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by levin-ae-111
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八丁堀の旦那は犯人を捕まえなかった?


 時代劇などで八丁堀の旦那といえば、町奉行所に勤務する与力、同心のことである。劇中では与力や同心が自ら十手を振りかざし、無頼の犯罪者どもを格好良く捕縛したり、抵抗すれば容赦なく斬り捨てたりしている。
しかし、それは劇中の話しであり、彼らは決して手ずから犯罪者に係わる事はなかった。

 与力は2百石取り(大体1600万くらい?)という高給取りで、幕府の役人であった。
その代わり彼らは配置転換も無く、出世の道は閉ざされていた。
無論、将軍へのお目見えなど叶うはずもなかった。その理由は犯罪を扱うからで、「不浄役人」などと表現される場合もあったという。

犯罪を扱ったのは同心で、定廻り(パトロール)と隠密廻り(捜査)臨時廻り(逮捕)が彼らの仕事であり、これらの同心が岡っ引きや目明しなどを使役していた。
つまり実際に犯罪者の検挙や捜査活動を行ったのは誰かといえば、岡っ引きや目明し、またはその配下の小物たちであった。
武士である与力や同心は、決して浪人や町人百姓などに手を下して捕まえることは無かったのである。

 岡っ引きや目明しの正体は、やくざであった。毒を以って毒を制するという古来からの日本的なやり方である。その故はケガレを嫌うからであり、犯罪はケガレであり犯罪者もまたそうであるからだ。従って有名な銭形の親分は、そのままやくざの親分であり、子分もまたそのままやくざの舎弟であったのだ。

 さて、それでは与力たちは一体、日々をどう過ごしていたのだろうか。幕末の江戸町奉行所の与力であった原胤明(はらたねあき)が語ったのは驚くべき話しである。
「与力は同心に、同心は目明しに仕事を任せて、自分達は着物がどうだの十手がどうだのと、そんな事ばかり言っていた」と言うから驚く。
例えば十手の房が朱が良いだの、紫が良いなどと言い、十手振りの稽古ばかりしていたというのだ。
十手を振った時に、房が顔の前でパッと広がる。それの格好が良いとかいって、皆でその競技会みたいな事までしていたらしい。

 何ともお気楽なものだが、更に年に1人の磔・獄門・火あぶり等の重大犯を検挙すると、与力・同心に銀の褒美が与えられた。岡っ引きや目明しは、自分の旦那に褒賞が与えられる様に、無理やりにでも犯罪者をでっち上げた。いくら江戸時代でも証拠も無しに罪人に出来ないので、証拠を捏造して下手人を捕らえ、これを拷問に掛けて無理やりに自白させていた。
お上の御用を司るといっても、そこはやくざが二足の草鞋を履いているから、事も無げに犯罪と下手人を捏造したのである。

江戸時代も吉宗の代になり、流石にそれはまずいというので目明しと呼ばれていた者の名称を岡っ引きと改めてイメージの向上を図ったが、実情は何も変わらなかった。
岡っ引きたちには奉行所から給金も支払われたが、これも名目だけであり、実際には吉原から取り立てた金がそれに充てられた。八千両もの大金であったというから、酷いものだ。

その事実は明治に成っても伏せられていた。それは、将軍が遊女たちの上がりをピンはねしていたに等しいからであろう。
時代劇の勇ましく、正義感に溢れた与力や同心は幻であり、親分衆も実際には正義を行うという私たちの抱くイメージとはかけ離れたものであったのだ。
by levin-ae-111 | 2012-11-11 07:29 | Comments(0)