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by levin-ae-111
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北陸の武将たちⅢ

 三、火打ちヶ城での裏切り
古代から明治に至るまでの長い間、福井県南条郡今庄地域は大和路や京阪路と北陸を結ぶ重要な地域であった。というのも、同地は周囲を険しい山々に囲まれた盆地状の土地で、ここを通らなければ、深山に迷うことに成ってしまうからだ。
京へ攻め上がろうとする木曽義仲は、この盆地の背後にあたる火打山の頂上に拠点としての城を築いた。そこが火打城であり、本来なら京から向って来る平家軍をここで食い止める重要な城であった。だがここで義仲軍は敗北を喫する。無論、そこには原因があったのである。
 南進を図る義仲軍を迎え撃つ為に出陣した平維盛の先鋒である平通盛の軍勢は、養和元年(1181年)の夏に、今庄を一機に通り抜けて越前武生にまで至った。この時に義仲軍の先鋒、梶井太郎行親の軍と出会い、戦端を開くこととなる。
しかし、戦況は思わしくなく、徐々に圧し戻されて敦賀まで敗走してしまった。

 要害の地今庄を制圧した義仲軍は、火打ヶ城を拠点に守りを固めた。しかし、平維盛が指揮する本体が10万の大軍との情報が入り、どうにも防ぎ切れるものではないという観測が広まった。この時、越後に居た義仲は火打ヶ城を守れと下知した。
義仲軍の先発隊である越前の仁科太郎守弘と加賀の林六郎光明らが謀議を重ねて、今庄盆地の近くを流れる河川を一斉に堰き止めることにした。
工事には将兵が総出で当たり、付近住民もかり出されて、昼夜兼行の突貫工事が行われた。その結果、小さな盆地は全て水没し、火打ち山だけが水面にポッンと浮かび城は水濠に囲まれた水城となった。
 寿永二年(1182年)の4月下旬に、維盛に率いられた10万の平家軍は、木之元から柳ヶ瀬を経て椿坂峠、栃ノ木峠を進むコースと、木之元から琵琶湖沿いに進むコースを取って北陸の関門、今庄へと辿り着いた。

 今庄に着いた平家軍は驚いた。今庄盆地が全て水没し、深く大きな湖に変わっていたのだから無理もない。義仲軍討伐の義憤に燃えた平家軍の進軍の勢いも、ここで停められてしまった。
一方、火打ヶ城では、越前勝山の僧侶である斉明らが宗徒らを千名ほど率いて加勢し、城方の総勢は6千ほどになっていた。
人造湖をはさんで対峙する内に、他勢の平家軍には徐々に焦りが出始めていた。時間を経るごとに城方の人数が増えていったことも維盛の神経を痛めた。
平家軍はやがて周囲の山々に登り、湖を囲むようにして布陣を始めた。
次々と各隊が合流して、その人数は頼もしい限りであった。しかし、それ程の大軍を持ってしても、湖水に守られた城には手が出ない。歯がゆい思いが募る上に、よく晴れた日などには、城に篭る敵が見える。的兵は明らかに平家軍をあざ笑っている風である。
どうかすると、尻など叩いて見せる敵もいる。

ところが、火打ヶ城側にも思わぬ問題が生じた。
焦りに焦った平家軍は緩慢ではあったが、周囲の尾根伝いに徐々に城へ接近しつつあった。
周囲の山に敵が布陣したからいって、どうと言う事はないのだが、後から後から沸いて出る平家の大軍は自然と城方にも焦りを誘っていた。
 中でも宗徒を引き連れて加勢に加わっていた僧侶の斉明は、焦りと平家軍の10万という数に目が眩んで、結果的には平家軍が勝利するに違いないと読んだ。
そして、今の内に維盛に内通すれば、助命は無論のこと恩賞も夢ではないと踏んだ。
戦乱が治まった後に勝山一帯に領地を貰って、天台宗の浄土圏を建設するのだ、斉明の夢は限りなく膨らんだ。そして、遂にその身勝手な筋書きが実現するに違いないと、夢の中に埋没してしまった。

 四月の生暖かい夜に城を密かに抜け出した斉明は、対岸の岸に取り付いた彼は草を掻き分けて山を登る。むせ返るような草の臭いの中を登り切ると、彼はかねて用意していた堰の切り方をしたためた文を矢にくくり付けた。
そして、平家軍がたむろする場所を目掛けて、矢文を放った。城方にとっては、痛恨の裏切りであった。
 矢文を読んだ維盛は嬉々としての下知した。命令を受けた足軽たちにより、各河川の堰は次々と切られ、今庄盆地の人口湖は一夜にして消滅してしまった。
 翌朝、城兵たちは驚いた。無理もない、昨夜まで満々と水を湛えていた湖水が、完全に消えてしまっていたのである。城内は混乱した。
見れば平家の大軍が押寄せて来る。加えて篭城していたのは北陸の各地から集った混成部隊であり、指揮系統もバラバラであり混乱に拍車が掛かる。
城方の兵士たちは、城をすてて山を駆け下り逃走を図った。

 間もなく火打ヶ城は炎上、追撃する平家軍の中に居た斉明は、昨日までの味方に矢を射かけながら恩賞は間違いなしとほくそ笑んでいた。
この戦の第一の功労者は斉明であったが、同時に彼は裏切り者の汚名の第一人者でもあった。従って彼は、この戦の目的を北陸の仏法領を手に入れる為という、大義名分を拠り所にした事は当然であった。この夢を実現する為には裏切りなど、問題ではなかった。また当時の部将たちもまた、自分の領地を維持することや増やすことに権謀術数を駆使する時代であり、斉明の裏切りもまた特に非難される行動では無かったのかも知れない。
斉明は平家軍にはや変わりし、武生・福井・加賀・小松と平家軍と共に北進し、遂には運命の俱利伽羅で大敗の憂き目に遭った。合戦の後に義仲の前に引き出された斉明は、裏切り者として激しい叱咤を受けた後に、首を刎ねられてその夢と共に散っていった。
裏切りから僅かに14日目の事であったという。
by levin-ae-111 | 2011-08-30 05:31 | Comments(0)