少年時代の思い出-2-(リバイバル)
2014年 12月 29日
虐められっ子だった私は、何時も数人の同級生を相手に闘っていました。泣き虫でしたが、よく虐めっ子を追い回したものでした。
ですから6年生になった頃には、自然と虐められている下の子供たちを助ける側に回っていました。虐められて泣いている子を慰め、虐めている連中を追い払ったものでした。
小学校では卒業生に下級生が何かを贈る慣わしでしたが、後に先生が話してくれるには、皆が私に贈りたいと言って困ったそうです。そういう私も、女子のスカートめくりなどをしていましたし、結構な腕白だったと思います。
僻地の学校には新採の若い先生が必ず回されて来ました。
ですから私たちの小学校は、校長と教頭と主任というベテランと、新米の若い先生から成っていて、中堅の先生が殆どいませんでした。
若い先生たちは教員用の寄宿舎に住んでいましたが、若い人にとっては辛い勤務だったことでしょう。
若い先生たちは授業時間にギターを弾いて歌ってくれたり、晴天の日には川遊びに出掛けて一緒に遊んでくれたりしました。
冬には卓球に興じたり、雪合戦をしたり、今では考えられないほど先生たちに裁量権が与えられていたのだと思います。今の学校のようにスチームなどありませんから、暖房は石炭ストーブでした。朝一番に教頭先生が廃油の入った缶を下げて、各クラスのストーブを点火して回っていました。しかし、燃料補給と掃除は子供たちの役目でした。
ブリキのバケツを持って、学校の脇にある置き場へ、石炭を取りに行っていました。掃除の時には、まだストーブも熱いし、燃えカスも燻ぶっていましたが私の記憶では誰も火傷をする子供は居なかったと思います。
そうそう当時校長先生がピッカピカの新車に乗って来ました。メタリックブルーのその車は、ブルーバードでした。それが自慢気にグラウンドの隅に駐車してあり、私たちは憧れの眼差しで中を覗き込んでいました。すると校長が「触るな!!」と凄い剣幕で怒鳴りながら走ってきたことがありました。
校長にしたら、鼻をたらした汚いガキンチョに新しい車を汚されたくなかったのでしょう。
兎に角、昔の田舎の学校は平和でのどかでした。