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by levin-ae-111
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私の遺言

 佐藤愛子さん著の「私の遺言」という本が、僕の本棚の中央にドンと構えている。
佐藤愛子さんの小説家としての作品を、実は知らないし読んだこともなく、読みたいとも考えていない。だが、彼女のエッセーは別だ。
一時期、とてもハマリ図書館や書店を漁り、探し歩いたものだった。
どこが面白いかって、その軽妙さ。少し皮肉混じりで、人情味に溢れたエッセーは秀逸だ。

「冬子の兵法・愛子の忍法」では、故上坂冬子さんとの書簡での丁々発しやりあう感じの意見の応酬がたまらない。
 さて、そんなエッセーの中でもこの「私の遺言」は特に興味を引くものだ。これまでの彼女の人生の内で、最も苦しかったに違いない「怨霊」との闘いが描いてある。

作品中には先祖からの因縁による霊障との闘いを、長年に渡って続けてきた経緯が悲壮感なく書かれている。それだけに肝の据わった姉さん気質の愛子さんの奮闘が、読者にはいっそう愛おしく感じられる。

彼女は詩人のサトウハチローさんの娘さん。別のエッセーでは、友人であった遠藤周作さんその他の霊とのほのぼのとしたエピーソードも紹介したりしておられる。一種の霊媒体質をお持ちの方のようだ。故に先祖の因縁は他の家族を飛び越えて、彼女の細い双肩にかかってきた。

かなり怪異な現象が頻発するのだが、しかし彼女の作品からは恐怖におののく姿がなぜか見えない。そこがドロドロと不気味な感じになり易い出来事を、サラッと粘着感なく読ませるのだろう。彼女の周囲には霊的能力者が何人か居て、何かと協力している。

問題の原因は江戸時代の松前藩(北海道)の藩士であった佐藤家の先祖まで遡り、当時のアイヌ人の恨みに因るものであった。問題の根は深く、古くからの和人とアイヌ人の確執にまで及んでいたのだった。

和算を知らないアイヌ人に、和人たちは随分とひどい事をしたものらしい。
居酒屋では小さな茶碗に一杯の酒に、鮭数匹もの代価を支払わせていた。それでも酒が欲しくて来店する。足許を見た和人たちは鮭の数を増やしていき、終いには店の前を素通りしただけで料金を請求する様になった。

その他にも不当な取引が相次ぎ、和人に対してアイヌ人が決起する。幾人かの酋長を先頭に反乱したアイヌたちだったが、またしてもだまし討ちで鎮圧されてしまう。松前藩は罪の無い女子供も容赦なく成敗したらしい。
佐藤さんはその怨念を一つ一つ治めていくのだが、その闘いは十数年にも及ぶものだった。
その実は壮絶な闘いを、時には他人事の様に書いている様は尊敬に値する。

 ところで、どうして人は価値観の違う相手と互いに認め合えないのだろう。和人とアイヌ人に限らず、世界中で同様の原因での紛争が今日まで絶えた例がない。
宗教の違い、生活習慣の違い、言語の違い様々なギャップが横たわっているのが現実だが、何故に相手を力でねじ伏せ、支配しようとするのか。

自分の国家や民族に誇りを持つのは重要で大切なことだが、それが相手を見下し蔑むように成ったら、もう誇りやプライドとは呼べない。単に肥大した国家や民族、個人のエゴが存在するのみである。そしてそのギャップを悪用して焚きつける勢力が存在する。

エゴと誇りやフライドは一見して似ている様に感じるが、真実は似て非なるものだ。誇りやプライドを傷つけられたから怒るのではなく、エゴが傷つくから或いは傷つけられる事を恐れるから怒るのである。そこから攻撃性や支配欲が生まれるのではないだろうか。

だが、真実の誇りとかプライドは自他ともに尊重し、認めるところからスタートする。
真実の誇りやプライドは何時から失われ、エゴが取って変わられたのだろう。
エゴが支配するこの世界に、いったい何時になったら誇りやプライドは戻って来るのだろうか。


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by levin-ae-111 | 2010-01-23 10:45 | Comments(0)