落ち武者
2010年 02月 10日
そんな中で尾張の織田信長は早くから浪人を雇い、軍事専門の軍団を造り上げていました。
しかし、それが強いかといえば実は弱かった。
郷土への愛着も無く主家への忠誠心も薄く、金で雇われた兵達はいざと成ったらサッサと逃げ出してしまったからです。しかし悪い点ばかりで無く、勿論のこと強みもありました。普通は農繁期には兵を集められず、戦をする時期も不文律の様に農閑期と決まっていたのでした。自然と敵もその様な時期に相手が攻めて来ると思い込んでいます。
そこへ織田軍が侵攻すれば、敵は何の準備も出来ておらず信長は容易に敵を殲滅できたのです。
信長のそんな軍略以前にも敵の領地に忍び込み、青田刈りを行い米の収量を激減させる戦略も採られたといいます。
戦が打ち続く世の中で、次第に他の大名も兵力の不足を傭兵で補うようになっていきます。
金で雇われた者の中には、武士もいれば百姓崩れの者もいました。江戸時代とは異なり、戦国時代には明確な身分制度が確立していなかったからです。有名な人物では宮本武蔵も若き日に関が原の戦いに、雑兵の一人として参戦していたと伝えられています。
さて、雇われた兵士は勝てば継続して雇ってもらえますし、手柄が認められれば出世も夢ではありませんが、負ければその時点で失業です。
命からがら戦場から離脱し、敵の検索の目をくぐり抜けてひたすら逃亡しなければ成りませんでした。
落ち武者となった兵士が注意しなければ成らないのは、敵の兵士だけではありません。
田畑を戦で荒らされた百姓衆もまた、彼らを付け狙います。百姓衆は戦場から刀や槍、甲冑など金目の物を拾い、敗残兵の首を狙っています。それは敵兵の首を勝った側が何がしかのお金で買い上げていたからです。
耕地を戦で荒らされた怒りも手伝って、百姓衆の落ち武者狩は熾烈を極めます。竹やりや釜で武装し、人数を頼んで落ち武者を狩るのです。
そして基本的には土地勘も百姓衆の方があり、落ち武者の逃亡は困難を極めただろうと予想されます。
全国各地の落ち武者伝説は、平家などの戦国時代以前のものが多く人心もさほど荒廃していなかったと推測されます。戦国時代には人心も荒廃して、多くの名も無き落ち武者が狩られたのでしょう。戦国時代とはそういった厳しく、残酷な時代だったのです。