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by levin-ae-111
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マレーの虎・山下泰文大将の意外な一面

 山下泰文は1885年に高知県に生まれ、高等小学校から陸軍幼年学校、そこから陸軍大学校へ進みトップクラスの成績で卒業した。前途洋々たる青年仕官だったが、青年将校たちのクーデター事件『226事件』で決起した将校たちを擁護する発言を繰り返し、朝鮮へ左遷された。その後も各地を転々とし、太平洋戦争開戦の直前に南方方面軍の指令として激戦地で指揮をすることになる。

 その戦場とはマレー半島であった。マレー半島は深いジャングルが延々と1000キロも続き、そのジャングルを抜けても『東洋のジブラルタル』といわれる程の難航不落の地シンガポールが在った。
そのシンガポールは8万のイギリス軍が守備しており、山下の35000の兵では荷が重いと考えられていた。

しかしマレー半島を急進した山下は、35000の兵でマレー半島を制圧する。更に強敵イギリス軍の守備するシンガポールへ迫る。だが僅か70日後にはイギリス軍は降伏、その交渉の席で有名な「イエスかノーか!」と、消沈しているイギリス将校を恫喝したとされている。
しかし、真偽の程は通訳がスムーズに行かず、苛立った山下が通訳に向けて放った言葉であったらしい。

山下の活躍は、派閥を異にする東條にとって面白くなく、山下を戦線から遠ざけてしまう。だが戦局悪化に伴って山下は再びの活躍を期待されて、南方軍司令官に復帰したが、戦局の挽回はついに成らなかった。
山下は日本の降伏後もフイリピンの山岳地帯で持久戦を展開していたが、終戦から20日後に降伏した。

山下はフイリピンで拘束され、モンテンルパ刑務所に収監され、軍事裁判にかけられた。
ルソン島での民間人の犠牲その他の罪を問われ、結局は死刑判決が出て、絞首刑になった。
 その時の山下の遺書には、概ね以下の三点について記されていた。
一、倫理観の再興と道徳的判断力に基づく義務履行。
二、科学技術教育の発展。
三、女性教育水準の向上。

三で山下は、日本人女性は新しい自由と地位を尊び、世界の女性とともに平和の代弁者として団結しなければ成らないと訴えている。最後に『次世代の人間教育への母としての責任』には、母親は子供を産むだけでなく、平和と協調性を愛し、確固たる意志を持った強い人間になるよう子供を育て、正しい道へと導くのが役割と主張し、その一番の道しるべは母の愛だと述べている。

遺書は「これが皆さんの子供を奪った私の最後の言葉であります」と結ばれていたという。
『マレーの虎』と呼ばれた猛将、山下泰文は子供おもいで、女性の権利を重要視するフェミニストの一面を持っていた。
戦場では一見して冷酷で残忍な命令を下そうとも、誰しもが鬼人ではない。山下とて部下に非常な命令を下す時は、心で泣いていたに違いない。心の中で兵の母親に掌を合わせて詫びていたのかも知れない。
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by levin-ae-111 | 2015-01-19 20:08 | Comments(0)