ETソウル(150)
2010年 12月 30日
それから、こう言った。「もし、本当に悟りの境地を開いて仏陀になろうとすれば、誰にでも可能なことだ。しかし、不思議なことにワンダラーやウオークインは、こうした困難な修行をしようとしないのだ」と。彼ら(ETたち)は、人生を送る上でのこうした制限を甘んじて受け入れている様に見えるし、少しでも社会に良い事をすれば良いという、安易な気持ちに成っているのかも知れないと心配する。
「もし、サマディ(三昧。覚醒境)の境地に達して、完全に人間としての存在を抽象化してしまえば、誰でも自分自身が持っているもっと大きな境地に目覚めることが出来るのに」と、再び地球上での精神的な努力に全てが掛かっていることを強調した。
サマディの境地を言葉で説明するのは困難だ。心のひときわ深遠な状態のことで、あらゆる意識は完全に静止し、静寂を保った状態である。そこには、時間と空間の感覚もない。
それは瞑想の修行によってのみ、得られる境地であると、マンデルガー博士は述べている。
死後ETの魂はより広い意識へと変容していく。そして地球に滞在していたことが、如何に大切なことだったかに気付く。マンデルガー博士が対話したETたちの殆どが、死によって初めて本当の大いなる覚醒に達することが出来ると信じていた。
「死は、私にとって、冒険である」とボブは言う。これはETへの覚醒によって、学んだひとつの教訓だと彼は述べている。こんな言い方は、ある種『病的』で終わりを待ち望んでいる様に聞こえるかも知れない。
だがボブは、この印象を否定して、むしろ死に対する好奇心を強調する。そして地球上の人間の姿をした生命には終わりが有ることを、有りのままに受け入れているのだという。
ボブはウオークインとしての覚醒前には、酷い麻薬中毒に陥っていた。そして、恒常的に死と隣り合わせの状態に在ったので、死ぬという事について他の人よりも解っていた。
その訳は中毒による激しい精神のうねりに揺さぶられて、大方の日々を自殺願望と戦う事に費やしていたからだった。
「死ぬのは簡単さ、何時もそう考えていた。この世に居ても、やっていけないと思っていたんだ」とボブは告白した。この時期が彼の人生のどん底であり、全てを諦めていた時でもあった。
こんな時に突然、何かが起こった。ウオークインとして、ETの魂を得たのだった。
当初のボブはこれを「余計なお世話」だと思っていた。しかし、この体験をしてから思い掛けない気力と希望が湧いてきたとボブは語る。
その瞬間、稲妻に打たれたような衝撃を感じ、ある考えが頭を過ぎったのだ。
彼はその後、自分の人生に間違いなく意義を感じる様になっていた。ボブはそれについて感じ、考え、そして理解した。
前回 いろいろな質問を丁寧に 教えていただきありがとうございます。イメージが広がり 妙に納得しています。
さて ETが 困難な修行しないのは 修行しなくても大いなる覚醒をすることを確信しているからなのでしょう。
先の質問でもあるように 死後の意識の集合は 同様な意識どうしが 集まってくるということで 一般的なスピリチアルの現場では 生前の意識の向上が大切であると いうことで あらゆる修行の場が ありますが。。。。。
修行は 死後のおおいなる覚醒や より高いレベルの集合に属することに対して 必然ではないということなのでしょうか?
というか 今現在を生きていることが 修行であることを 気づくこと・・・ですか?(笑)
有難うございます。
私の考えですが、本当は私たちは全知全能の意識の一部であり
本来は総てを知っています。その意識が物質界へと波動を落として現れてくる理由は?恐らく、知っていることを実地に経験する
為ではないかと思っています。それ故に意識は貪欲に体験を求め
ます。しかし、それを限りなくリアルにする為に何もかも忘れて
生まれてくるのでしょう。そして宇宙は進んだ者がそうでない者に対して面倒を見るように出来ているみたいです。
ですから修行は意識の向上に大切な要素ですが、ある程度のレベルに達した魂には、この世界での修行は必然ではないのかも知れません。ETにとって地球上での修行とは、本来の自己を思い出す手段でしかないのかも。