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身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


by levin-ae-111
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ETソウル(26)

最も変った部分は、他者の気持ちを想像してみるように成ったことだろう。日常の生活で、周囲の人や小説やドラマの登場人物の心理を想像する。それは的外れなことも多いだろうが、そうすることで痛みや喜びを分かち合えるような気がしている。
酷く短気で我侭だが、度胸が無く、いつもオドオドしていた過去の自分からは、想像だに出来ない現在の自分がいる。
年齢を経たせいであろうとも思うが、周囲を見渡せば私よりも遥かに高齢な人々の言動が酷く幼稚に見えたりする。高齢者の尊大な態度や我侭を見るにつけ、以前ならただ軽蔑するだけだった自分が、その人の言動の背景に思いを馳せたりする。
自分がET人格と主張する積りは全く無いが、私のケースは普通の人間でも何かを切っ掛けに変われるのだという例であるかも知れない。

 勿論、ビッキーの例は私などとは比較に成らない程に素晴らしい変容を遂げているのだが、要するに彼らET人格を持つ人々の変容の仕方や周囲への係わり方が、これに近いものであるような気がするのだ。
ビッキーは十五年前までUFOやETには無関心だったし、SFにも興味を持ってはいなかった。そのビッキーが変容する引き金となった出来事は、ありがちだが『夢』であった。
夢など覚えていたことの無かったビッキーが二晩つづけて同じ夢を見た。
彼女はそれを異なった精神的実体の中で起こった客観的事実と信じ、明晰な夢と呼んでいて、UFOによる誘拐談のように我々が知っている物質世界で起こったのではないと強調している。
しかし一人の人間の内面を変えてしまう引き金となるとは、余ほど鮮明で強烈な夢であったのだろう。
私も鮮明な夢を幾つか見た。夢で同じ場所へ何度も行ったし、夢の中だけの知人も存在している。何時もの場所、何時もの風景というものが、私の夢にはある。
ある日の夢で何時もの街角を歩いていると、後ろから駆け寄って来た女性が「ブリック、久しぶりね。どうしてた、元気だった」と声を掛けてきたりする。その時に呼ばれた名前は私のメールアドレスの一部になった。
またある時はUFOで空を飛んだし、零戦にもF1にも乗った。そのどれもがとてもリアルで恐怖も絶望も希望をも感じたものだ。
それは確かに非現実的な夢ではあるが、現実以上に現実的だった。しかし私を変える引き金にはならなかった。
自分の内面へと意識を向かわせる引き金は、人それぞれ異なるもののようだ。
Commented by ryukyu at 2010-08-28 14:42 x
いつもありがとうございます

>私にとっては「釈尊もキリストも悟っていません」私たちよりも、少し上の次元から物事を見られたに過ぎないと思っています。

キリストや釈迦も 自分の次元で 悩みや解決できない現象について思考錯誤していたのでしょうか?

私も 自分の身近なものでも 知っていると思っていたことが 奥が深かったり 価値観が変わることがあるため 「悟りなんて まだまだ・・・」と思っていましたが これでいいのですね。 

ただ 判ったことは どうにか 自分で考えたり行えるように努力しようとしています。

> 非日常の事柄に興味を持つこと自体が既に資格ありと思って良いのではありませんかね。

自分の内面にもっと 意識がいけるように 成長したいです。
これからもよろしくお願いします。
Commented by levin-ae-111 at 2010-08-28 18:12
ryukyuさん
いつも有難うございます(^^)
私は究極の意識(創造)もまた、成長を続けていると思っています。その意味でここまででOKという境界は有り得ない。キリストや釈迦は私たちにとって「悟り」を開いた偉大な教師に見えますが、園児が幼稚園教諭や両親を見るようなものなのだと感じています。
彼らの上にも、更なる先達が存在するのは間違いありません。
Commented by 出之 at 2016-03-12 15:38 x
キリストなど、
今日に続くキリスト教の蛮行を見通しての、
自身の言行であれば悪魔そのものですし、
見通しが無かったなら何も悟ってはいなかったでしょう。
宗教戦争を起こさなかった釈迦さんとは同列に扱えません。
Commented by levin-ae-111 at 2016-03-12 18:06
出之さん
またまた、有難うございます(^^♪
そうですね、私たちが聖と考える人々も、実は私たちと大差
が無かったのかも知れません。
釈尊に対する私のイメージは、哲学者といった感じです。
疑問に感じた事を彼なりに追求し続けて、自分の持論を
得た。そして、それを人々に語った。それは素晴らしい哲理
で、人々は感動し指示した。
後の世の人々はそれを利用して、宗教化し支配者はそれを
支配の道具にしたのです。釈迦の遥か以前にも同様の事が
行われていたのでしょう。

さてキリストですが、これも彼の意に沿わない形で発展した
のだと思います。それは一人キリストだけの責任ではなく、
それに関わった全ての人々の責任なのだと考えます。
by levin-ae-111 | 2010-08-28 06:03 | Comments(4)