にもたたない。それは天の獄(刑務所)の価値観でし  かないのだから。
・この世の物欲・金欲・権勢欲など些細なものである。あの世には何も持って行けないのだから。
・この世は多種多様の霊界から来た者の集合体だから、自身と価値観が異なるのは当たり前である。
・幸、不幸は全てカルマの為せること。それが魂の汚れを浄化する。
・この世の苦しみ、悲しいという試練は魂の向上、必ずプラスに働く。
・人生の節となるタイミングは、天が決める(天命・天運)。
・多くの悔いや人生の失敗も天の試練、クヨクヨ後悔せずに全て割り切って生きられる。
・人生を焦らず、現在だけを直視して生きられる。
・世界(宇宙を含めて)グローバルに常に、常に他や自分を客観視できるようになる。

  確かなのは現在の自分が、自身で選択してきた人生の累計の結果であるということだ。人生で最も手強い相手は自分であり、自身が最も自分を傷つけてきた敵であり、喜ばせてきた相手でもあるのだ。
人生の究極の目的は、あなたの心が成長してカルマの汚れを少しでも洗い落とすこと。
人生という研磨機から壊れて出てくるのか、それともピカピカに磨かれて出てくるのかは私達次第なのである。


これらの事は確かに、なる程と思わせる。しかし現実に私達の目前には、次から次へと目前に出現し、途方に暮れてしまうこともある。
そんな時は自分だけで悩まずに、誰かに相談するのが良いであろう。
私の尊敬する知人に『自分のあやしかた』という本を自費出版され、ネット上で「愚痴聞き屋・人間塾」というブログをアップされている喜分治さんという方がいらっしゃる。
全てに感謝することで自分自身をあやすこと、それが人生にとって肝要であると考えていらっしゃるらしい。全ての苦悩の源は、自分自身であると。
喜文治さんは私達自身こそが、最も手強い敵であり、喜ばせるべき相手である事をご存知であるからだろう。

喜文治さんのブログ
http://plaza.rakuten.co.jp/kibunji/
# by levin-ae-111 | 2012-01-21 07:13 | Trackback | Comments(0)
長い題名の本11
肉体は拘束衣
健康ブームの昨今だが、「最も身体に悪いことは?」と言う質問に、「生きていること」と答えた皮肉屋がいたらしい。しかしそれは的を射た答えである。
生きているから「生・老・病・死」という四苦とそれに付随した苦しみ、四苦八苦が生ずるからである。
先述のようにこの世が獄舎であれば、この世の刑務所が鎖や鉄格子、厳しい監視といった不自由な境遇を強いられているのと同様に、私達にも何かしらの制限が加えられているに違いない。何といっても囚人であるのだから、それは当然であろう。
つまり通常の霊人よりも、行動の自由を制限され、霊として持っている本来の能力を制限されているに違いないのだ。

 この世だけが例外的に物質界と霊界の二つの世界が同じ空間に共存している特殊な霊界だ、とするスウェデンボルグの記述が正しいとすれば、何が私達の行動や能力を制限しているのか自ずと明らかになる。
それは紛れもなく、物質である私達の肉体である。私達の身体こそ、霊人が本来持っている行動の自由や能力を制限しているものである。
私達は肉体を持つが故に、必要以上に大きな負担を背負っている。物質である肉体が傷つけば痛みに顔を歪め、空腹を満たす為に他の生物の生命を奪い続け、身体を養う為に気に染まない仕事にも耐えねばならない。何よりも、死という恐怖に晒され続けている。

霊界では一瞬で意志を伝え合うテレパシー能力や、行きたい場所に瞬時に行けるテレポーテーション能力、考えただけで物を出現させる能力が備わっていると王任三朗やスウェデンボルグを始めとする多くの能力者たちが述べている。
こうした能力は霊界でも下層に行くほど減衰するものらしいが、何れにしても霊界では誰もが当たり前の能力として使用している。
それに引き換え、私達には僅かな例外を除いてほぼ不可能なことばかりである。これは私達が肉体という物質で出来た拘束衣を着せられているからだ。
そしてこうした事を理解できず信じられないのは、この世の物質的な習慣に従って物事を考えるからだ。

この身震いする様な恐ろしい現実に気づいた賢人も存在する。アメリカの精神分析医ジェイムズ・ヘイズはこの様に述べている。
「私が長いあいだ感じて来たことだが、テレパシーなどのESP能力はいったいどの様にして起こるのか?という古くからの疑問は妥当ではないと思う。
そうではなく、テレパシーなどのESP能力が常に誰にも起こることを妨げている要因は何なのか?という問いの方が、まだ実りがあろう」と。
ヘイズは人間がある種の能力的な制限を受けていることに気付いていた。

ダーウィンに消された人物として有名なA.Rウォーレスも、同じことに頭を悩ませていた。
「私達は、本来あるべき能力の半分しか目が覚めていない。われわれの火は消えているし、われわれの設計図は何者かに阻止されている。
ある人たちは、自分の正等な資質から遮蔽されているという感じを極端に抱いている。私達は多くの未知の力を所有しているのに、それを習慣的に使うことが出来ず、本来の自分が有する能力のはるか下限で、最も劣悪な条件下で行動している。
私達は誰もが所有する『生気溢れる貯蔵物』を、どうすれば自在に解き放つことが出来るだろうか?この罠から、どのようにして人は逃れることが出来るのだろう」

弘法大師・空海は、次の様に教えている。
「三回の狂人は狂せることを識(し)らず。
 四世の盲者は盲なることを識らず
生まれ、生まれ、生まれ、生まれて生の始めに暗く
   死に、死に、死に、死んで死の終わりに冥し」
聖書でも、この様に述べているらしい。
「神は彼らに、鈍い心と見えない目と聞こえない耳とを与えられた。今日に至るまで」

私(ブログ筆者)は一度だけ、身体から意識が抜け出した様な体験をした。その時の体験は今も忘れ得ないものである。一言でいえば「爽快、軽快」そのものであった。
周囲の騒音や不快な排気ガスの刺激、汗や暑さも、視力の悪さとも、全く無縁だった。そしてコンノ氏がいう拘束衣、つまり自分の身体には何の拘りも感じていなかった。
# by levin-ae-111 | 2012-01-20 05:25 | Trackback | Comments(0)
長い題名の本10
第2章 この世は特殊な霊界=獄舎である

この世は獄舎である
 

 スウェデンボルグはこの世は特殊な霊界であり、例外的に二つの世界(物質界と霊界)が共存している世界である。特殊な霊界とは、どういう意味なのであろうか。
そしてあらゆる宗教書は『この世は魂の修行の場』と教えている。その他にも壮氏、ブッダ、ダライラマなども、この世界は苦界であると異口同音に説いている。

ここでスウェデンボルグが挙げた霊界の特質の幾つかを検証してみよう。
・この世は広大な霊界の中に、ポッカリと浮んだゴム鞠のようなもので、周囲を他の霊界に囲まれている。ただしこの世も特殊な霊界で、総ての霊界はこの世に染み込んでいる。
・死直後の世界は、この世に寄り添って存在しており、表と裏のようなもので本来は別々の世界ではない。またそれは、大きな霊界の一部でもある。
・この世はあらゆる霊界の階層から転生した、霊の集合体である。
・この世以外は完全な霊界であるが、この世だけが物質界と霊界の二つの世界が同じ空間に共存している特殊な霊界である。

 ここで明確になるのは、私達の世界も霊界であるということだ。しかし、私達は他の霊界を知らない。つまり、私達の世界は同じ霊界といっても、他の霊界とは遮断されているということだ。
更にこの世と他の霊界の関係をよりイメージする為に、私達の世界に存在する、それに近いものを考えてみよう。
「何事も最も単純な説明こそが真理である」という、オッカムの法則(剃刀)によれば、ダライラマの「カルマを浄化する術を知らない限り、あなたはカルマによる苦しみを限りなく受け続けることになる」という言葉がヒントになるだろう。
この世でこれに当てはまる場所とは、獄舎、監獄であり、つまりは刑務所である。そう、つまりこの世とは、あらゆる霊界からカルマを背負って送りこまれた霊人たちの獄舎であり、私達は囚人だったのである。
だから世界の宗教書は例外なく「魂の修行の場」であり「絶え間ない苦しみに満ちた海だ」と教え、ダライラマが言う「あなたのカルマ(原罪)によって、あらゆる現世の苦が生じている」となるのだ。

 スウェデンボルグは、この世の周りが全て他の霊界層に囲まれている、と言う。これは刑務所が一般社会である街中に存在しながら、高い塀で囲まれていて一般世間とは完全に隔絶されている事と似ている。
そして、「この世はあらゆる霊界かの階層から来た、霊人たちの集合体でもある」というのは、正に刑務所である。刑務所には重罪を犯した囚人から、軽微な罪で服役している囚人加えて犯罪の種類も多岐に渡っており、実に様々な人々が収監されている「特殊な世界」である。
鉄格子と高い塀で外界から完全に遮断され、囚人服を着て重罪人は鎖に繋がれたりして自由を奪われている。これがスウェデンボルグのいう「この世以外は完全な霊界だが、この世だけが例外的に物質界と霊界の二つの世界が共存している特殊な霊界である」に通じる。

また死の直後の世界について「死の直後の世界、中有(バルドゥ)は、金貨の表と裏のようなもの」と言っている。これは刑務所には囚人たちの牢屋と、外の世界と自由に出入りする看守たちの領域が、同時に一箇所に存在している事と同じであろう。
これが死の直後に通り抜ける中有(バルドゥ)の世界で、出所する囚人は牢獄から出てシャワー室で牢獄の垢を落とし、看守たちの部屋で手荷物検査を受けた後で、自分の帰りを待つ社会(霊質の合致した霊界)へと帰って行く。

あらゆる宗教書では「この世はカルマを浄化する場」と教えているが、カルマとは人がそれぞれに持つ原罪で、「この世は苦しみの海」というのは私達がカルマ(原罪)を背負った囚人であるからなのだ。しかも、執行される日時も場所も、方法も知らされていない死刑囚なのである。
次の様に考えると、古今東西の宗教書が教える意味が明確になるだろう。
宗教は何故、自殺を罪としているのか。自殺とは、この世という牢獄からの脱獄であるからだ。脱獄して捕まると、以前よりも罪が重くなるのと同じであるからだ。
更に何故「輪廻転生」は良くないのか。それは何度も刑務所を出入りする囚人の人生を考えてみれば理解できるだろう。
では、解脱とは、輪廻転生の輪から脱することである。それは晴れて刑期を終えて出所し、立派に社会復帰して二度と刑務所へ帰ってこないという事だからである。

この様に例えると、嫌悪を感じるかも知れない。しかし表現はともあれ、本質的な意味は同じだとコンノ氏は書いている。
# by levin-ae-111 | 2012-01-19 05:22 | Trackback | Comments(0)
長い題名の本9
「ギャラップ研究所」の霊界報告」 

世界最大の世論調査機関であるギャラップ研究所が1982年に出した報告では、全米の成人人口の5%(約800万人)に臨死体験があるという。この調査が普通の調査と異なる特異な点は、その調査内容だけでなく臨死体験をしたと答えた人々の全員に面談している点にある。その結果として、様々な臨死体験の存在が証明され霊界の特質も浮き彫りにされる事となった。

以下は調査結果が示す霊界の特質である。
・霊界には想像を絶する多様な生命体と階層が存在する。それは神界(神と同レベルの高い霊たち)、それを補佐する天子レベルの階層、そして通常レベルの霊界から地獄界レベルまで存在する。

・この世は特殊な霊界であり、私達は全霊界から肉体を持たされて送りこまれている。

・中間層レベルの霊界でも、その知覚レベルは人間とは比較にならない程に鋭敏になり、時間・空間に束縛されない能力を持っている。思っただけで何処へでも瞬間で移動が出来るが、下層のレベルに成るほど、その能力は低下する。

・面接調査を行った人々の内10%が、霊界の人は人間に対して導きや慰めを与えたり、災いを避けさせたりと援助をしてくれていると述べている。

・同様に5人に一人が「霊界でも果たすべき役割(仕事)がある」としている。この世の人間に手を貸したりする事が霊界で魂が成長する手段でもあり、責務でもある。

・霊界では神の階層から地獄の階層までが明確に振り分けられており、どの界へ行くかの判定基準はこの世の精神レベル(カルマ)である。どの階層に行くのか、行けるのかの判定基準は厳格に定められていて、少しの狂いもない。

ここまで見て来た各々の情報をまとめると、人は死の直後に中有界(幽界)に行き、一定期間滞在して審判を受ける。それにより直ぐに生まれ変わる者、自分のレベルに合致した霊界へ入る者、解脱して天上界へと向う者とに振り分けられる。
そして解脱して天上界へ向った者以外は、再び転生してこの世へと生まれ変わる。例え成仏しても、解脱しない以上は輪廻転生の輪からは抜け出せないらしい。それから、下層の霊界ほど輪廻転生の間隔は短くなるようである。

ここまでは、少し背筋が寒くなる話しだが、私は特に調べた訳でもなかったが、死後世界について大方のイメージが一致していたので驚いた。やはり人間の意識が多くの点で自身の運命を握っているのだ。しかし様々な説でカルマの存在を述べているのだが、それすらも一瞬で飛び越えて輪廻の輪を突き抜ける奥の手が『解脱』である。
その解脱を得る鍵は、やはり死者がどういった意識状態にあるかという点である。私(ブログ筆者)は、自己流瞑の想を続け、自らの幾つかの体験と考察から、この宇宙では意識が絶対的な存在でありパワーであると信じる様になった。
この世とは何なのか。コンノ氏はこの世の本質について、ある結論に達したという。次章
からは、その点について述べている。
# by levin-ae-111 | 2012-01-18 05:20 | Trackback | Comments(0)
長い題名の本8
スウェデンボルグ『霊界手記』 
 1688年スウェーデンに生まれたエマニュエル・スウェデンボルグは、9ヶ国語を自在にあやつり、科学、数学、心理学、哲学、発明、神秘思想に関する150冊もの著作を残している。彼の業績は現代科学の域すらも超えるもので、例えば宇宙に関する仮研究が太陽系内に留まっていた当時に既に他の銀河の存在をも指摘している。その業績の素晴しさは、存命中に親交のあったカントやゲーテを始め、多くの著名な学者や識者に影響を与えている。

 彼がある種の超能力者であったことは、ロンドンに居ながらストックホルムの自宅の火事を透視したことでも判る。出口王任三朗と異なる点は、予言を行わなかったことである。
大脳生理学もスウェデンボルグの守備範囲であり、彼は既にDNA(遺伝子)に近い発想を持っていたし、そのDNAや脳の背後にあるものが霊的生命で、それが死後の生命を含めた霊界へと繋がっていると考えていた。
彼の多数の著書の中でも『霊界手記』は、世界で最も信頼される神秘学の書と言われる。
何万ページにも渡る膨大な手記は、スウェーデン人にも容易に読み切れないし、理解する事も困難であると言われている。

『霊界手記』の冒頭で、スウェデンボルグは次の様に述べている。
「私は過去20年間にわたり、この世に肉体を置いたまま霊となって死後の世界『霊界』へ出入りしてきた。そこで多くの霊たちと交わり、多くのことを見聞きしてきた。これから私が記すことはこの体験の全てだが、おそらく多くの人々は信じようとしないだろう。
その様なことを私は深く問わない。私の手記を読めば全て真実と認めざるを得なくなるという、確信を持っているからだ。
 人々は霊が永遠の存在で、死後の世界、すなわち霊界の存在を確信するだろう。私が霊界で見聞きしたことは多いので、この手記は膨大なものになるだろう。しかし、私に残された時間は少ない。来年の3月29日には、この世に二度と帰らぬ最期の旅に出なくてはならないからだ。私は先を急ぐとしよう」

スウェデンボルグ自身の死の予言は、国教会の牧師に予め送られていた手紙の写しで証明されている。1772年3月29日の午後、彼は婦人とお手伝いに「今、何時か」と尋ね、二人が教えると「よくわかった」と感謝し、10分後に安らかに旅立った。享年84歳だったという。

スウェデンボルグが伝える霊界
1.この世は広大な霊界の中に、ポッカリと浮んだゴム鞠のようなもので、周囲を他の霊界に囲まれている。ただしこの世も特殊な霊界で、総ての霊界はこの世に染み込んでいる。
2.この世だけが特殊な霊界で、物質界と霊界の二つが同じ空間に存在している。
3.死直後の世界は、この世に寄り添って存在しており、表と裏のようなもので本来は別々の世界ではない。またそれは、大きな霊界の一部でもある。
4.霊界では全てのものが意識を有しており、この世に強く影響している。
5.霊界では人間の意識は瞬時に伝わり、思っただけで物質が出現する。また、思っただけで瞬時に任意の場所に移動できる。
6.霊界は天国界、精霊界、地獄界の3層に分かれており、それがまた3層ずつに分かれている。下層になるほど凶悪な霊の住む恐ろしい世界になる。
7.この世はあらゆる霊界の階層から転生した、霊の集合体である。
8.人間は死後、その人の霊質に合致した霊界に入る。天国界或いは地獄界に入るのも、生前の記憶そのままに入る世界が決まってしまう。
9.これらの事柄が人々に理解されないのは、この世の物質的な習慣に従って考えるためである。

スウェデンボルグのレポートはこの様に詳細であるが、多くの点で今まで紹介した古文書や書籍と共通しているのである。
# by levin-ae-111 | 2012-01-17 05:23 | Trackback | Comments(0)
長い題名の本7
出口王任三郎『霊界物語』
近代に入ると実際に霊界へ旅をし、その実相を詳細に報告した人々が二人いる。二人が活躍した時代は200年ほどの隔たりがあるが、そのレポートの内容は驚くほどに一致している。一人はエマニュエル・スゥエデンボルグ(1688─1772)で、その著書は『霊界手記』であるが、もう一人は日本の出口王任三郎(1871─1948)である。
王任三郎はその体験を『霊界物語』として著しているが、この二人の記述は細部に渡ってとてもよく似ているという。
明治4年に京都府亀岡市の極貧の小作農であった上田松吉の長男として生まれた。幼名は喜三朗で神童と呼ばれる一方で、天才に見られ勝ちな少し足りない感じの傾向も持っていたようだ。極貧の為に小学校も中退し、ラムネ製造や牛飼いなどを行い、大変な辛酸をなめた少年時代を過ごした。

 明治31年故郷の霊山「高隈山」の洞窟で1週間の霊的修行を行い、天眼通・天耳通・天言通・宿命通・自他心通などの霊力を体得し救世と救人の使命を自覚したと云われている。
『霊界物語』の源泉は高熊山での修行中に、霊界・神界の様子を見聞きかる霊界旅行を行い過去・現在・未来の詳細に記憶にとどめ現世に帰ってきた。その年の夏に神示により大本教の開祖である出口なおと出会い、宗教活動にまい進し後に大本教の教祖となる。
そして大正10年から『霊界物語』の口述を始め、最終的には81巻83冊という膨大な著作となった。
その内容は高熊山での霊界旅行を骨子に幽界、霊界、神界の仕組みを伝えたもので、未来への警告や予言を比喩的に記述している。伝聞によれば王任三朗は何の参考書も見ずに、3日に一冊のペースで口述筆記させたというから、人間業とは思えない。

中でも予言の内容は傑出したものである。以下の予言は大正10年(1921年)に為されたものだが、驚くべきものである。
・日本は中国との戦い巻き込まれ、ヤンキー・モンキー(英・米)と戦火を交える。
これは言うまでもなく、支那事変に始まる太平洋戦争のことである。
・この戦争で日本はあらゆる男子を戦場へ送る。
 「赤紙」と呼ばれる召集令状1枚で、多くの男性が戦場へと送られた。14~5歳の学  童から50歳台の男性、学生(学徒出陣)など健康な男子を根こそぎ戦場へ送った。
・弾薬製造のために神社仏閣の鐘や俺釘まで工場へ送られる。
 金属の供出が行われ、鍋や釜など日常に必要な金属器まで国家へ差し出すことが命じられた。
・長崎と広島は火の海となる。
 原子爆弾の投下による未曾有の被害は、世界に類を見ない人類の汚点であり、最も恥ずべき卑劣な行為である。
・日本は負け、物資・食料が不足し、人々の生活はどん底になる。
 戦後の日本人の生活は、正にこの様な状況であった。
これらの予言はご存知のとおり的中しているが、その為に戦時中は軍隊から大本教は酷い迫害を受ける事になった。

更に21世紀に関する予言も「大峠論」に示されている。
それによればハルマゲドン(中東の地名で最終戦争の名称)は、小三災、中三災(第1次大戦・第2次大戦)の大峠を経て最後に民族の問題が勃発し大三災(大3次大戦)へ突入していく。
この民族の問題とは、まさにアメリカのイラク攻撃やイスラエル・パレスチナ紛争の発生などの中東情勢と一致している。
そしてハルマゲドンの直前、日本ではかつてない「海漠象変」(かいばくしょうへん)の大災害が起こる。全世界は大規模な地殻変動で海が砂漠になり、大陸が一瞬で巨大な海へと変貌するという。その後に日本は神人種が支配する「ミロクの世」へと移行するという。

『霊界物語』は1~12巻「霊主体従」、13~24巻「如意宝珠」、25~36巻「海洋万里」、37~47巻「捨身活躍」、48~60巻「真善美愛」、61~72巻「山河草木」
73~81巻「天祥地瑞」と全81巻83冊と膨大であり、表現も独特で読みこなすのは大変な書物であるという。
全巻を通じて宇宙に遍満する神々、人間が信仰すべき主神との関係、人の霊魂は主神の分魂(わけみたま)であることが、物語として著されているこの書は宇宙の神々の歴史を述べた一大叙事詩といえる。

この物語のポイントは天国に行く者と地獄に落ちる者の基準を明確に示している点にある。「人それぞれは自らの意志によって天国に入るか、地獄に落ちるか決まる。神による最期の審判とは、霊海物語に示されている神示そのものが基準となる」
王任三朗のスケールの大きさは、空海(弘法大師)や日蓮とも共通するものがある。世界的なスケールでの知見は、他に類を見ないほどに大きく、人類全体を視野に入れたその視点は大きくて鋭い。
また王任三朗は芸術と宗教生活の一致を説き、自らも精力的に文筆、書画、陶芸、詩歌などに取り組み多くの作品を残している。
# by levin-ae-111 | 2012-01-16 11:28 | Trackback | Comments(0)
長い題名の本6
仏教が教える生と死の本質
 イギリスの有名な思想家は仏教について「これは宗教というよりも、心の哲学であり生命に対する態度は、近代科学のように冷静かつ客観的である。にもかかわらず仏教は生きている。驚くほど生命に満ちている」と述べている。
コンノ氏が25年ほど前に『現代物理学の死角』を自費出版した時に、千葉市の宗教系の大学から講演依頼を受けた。氏が著書で主張している内容が、般若心経の『色即是空』『空即是色』と同じだから学生たちに聴かせてやって欲しいとの依頼であった。
当時は仏教に関する知識もなかったが、それ以来仏教の世界へ深く足を踏み入れる事に成ったが、知れば知るほど人知を超えた奥深さを叩き込まれたという。

 コンノ氏が特に驚いたのは、彼が自著で述べた現代物理学の死角ともいえる大盲点をはじめ、アインシュタインの相対性理論やビックバン宇宙論の登場を予期し、更にはその間違いをも鮮やかに見破っていた点であった。
それに加え当時最新の量子物理学が究めつつあった観察者効果(人の心が現象を創りだす)や非局所性の原理(物質は個々の存在でなく一体で繋がっている)本質すらも見通している事も知った。
日本の仏教は中国を経由したインド密教を弘法大師・空海が持ち帰り、それが分派したかたちで現在に到っている。従ってその死後の世界観もインド・ヴェーダやチベット仏教と共通しているのも当然である。
それを一口に言うならば「この世は魂の修行の場で、カルマによる輪廻転生とそこからの解脱を説く教え」となるだろう。これはキリスト教、イスラム教も同じであるという。

 仏陀は、私達が見ている世界は、苦しみに満ちた輪廻の世界である。しかし、その苦しみが、私達に学ぶ準備をさせてくれる。苦痛のない人生は存在しない─この世の苦しみが霊の進化する絶対条件である。人生の目的は自らの内なる可能性を引き出し、宇宙の大霊に向って進化して行くことで、人生とは果てしない進化への旅のひとつの宿場と考えるべきてある、と説いている。また、こうも教えている。
人間はあるひとつの仕事を為すためにこの世に送られてくる、それが生きている真の目的である。それを為さないならば、全く何もしないのと同じとなって、輪廻転生をくりかえす。止むことのない輪廻から抜け出す道はひとつであり、それが解脱であると。
ブッダの説くのは、この世界は苦しみに満ちているという。それは『生・老・病・死』に『愛別離苦』、『怨憎会苦』、『求不得苦』、『五陰盛苦』を加えて、四苦八苦と俗に言う苦しみである。人生で出会う多くの困難や苦しみをこのように簡潔にまとめるとは、仏の悟りを得た人にしか出来まい。

四苦八苦を簡単に説明すると、①生苦とは、生きる限り必ず他の生物の命を奪わねばならない。従って、生きていること自体が苦であり、最大の罪であるという意味だ。
②老苦とは、生まれて行き続けている限り、誰で老いる。老いにつきまとう苦しみが、この老苦である。③病苦とは病を得て苦しむこと。④死苦とは、説明するまでもあるまい。
そして『愛別離苦』(あいべつりく)とは、愛する肉親や恋人と離れる苦のことであり、日々のニュースでも頻繁に見かける。『怨憎会苦』(おんぞうえく)とは、憎い相手に出会うこと。
これも生きて社会生活を営む以上は、決して避けて通れない苦である。
『求不得苦』(ぐふとっく)は、求めても得られない苦をいう。お金があれば、恋人が居れば、健康であったなら、もっと、もっとと求めても切りがない。望みのものを得るまでは、この欲しいという苦しみが続くのだ。
『五陰盛苦』(ごおんじょうく)とは、肉体の五感から生ずる苦のことだ。色(肉体)・受(感受性)・想(心)・行(意志)・識(知覚)〔しき・じゅ・そう・ぎょう・しき〕があるからこそ、人生の様々な苦が生ずるこという。

これらの苦しみを何故に超越者(創造主または神仏)は、人間に与えたのであろうか。ここに大変な秘密が隠されているのである。仏教では人の生命について、次のような3つの要素から成っていると定義している。
①霊(スピリット)全ての基となる。②心(マインド)この働きを通じて自我を形成する。③この①と②が中心になって肉体を支配している。
これらが互いに影響し合い、一体となって人間という存在を生み出している。これが仏教でいう『三位一体』の意味である。
仏教では死を肉体と心の機能遊離と定義しており、肉体は廃棄されても意識は異なる形に変わり転移するが、変貌するだけだとしている。あの世にはお金や物は何一つ持って行けない、持って行けるのは自分の心だけなのだ。

 しかし多くの人々は、死とは何かを解らないままに死んでいく。自分の生きてきた現実の何もかもが消滅するかも知れないという恐怖に加え、それまでの経験が全く役立たないことが更に恐怖を高める。だが仏教の修行者にとって、死は待ち望んだ瞬間である。何故ならば人間の持つカルマの本質を知っているからである。
仏教では死の瞬間に考えるべき事柄が二つあると説いている。
1、この世で自分は何をしてきたのか。
2、死のとき、自分はどんな心の状態にあるか。
人により死に方は様々である。眠るような大往生もあれば、痛みでもがき苦しむ人もいる。
この死に方の差はその人物の生き方の差であるという。自分勝手な生き方をした人は、死に臨んだ時に他の人に対して行った仕打ちを思い出し、後悔の念や罪の意識に苛まれることになる。
それだけでなく、先祖の悪行までもカルマとして背負う事になるとブッダは説く。
ブッダは「父の罪は子に、そのまた子の子にも伝えられる。それが原罪という意味です」と述べている。
だが仏教では、そういう人物にも救いの手は差し伸べられるとも説いている。この世で悪行を重ね多くのカルマを蓄積した者でも、死の瞬間に心を入れ替えることが出来れば、生まれ変わりに決定的な影響を与えてカルマを変えることが出来ると説かれている。
死の瞬間こそが、ルマを払拭する絶好の機会なのだという。

 のことを逆説的に捉えれば、良い生き方をしていても死の瞬間に悩み苦しみ、後悔の念を持って死んだならば悪しきカルマを得ることになるという意味になる。
死の直前の感情や執着が次の生に決定的な影響を及ぼすという事だけを覚えておけば良いのかも知れない。そのうえで、より良い意識状態の生活を心がけ、死の瞬間にも動じない心構えが常々から必要になるであろう。
肉体という衣を纏った仏性が私達の本質であるから、死の直後に現れる光とは自らの根源の光であると気が付けば解脱が叶うのである。
何故に人はこの世に苦痛と悲しみを背負って生まれて来るのであろう。そこにこそ、この世の本質が存在していたと、コンノ氏は述べている。
# by levin-ae-111 | 2012-01-15 06:15 | Trackback | Comments(0)
長い題名の本5
ヴェーダ聖典が説く宇宙と人間の本質
 とても面白そうなサブタイトルだ。ヴェーダとは「聖なる知識」という意味で、この聖典の中にも死後の世界の実相が詳細に書かれている。
その中で、この世とは生涯期と生涯期(輪廻転生)の間に存在する宿駅に過ぎないと教えている。この世での生は「心と肉体が同化」されている存在なので、幸・不幸という運命の影響を受けざるを得ない。
そして死とは五感による肉体の認知を徐々に払い落とし、生命の息を止めながら意識は肉体にある5つの開口部のいずれかを通って外へ出て行く。これも『チベット死者の書』と同じで、死とは自己の肉体を脱ぎ捨てることで全ての機能は意識の座に集まり「純粋知性」となり絶対空間である「諸天の神々の国」へと入り、次の新しい生涯を決定する。

 ヴェーダ聖典によれば全霊界の中心に永遠の光明が輝く「最高天」があり、そこでは消える事のない天界の光が全土を照らしている。これは所謂「極楽浄土」である。
次にその周囲に一般の霊が居住する精霊界があり、最下層の暗黒世界には悪魔や魔法使い、サタンが住む地獄界となっていて、神々が住む天界とは対象を成している。
死の直後に霊魂は生前の善行や悪行によって、秤に掛けられどの世界へ行くかが決まる。
 よく考えてみれば、これは私達日本人にはとても馴染みのある死後世界の観念である。
つまり死後の死者は生前の行いによって、極楽や地獄のどの世界へ行くか、或いは転生するのかが決まるというのである。
これは日本の大衆宗教である浄土宗や浄土新宗の教えそのものであり、生前に善行を積めばより良い死後の世界に行き、悪行を積めば地獄へ行くという単純な教えの原型である。
極楽へ行けなければ、その魂は何度も転生を繰り返すことになる。
宇宙の真理を知らず無明(アヴィディヤー)の闇に捉えられた魂は、生と死を際限なく繰り返す事になるのである。
人の本性とその所業は前世の生涯に於ける所業と因果関係にあるだけでなく、次の生涯、その次の生涯へと繰り返されて、原罪の影響が尽きるまで繰り返されると説くのである。
聖なる知識、ヴェーダは人間に宿るあらゆる欲望が振り捨てられた時、人は不死になり輪廻転生の束縛から逃れて解脱の境地に達すると教えている。これは先に紹介した二つの死者の書と共通している。
つまり、これらの聖典から導き出される魂の最大の目的とは『解脱』である。
人は真の自分を発見すること以外に、輪廻転生から逃れることは出来ないのだ。不滅である自己が宇宙的に最小であり最大であり、1と無限大が同一であると悟った者のみが解脱して、輪廻転生のサイクルから卒業できるのだ。

 この様に書くと、とても難しく感じるが、実際には『チベット死者の書』のところで述べられていた自己の本性は光であると気付くことであろう。物質世界を生きる私達は、常に多くの欲に突き動かされて生きている。それは物質の肉体を持つ以上ある程度は仕方のない事である。とても自分の本性が光とは感じられない程に、私達の生活はあらゆる欲に塗れている。しかしながら、その生きる為の欲を、必要以上に抑制するのは馬鹿げた事であると私は思う。
本性の光とは宇宙のそれと同一であると私は考えるのだが、その宇宙が私達に与えた肉体を維持し、健全な頭脳で理性を保って宇宙と自己の関係を考える為に必要であるからだ。
その事こそが、宇宙が私達に望んでいる本当の想いだと感ずるからである。

不意に私(ブログ筆者)は、子供の時にとても変わった想像をしたのを思いだした。
それは私達を創った科学者が私達を観察している、しかしその科学者も彼の創造主に観察されている。更にはその創造主も、そのまた創造主に観察されており・・・こうして子供だった私の頭の中の想像は限りなく膨らみ、無限の段階の創造主(髭を生やした白衣の科学者のイメージ)が再現なく続いたものである。
それが大人になり瞑想を続けた現在は、その想像が次ぎの様に変化している。それは私達をひっくり返すと宇宙に成る、という想像だ。そのイメージは子供の頃の想像と同様に、その概念というか想像のインスピレーションがいつ自分の中に生じたのかは判らない。
この人間を裏返すと宇宙になるという発想は、クラインの壷やメビウスの輪といった不思議な造詣と一致する様に感じる。

 話しを戻そう。ヴェーダ聖典で最も重要なことは、宇宙の根源と人間という存在に隠れている共通の本質があるという事だ。この二つは物質であり、絶え間ない変化を続けているが、その基底には永遠にして不変のものが存在する。そして輪廻転生する自己と宇宙が本質的に同一のもと悟れば、霊的に解脱の状態に入るというのがヴェーダ聖典の中心思想になる。この様に高度な概念が古代の世界各地に存在したという事実は、驚き以外の何者でもないが、逆に人間存在の本質は時代や国や地域が変わっても大きくは変わらないという証左でもあろう。
# by levin-ae-111 | 2012-01-14 06:12 | Trackback | Comments(2)
長い題名の本4
『チベット死者の書』が説く生まれ変わり 
標高3000メートル級の峻厳な山々に囲まれたチベットの地は、原始仏教(金剛大乗仏教)に根ざした高度な心の文化が古くから開花していた。自然環境が厳しいチベットでは自然が優しい日本などとは異なり、ここには人が自然との一体感を得るなどという優しい発想はない。死と自然は対決すべきものであり、人々はその問題から眼を背けずに常に正面から対峙している。
 その根底には人が死を逃れることが不可能である以上は、悩み恐れても仕方がないという考えである。従って死は終わりではなく、当然のように死後の自分の存在を考えている。
チベットで肉体を「リュ」と言うそうだが、これは「置き去りにしてゆくもの」の意味で、死とは古くなった衣服を脱ぎ捨てるようなものであると解釈されているらしい。
死んでモノとなった死体は、鳥葬にされハゲタカの餌になる。

『チベット死者の書』は1927年に英訳され出版された。著名な学者であるカール・グスタフ・ユングがこれを絶賛し、欧米に広く知られるようになった。
近年になり臨死体験との一致点が多いことから、終末医療への応用などが試みられているようだ。『チベット死者の書』は臨終に際して、ラマ僧が死者の魂に読み聞かせるあの世の案内書である。その内容は輪廻転生からの脱出に始まり、次にはより良い来世へ導く為に、更には来世も人間としての生を送れるように導くというように段階を踏んでいる。
輪廻転生からの脱出が一番だが、それが叶わなければ良い来世を選ばせるように死者にこれを読み聞かせる事で、より良い道を選ばせるのである。

この『チベット死者の書』の正式名称は、『バルドゥ・トェドル』と呼ばれ、霊界に入る前の中有界に於ける聴聞による大解脱と称する経典のことである。
バルドゥとは死の直後の世界で、私達に馴染みの表現をすれば幽界のことである。ここでは霊性の変化により、生→死→霊位→再生の道か或いは解脱か成仏かの審判をくだされるという。解脱とは輪廻のサイクルから脱出し、もう二度と生まれ変わることはない。
成仏とは解脱していない状態であり、バルドゥを通して霊界へ行き、再び生まれ変わる。
チベットではダライ・ラマに見られるように生まれ変わりは常識であると信じられている。
ルン(風)を乗り物とする死後の意識は、死に際して9つある肉体の門から肉体を抜け出すとされていて、どの門から抜け出すかにより向う霊界や何処に生まれ変わるかが決まる。
上位の門ほど上層の霊界へ向い、下部に成るほど下層の霊界へ向う。頭頂から出たならば、極楽浄土に生まれ変わると考えられているのである。
うろ覚えだが、以前に何か(ポピインディアンの言い伝えだったか)で読んだ記憶では、「頭の蓋は常に開けておけ」と云うような記述が有ったのを思い出した。それはここで述べている頭頂の門と同じものなのであろうか。

 チベット仏教では人が死ぬと、意識だけの世界であるバルドゥに入ると説いている。そのバルドゥでは、肉体を持たない意識だけの世界であるから、何も恐れる必要はない。
バルドゥは更に3つに細分されている。
①チカエ・バルドゥ(死の直後に体外離脱した状態)
②チョエニ・バルドゥ(意識だけの状態、本来の中有)
③シパ・バルドゥ(転生に向かい、迷っている状態)
これらの状態にある期間は定められていて、①は49日②は14日③は34日となっている。
この定められた期間により、僧侶は死者の意識の状態を観察しながら7日ごとに7回『チベット死者の書』を読み聞かせるのである。

では、少し詳しく述べて行こう。
第一のチカエ・バルドゥでは「根源の光明」と呼ばれる第一の光が出現する。この時、死者がこの光を自己に備わっている仏性の現れであると知覚すれば、忽ち解脱が叶うという。
臨死体験者はこの第一の光を見た(感じた)段階で、現世へ帰って来るものらしい。
解脱は死の直後に体験するこの光が、自分自身の心の現われであると意識が気付いた瞬間に起こる。輪廻転生のサイクルに入るか、解脱するかはこの時の意識の認識による。
第一の光明で悟れないと、第二の光明が現れる。僧はその時に「それはお前自身の仏性が水に映った月と同じようなものだ」と読み聞かせる。
それでも悟れないと死者のカルマにより現れる大音響や光と光彩が出現して、死者を混乱させる。それでも悟れれば解脱できるので、僧はチョエニ・バルドゥの導きを読み聞かせる。ここでも悟れないとなれば、次のシパ・バルドゥが待っている。
シパ・バルドゥで死者は意識が構成する身体を有するが、思っただけで何処へでも瞬時に移動が出来たり、物質をすり抜けたり出来る。この段階では死者の本来の心の有り様がエネルギーとなり、様々な知覚として具現化し始める。
それが輪廻世界と呼ばれる仮想現実を生み出し、死者は自分が創り出した誤った幻想の世界で死と生のサイクルの中(天界・人界・阿修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界)に閉じ込められる事になる。

余談であるが、これを仏経では六道輪廻という。
更に仏教では六道に四つの界を加えて十界とし、それぞれにも段階があり一つの界に各々10の段階があると説く。その内訳は上から、仏界・菩薩界・声聞界・縁覚界に先述の六道が加わり全部で十界となる。
それが各回でも備わっており、地獄界(最低の境涯)でも仏界が備わっているとする。これを十界互具と呼ぶが、要はどの境涯(意識の状況)にあっても、その中には解脱や成仏の種である仏の光を持っていると説いているのである。
これは『チベット死者の書』で、どのバルドゥであろうと死者が気付けば即解脱できる機会が設けられている事とある意味で共通していると私(ブログ筆者)は思う。

その次には自分が転生する世界の幻影が現れるが、それを求めたり執着してはならないと教える。この段階で死者は自分が死んでいる事に気がつき、苦悩する。
それでも悟れないと、今度は自分の生前の行い全てが、ヤマ王の前で鏡に映し出される。
この段階でもそれが自己の心により生ずる幻影であると気付けば解脱できるが、そうでない場合は輪廻転生の原則により六道の内のいずれかの世界へと転生していく。
この時、僧は「六道の入り口の選択に関する教戒」を読み聞かせ、少しでも良い世界への転生を促す。同じ六道でも天界が最も良い世界であり、責めて天界への転生を選ばせるように配慮されている。
ダライ・ラマも次の様に述べている。
「現世の苦は、あなたのカルマによって生じている。それを浄化する術を知らない限り、あなたはカルマによる苦しみを限りなく受けることになる。ならば今世で人間の身体を有している間に、より大きな苦を体験する方が望ましいというものだ。動物に転生してからの苦しみは、ただ耐え忍ぶしかないだろうからである」
前述の『エジプトの死者の書』と『チベット死者の書』の共通点を比較し、霊の世界を科学的に究明しようと試みた人が本山博氏である。
氏の著作『カルマと再生』では、特に死の直後に入る(中有・バルドゥ)の世界で審判を受け、成仏か解脱、或いは六道の世界に入るかが決まる点が不思議な程に似通っていると指摘している。
また『人間と宗教の研究』では、イスラム教、ギリシャ正教、カトリック、仏教、神道、道教、フィリッピン、マダガスカルの土着宗教などの臨死体験を比較研究して、その共通点を述べている。人種や時空間が大きく隔たった国々の人々が語る、死後の世界への共通点は何を意味するのだろう。その答えはひとつ「大霊界は実在する」に帰するのではないだろうか。
# by levin-ae-111 | 2012-01-13 05:28 | Trackback | Comments(0)
長い題名の本3
ここで、コンノ氏は古今東西の信頼が置けると思われる書や文献を挙げて、各々の内容を簡潔にまとめてくれている。それぞれの地域や時代、民族、国家を超えて共通する死についての認識を示してくれている。
『チベット死者の書』『エジプト死者の書』『インド・ヴェーダ聖典』などがあり、日本では出口王任三郎の『霊界物語』や岡本天明の『ひふみ神示』などを挙げて、信頼に値する文書や文献としている。本に記載されている順に述べていこうと思う。


1.古代エジプトのミイラが物語る死の意味 
有名なエジプトの『死者の書』は、古代エジプトの絵文字で死後の世界について書かれた約6000年も以前の世界最古の記録である。
この書は古代エジプトの宗教の核心となる「死後の世界」と「現世への復活=生まれ変わり」を表した他に類を見ない詳細で膨大な古代エジプト人の死への信仰の記録なのである。
 それに依れば、古代エジプト人は、あの世の知識を得るために臨死体験をしていたものらしい。人々は自ら棺に入り仮死状態となり、死の世界の入り口まで入り、死の瀬戸際で蘇生させてもらう。この様にして「死後の世界」を実感し、確信していたのである。
 この書に記してある臨死体験にはあるパターンが存在したという。それは最初、船に乗り暗いトンネルを行く。そこから見える光を目指して進む。
そして明るい光の中に入り、多くの者に会う。いつ現世に引き戻されるかは、人により異なっていたようだ。

厳しい臨死体験の苦行に挑んだ人々は、その経験が後の人生を向上させたと告げている。この点は現代の臨死体験をしたと語る人々の言葉と一致している。
さて、死者の書では光に案内されて更に先へ進むと、審判を受ける事になる。罪の無い者は永遠の楽園(天国)へ誘われ、そうでない者はそのまま現界へ戻されるか、重いカルマを背負って生まれ変わることになるとしている。
 古代エジプトと云えば、ミイラが有名であるが、これは現世への復活という目的がある。神話に依れば最初にミイラとなったのはオシリス神で、ミイラを造ったのはアヌビス神とされている。最初に復活したのも無論のことオシリス神であり、人々はオシリス神のいる世界で生きたいと願うようになった。以来、エジプトでは数々のミイラがオシリス神の神話に倣って造られるようになった。
古代エジプト人にとって死とは、眠りでも消滅でもなく、新たな人生へのスタートであり神々との融合であった。エジプトのミイラには、この様な人々の願いが込められていた。

 王家の谷と呼ばれる場所から多く出土した王族のミイラと副葬品には、有名なツタンカーメン王の豪奢な棺や玉座、そしてマスクは黄金や輝石、数々のレリーフで飾られていた。
そして『死者の書』の記述にある臨死体験で人々が乗るという船なのか、全長数十メートルにも及ぶという木造船までが出土している。勿論、王様が乗る船であるだけに桁違いの大きさに造ったのだろう。
多くの時を経て現代に伝わるこれらの遺物は、エジプトの『死者の書』に描かれている概念が古代エジプト人の生活といかに深く関わっていたかが覗える。
# by levin-ae-111 | 2012-01-12 05:11 | Trackback | Comments(0)
長い題名の本2

第1章『大霊界』はいま、ここに、あなたの中に実在する。
この世に存在すること自体が超常現象だ
 
私達にとって最大の疑問は『死後の世界は実在するのか』というものだろう。現代人にとって歴史上のどの時代よりも、死は遠ざけられつつあるように感じる。
しかし、死は誰にでも必ず平等にやって来る。どんなに医学を発達させ難病を克服できたとしても、相変らず現状でも死は誰にとっても必然だ。
それにも関わらず私達の死についての意識は非常に曖昧であり、余りにも無知である。
死が日常から遠ざけられつつあるからと言って、決して無縁に成った訳ではない。
 現代人の死後の世界に対する考え方は、概ね大きく二つに大別される。一方は死と共に全てが無に帰し、死後世界など存在しないといする考えである。他方は科学的に何と言われ様と自らの体験や直感を信じ、死後世界の存在を受け入れている人々がいる。

 面白いことには個人的に亡霊や超常現象について話す時に耳を傾けてくれる人々にも、それが公の学会などに持ち出されると一転して冷たくあしらわれてしまう事だ。
意識や心、臨死体験や超常現象には物的証拠が無く、アカデミズムの舞台に乗せ難いのは理解できる。しかし脳の研究が進歩した現代では、脳神経の働きと心のメカニズムは別物であるという現実が明かされつつある。
最前線の研究では脳は一種の道具(コンピューター)で、心はそのプログラマーであり外部世界との連絡係りを務めているというのだ。
驚くべきは何百億という神経組織を通して脳に送りこまれて来る情報を、私達はただ受動的に受け取っている訳ではなく、それらを瞬時に選択している事である。単に情報を受け取るだけでなく、それを選択して意識に上げ身体を操作しているという事実は驚異的である。
例えば私達がスポーツをしている時、肉体をコントロールできるのは、心というプログラマーが脳というコンピューターに働きかけ、何らかの情報を脳細胞の記憶庫から瞬間的に引き出しているからである。
しかも男女の出会いの時のインスピレーションのように、心という陰のプログラマーは脳の電子的パターンを瞬時に識別し制御できるのである。
心と脳が相互に関連しあっている事実、即ちプログラマー無くしてコンピューターを操作できない事は自明の理であるのに、唯物科学ではプログラマーとコンピューターを同体としている。そのこと自体に問題があるのではないか。

 確かに私達の脳は本当に素晴しいコンピューターではあり、それを生涯の道連れとして私達は人生を歩んでいる。そして、その道程に限りない神秘性を見出しているのだ。
この考えはある一面では間違いではないが、しかし、プログラマーとコンピューターを同体とするが故に死によってコンピューターが機能停止すると同時に、何もかもが無に帰してしまうという考えに至るのである。果たして本当にそうなのであろうか。

BBCテレビのプロデューサー、ジェフリー・アイバーソンはベストセラー『死後の生』で以下の様に述べている。
「現代科学は私達の体は肉で構成された機械で、脳は一種のコンピューターだと教えている。だから死の瞬間、何もかも消えてしまうのだと。ならば脳というコンピューターを操作するものは一体、何なのか。と、なると心と脳が別であることを証明しなければならない。その証明の一端がテレパシーや遠隔透視の実験の成功なのだ。
世界で超常現象の研究が広く行われている理由は、そうした証拠らしき現象が昔から無視できない程に多く存在するからだ。
 臨死体験や生まれ変わりが事実となると、現代科学の根底にある唯物論という憶測が根底から覆るだろう。
心の働きを主体とする人間の存在を科学的に見詰めるならば、いまや科学や医学は大事なものを捨て去ろうとしている」

 コンピューターに心は生じないのに、どうして人間の脳が心を持っているのか。心のメカニズムを理解していない科学に、心や意識を持つ機械が造れるはずもない。
コンピューターに人間の喜怒哀楽は理解出来ないし、表現することも無論のこと不可能である。SFに登場するような意志を持ったコンピューターは、やはりSFの中にだけ存在する想像の産物に過ぎない。
仮にコンピューターが心を持っているように振舞っても、それはそう見えるように人間がプログラムしているだけである。人間の造った機械やコンピューターは、決して創造主である人間を越えることは出来ないのだ。

 スイス生まれの臨床精神科医のE・キューブラー・ロス(2004年8月死亡)は、年齢も階層も異なる700名以上もの人々の死に際に立ち会い、その体験を本にまとめている。
有名なシリーズは『死ぬ瞬間』というタイトルで、日本でも数冊が出版されている。
著書の中で彼女は「私は多くの人の臨死に際して、多くの超常的現象を体験したが、特に幼い子供の死の瞬間における神秘現象は著しい。今、私は死後生(霊界)を信じているのではなく、科学者として知っているのです」とまで述べている。
そして筆者(コンノケンイチ氏)は、人生体験の結果として、「この世に生きていること自体が超常現象である」と断言できるとしている。
またキューブラー・ロスは『新・死ぬ瞬間』で、ネイティブ・アメリカン「スー族」の祈祷歌を紹介している。彼女にとって、この祈祷歌の文句こそが最も的確に彼女の経験から得た確信にマッチしていると感じられたのだろう。
「霊魂は生成することもなく、死滅することもない。
また、その存在を止めた時もない。
霊魂は永久にして不滅である。
人生の終わりと始まりは夢でしかない。
生まれることもなく、死ぬこともなく、変化することもない。
死が霊魂に触れたこともない。
例え霊魂の仮の宿、肉体が死んだようにみえても」

彼女のように多くの人々の死に立ち会った経験は、とても貴重なものである。それを本にしてくれた彼女の勇気に感謝したい。
そのお陰で、無知な私の様な者が(ブログ筆者)自らの拙い体験を基に考えた事柄をこうして検証する事が可能になるのである。私自身も、正にこの世に存在すること自体が超常現象であるに違いないと感じている。
# by levin-ae-111 | 2012-01-11 05:21 | Trackback | Comments(0)
長い題名の本1
 以前に一読していたコンノケンイチ氏の著書を、今夜ふたたび開いてみた。以前に読んだが、内容はもう忘れてしまっている。その題名がやたらと長い。『量子力学・日月神示・般若心経・王任三郎の超結論』というもの。
コンノ氏は所謂、正統派の科学者からは認められていない人である。多くの著書でユニークな論を発表しているが、その度に新聞や週刊誌紙上で色々な学者からこき下ろされている。しかし、コンノ氏の論は鋭く、科学テクノロジーはある程度の信用が出来るが、科学論の方はあまり信用が出来ないという。
それは現代の唯物科学は実験室で観測できる事柄のみが対象であることと、唯物的であるが故に心の問題には全く無力であるからだ。
これを踏まえた上で、死後の存在の有無や、我々の存在意義などを追及していく内容となっている。

 これらの事柄を考察し検証するにあたり、コンノ氏は多くの先人たちの著書を傍証に挙げ持論を展開している。それは古今東西の文献の共通点を照合し、より事実と思われる結論に辿り着こうと試みているからだ。
 私などは殆ど死後の意識存在を信じているが、多くの人々にとってそれは絵空事でしかなく、それを主張するには物的証拠や理論的根拠を求められる事になる。
その意味でコンノ氏の様な存在はとても貴重で得難い存在である。氏の量子論などの科学的考察ばかりに止まらず、仏教的な解釈をも持ち出して持論を論証しようとするマルチな姿勢が面白く、好感を持てる。

 それから先人たちの教えと、量子物理学が極めつつある驚異的な現実、コンノ氏の体験に基いた頂上現象をも考え合わせて、どんな宗教も示していなかった『生まれ変わりと、死の本質』に関してある結論を得る事ができたとしている。
この結論が如何なるものなのか、ワクワクしながら読み進めることになりそうだ。
こういった一見して非科学的な話には、拒否反応を示す人も多いだろうが、その食わず嫌いな態度こそが非科学的であると私は思う。
科学が私達の生活にどれほど多く寄与してくれているかを否定する積りはないが、科学とて万能ではない。私達の生活は科学テクノロジーのお陰で日進月歩の進歩を遂げているが、
その一方で私達自信の心の探求は余りにも遅れている。心の闇が紡ぎ出す数々の異常犯罪や残虐行為に絶えるどころか増加し続けている現代こそ、心のブラックボックスを開く研究が必要であろう。

 心の問題を解決する手段を得ることこそ、私達の真の幸福と平和に繋がると信じている。たった一度限りの人生という考えこそが、多くの弊害を生んでいると考えるからである。
私としてはこの厄介な死後の存在の有無について自分なりの一応の結論は見ているが、いま一度この著書を使って検証して行こうと考えている。
# by levin-ae-111 | 2012-01-10 05:17 | Trackback | Comments(0)
ワンコインの古代史
 久しぶりに本を買いました、しかもコンビニで。
関裕二氏著の「古代史、封印された謎を解く」です。内容は卑弥呼から桓武天皇までと範囲がけっこう広いものです。関心もあるし休みで暇なので、つい買ってしまいました。
正史として扱われている事実がいかに歪められているか、著者の研究を基に様々な角度から検証し推理されています。この類の本は沢山あるのですが、要は支配権を握った時々の王朝により真実の歴史が歪められ、捏造されているといった内容です。
一々にモットもと感じるのですが、この時代になっても知るべき歴史の真実が解明されておらず、それが日本人の事なかれ主義な性格と相まって現代日本のあやふやな歴史観へと繋がっていると感じます。

この本では最後に日本古来の宗教観にも触れていますが、著者の見解で日本本来の宗教観は神道ではなく修験道にこそ受け継がれているとしています。著者によれば神道とは「藤原神道」であり8世紀に創作されたものとしています。
本来は男神であった天照大神もこの頃に女神に変更されたとしています。確かにそうかも知れません。陰陽でいえば陽であるはずの太陽が陰である女性を象徴としているのは確かに変です。月こそは女性性の象徴だと思うのですが、月読み命は余りに軽視されていて、神話でもチラッと触れられている程度です。
まあどちらにしても、確たる歴史を知らない日本人が不幸であることに変わりはないと感じます。自分たちの歴史を知らず、その時々の権力の説く尤もらしい史観に操られてきたのが日本人ではないでしょうか。
先の大戦では「神風」の美名の下に幾多の若者が命を散らしています。この神風とは鎌倉時代の元寇を、幸運にも台風により切り抜けられた史実をいいます。偶然にも襲来した台風が船で待機していたモンゴル帝国軍に大打撃を与え、撤退へと追い込んだのでした。鎌倉時代当時「神風」と呼称したかどうか知りませんが、軍部はこの史実を利用して若者たちに国を守る「神風」となれ、と強要したのです。

 現在でも日本人の歴史的視点の欠如が、大戦から60余年を経てなおもアジア諸国から軽蔑され続けている原因と思えてならないのです。明治維新以来、列強に追いつけ追い越せで走り続け、日本人らしさを捨て続けてきました。維新の開国以後は日本人を知った世界の人々は、その穏やかさ、教養の高さ、礼儀正しさ、親切さなどに驚き高く評価していたのです。その頃の残光が、湾岸戦争勃発の折に手を束ねていた日本政府に代わってトルコ共和国が日本人の脱出を命懸けで手助けしてくれた原動力となりました。
トルコは首相自らの指示で現地日本人の救出にトルコ航空機を飛ばし、日本人を救出してくれました。その理由は遥かな昔に日本で遭難したトルコ軍艦の乗員を漁村の人々が助けていたからです。貧しい漁民たちでしたが、自らの食物も救出したトルコ人に差し出しました。後には寄付を募り、乗組員の遺族へ渡したりもしています。この恩義を彼らは忘れていなかったのです、だから命懸けで日本人を救ってくれたのです。この世界に輝く先祖の偉業を歴史では教えていません。
助けに向かったトルコの人々は無論、知っていました。飛行機のクルーたちは政府の呼びかけに応え、志願してイラクに向かったのでした。救出された日本人は「何故にトルコ航空?」と思ったことでしょう。
また大戦中の総領事「杉原千畝」氏が手書きのビザを発行し続け、多くのユダヤ人の脱出を助けた事実を何故、教科書に載せないのでしょうか。外国、殊にユダヤの人々の間では、あのシンドラーと並ぶ恩人として今もなお賞賛されています。杉原氏は帰国後に裏切り者として蔑視され、不遇のうちに生涯を終えています。彼は日本人としてより、人間として成すべきことを成したのでしたが、その根底には良心に忠実であろうとした気高い日本人の本来の姿がありました。
このような歴史的事実をしっかりと学び、自分たちが何者であるかをしっかりと知らねばなりません。これは民衆に限らず政治や行政を指揮する人々にこそ必要です。
自己の基盤に確たる民族の歴史が存在すれば、国際問題への対応も異なってくると思います。それとも、国民が自国の正しい歴史を認識することが、何らかの不都合をもたらすのでしょうか。
歴史は所詮過去の出来事といわれるかも知れませんが、それなら何故に歴史学が存在し私達の興味を引き続けるのでしょうか。何故に過去の出来事の真実が明かされないのでしょうか。
自分たちの歴史を知らないことは、精神的に貧しいとことと感じます。精神的貧しさは誇りを持てない人間へと繋がります。
現代の様々な問題の根底には、誇りなき日本人の姿が見える気がするのです。

# by levin-ae-111 | 2012-01-09 07:34 | Trackback | Comments(0)
都道府県駅伝

 各県の代表チームが集う、都大路。県民の期待を背負って一流のランナーが健脚を競う。オリンピックや世界陸上の代表選手も、出身地や縁のある都道府県のゼッケンを付けて参加している。
この大会の良い処は、中学生区間があり、中学生から社会人、大学、高校の選手たちが一体となってチーム編成が成されていることだ。
中学生や高校生にとっては憧れの選手と同じチームとなり、様々な指導やアドバイスを受けられる。一流のアスリートと触れあい、子供たちの夢が更に膨らむことだろう。
それは日本の長距離会全体の底上げになり、将来的にレースを観る僕たちファンの楽しみも増すことにもなる。

このレースはフルマラソンと同じ距離を7人で繋ぐ、最後の7区は10キロでここには最高峰のアスリートたちがエントリーしている。
昨年の優勝は岡山県チーム、アンカーは世界陸上マラソン銀メダリストの中村選手だった。
それを追ったのはマラソンランナーの新谷さん、女子大生の小島さんだが二人とも届かなかった。圧巻だったのは福祉さん、下位でタスキを受け10人以上も抜いて来た。

駅伝の魅力は一本のタスキをリレーすること。前走者の汗と想いを引き継いで、一つでも上位を目指して走る。個人競技と違って、途中で簡単に諦められない。
そこには仲間のために、全力を振り絞る各選手の姿がある。そこがファンとしてはたまらない、思わず頑張れと力が入る。
そして年上のお姉さんお兄さん選手が中学生へタスキの受け渡しをする時、何か声を掛けたり励ましたりと、競技の中でも微笑ましい光景が見られるのもこのレースの特徴だ。

 ところで現在の地球環境や社会問題を、次世代に山積みの状態でリレーしても良いものだろうか。
何としても一つでも問題を解決して次世代の若者に次代を託す、そういう気持ちが無いと人類社会は敗北してしまう。仮に福祉選手の様に素晴らしい走りをするランナーを要していても、それまでの負債が大き過ぎると手遅れに成ってしまう。

政治家が官僚が悪い。確かに彼らは悪いが、そんな政治家を選び実務は官僚任せにさせて官僚を増長させたのは誰だろうか。それは選挙民の政治への無関心、地域や自己の利益にしか想いを致さない身勝手さが原因なのだ。投票率が60%台とは、政治家に文句を言える数字ではないと思う。4割もの有権者が棄権しているなど、論外だ。
白紙委任にも等しいこの低投票率が、まず問題の根源の一つと認識して欲しいものである。

国民一人ひとりには僅か一票しか与えられていないが、それでも問題意識を持った票が集れば素晴らしい力なる。そうなれば政治家や官僚も手前勝手な政治が出来なくなり、真に民意が反映された政治へと変わって行くことだろう。それがこの議員内閣制という制度の下での民衆に与えられたパワーだ。皆さん、自分のパワーを捨てないで下さい。
投票を棄権するとは、自分に与えられたパワーを捨てることだと思うのだ。現在の内閣も与党内の思惑により生まれたものだ。従って彼らには民意を政策に反映するという意識は無いと思っても良いだろう。

 彼らにとって大切なのは支持基盤である財界や富裕層の意思であり、決して我々のような大衆のそれではない。世界的に観ても同様で、ギリシャの財政破綻に対して欧州諸国や世界が機敏に反応したのはギリシャ首相がEUの救済案を国民投票に掛けると発言した直後だった。つまり、救済案を受け入れるか否か大衆に決定させると発表した途端、まさにその事に世界が反応したのである。正確には世界というより、世界経済を牛耳る一握りの人々が、大衆に決定権を与える事に嫌悪感を示したと言うべきだろう。
同じ事は世界のどの国家でも起こり得るであろう。2012年を本当の意味で終わりの端緒の年にしたいものである。それは、こうした歪んだ形での社会制度の終焉の始まりの年という意味合いに於いてであり、人類の滅亡とかアセンションとは無関係だ。
次世代の人類への襷渡しは、より多くの人々にとって、より良い状態で行わねば成らない。それが人類史の中の21世紀という区間を走る現代人の義務であろう。
# by levin-ae-111 | 2012-01-07 10:33 | Trackback | Comments(0)
『徳川家康の謎』劇薬の戦国史より
 多くの戦国武将には、その出生から死亡に係わるまで様々な説が存在する。
殊にそれが天下人の地位に昇った人物となると、史実とされている正史とは異なる異説が尽きない。
織田信長や豊臣秀吉は無論のこと、徳川300年の歴史的な長期政権の創始者である家康についても例外なく、数々のまことしやかな異説が存在する。
ここでは、大御所と称され、二代秀忠の時代にまで影響を及ぼしたとされる家康の死についての異説をとりあげてみたい。

 家康が眼の上のコブであった豊臣家を滅ぼした最後の闘い、『大阪夏の陣』で死亡していたとする説がある。その墓所は堺市の南宗寺に存在し、夏の陣から8年後に二代秀忠が息子の家光と共に参詣したとされる。また一画には東照宮が設けられていたともいう。
 夏の陣では既に外堀を埋められていた大阪方は、自暴自棄の突撃を繰り返した。
中でも真田軍は家康の居る本陣を目指して、果敢な突撃を敢行した。
圧倒的な戦力で取り囲みながら、家康は思いも掛けずピンチに陥り、馬印を倒して必死で逃亡しなければ成らない事態になったらしい。
必死の敵軍に対し、関ヶ原以来の平和に慣れた徳川方の武士は押され気味で、鬼気迫る真田軍に追い散らされてしまう。この時に家康は一時、自害まで考えたとされる。

異説では、この時に本当に家康が死亡したとしているのだ。
数名の共だけで逃亡する家康の前に葬列が現れた、家康は棺桶に隠れ逃れようとした。
しかし豊臣方に見つかり、桶の上から槍で突かれたというのだ。
家臣が重傷の家康を担いで逃げたが、遂に絶命したので付近の南宗寺に葬ったという。
後年の家康は影武者という訳だが、本当だろうか。
棺桶の中に家康が居ると豊臣方が知っていれば、引きずり出して首を取るに違いない。
異説のとおりならば、豊臣方は声高に凱歌を叫ぶだろう。
もしも豊臣の兵がそれを行っていれば、いかに徳川方が握り潰したとしても何がしかの痕跡が残っているのではないだろうか。
真実ならば発見というより、怪しんで一応だが棺桶を槍で突いてみた、という程度だったのだろう。
用意周到な家康がそんなドジを踏むとは思えないが、もし事実なら相当に豊臣方を見くびっていたと言わざるを得ない。
寧ろそれよりも、危機に陥った家康が豊臣の追撃を逃れる為に、影武者を棺桶に忍ばせたのかも知れない。後年に秀忠と家光が詣でたのは、影武者の墓所かも知れない。
それは、彼ら成りの影武者に対する感謝の表れだったのだろう。

だが家康には他にも死亡説があり、影武者の名前まで明らかな説がある。
家康は桶狭間の闘いから数年後に没しており、以後は影武者の世良田二郎三郎が影武者として家康を演じていたというものだ。
家康が世良田に入れ替わった証拠として、松平信康の死や重臣石川数正の出奔などが挙げられているが、さて真偽の程はいかばかりか。
# by levin-ae-111 | 2012-01-06 06:01 | Trackback | Comments(0)
不思議な夢
以前に断絶しそうになって、酷く落ち込む原因になったネットの友人が早くも面白いメールをくれた。私が16年も天井から吊るしていた『宇宙エネルギーコンディショナー』(ハテナ)を一度はずしてみたら、というトンデモない提案があった。
彼女がいわく、「どうも、今となってはハテナがHさんの覚醒を邪魔しているのではないかと思う」と。

 私は信念が無いのではなく、日頃から柔軟な思考を心掛けている (笑)。私は提案を受け入れて、試しにハテナを暫く外してみることにした。
ハテナは私にとって精神世界への入り口だったし、多くの導きを受けた不思議なグッズである。チャネリングや身体に感じる不思議なエネルギー感覚(気)を感じる様に成ったのも、ハテナの力によるものだった。
しかし最近はどうも頭打ちで、新たな展開を見出せないでいた。以前には時々観た不思議な夢も観なくなり、精神的な探求も興味が薄れつつあった。

 ところが彼女の提案を試してみると、いきなり次の日に不思議な夢を観た。それは幾何学図形と音階を組み合わせて何かをするという夢だった。貴幾何学図形は5個の◎を=で繋ぎそれが4列ある。そして◎は互いに=で繋がり、その間の空間は×で繋がっている。
最初はカバラの生命の樹をイメージしてみたが、調べると似ているが少し違う。
音階はギターの基本調弦のミ・ラ・レ・ソ・シ・ミに対応している。夢の中で私は自然にその事を知っていた。
◎に音階を当てはめると、◎は一旦、蓋が開いた様に持ち上がり、一瞬だが色を変化させてまた元に戻るというものだった。
それをネットの友人に伝えると、彼女は手早く様々な友人たちを通じて調査に取り掛かった。そう簡単には解明出来ないであろうが、この夢が何を意味するのか是非とも知りたいものである。

以下は友人の調べてくれた内容である。
【友人に応えて下さった方のメール】
> ギターの基本的調弦はミラレソシミ であっています。参考までに別の読み方を記載しますね!
> 【E A D G B E】英語
> 【エー アー ディ ゲー ベー エー】ドイツ語
> 【ハ イ ニ ト ロ ハ】日本語
> > ◎= ◎= ◎= ◎= ◎
> > II X II X II X II X II> は、??(トゥーファイブ)の事じゃないかな?完璧な宇宙なんです~この動き(笑)
>
> ブログに図解入りで、大まかな事は書いてあります~が??はなかなか説明しにくいので、省いています。
>
> 五度圏が基礎で、??が基本。で、だんだん裏コードとか代理コード等々解っていくと、どんどん宇宙に行っちゃいます(笑)
>
> 音楽は数学です(笑)で、数学は宇宙(笑)
>
> http://s.ameblo.jp/meru-pee/entry-11088369648.html

上のURLは友人の質問に答えて下さった方のブログです。

◎=◎=◎=◎=◎
II×II×II× II×II
◎=◎=◎=◎=◎
II×II×II× II×II
◎=◎=◎=◎=◎
II×II×II× II×II
◎=◎=◎=◎=◎
【私が夢で観た図形】
しかし、縦のIIは、実際には横と同じ=であったし、縦の◎の間は横と同様に詰まっている。

単なる夢が宇宙などという大きな話しに成ってきた。しかし、余りに不思議なので是非とも意味を知りたいと思っている。
何方かこれの解釈を出来る人はいらっしゃいませんでしょうか。宜しくお願いします。
# by levin-ae-111 | 2012-01-05 05:21 | Trackback | Comments(3)
2012年
明けましておめでとう
        ございます。
旧年中は私の拙い記事にお付き合いくださいまして、心から感謝を申しあげます。
 
さて昨年は様々な問題が噴出すると同時に、あの忌まわしい震災と津波、更には原子力発電所の事故や中国漁船の体当たり事件、洪水など多くの災害に見舞われた年でした。
それに加え、大企業の粉飾決算にまつわる不正、公職に在る人々の不祥事など、社会的なモラルを問われる事件が続出しました。
精神世界では今年2012年はマヤ暦の終わりの年でもあり、一部では人類が滅亡する年ともアセンションして次元上昇する年であるとも言われています。

 何れにしても如何なる事態が出来しようとも、動じない心構えが必要であろうと考えます。おりしも今年は『辰歳』であります。
はたしてこの辰は大空を飛翔する飛龍なのか、それとも地に臥して暴れる地龍なのか?
どうか縁起の良い飛龍であります様にと祈ります。

2012年の今年も、下手は下手なりに頑張って書き続けようと思っております。
どうぞ宜しくお願い申しあげます。

『皆様の身の上に素晴しい健康と、良き出来事が雪崩のごとくに起こりますように』との願いを込めて。

                                   2012年元旦 
# by levin-ae-111 | 2012-01-01 00:19 | Trackback | Comments(0)
真実の政治家松村謙三(越中人譚)より
 郷土が生んだ一人の偉大なる政治家の話しをしたいと思う。その人は既に亡くなってから40年もの月日が流れた。しかし、その人こそは真実の政治家と呼ぶべき偉大な人物であった。
松村謙三は福光町(現南砺市福光)の生まれで、生家は薬種商を営んでいた。謙三の父も祖父も政治に関心があり、その関係で多くの政治家が出入りしていた。そんな関係か謙三も自然に政治に関心を持つようになっていたのだろう。
大学は早稲田へ進学し、当時の重鎮の一人である大隈重信と直に触れ合っている。

 大学を卒業すると報知新聞で記者として働いたが、5年後に父が亡くなり実家の家業を継ぐ為に帰郷した。その後は地元の人々に請われるままに町議、県議となり、やがて国政の場へと送り出される。
国会議員としての実績は、第一次農地改革を農林大臣として実施したこと。これは地主の下で高い小作料に苦しむ小作農の人々を解放し、農業を活性化させる目的だった。GHQの管理下にあった日本で、唯一占領軍の指導に依らない日本人の発案した独自の政策であった。これは地主から国が土地を安価で買い上げ、小作農に安価で払い下げるという政策である。松村自身もこれにより多くの土地を手放す地主の一人であった。

そして地元では水量の少ない小矢部川の影響で、勃発する水争いそれから一転して雨が多いと洪水に苦しむ農民の為のダム建設を推進した。
小矢部川の刀利ダム建設は松村にとっても苦しい事業だった。そのダム建設の為には刀利村を水没させねば成らない。
松村は何度も刀利村の人々を膝を突き合わせて、誠心誠意の説得とお願いを行った。勿論、村人の行く末も十分に考慮したことは言うまでもない。
当時、反対運動に加わった村人の一人は「今の政治家や役人は、松村さんほどに親身になって指導してくれる人は居ない」と言っていた。

 松村の実績で最も大きいものは、日中国交回復の橋渡しであったろう。松村は私費で中国に渡り、当時の周首相と会談し大歓迎を受けている。周首相と友情の絆を結んだ松村は、その後にも訪中し民間貿易のルートを開いている。松村の繋いだパイプを使い、後に正式に国交を回復したのが田中角栄であった。松村は既に他界していたが、その時に周首相は「水を飲む時には、井戸を掘った人のことを忘れてはならない」と述べ、松村謙三を偲んでいる。
松村の訪中以後も不安定な関係であった日中関係は、紆余曲折を繰り返す。アメリカ寄りの政策により中国が態度を硬化させた時に松村は「私は日本人です。その私の前で日本の首相の悪口は断じて許さない」と中国で誇り高く述べた。
松村の外遊に同行した人々は、相手が怒りはしないかと気を揉んだ。そんな心配をよそに松村は周首相と激論を繰り返す。しかし激論を交わした後の二人は、お互いを尊敬し深い友情の絆を結んでいた。

 松村が幹事長を務める改進党は、数に物を謂わせて強引に懸案を押し通すやり方に憤慨していた。金と権力で政(まつりごと)を思い通りにする吉田内閣の手法を松村は嫌っていたのだ。自由党はより多くの議員数を求めて、改進党を取り込むという策に出た。結局は合併し自由民主党が誕生するのだが、そんな自民党を変えようと、勝算の薄い総裁選に立候補して敗れた。岸信介に対抗する勢力に推されて松村は何と投票日の3日前に立候補した。しかし松村を尊敬する議員たちの票は意外に多く、後の政権運営に一石を投じることになった。この松村を支持する民衆からは、多くの寄付金が寄せられそれは『貧者の一灯』として今に伝わる。

 松村の政治姿勢はあくまでも政治家は公僕である、という信念である。故に彼の私生活は質素であった。次女の方は子供の頃の思い出に、学校などに出す書類の父親の職業欄に『政治家』とは書かせて貰えなかったという。何と書いたか?『無職』と書かされたと語る。
松村のお孫さんは、友人の家を訪れた時など、食べ物に驚いた。それほど、松村は家でも質素にしていたのである。松村にとって政治家は職業ではなく社会奉仕である、人の為に尽くす公僕が政治家である。その信念の許、松村は日本人としての誇りを高く抱きながら、厳しい内外の政治状況に対峙して行ったのである。決して偉ぶらず、年齢や立場にとらわれず如何なる人にも別け隔てなく接していたという。

彼の選挙に携わる人々は、皆、手弁当で参加していた。選挙は金を掛けてはならない、それが松村謙三の選挙に対する姿勢であった。
また陳情に対しては地域の為の陳情には耳を傾けたが、特定の個人や団体に関するものだと判断した場合は、その陳情を受け付けず徹底的に考えを改めるように相手を説き伏せたという。

この様な政治家はもう居ないのか?松村健三の背中を見ていた人々の中には、中曽根元首相や田中角栄元首相が居た。誇り高く、優しく、国民の為にという松村の精神はもう政界には存在しないのだろうか。
地元では『けんそはん』(謙三さん)と親しみを込めて呼ばれた松村謙三氏は、今の国政を見たならどう思うであろうか。一時は公職追放の憂き目を見た松村だが、共に働いた人々が松村について語る時は、皆とても誇らし気に何となく嬉しそうに語る様子が微笑ましく感じた。

# by levin-ae-111 | 2011-12-31 10:03 | Trackback | Comments(2)
私の瞑想
 最近はサボり勝ちであるが、私の現在までの精神世界の探求は瞑想から始まったと
言っても過言ではない。しかし何流というキッチリとしたものではない。
最初はハテナの購入先が提唱していた無限瞑想法なる瞑想だった。それは別名『想念観察』と呼ばれるもので、目を閉じて座り、浮んで来る想念を観察するというものだ。
それは無念無想などという様な事ではなく、想念が浮んで来るに任せる。
しかし、それに拘ることなく、捉われずにただ流すという方法だ。簡単そうだが、これが難しい。想念を観察すると、拘ってしまうし、観察しないと観察にならない(笑)

そして、もう一つのグッズがポイント音だ。心の中ででも、声に出して唱えてもよい。私の場合は、ハテナを購入した当初に、寝ているとも起きているともつかない不思議な意識状態の時にテレパシーで伝えられた。
私はこれを心中で唱えながら、次第に深い瞑想状態へと入っていく。
こんな具合なのだが、要するに自己流である。それでも、特に精神的な問題を抱える事もなく現在に到っている。
私の場合は瞑想が深くなると、時に様々なビジョンが見える場合がある。そのビジョンは時に鮮明な写真の様であり、影絵の様なシルエットであったりする。
多くの場合は何者かの瞳が見えるのだが、最近では虹の様な七色の光が暗い空間を飛び交うイメージや、PCのスクリーン・セーバーの様な光の線だったりする。

それから私が独自に加えたのが、瞑想の最初に行う様々な感謝や祈りだ。①まずは宇宙の創造主に感謝する。これは全体の創造主に、この宇宙の創造主に、さらに自分自身の創造主の順に、各々に呼びかけた後に「ありがとうございます。愛しています」と祈る。
②宇宙と銀河、太陽系と地球への感謝を捧げる。やはり、各々への感謝の最後には「ありがとうございます。愛しています」で括る。
③ここで、先日教えられたばかりの感謝と謝罪を小声で読み上げ、更に謝罪する。
④自分の魂の祖先と肉体の祖先へ感謝を捧げる。⑤家族、親戚、ご近所さん、家族一人一人の友人や各々の職場の人々へ、それからネットで私と繋がって下さっている皆様への感謝と、全員がに健康と良き出来事が起こります様にと祈る。
⑥家と家の敷地に感謝。⑦家族の許へと来てくれたお金と、物資に感謝。⑧猫たちや過去に飼っていたペットたちへの感謝。⑨周囲の植物、昆虫、小動物へ感謝。⑩ハテナへの感謝。⑪自分の守護霊・指導霊への感謝。⑫自分の身体の細胞たちへの感謝と激励。
そして気多神社の宮司様に教えて頂いた、先祖の罪を詫びる謝罪も加えた。更に独自に現世の人間たちの罪に対する謝罪も追加した。

 こうしてみると、意外に多い。疲れている時などは、これだけで眠気が来るが真剣に行うと、この導入部だけでも深い瞑想状態へと入ることもある。だからどうしたと言われればそれまでだが、私はビジョンを楽しみ、身体の内側と外側で踊る気の感覚を楽しんで自らをリフレッシュさせ、翌日の活力としている。
そして天から降る細かな微粒子や、自らの身体から立ち昇る白く薄いモヤを見る。心は安定して穏やかになり、多少の物事には動じなくなった。
それでも苛立ちや動揺に襲われる事も多い、だが、そんな時でも以前よりも遥かに自分をコントロール出来る様になっている。
瞑想の効用は他にも有るだろうが、反面で害悪も存在する。酷い場合は廃人と化してしまう場合もあると聞く。恐らく私の場合はとても幸運だったのだろう。
本格的に瞑想をとお考えの方は、きちんとした先生に付いて学ぶ事をお奨めする。
# by levin-ae-111 | 2011-12-30 08:33 | Trackback | Comments(0)
皇祖皇太神宮
 テレビで「世界を変える100人の日本人」という番組を観た。世界で活躍している日本人を紹介する番組だ。途中からだったので余り多くは観られなかったが、それでも同じ日本人として誇りに思える人ばかりだった。
活魚の輸送に革命をもたらした人、アメリカやイタリアで活躍する俳優さん、ゴッドハンドと呼ばれる脳外科医、スウドクを発明した人、画期的な技術を開発した人、雨を降らせ民衆を救う人、肥満の特効薬を開発中の人そして最後は映画監督「世界の黒澤」で番組を締めくくっていた。
他にも上総堀(かずさぼり)をアフリカで普及させて飲料水の問題に挑む男性や、濁り水を清水に変える技術を開発した人なども誇りに思う。
話しは少し違うが日本を誇り、世界の中心だったとする古文書「竹内文書」が存在する。
これは竹内スクネが著し、代々その子孫に伝えられたとされるものだ。
とても正史としては認めがたいが「竹内文書」ではその昔のまた昔、神代の話ではあるが日本は世界の宗主国であり天皇は全世界の天皇であったとしている。
皇族たちは世界に散り、五色人(白・黒・赤・青・黄)の祖となったとしている。
また更にはモーゼや孔子、釈迦やキリストも皇祖皇太神宮に参内し、学んだとしている。更に天皇は天の浮き船(UFO?)に乗り、世界を巡幸していたともしている。
この時代は平和と豊かさがピークだったが、打ち続く天災により次第に文化は失われ世界との交流も絶たれてしまった。と、公開されている部分では概ねこんな内容だ。
皇祖皇太神宮は現在二箇所存在する。一箇所は富山県富山市の呉羽に、もう一箇所は茨城県にある。
明治時代になってから迫害を受け富山へと神社は移され、更にその後に茨城へと再度移されたものらしい。
茨城まではとても無理だが、富山には行ってみた。
車では途中までしか行けない。狭い裏路地を走りドン突きで下車し、細い山道をひたすら歩くこと10分程度で到着した。ここには神主さんは居られず、無人の神社となっている。
祠の前に参拝の作法が書いてあったが、他の神社とは少し違っていて戸惑ったが何とかお参りした。
特別何かを感じる事もなく、やぶ蚊に刺されて帰ってきたのだが、目を引いたのは神話に登場する神様という神様の殆ど全部がお祭りしてあったこと(大きな看板にビッシリと神様の御名が記してあった)。
それにしても、神様の御名はどうしてこうも読みづらいのだろう。というか、読めません。
かろうじて読めたのは天照大神、天之御中主神、ニニギ尊、大国主、手力男の命くらいのものでした。
「竹内文書」には錆びない金属ヒヒイロカネで葺かれた屋根が、日の光に燦然と輝く荘厳なイメージで描かれているらしいが今は見るかげもなく小さな祠が存在するだけだった。
# by levin-ae-111 | 2011-12-28 05:44 | Trackback | Comments(0)
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