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by levin-ae-111
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日本とユダヤの不思議な関係(リバイバル)

(七)神武東征

 ユダヤ系渡来人である日向族が、同じくユダヤ系とされるナガスネヒコとアビヒコの兄弟が支配するヤマタイ国を撃破し得たのは、ひとえに剣の力だけではなかった。
ヤマタイ国の指導者である二人の名前にはヒコが付くが、水上氏によればヒクソスと呼ばれる民に由来するものらしい。ヒクソスとは500年以上もエジプトを支配し、契約を交わしてエジプトを出て行った民族とされ、ヒク=王・ソス=牧人という意味であるらしい。
名前にヒコを付けるのは、その流れを汲む人々であるとの説があった。つまりナガスネヒコ、アビヒコは渡来人の支配者だったと思われる。
このヒクソスはエジプトを脱出後、ユダアと呼ばれる国にエルサレムという町を造ったと伝えられている。このヒクソスとはエブス人のことで、中国の神話時代に活躍した夷
と呼ばれる人々がそれで、日本では彼らをエビスと呼んでいた。
これは古代日本とエジプトとに交流があった証かも知れないのだ。

さて気候が寒冷化したが故に、狩猟と採集で生活の糧を得ていた日向周辺の国々はたちまち窮地に瀕した。
一方では小勢力ながら農耕を糧としていたワカミケヌ(神武)達は、それほど困ることもなかったのである。そして日向族の前に多くの国々が膝を屈したのである。
このことは全く経済力の差であり、力ばかりが戦の勝敗を決定するものではないと日向族に実感させたことであろう。
それは東征を目指した神武が、突然に熊野川を遡り当時としては貴重な辰砂をわざわざ求めていることでも判る。この辰砂は朱の原料となるもので、後には大陸への貴重な輸出品として政権の経済を支える物のひとつである。

神武達は飢えに苦しむ集落へ稲作を教え、見返りには法外な指導料を取り力を蓄え、時には武力で制圧し、時に政略結婚などの懐柔策を用いて、その勢力を伸ばして行った。
出雲の伝承では神武は七人いたというが、恐らくは七代はオーバーにしても複数代に渡ってこの東征が成し遂げられたものであろうと推察される。伝承を信じればその何代かの日向族の長が、神武という一人の人格に統合されて現代に伝わっているに違いない。
それはまた日向族の偉大さを誇張する為に、後世に成って『神武』という偉大な人物が捏造されたという可能性をも示してはいないだろうか。
日本では古来、支配権を握った勝者が、歴史を自分達の都合に合わせて改ざんすることが、当然の如くに行われていた。それは、多分にユダヤ的な行為でもあり、日本史の中では後世の政権も常に同じことを平気で行ってきた。
 現代では有名な豊臣秀吉も、江戸時代には庶民から忘れ去られていた。無論、豊臣から政権を奪った徳川の政治的な方針により抹消されていたからだ。
それが復活したのは、やはり明治新政府の政治的な狙いによる。それは徳川前政権を、悪者に仕立てたいが為の方策のひとつだった。

前に挙げた『記紀』もその例に漏れず、勝者となった日向族の都合に合わせて編纂されたものであろう。
だとすれば古事記のイザナギとイザナミのシーンも、自分達の習慣・風俗に合わせて記述したに違いないから、日向族はユダヤ系渡来民と考えられるのである。
そして敗者の側の記録は一切が異端として認められず、闇へと葬り去られる。
『東日流外三郡誌』もまた、このような敗者の記録であり、密かに伝えられた歴史書のひとつであるのだ。
このような捏造の繰り返しが今日の日本史を歪め、矛盾と誤謬に満ちたものにしてしまったのだ。

だがどちらにしろ、ユダヤ系の渡来人と思われる勢力が日本の中心に腰を据えたことに変りはなく、彼らはやがて大王や大君と呼称していた王権を『天皇』という、より尊大な呼び名に変更したのだった。
そして彼らが拠点とした近畿地方一帯が、つい400年前まで日本の中心として繁栄し政治・文化の中心であった。
政治の中枢が江戸に移ってからも、経済の中心として命脈を保ち続けたことは奇跡的な出来事といえるのかも知れない。
その理由として私的には、やはりユダヤ以前から続く大きな文化的なベースが存在し、それがユダヤに残った伝統的なものと重なったことにより更に強化されたからだと考える。
by levin-ae-111 | 2011-09-09 05:23 | Comments(0)