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by levin-ae-111
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石田三成は本当に悪人だったのか?

 江戸時代に作られた石田三成のイメージは、徳川家康に逆らった極悪人であり、天下を狙っていた奸臣とされていた。天下分け目の戦いと言われる『関ヶ原の合戦』で、西軍を率いて家康の前に立ちはだかったのだから無理もない。江戸時代には三成はおろか、太閤秀吉ですら庶民の意識から消されてしまっていた程であるから、江戸時代の初期には三成にも徹底した悪役のレッテルが貼られていたに違いない。
冷たい男、融通の利かぬ奴、天下を狙っていた奸臣という現代でも続く三成のイメージはこの時期に捏造されたものであろう。果たして三成の真実はどうだったのであろうか。

三成は戦が上手かったとは言い難いが、それでも精一杯に手を尽くして勢いに乗る家康の専横に抗ってみせたのである。
秀吉が天下を手中にした『賤ヶ岳の合戦』では、加藤清正や福島正則、大谷吉継等が表舞台に立って『賤ヶ岳の七本槍』として喝采を浴びたが、三成の名はそこにない。
しかし三成は情報戦を展開し、地元の利を生かして敵である柴田軍の動きを逐一把握するという大切な役割を担っていた。
多くの戦いでは軍勢を率いて戦闘に参加するというより、先述の様に陰の戦いで自軍を勝利へと導く働きをしていたものらしい。
三成の働きは秀吉に高い評価を得ていたらしく、その証拠に賤ヶ岳の後には4万石の大名へと出世している。

 三成が実践指揮官として手腕を振るったのは、小説『のぼうの城』で有名になった北条方の支城『忍城』を攻めた時だけである。三成が実施した史上最大の水攻めは、相手の成田長親が名将であったが為に北条の本城が降伏するまで落とせなかった。
その三成は北近江の出身で、現在の彦根市石田町の生まれと伝わる。地侍の息子として生まれ、幼くして近くの寺へ預けられた。15歳の時に鷹狩に来ていた秀吉(当時は長浜城主)が寺に立ち寄った際に茶を所望した。その時に茶を出したのが三成で、秀吉の気持ちを慮った3杯の茶で近侍に取り立てられたという。

 ある時は秀吉が加増(給与UP)を伝えてもそれを断り、河原の葦を貰い受けそれに税金を掛けて大儲けした。また太閤検地や刀狩という豊臣政権の施策の多くは、三成の手に成るものであった。三成は豊臣政権の安定と国の強化を目的として、諸大名によりバラバラだった田畑の評価などの制度を全国均一にしょうと努力した。
当然、自国の領国経営に口出しをする三成を快く思わない大名も居たであろう。
しかし三成は本気でこれに取り組んでおり、秀吉から肥前肥後34万石の提示を受けてもこれを断り、秀吉の下で政策を推進することを選択している。
三成は自らの出世よりも、国の事を優先させる人物であったようだ。
また冷たい人間というイメージも存在するが、縁もゆかりもない地方の武将の願いを聞き入れて助けている。秀吉に敵対すると疑われた津軽為信(青森の大名)は、困って三成に取り成しを頼んだ。三成は為信に反抗の意志が無いと確認すると、為信の息子の烏帽子親(現代でいう保証人)となり為信と津軽家の人々に大いに感謝されている。

 関ヶ原の後に捕えられて斬首刑に処せられた三成だが、不利と知りつつ最後まで死力を尽くして味方してくれた親友の大谷吉継が居た。また逃げ延びた三成の子供を匿ったのは為信の津軽家であり、その子孫は杉山と名を変えて津軽家に仕え続けた。
明治に入ると破壊され埋められていた石田家の墓が再興され、供養塔が建てられ人々の尊敬を受けているという。
いつの時代でもそうだが、先の支配者や政権が後の支配者や政権から、嘘偽りの悪のイメージを付与されて世間に流布するのは普通のことの様だ。
三成もまた戦に敗れたが故にそういうレッテルを貼られたが、江戸時代に徳川政権が行った政策の多くは三成の政策をそのまま、或は少しアレンジして実施されたものであったという。三成を一番に評価していたのは、敵である家康であったのかも知れない。
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by levin-ae-111 | 2013-07-12 22:26 | Comments(0)