身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


by levin-ae-111
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30

特攻を見送った女学生たち

 毎年、この時期になると戦争の事を考えてしまいます。太平洋戦争で日本は爆弾を抱いて飛行機ごと敵に体当たりする特攻を盛んに行いました。
その端緒は関大尉に率いられた「敷島隊」でしたが、この時に偶然にもアメリカ空母が沈んだことから、一度限りとされた特攻が次第に恒常的な作戦?(もう作戦とは呼べない)として繰り返されることになったのです。

 海軍の大西中将の発案であったと伝わっていますが、それは陸軍でも行われました。陸軍は沖縄沖に大挙して来襲した連合国軍に対して、鹿児島県知覧飛行場などから多くの若者を無謀な特攻へと送り出しました。
傷ついたのは死に行く若者たちばかりではありません。それを送り出す側の人々の心にも深い傷を残したのです。特攻で死んだ恋人を想い、独身を通した女性もいらっしゃいます。
 それから知覧飛行場などでは、特攻隊の世話係として多くの女子学生が動員されていました。
飛行兵たちが生活した三角屋根の兵舎の掃除やら、洗濯、食事の世話などが彼女たちの役割でした。

 現在に残されている写真には、特攻機を桜の小枝を持って見送る彼女らの姿があります。多感な少女時代を、自分達と大して年も変わらない多くの青年が死地へ赴くのを見送る、その心情は如何ほどのものであったでしょう。
 女学生たちの仕事は、特攻機を見送って終わるというものでもありませんでした。彼女らは遺品を整理し、散って往った若者たちの遺族へ手紙を書きました。
遺族の中には手紙の返信を書く人もいます。特攻隊の青年たちも遺書を残していますが、彼らは父母や縁者が必要以上に悲しまないように、家族へのお礼と空元気とでも言うべき勇ましい決意をしたためた内容が多いようです。

 遺族の中には自らの息子が特攻へ赴いたことも知らず、戦死広報や女学生たちの手紙が届いて初めて知ったという方々も存在したようです。
遺族からの息子の様子を知りたいという要望に、14歳前後の少女たちは一生懸命に詳しい様子を手紙に書き送ったといいます。中には書簡の往復が何度も繰り返された場合もあったのです。
青年たちの日常生活の世話をした女学生たちは、最も彼らの真実を身近で見て、彼らの心情を感じていたのです。一人生き残って帰還した特攻隊員が、無念がって泣いていた。しかし夢に隊長が現れて「今度は俺が導いてやる」と告げたと嬉しそうに話していた、などということまで彼女ら遺族に伝えていたのでした。

その彼女らも悲しみで一杯の自らの心を律して、遺族の為に、特攻隊員の為に自分に出来る精一杯の仕事をしたのです。
時代とはいえ女学生たちも、辛く苦しい想いを強いられていたのです。その彼女たちも既に年老いてしまいました。
原爆、特攻、空襲、世界中の多くの人々の人生を狂わせた戦争は、絶対に忘れては成らない二度と有っては成りません。
二十世紀は二度の大戦に象徴されるように「戦争の世紀」といえます。新たな希望を抱いて始まった二十一世紀も、きな臭い紛争が続いています。
人間とは各も学ばないものであるのか、各も愚かなものであるのか、と失望を禁じ得ない感があるのですが、語り継がれる物語から何かを学ぶことが出来れば犠牲者たちの御霊も浮かばれるのではないでしょうか。
[PR]
by levin-ae-111 | 2012-08-11 10:30 | Comments(0)