長い題名の本52
2012年 03月 01日
【法則3】霊界とは個々人の想念が生み出した世界である。
霊界は波長の世界であるが故に、個々人の持っている想念がストレートに現象化される。これが「あの世の科学」とよばれる量子物理学の「観測者効果=波束の収縮」で、霊位の高い善良な精神の持ち主なら想念どおりの善の世界が展開するが、悪い想念を持つ霊位の低い人は悲惨で残酷な世界が展開することになる。
この世という刑務所では肉体という拘束衣を着せられているので、人の想念は直ぐに具現化することはないが、それでも自分自身の意識や行動が徐々に具現化され、周囲に影響してくることは誰も否定できないだろう。
例えば何処かへ出かけてお土産を買い、ご近所に配ったとする。それは時を経て、ご近所さんから、同じようにお土産として返ってくる。それが因果応報の法則であり、霊界だけでなく、この世も人の想念が生み出した世界であることが理解できるだろう。
霊界では、それがストレートに具現化されるだけの違いである。
めぐり(巡り)と申すのは、自分のしたことが自分に巡ってくることであるぞ。めぐりは自分でつくることぞ。他を恨んではならん。
自分の中にあるから、近寄ってくるのであるぞ。嫌なこと起こって来るのは、嫌なことが自分の中にあるからじゃ。
自分で呼び寄せておいて、苦しみの神、因果の神を呼んでおいて、不平申している者おおいのう。自分で呼んでおきながら、嫌がって跳ね返す手あるまいにのう。
『ひふみ神示』より
【法則4】個人の想念(霊質)に応じて、無数の霊域が存在する。
この世の人間は自分の霊質に応じ境域の霊界と、無意識下で通信している。人間は十人十色であるから、霊界には無限とも思える多種多様な霊層や霊域が存在すると考えればよい。何事も霊界が本源であるから、霊界の思念がこの世の人間や物質に反映され、それがまた反射的に霊界にフィードバックしていく・・・・これが霊主体従ということである。
仕事は神が与えたり、人が与えてくれたものではないぞ。自分自身が仕事にならねばならん。この道理さえわかれば、失業はないぞ。自分が仕事じゃからのう。
『ひふみ神示』より
【法則5】霊界では似た者同士が相交わり、集団を形成している。
死ぬときの想念が、そのまま続くのであるから、私たちは死後、自らの想念のままの世界に住むことになる。
人間の死後、自分の命の最も相応しい状態に置かれるのであるぞ。悪好きなら悪の、善好きなら善の状態に置かれるのであるぞ。皆々、本来は極楽行きじゃぁ。
極楽にもピンからキリまであるぞ。神の旨にそう極楽を天国といい、添わぬ極楽を幽界と申すのじゃ。
正しく、これは的を射ている言葉であると私(ブログ筆者)は思う。幾ら天国といっても、自分の意に染まない世界では心苦しいばかりであるからだ。例えば、私たち庶民、しかも私のような下層の人間が、天国だからといって王侯貴族の世界へ行ったならば、面白くも何ともないばかりか、苦痛さえ感じるに違いないからだ。
例えそれが悪辣な環境であろうとも、人間にとって自分と合致した環境条件が最も住み易く居心地が良いものであるから、考え様によってはこれも慈悲であるのかも知れない。
霊界では個々人の想念それぞれが、定まったひとつの境域を形成している。それがまた無数の段階に分かれており、従って同じ境域に住む者たちは、同質のバイブレーションを有していることになる。
霊質の高い者ばかりが集まった天国的な霊域、一般的な想念が結集した精霊界、その下層には我鬼、修羅、畜生界の者たちが想念する地獄界、それぞれがまた無数の階層に分かれつつ、万華鏡のように多彩に存在することになる。
死後の霊的な存在となれば、より明確に区分けされた応分の状況に置かれる。生存時に偽りなく生きた人は霊的な存在に入って初めて真の自分を発見し、天国的な光明の扉を開くことになる。反対に偽りの生活にあった人は、その想念に合致した地獄的想念に合致した霊界へ向う。こうして生存時におけるあらゆる行為が、清算されるのである。
この状態に入ると悪的なものは、より悪的なものを発揮し、善的なものはより善的なものを発揮するから、霊界では同一の環境に住むことは出来ない。
それがこの世では渾然一体となり、本来の霊界では決して交わることのない霊位の異なる人々が、同じ時空間に同居しているのがこの世なのだ。
あの世は、個人おのおのの想念が生み出した世界・・・・
そのため 波長のあった魂が集まっている・・・・
この世の戦争は あの世の現象を表している・・・
つまり あの世の戦争とは あの世で同じような波長をもった魂同士の いざこざが この世での戦争ということになるのですね。
戦争を起こしている(いざこざを起こしている)自覚が ないことが 大きな原因ですが あの世では 学ぶことは できないのでしょうか?
【法則3】霊界とは個々人の想念が生み出した世界である。
?!?
ということは本当は 霊界 は存在しない・・・
ということですよネ。
もう少し私たちの精神が 広がり・進む と
霊界と呼ばれる領域と一緒になり、死後はその上?の
領域に融合されもっと選択肢が広がる・・
という事なのでは などと想ってしまいます。
どちらにしてもやはり、私たちは この世界 を選んで
生まれて来たということなのでしょう。
ならば書籍に書いてあるように、
死後の世界も私たちは選ぶことができる・・・
ということですね。
次回のエントリーも期待しております、
有難うございます(^^)
一説には、あの世での学びは、環境が一定であり、刺激が少ない
為に、非常に学びが遅くなるらしいです。学べない事はないのですが
この世では比較にならない位に早く多くの事を学べるらしいです。
不自由な中での学びは、成長も早いという事なのでしょうか。
Tukasa-gumiさん
有難うございます(^^)
本来の意識とは、完全に自由なはずなのですがね。
霊界もこの世も同じですよ。二人の人が同じ空間に居て、同じ時間に
同じ事柄を目撃したとします。それでも、二人のその事柄に対する感想
は違うし、捉え方も違うわけです。
それは、この世も個々人の生み出した現実の中に個々人が居るという
ことです。しかし、私たちは各々の認識としては、一緒に存在する訳です。霊界でもこれと同じ事だと思いますよ。
死の直後の意識が混濁していなければ、または、何かに執着していなれば、自由度は大きく広がることでしょう。