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by levin-ae-111
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あの戦争「富山大空襲」

 昭和20年(1945年)8月1日の未明から2日にかけて、B-29の174機という大編隊が地方都市の富山市を空爆した。この空爆による富山市の被害は市街地の99.5%を焼失(焼失率では全国で最も高い)した。
死者は2737人、負傷者は7900名以上と伝えられ、何れも人口1000人あたりの割合では全国で最も高い死傷率であった。

富山市はそれ以前にも何度か小規模な空爆が行われていたが、全市を壊滅に追い込むほどの大規模なものではなかった。
伏木港を封鎖するための機雷の投下も繰り返され、のべ300個の機雷が富山湾にばら撒かれた。掃海作業中に爆発したり、海へ落すはずの物が陸に落ち、それぞれ20名以上の死者が出たと記録されている。

富山の被害が大きかった理由は、市街地の周辺部から爆撃し、逃げ道を塞いでから中心部へと空爆が行われたことだ。更に神通川に掛かる連隊橋(今は富山大橋)を軍が封鎖し、逃げて来る市民に対し「戻って消火せよ!」などと馬鹿げた命令を出したこと。
その夜、一旦は出された空襲警報が解除されて、人々は安心して眠りについた処へ不意打ちの様に空爆が行われたことなど、富山がとりわけ被害が大きかった原因として挙げられている。

一機の迎撃機も上がらず、一発の対空砲火も無い中を、超重爆の大編隊は悠々と我が郷土の人々の頭上に12000発もの焼夷弾を躊躇いなく投下していった。
それ以前には原爆投下の試験と思われる爆弾が、三度に渡り投下されている。投下したのは、あの悪魔の使いボックスカーだったとされている。
私の祖母は100歳でこの世を去ったが、当時は山間の村に居て富山市の方向の空が真っ赤に燃えているのを目撃したと生前に語ってくれた。

テレビでは当時の爆撃に参加した元米兵にインタビューを行っていた。多くは爆撃が正しかったと語り、被害者と面談しても謝罪することはなかった(昨年の放送)。
今年は二人の元米兵が、任務をこなしただけだと語った。しかし「権力者には逆らえない」という本音も漏らしていた。
戦争とはそういう事だと、私も思う。国の権力が戦争を始めたら、国民は否応なしに巻き込まれるのだ。富山大空襲から70年、アメリカと戦争をした事も知らない若者たちが居る時代、忘れずに伝えるべき歴史だと思う。

*焼夷弾とは、木と紙で作られた日本家屋用に開発された爆弾で、焼夷剤により火災を発生させる目的で使用された。更に空中で多数の子爆弾に分裂するクラスター爆弾だった。
後にベトナム戦争で多様されたナパーム弾は、焼夷弾の進化系兵器で、炸裂すればその炎は700℃にも達したという。
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米軍がまいた空襲予告のビラ。
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by levin-ae-111 | 2015-08-05 19:45 | Comments(0)