人気ブログランキング | 話題のタグを見る

身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


by levin-ae-111
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

日本とユダヤの不思議な関係(23)

では、ヒッタイトとはどのような人々であったのだろう。
トルコで鉄鉱を採掘し、世界初の鉄文明を築いたのは紀元前13世紀以前のことであり、これは中国よりも古い。
そして彼らは鉄を農耕に利用し、それが飛躍的に生産性を高める結果となり力を蓄え、やがてエジプトへと侵攻を開始するのである。しかし勝敗は付かず、紀元前1269年に世界初の和平条約を締結する。
トルコを中心にした小アジアに帝国を築いていたが、紀元前12世紀頃に海の民により滅ぼされたとされる。

ヒッタイトは今世紀初頭の考古学的発見から、その姿をおぼろ気に現しはじめるのである。
その結果、彼らはインド・ゲルマン語族に分類された。その分類結果はヨーロッパの白人にとって、大いなる感動を感じさせるものであった。
それはこれといった活躍が無かった自分達が、古代に表舞台で大活躍していたという証拠であり白人にとっては大いなる誇りとして捉えられたからである。
しかし後にそれが間違いであり、白人達はヒッタイトの主役ではなく単なる傭兵として飼い慣らされてだけだったかも知れないという証拠が発見されるに及んだ。
メソポタミア、エジプト、インドが彼らヒッタイトの活躍した主舞台であり、ヨーロッパの様な田舎であった筈がないのだ。
ヒッタイトの記録を止めているのは聖書だけだとされていたが、水上氏によれば私達の神話にもヒッタイトの記憶が存在しているのだという。
それは『八百万の神(やおよろずのかみ)』という表現の出所が、ヒッタイトの条約から来ているらしいからだ。

ヒッタイトがインド・ヨーロッパ語族と認識された経緯は、概ね次のとおりであるらしい。
 トルコで発見された粘土板に刻まれた楔型文字の解読に行き詰っていた学者は、その発見場所へ現地調査に赴くことにした。
首都アンカラから150キロ離れた廃墟がそこであったが、更に30枚以上もの新たな粘土板を得ることになる。そして遂にエジプト王ムセス2世が、ヒッタイト王へ送った平和条約の批准書を発見するに及ぶ。
このように当初はメソポタミアに存在したと考えられていたヒッタイトの首都の位置と、不明であったヒッタイトの文字を発見するのである。
最初の発見から十年後にチェコ人の学者が発表した論文では、ヒッタイト語の中にドイツ語を発見したという。そのことに因り、ヒッタイトはインド・ヨーロッパ語族に属する民族であったと断定された。
白人の言語学者はこの情報に飛びつき、エジプト人が描いたヒッタイトの肖像への研究熱が高まって行くのである。
その肖像はギリシャ風の顔に、セム族風の鼻梁の高い鼻を持って描かれており、ある学者は似た鼻をドイツで発見した。
by levin-ae-111 | 2010-07-21 05:28 | Comments(0)