人気ブログランキング | 話題のタグを見る

身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


by levin-ae-111
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

『三景艦の挑戦』連合艦隊・七番勝負(川又千秋著)より

『三景艦の挑戦』連合艦隊・七番勝負(川又千秋著)より_a0160407_549136.jpg
日本が維新の混乱を経て、近代国家として生まれ変わった時、真っ先に取り掛からねばならない課題が存在した。国家の要件として領土、国民、主権とは三原則として語られることであるが、当時の日本はその内の領土と主権を侵害される驚異にさらされていた。
とりわけ日本海の向こうには強大な清国が存在し、北方にはロシア帝国が清に勝るとも劣らない威圧感をもって聳えていた。
当時の日本が最も力を入れたのは、当然ながら軍備であり、なかでも海軍力の整備が早急に成される必要があった。
その海軍力は明治5年(1872年)の時点で、僅か15隻の軍艦を保有するに過ぎなかった。しかも殆どは幕府や諸藩から寄贈された旧式の木造艦で、全部の排水量を足しても1万4千トン程度というお粗末なものであった。
開国したばかりの周辺海域には、諸外国の船がわがもの顔で行き来する危険な情況が続いていた。世界情勢は西欧列強による植民地獲得競争が続いており、日本もそのターゲットにさる恐れがあったのである。

 開国したばかりの日本は、非常に貧しかったが、独立を全うすべく必死の努力が続けられ、明治8年には英国へ3隻の発注が成され、翌年には初の国産大型艦を完成させている。
更に15年には海軍国債の発行により3隻を発注し、2隻を購入、7隻の国産新造艦を加える計画が開始され何とか海軍らしい体裁が整い始めた。
その時代海を挟んだ隣国の清は、西欧列強の収奪により国力を衰えさせつつあったが、それでもアジアでは並ぶ者のない強国であった。
加えて、清国艦隊には新たにドイツ製の巨艦2隻が北洋水師(北洋艦隊)に加えられた。排水量は7335トンもの戦艦であり、30サンチ連装砲4門を装備し、分厚い鉄板で装甲を施された最強の姉妹艦である。
その名も『定遠』と『鎮遠』(ていえん・ちんえん)であり、堅牢無比の不沈艦と呼ぶに相応しい大戦艦である。欧米ではこれを超える艦も建造されたが、それらに劣らぬ戦闘力を持っていた。

 日清対立が激化しつつあった明治24年、この2隻は随伴艦を引きつれ日本へ親善巡航に訪れた。艦隊は横浜、神戸、呉、長崎と各港を回り、艦内を自由に見学させた。
無論、親善とは名目であり、真の狙いは日本人に力の差を見せ付ける為のアピールに他ならなかった。
その際に北洋水師の指揮官、汀汝昌(ていじょうしょう)は、日清が争えば欧米列強に付け込む隙を与える。幸いにも清国にはこの様な心強い艦があるので、両国が協力すれば欧米勢力を跳ね返すことが出来るだろう、という様なことを日本の要人にさかんに語ったという。勿論、その言葉の真意は、清国のこの強大な艦を見ろ、お前たちには到底勝ち目はない。だからはやく清国の支配下に入れ、という意味である。
そもそも、この2隻の艦名は清国から見て、遠い国(日本)を平定(鎮撫)するという意味である。つまり日本が倒欧とか撃米などと名づけた艦で、欧米各地を親善訪問するのと同様な意味を持っていたのだ。
この様な屈辱を聞いた当時の人々の無念は、如何ばかりだったろうか。しかし現実的には定遠・鎮遠に匹敵する軍艦は日本には存在しなかった。
両艦の装甲はもっとも分厚い部分で350mmを越える。当時の常識として装甲の厚さは、それに装備されている砲の口径に比例するとされていた。要するに定遠・鎮遠を沈めるには30サンチ砲を装備する必要がある、という訳である。

 当時の日本は相変らず貧乏であったから、30サンチ砲装備する大艦を購入する術もなかった。そこで窮余の策として考え出されたのは、何とか購入が可能な3~4000トンクラスの艦に無理やりに32サンチ砲を積んでしまおうという、無謀な案だった。
32サンチ砲というのは、最大クラスの砲であったが、小さな艦艇には1門が精一杯で無論のこと砲座を覆う装甲など望めない。
しかし、差し迫った驚異に対するにはこれしか無く、3隻の32サンチ砲搭載艦が発注された。無理な注文が祟り、3隻の竣工は遅れに遅れたが何とか開戦に間に合わせた。それが俗にいう三景艦『松島』『橋立』『厳島』と命名された3隻の海防艦である。
当時の海軍が立てた目論見は、何とか32サンチ砲を積み、定遠・鎮遠を上回る16ノットの速力を以って決死の突撃を敢行するというものだった。

 イザ開戦に備えて、訓練が開始された。この時、必殺の32サンチ砲を搭載した三景艦は、期待通りの大活躍・・・は、しなかった。砲を旋回させただけで、その方向へ艦が傾いてしまう。重量物を反対側へ移動させても、傾く。そして、傾きを見越して仰角を決めて撃つ。しかし32サンチ砲は一発撃そつと、艦が反動で射撃方向と反対方向へと舵を持って行かれた。
しかもバランスが悪いものだから、艦の揺れは簡単には治まらず、次を撃つことが出来ない。揺れが治まった後で進路を修正し、また重量物を旋回方向と反対側に移動し、仰角を決めて撃つ。こんな具合だから、次の射撃まで何十分も要するという、笑えない代物だった。これでは戦にならず、次に海軍が考え出したのは、口径は小さいが射撃間隔の短いいわゆる速射砲を多数装備することだった。
実戦では結果的にこれが効果を発揮し、間断なく打ち出される小口径の砲弾は定遠と鎮遠の30サンチ砲に勝ったのだ。定遠は大火災を起こし、鎮遠は構造物を姿なきまでに一掃され、清国自慢の北洋水師は敗北した。
by levin-ae-111 | 2011-10-13 05:49 | Comments(0)