身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


by levin-ae-111

<   2010年 01月 ( 25 )   > この月の画像一覧

 もう十年近くも前に書き留めたチャネリングメッセージがある。質問に答える形式のものだが、今読んでも新鮮な刺激を感じる。本当にチャネリングなのか?と疑っているが、自分では考えられないクオリティーがある様にも見える。以下にそれを記す。

Q:死とか死後についての君たちの概念を聞かせてほしい。

A:簡潔に述べれば、死は存在しない。少なくとも「創造的視点」からは、そうなる。
 不思議に感じるだろうが、それが真実だ。
 死そのものは物質的な肉体の変化を示す現象だ。物質的なものは物質的法則に従って常に変化している。

Q:それで、肉体が滅びても意識が残るとすれば、その意識はどんな体験をする?

A:その人の意識により千差万別だ。その人の強く信じる、或いは望む世界を体験する。
 地獄のイメージが強ければ地獄を、天国のイメージが強ければ天国を体験するだろう。
意識は創造だから何でも望むものを創り出す。死を意識できない場合は、生前の日常を再現する。


Q:それなら幽霊とかも、そういった意識状態の産物かな?

A:大抵の場合はそうだろう。ただ自意識が強すぎる場合は、自分の意識の殻に閉じ篭って
 しまう。自意識といったけど、強い恨みや執着心なんかがそうだ。

Q:強制的に誰かが迎えに来たりしないのか?(守護霊や指導霊など)

A:あくまでも本人の意識が主体だ。霊界の先輩たちも本人の意思を無視したりしない。

Q:君たちの世界にも、お坊さんは居る?

A:はははっ、そんなもの居ないよ。死は少しだけ次元の違う世界への旅立ちだと、誰もが知っているからね。
死は祝福された現象のひとつだよ。考えてもごらん、君は永遠に死なないから永遠に肉体労働を続けなさいと言われたら?

(とても無理、ぞっとする。)
A:死は肉体からの開放を意味するし、本来の自己への回帰を可能にしてくれる。本来の自   己とは「個人的意識」であり、自分が「創造」の一部である事をよりストレートに認識出来る存在だ。但し、人生を精一杯に生きる事が大切だ。
 そうする事で初めて満足し、自己回帰をスムーズに行う事が出来る。途中で投げ出した のでは駄目だ、何故なら本来の自己はすべてを知っているからだ。

(そうか・・・、自分の真実からは目を背けられないからなぁ)

A:そのとおりだ、だから力いっぱい生きる事が大切なのだ。他人から観ていかに愚かでも、自分がベストを尽くしたと思える人生をおくるべきなのだ。

Q:ところで、最初に死は存在しないと言ったが・・・・

A:そう、意識は「創造」と共に永遠に生き続ける。意識に死はない、私達の本性は意識だからね。

Q:それは唯心論の一種かい?

A:違うね。物質的なものを軽視し、精神的なものを重視している訳ではない。両者は二つで一つだ。どちらが欠けても体験を積み、自己認識を行うには不都合だ。
だから一方が大切で他方が大切で無いとは言えない、どちらも同じに大切なのだ。

と、こんな具合な会話(自分の意識内で)が続いた時期があった。相手は何者かも判らなかったが、少なくとも異次元の存在のように感じた。
後に書籍で調べてみたり自分の体験との照合などをしてみたが、見解の違いは多少あったがどうも大筋では的を得ている様な気がする。

現在でも交流は続いているのだが、どうも自分自身のより進化した部分との会話であるらしい。人は本来、誰でもチャネラーなのだと今は感じている。
今では不意に訪れる閃きや予感は、何処かからの情報をキャッチしているに違いないと思っている。本文では割愛したが、愛情も時には意識の自由を妨げる執着となると指摘している。

*「創造」とは宇宙を生み、全てを創り維持している意識存在。
 僕のチャネリングでは「限りない自己認識を求めて物質世界を創った」と伝えられた。
 その際に「宇宙」は一つではなく、無数に存在するとも教えられた。      
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by levin-ae-111 | 2010-01-31 11:38 | スピリチュアル | Comments(0)
 毎年秋口の9月1・2・3日と我が町では「風の盆」が開催される。町内ごとに踊り手と三味線、胡弓、歌い手が「越中おわら節」を奏でながら町を流す。
常は人口が2万程度の小さな山間の町だが、この時には20万人もの観光客が押し寄せる。
八尾は別名を坂の町として知られていて、坂に沿って間口が狭く奥行きの長い町屋が隙間なく建ち並んでいる。
その家々は古い時代の面影を残し、懐かしい風情をかもし出している。

 夜ともなれば、この日の為に設置された雪洞(ぼんぼり)に灯が入り祭り情緒がより一層の盛り上がりをみせる。
踊り手は男女ともに深すげ笠を被り、男性は法被姿で、女性は浴衣姿で優美に華麗に舞う。それに歌い手と伴奏の三味線と胡弓が付き、町内をゆったりと流す。
情緒的で切ない感じがし、しっとりした「越中おわら」が忘れられず町内の空き家を買い取る人や、旅館に予約を1年も前から入れる人、引越しまでして来た人もいる。

 おわらが行われる3日間は、狭い八尾のメインストリートは立錐の余地も無い程に人で溢れる。観光バスが長蛇の列を連ね、日頃は10分の道のりが1時間以上も架かってしまう程の渋滞を引き起こす。近隣ばかりでなく、遠く関東や東北ナンバーのバスも多い。

 この人気は小説「風の盆恋歌」が出版されてからと聞くが、残念ながら僕はまだ読んでいない。他にもテレビドラマの舞台として、歌謡曲として表現されている。
小説にしても歌やドラマにしても情緒的な雰囲気のせいか、少し暗めのストーリーばかりである。その辺りが町民としては少し不満も残るが、それらが媒体となり「風の盆・越中おわら節」を有名にしたのは間違のいない事実であるだろう。

 おわら節は元々、芸姐さんがお座敷で踊っていたものだ。それを見出し、郷土を代表する民謡にまで育て上げた人物がいる。
川崎順二(かわさきじゅんじ)氏がその人で、彼は私財を投げ打っておわら節を現在の形態にまで整え、育てあげた「おわら」の恩人である。
 
 八尾で医師を開業していた川崎は、全国各地の芸術家たちとも交流があり度々、様々なジャンルのアーティストを八尾に招いていた。おわら節が廃れるのを惜しみ、芸者のお座敷芸から町民が参加する一般の歌と踊りにしたいと考えた。
振り付けは日本舞踊の専門家に委ね、民謡とは思えない優雅な基本系の振り付けを完成させた。
その振り付けは全国舞踊大会などで何度も優勝をし、評価は高かったが相変らず芸者さんたちのお座敷芸の域を出なかった。
町民は芸姐の座敷芸を自分たちが舞うことに躊躇していた。当時は花街と一般人とでは感情的にも隔たりがあり、心理的な抵抗が町民たちには存在したのである。

一向に振り向かない町民に対し、川崎が打った手は意外なものだった。
川崎家は八尾町でも三本の指に入る名家であったが、他の二軒の名家と相談し、各々の家の娘たちにおわらを踊らせたのだった。
これを観た町民たちは「お嬢様たちが踊るのなら」と、こぞって参加する様になったという。

現在では10月にも「月見のおわら」が行われ、以前に比べておわらが踊られる機会が増えている。町内の人々は幼少から「おわら」に親しみ、踊りや演奏の稽古に励む。
町の人々にとって「おわら」は生活の一部であり、人生に無くてはならない物となっている。
彼らにとって「おわら」を舞い唄い、年に3日の二百十日(にひゃくとおか)の風を鎮める祈りを込めた「風の盆」は最も心躍る楽しみな行事なのである。


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by levin-ae-111 | 2010-01-30 09:16 | Comments(0)

特攻隊員の母

 先に日記で紹介した最初の特攻隊「敷島隊」隊長、関行男大尉の母親サカエさんは大切な一人息子を特攻で亡くした。
息子が戦死した当時は「軍神の母」として、持てはやされ注目を浴びた。
関大尉が母と妻に届けたくて従軍カメラマンに頼んで撮った写真が、緊迫感が良いと評判になり、大戦果を伝える記事と共に新聞の一面を飾ったからだ。

人前では気丈に振る舞い、涙も見せられない。どれほどの苦痛だったろうか。
その時は息子のお嫁さんと一緒だったが、終戦後は若いお嫁さんの将来を考えて再婚させている。
戦後は戦中とは打って変り、サカエさんは「息子を特攻に出して死なせた鬼の様な母親」として周囲から言われ無き非難中傷を受けた。
彼女は小学校の用務員として働き続け、昭和28年に用務員室で息を引き取られた。
最後の言葉は「せめて行男の墓を・・・」だったと伝えられている。
どれほどの無念だったろうか、母親が一人息子をどうして進んで特攻などに行かせるだろう。サカエさんも世間に、言いたい事は山ほども有ったに違いない。

 それにしても何故に世間の人は、心無い非難中傷をするのだろうか。戦時中には軍神の母として勝手に持ち上げた人々が、敗戦後は「あんな母親が居るから戦争になった」とか「鬼の様な母親だ」とか手の平を返し態度を一変させた。
死んだ本人と同じ位に辛い、否それ以上に辛いのが他ならぬサカエさんと新妻の満里子さんである。その気持ちが判らない程に想像力が欠如した人々の言動こそが、正に鬼や悪魔なのである。
この様な事例はサカエさんに限らず現代にも多数存在する。
マスコミによりヒーローやヒロインに仕立て上げられ注目を浴びたその人が、チョットした些細な事から一転してヒールにされてしまい逆に非難を浴びるのである。

そんな恥知らずな事を何故できるのか、厚顔無恥を地で行くこれらの行為は人間の最も卑劣で暗愚な部分の現われの様に思う。これに飛びつく民衆の心もまた悪魔のペルソナに支配されている。
現代のニュースはメインに悲惨な事件事故、スキャンダルを据えて流している。心温まるニュースを民衆が求めていないからだ。提供される情報への反応で、マスコミの態度も変わるだろう。
全ては民衆の心が反映されているに過ぎないのだ。
僕たちの一人ひとりが良いニュース、心温まる情報を求めるならばマスコミも現在の様な姿勢では居られないだろう事を考えてみて欲しいものだ。


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by levin-ae-111 | 2010-01-29 06:06 | Comments(0)

職場の漫才トリオ

 僕の会社のTさん、Mくん、Dくんの三人が揃うとたちまち漫才が始まる。
趣味が同じでよく一緒に出掛けるらしい三人は、休憩時間に趣味の話しで盛り上がる。
Tさんが突っ込み、Mくんがボケ、Dくんは突っ込み&合いの手とみごとに役割まで決まっている。

趣味の話しや仕事のことでMくんは大風呂敷を広げる、この子は基本的に何でもそう。そこへTさんの突っ込み、だがMくんは更に笑いながら話しを大きくする。
これが屁理屈にもならず、余りに馬鹿馬鹿しいのだが聞いている方としてはお腹が捩れるくらいに可笑しい。この間など舐めていたのど飴を、笑った拍子に飲み込んでしまい危うく窒息しそうになった。

Tに突っ込まれたMは、次第に話しの辻褄も合わなくなり子供のように自分の主張を繰り返すばかり。だが、決してめげない。
最終的には休憩時間が終わるか、T、Dが呆れて、突っ込まなくなるまで続く。

「Mブランドの○○を売り出せは、絶対に売れる。バカ売れ間違いなしだ」とか、「××に△を付けたら、絶対に凄い。これで大金持ちだ」などと風呂敷を広げるM。
空かさず「そんなもの、誰も買わん」「出来るもんならやってみろ、お前に出来るならもうとっくに売り出されとる」と、Tの突っ込みが炸裂する。
「世界中の人が、競争で買うもん」「違うって、××にはこの機能が無いから△を付けたら
こうなるから凄く便利だし」とM反撃。
するとDが、「××に△を付けたら、××でなくなるよ。バカじゃないの」とか、いう具合。

最近はこのMと一緒に仕事をしている。この間、Mから面白い話しを聞いた。
TがMの居るところで、Kに「こいつは口先だけだから、信用するなよ。こいつの言うことは聴いたらあかん」と言ったとか。
無論、質の悪いジョークだ。

後日、残業を命じられて不満気なKに、Mが珍しく真面目に意見したらしい。
「残業があるだけ幸せだと思え。手取りも増えるし、今のご時勢でありがたいと思わないか。気持ちよく喜んでやれよ」と、告げたらKの反応がまた面白かったと笑っていた。
なんとKは「Tさんから(TはKの上司)Mさんの話しは聞くなと、言われています。ちゃんと上司から、そんな通達が出ています」と真顔で答えたらしい。

流石に聞かされた僕も、しばしボーゼンとなった。
Tの言葉を聞いたその場の雰囲気をKは感じていなかったのか?
それとも、ただMへの反撃として、判っていて言ったのか判然としないが、Mの口調ではどうも前者のようであるらしかった。
まあ、何にせよこの3人の会話を聞いていると、M-1グランプリのプロよりも面白いと感じることが多々ある。

今日も残業でMと一緒になり、こう言ってみた。
「俺は残業なんかしている暇はないんだよなぁ。日記をアップしなきゃあならない。だって、全国の人々が俺の日記を待ちわびているんだからなぁ」
「どこかで聞いたような言い方ですね」とM。
「お前の真似だよ」と僕。
「あっ、やっぱり。Hさんでもそんな言い方するのかと、思って驚いた。な~んだ、僕の真似かぁ」とMは明るく笑った。

こうして毎日続く、辛い残業もMと二人で馬鹿馬鹿しくも楽しく終わるのであった。

お粗末さまでした。m(_ _)m


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by levin-ae-111 | 2010-01-28 05:48 | Comments(0)
手許に興味深いタイトルの本がある。タイトルはズバリ「海を越えた縄文人」だ。
テレビ東京の開局記念番組を書籍化したものだが、内容は学生時代に教えられた縄文時代と縄文人のイメージを覆すものだった。
 まだ読了していないので、何とも言いかねるが非常に好奇心をそそられる内容だ。
縄文時代は約4000年前くらいの時代で、人々は稲作を知らず狩猟採集を糧として生活していたと考えられていた。ところが最近の年代測定の技術的進歩で、次々と定説が覆されている。まず縄文土器の年代だが、驚くべき事に16500年前のものが発見されたというのだ。またポリネシアやミクロネシアで発見された土器片の成分分析を試みた結果、日本の遺跡から出土した土器と同じだとの結論が出たらしい。

その他にも縄文時代の天文観測所らしき遺跡や、スートーンサークル、炭化した米も発見されている。稲作は縄文の晩期から弥生時代にかけて始まったとされていたが、その遥か以前の6000年前の土器に付着しているものが発見されている。
ミクロネシアやポリネシア、メラネシアと日本から離れるにつれて、出土する土器の年代が新しくなっているそうで、仮説によれば縄文人ははるか南米にまで航海の足を伸ばしていたのではないか?としている。

ミクロネシアやメラネシアの島には、日本語と発音も意味も似た言葉が幾つもあるらしいし、祖先は日本から来たと考えている人々もいるらしい。
縄文人は世界の最先端を行っていた人々らしく、16500年もの以前から土器を使用し食べ物を調理していた。この本に依ればヨーロッパに土器が登場したのは7000年前程度だという。その先進性には、驚くばかりだ。

そして謎の海洋民族「ラピタ人」。ニューカレドニアから出土した芸術性に富んだ、皿や壷などの様々な土器は地名にちなんで「ラピタ土器」と命名されている。
このラピタ人は周囲何千キロの範囲の島々に生活圏を広げていた。
日本では縄文晩期にあたるが、その頃は既に漆なども彩色に使用されていたようであり、洗練された芸術性の高い土器も縄文とラピタとの共通する特徴だとしている。ラピタ人は
血統的に縄文人と現地人の混血により、誕生した種族ではないかと予測されている。

縄文人の船といえば、丸太をくり貫いた丸木船を創造してしまうが、どうもオールだけでなく帆を使用した帆走も出来たのではないかと予想されている。彼らは天体観測をしながら海流を読み、大海原へ漕ぎ出していたのではないか。
遺跡からはマグロなど外洋魚の骨も多く出土しているから、航海術は一定のレベルまで発達していたものと予測できる。
現に結構な荷物が積載加納と思われる船が、造船所と考えられる遺跡から出土しているともこの本に記してある。

何故に縄文人は危険を犯してまで外洋へと漕ぎ出したのか?主な理由は気候の寒冷化と考えられている。土器の年代が日本から遠くへ離れるほど新しくなるのは、外から日本へ来たのではなく、日本から外へ拡がって行った証拠ではなかろうか。

まだ途中なのでこの程度しか紹介できないが、この本を読み進むにつれて某古文書の事が頭を過ぎる。
その古文書とは「竹内文書」であり、その内容はかって日本は世界の中心であり、天皇はその子等を世界の5大陸へ「ミット尊」(王)として送り出していた。
その王たちは黄人、赤人、青人、白人、黒人の祖先となった。
そして5色人は日本へ参集し、天皇は天の浮き船に乗り世界を巡幸した、とある。

縄文人は外洋へ帆船で漕ぎ出し、ミクロネシア、ポリネシア、メラネシア、更には南米大陸にまで到達していたとしたら、正に「竹内文書」の世界観そのままではないのか!!
その縄文時代の遥かな記憶が竹内文書を書かせたのか?
興味は尽きないが時間が無いので、読書も儘ならない。出来るだけ早くこれを読了して、また日記に書きたいと思う。


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by levin-ae-111 | 2010-01-27 05:46 | Comments(0)

米騒動「越中女の底力」

 大正7年8月に米価の異常な高騰に業を煮やした主婦を中心とした富山の民衆が、歴史に残る騒動を起した。俗に言う「米騒動」である。
当時の日本は第一次世界大戦の連合国側として参戦しており、戦時下で貿易額も減少していたが戦争が激化し長引くうちに状況は一変する。

参戦といっても国土にダメージの無い日本は、兵站(軍需物資の補給)の拠点として急激に輸出を増やしていった。空前の戦争景気で「戦争成金」や「船成金」と呼ばれる人々が誕生し、日本は負債国から債権国へと短期間の内に経済的な転換を果たした。
しかし、その一方で庶民は著しい物価の高騰に苦しむこととなる。

全ての物価が上昇する中でも主食たる「米」の値段は、2年で2倍以上にも高騰する。原因は需要を見越した商人たちの買占めで、それにつれて味噌、醤油、塩、砂糖、種油などの生活必需品も短期間に著しく高騰したのである。
米騒動の震源地である現在の富山県滑川市(なめりかわ)から魚津市にかけての富山県東部では、漁民が多く季節柄、不漁が続く夏でもあり生活苦に拍車を掛ける状況であった。

大正7年の資料では米一升が24銭5里であったものが、年末には43銭にも値上がりしている。当時、漁民の一日の収入は約50銭で、家族の人数が平均5.7人となっているからとても生活できるレベルの収入ではない。漁師は一日で1升程度の米が必要な重労働で、これでは自分の分しか賄えない。無論、主婦たちも内職に精を出した。
米の積み出しの手伝いや各種工場で働いたりして家計を支えていた。米の積み出しでは60Kgもの米俵を担ぐのだが、そんな辛い仕事にも女性たちは進んで就労していたのだ。その重労働も完全歩合制で、一つ運んでも1銭1理しか貰えず、せいぜい20銭程度の収入にしかならなかった。
子供たちも働き、薬の紙包みや袋張りなどの仕事で家計を助けていた。

米価が2倍以上に高騰し、働いても賃金は上がらず人々の生活はいよいよ苦境の色を増し生存を賭けた女たちの抵抗が始まった。最初は5、6名で手分けして米問屋や米穀商へ涙ながらに懇願して回るという穏やかなものだった。その趣旨は米が移出されるから品薄となり、米価が高騰するのであるから米の移出を中止して、以前のように米を廉価で販売して欲しいと言うものだった。
しかし商人たちの反応は冷たく、横柄で馬鹿にした態度で相手にもしなかった。

女性たちは示し合わせて大人数で嘆願を繰り返すが、商人の態度は相変らずで女性たちの憤慨は増すばかりだった。米の移出は相変らず続き、騒ぎは頻発するようになる。
警察は警戒を強め監視を常時付ける、行政は輸入米を調達しチラシを出して安く売るなどの手立てを講ずるが焼け石に水であった。一度は輸入出来た米も、需要の拡大で富山の注文分は届かない。人々の生活はより困窮し、生きる為により過激行動に出るようになる。

最初は100名程度だったが、遂には2000名にも群集は膨れ上がった。これは漁民の主婦だけでなく他の労働者もこれに加わり老若男女を問わず集りだした為だ。
公務員の一月の給与が20円前後で、米一升が43銭なら一般労働者の賃金(男性でも330日就業・1日10時間労働で1円前後の日給。女性はその半分)を考えても到底生活できるものではない。

人々の請願にも関わらず米移出の船が入港し、人々は遂に実力で阻止に出る。
艀(はしけ) の下に子供を抱いてもぐり艀を使用出来なくし、荷積みを待つ船を退去させたりした。それでも移出の船はやって来る、遂に人々の怒りは爆発してしまう。
この時点で騒ぎの主導は主婦から漁師、一般労働者へと移り参加者は更に拡大する。

警察は騒動の中心と目される人物を相次いで逮捕、拘束する。だが釈放を求める1000名以上もの群衆が警察署へ押しかけ、罵声と共に投石を繰り返し警官たちも手を付けられず傍観するしかなかった。

米問屋や米穀商へも民衆が押し寄せ、押しかけ、打ち壊しへと事態は深刻化する。
しかし騒ぎは次第に沈静化し、米の廉売も始まりこの地方での騒動はほぼ終わった。
だが、騒動は富山市、名古屋市、和歌山県、京都、大阪と飛び火し、急速に全国を席捲し史上かってない大騒動へと発展して行った。
「全国的に同じ状況だったから、自然にそうなったのだと思う」と老婆たちが語ったという。
この騒動は遂に当時の寺内内閣を崩壊させ、原政党内閣の誕生へと繋がっていった。
僅か数日のこの騒動だったが、日本の政治中枢にまで影響を及ぼしたのである。
十月に入り富山県最後の騒動が泊町と宮崎村(ヒスイ海岸として有名)発生した。
そしてこの騒動の最中には滑川普通選挙期制同盟会が発足し「物価の暴貴は生活不安を煽り、社会人心に一大動揺を来たす恐れあり、就中米価の暴騰は国民の心身を害するに甚だし(以下略)」との決議文を原敬総理や農商務省大臣その他へと打電している。
この滑川発の声明は、近代社会における最初の社会問題意識の発現であるだろう。

米騒動は生活苦に喘ぐ家庭の主婦層から発して、全国へと瞬く間に拡大し内閣交代という事態まで発展した。無論、彼女たちの望みはそんな事でなく米の廉価販売だったのであり生活の為に儘ならずとった行動であった。
だがここに大衆の大いなるパワーの存在を見出すことが出来る。パワーは本来的に大衆のものであり、それをいかに削ぐか為政者が常に苦心してきた部分でもある。
先人が苦労して勝ち得た選挙権や婦人参政権なのだが、為政者は更なるトリックで大衆のコントロールを試み続けている。
「大衆は生かさず、殺さず」が彼らの本心だろう。一人ひとりに余りに無力だと思い込ませる事もまた、コントロールの一環である。大正時代の米騒動は単に歴史上のトピックスに過ぎないのではなく、真実民衆の力が存在する事の証なのである。

【参考文献】
著者  :斉藤弥一郎  米騒動
発行者 :斉藤弥一郎遺著刊行会


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by levin-ae-111 | 2010-01-26 05:43 | Comments(2)

 連日の残業で疲れていて、今日は目覚めたら9時を過ぎていた。ボンヤリとした頭で、フラフラと起き出し、窓から外を眺めると素晴らしい快晴だった。
それからmixiに日記をアップし、朝ごはん代わりに御餅を3個食べ、次の日記を書き始めた。
そこへ、会社の後輩からメールで「お風呂へ行きませんか?」の誘いが入った。
了解(^^>と返信して、また日記を書き続け、何とか完成させた。時計を見るともう約束の時間が迫っており、慌てて歯磨き&洗面(笑)&入浴セットを準備した。

外は晴天だが我が家の周囲の雪はうずたかく積まれ、道路も半分程度しか見えていない。
この状況で雪深い奥飛騨へ行くという後輩に少し驚いたが、そこは4WDなので大丈夫かと勝手に納得した。それで少し走ると何と、周囲の雪の状況が我が家の周辺とはまるで違い半分も残っていない。車が次第に山間部へと差し掛かっても、雪は少なくなる一方で安心すると同時に少しヘコンだ(家だけ雪が多い、どうして?)。

 この奥飛騨の温泉施設には昨年末に借りがある。二時間近くも掛けて到着したが、駐車場は満杯。苦労して駐車したが、余りの人の多さに入浴を諦めて別の施設へ変更した経験がある。今日はそのリベンジだと、後輩は息巻いている。
意外に快適なドライブで、現地到着。しかしそこは冬の山道のこと、予想よりもだいぶ時間を食ってしまっていた。

幸いにもそれほど込んではおらず、入浴料500円也を支払ってソソクサと風呂へ。
目的はそこの自慢の露天風呂、6個もの大きな池のような風呂が待っている。お湯はやや白濁していて仄かに硫黄の香りが立ちこめ、湯の華が湯中を漂っている本物の温泉だ。
僕らは最も温度の低い風呂へ浸かり手足を思い切り伸ばす。軽量の僕は身体が浮き、浅目のそこでは具合が悪く、次の風呂へ。そこは丁度良い深さで、腰を下すと肩まで浸かれる。お湯は先ほどより少し熱めで、じっくりと浸かる。

そこへ折り良く、天から白いものが舞い落ち始めた。気温は-3℃、顔に掛かる雪の冷たさと、お湯の心地よい温かさ。湯煙に雪が舞う、絶好の風情に大満足。
結局、僕らは一時間以上も温泉に浸かり、雪見の湯を満喫したのだった。
その後、少し湯あたり(笑) 自販機から500CCの紅茶を買い、一気飲みする。
自販機の飲み物は高いけど、入浴料が他より安いからまあ良いか!

岐阜県飛騨市 奥飛騨温泉郷 平湯の森 入浴料 大人1名 500円
宿泊施設もあり。

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by levin-ae-111 | 2010-01-25 05:42 | Comments(0)

富山の奇祭

 富山の祭りといえば有名なものが幾つかある。五箇山(ごかやま)の「こきりこ祭り、」「麦や節」、富山市八尾(やつお)の「おわら風の盆」、高岡市の「御車山祭り」(みくるま)とそこそこな有名だ。
これらの祭りは自治体により積極的にピーアールされていて、観光客も大勢見物に来県するものだ。
 
一方で、富山市には「お鍬様」と呼ばれる奇祭が細々と一軒の農家だけに継承されている。この「おくわさま」は正確には祭りというよりも、家内行事と呼んだ方が良いかも知れない。その行事は田畑で使用した鍬を座敷に招き、座布団に座らせご膳を出してその家の当主がもてなすというもの。何でも390年も続いているとか。
日頃の鍬の労をねぎらい、お客様と話す様に話しかけながらお酌をしたり食べ物を勧めたりする。今年もその行事が執り行われ、その様子が地元の放送局の短い番組(5分程度)で放映されていた。

それで思ったのだが、そもそも「祭り」とは何だろうか。現代では有名なものは観光資源として、各地域の一大イベントと化している。徳島の阿波踊り、郡上八幡の「郡上おどり」高山市の曳山祭りと例を挙げれば枚挙に暇がない。

本来は神様をお祭りする、素朴な行事だったものが次第に華美となり現代の様に盛大なイベントへと進化したものなのだろう。
現代に限らず「神祭り」は古代の人々にとっても、大きなイベントであったであろう事は想像に難くない。日頃は生きる為の仕事に精を出すが、この日だけは日頃より豪華な食事を神様にお供えし、自分たちもその御相伴にあずかる。楽しみな心躍る行事であったろう。

幕府が政権を担った時代には政治を政(まつりごと)と呼称していた。その言葉の意味は古代から続くアミニズム信仰に、その源流を見出せるような気がする。
自然を支配する神の意思がシャーマンを通じて人々に伝えられ、それが国家の重要事の判断と結びついていた。政という言葉の響きには、古代の政祭一致の名残がある。

自然の全てに神の存在を感じ恐れ敬い、狩猟や農耕の結果を感謝し獲物や作物を神様に捧げたであろう古代の人々の、荒々しくも力強く躍動する生命力をそこに感じる。
いまさら「古代のアミニズムに返れ」などとは言わないが、自然の内に息づく大宇宙の意識を感じ取るように努めることは、現代だからこそ必要と思えてくる。それが人間に内在する本来の生命力を引き出してくれるだろうし、宇宙という巨大な真我へと導いてくれるに違いないと感ずるからだ。

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このブメグと内容はえ同じですが、ブログに未記載の日記もご覧になれます。
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by levin-ae-111 | 2010-01-24 07:58 | Comments(0)

私の遺言

 佐藤愛子さん著の「私の遺言」という本が、僕の本棚の中央にドンと構えている。
佐藤愛子さんの小説家としての作品を、実は知らないし読んだこともなく、読みたいとも考えていない。だが、彼女のエッセーは別だ。
一時期、とてもハマリ図書館や書店を漁り、探し歩いたものだった。
どこが面白いかって、その軽妙さ。少し皮肉混じりで、人情味に溢れたエッセーは秀逸だ。

「冬子の兵法・愛子の忍法」では、故上坂冬子さんとの書簡での丁々発しやりあう感じの意見の応酬がたまらない。
 さて、そんなエッセーの中でもこの「私の遺言」は特に興味を引くものだ。これまでの彼女の人生の内で、最も苦しかったに違いない「怨霊」との闘いが描いてある。

作品中には先祖からの因縁による霊障との闘いを、長年に渡って続けてきた経緯が悲壮感なく書かれている。それだけに肝の据わった姉さん気質の愛子さんの奮闘が、読者にはいっそう愛おしく感じられる。

彼女は詩人のサトウハチローさんの娘さん。別のエッセーでは、友人であった遠藤周作さんその他の霊とのほのぼのとしたエピーソードも紹介したりしておられる。一種の霊媒体質をお持ちの方のようだ。故に先祖の因縁は他の家族を飛び越えて、彼女の細い双肩にかかってきた。

かなり怪異な現象が頻発するのだが、しかし彼女の作品からは恐怖におののく姿がなぜか見えない。そこがドロドロと不気味な感じになり易い出来事を、サラッと粘着感なく読ませるのだろう。彼女の周囲には霊的能力者が何人か居て、何かと協力している。

問題の原因は江戸時代の松前藩(北海道)の藩士であった佐藤家の先祖まで遡り、当時のアイヌ人の恨みに因るものであった。問題の根は深く、古くからの和人とアイヌ人の確執にまで及んでいたのだった。

和算を知らないアイヌ人に、和人たちは随分とひどい事をしたものらしい。
居酒屋では小さな茶碗に一杯の酒に、鮭数匹もの代価を支払わせていた。それでも酒が欲しくて来店する。足許を見た和人たちは鮭の数を増やしていき、終いには店の前を素通りしただけで料金を請求する様になった。

その他にも不当な取引が相次ぎ、和人に対してアイヌ人が決起する。幾人かの酋長を先頭に反乱したアイヌたちだったが、またしてもだまし討ちで鎮圧されてしまう。松前藩は罪の無い女子供も容赦なく成敗したらしい。
佐藤さんはその怨念を一つ一つ治めていくのだが、その闘いは十数年にも及ぶものだった。
その実は壮絶な闘いを、時には他人事の様に書いている様は尊敬に値する。

 ところで、どうして人は価値観の違う相手と互いに認め合えないのだろう。和人とアイヌ人に限らず、世界中で同様の原因での紛争が今日まで絶えた例がない。
宗教の違い、生活習慣の違い、言語の違い様々なギャップが横たわっているのが現実だが、何故に相手を力でねじ伏せ、支配しようとするのか。

自分の国家や民族に誇りを持つのは重要で大切なことだが、それが相手を見下し蔑むように成ったら、もう誇りやプライドとは呼べない。単に肥大した国家や民族、個人のエゴが存在するのみである。そしてそのギャップを悪用して焚きつける勢力が存在する。

エゴと誇りやフライドは一見して似ている様に感じるが、真実は似て非なるものだ。誇りやプライドを傷つけられたから怒るのではなく、エゴが傷つくから或いは傷つけられる事を恐れるから怒るのである。そこから攻撃性や支配欲が生まれるのではないだろうか。

だが、真実の誇りとかプライドは自他ともに尊重し、認めるところからスタートする。
真実の誇りやプライドは何時から失われ、エゴが取って変わられたのだろう。
エゴが支配するこの世界に、いったい何時になったら誇りやプライドは戻って来るのだろうか。


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by levin-ae-111 | 2010-01-23 10:45 | Comments(0)
 戦局がジリ貧の最中、フィリピンに上陸を開始した連合軍に対し、水上艦艇での突撃を画策した日本だがこの時点で適との航空兵力の差が著しく、レイテ湾への突入は困難と考えられていた。
そこで少ない航空兵力をより有効に使い、水上艦艇の突入を援護するために考案されたのが爆弾を抱いて敵艦へ突入する航空特攻だった。
発案者は大西瀧治郎中将で、特攻の生みの親とされている。彼は敗戦後に自決している。

 最初に特攻出撃の指揮官として白羽の矢を立てられたのが、関行男大尉だった。
新婚ホヤホヤだった彼に何故、必死の作戦命令が下ったのか。それは彼が海軍兵学校(現代では防衛大学といったところか)出身のエリートであったからだ。
そのエリートが先陣を切れば、海軍兵学校の面目も立ち他のパイロットたちもそれに続くだろうと軍首脳は見ていたのだった。

 関は従軍記者の取材を受け、妻に自分の写真を送って欲しいと頼んだ。それが皮肉にも特攻を報じる紙面を飾り、戦意高揚のプロパガンダに利用されてしまう事になった。
元々艦上爆撃機のパイロットであった関大尉は、爆撃の技量は抜群だった。関大尉ならば体当たりなどせずとも、爆弾を命中させる事は十分に可能だった。
しかし関一人が爆弾を命中させても戦果は知れており、体当たり攻撃こそが適に心理的なダメージを与え、命中確実と考えられていた。

関が指揮したのは神風(しんぷう)隊と命名された特攻隊の中の敷島隊で、これが実質的に最初の特別攻撃隊(特攻隊)である。
昭和19年10月21日早朝に関行男(23歳)以下、中野磐雄(19歳)、谷暢夫(20歳)永峰肇(19歳)、大黒敏男(20歳)の5名は基地を飛び立った。
が、しかし適を発見できずに帰還。彼ら5名は味方から謂れの無い辱めを受ける。
死ぬのが怖くて逃げ帰ったとして、罵倒を浴びたのである。

結局25日に再び出撃し、5名とも還らぬ人となった。
戦果は適正規空母を撃沈だったが、これは積荷の弾薬や燃料に引火した為に沈没に至ったもので、小さな爆弾を抱いた軽飛行機が突入しても沈没することはまず無い。
しかし首脳部は特攻で大型艦が沈むと思い込み、一度切りとされた特攻がその後も恒常的に実施される契機となってしまう。

関は報道記者に「この攻撃は結局、適を楽にするだろう。何故なら、生きていれば何十回と爆撃できるパイロットが一度で自殺してくれるのだから」と、この様な趣旨の発言をしたという。
彼ら若者が必死の特攻で援護した水上艦隊の突入はどうだったか?
 栗田中将の率いた水上艦艇群はレイテ湾突入を目指し、途中で多大な犠牲を出しながらも突き進んでいた。だが適船団の目前で、突如突入を断念し引き返している。このUターン現代に至るも謎とされる。

どちらにしても日本に勝機は既に無く、連合軍に一撃を与えて講和へと持ち込む腹積もりであったようだ。
半世紀以上も前のこの構想だが、ここでも現代の日本外交と何ら変わらない甘さを感じる。
自分の都合や希望で状況を判断しようとする馬鹿さ加減にはホトホト呆れさせられる。
誰が勝ちゲームを途中で投げ出すだろうか?

この身勝手な希望的観測(殆ど妄想に近い)が、将来ある有望な幾多の若者や国民を無意味な死や塗炭の苦しみへと追いやったのである。
本来ならば、まず相手の出方をあらん限りの情報を元に推測し、分析する。その上でこちらの思惑を達成する手管を考えるべきであろう。

 この太平洋戦争は、始まりから米国の仕掛けに乗ってしまったものだとする意見もある。
朝鮮、ベトナム、イラクまで、彼らは常に同じ手口で相手から仕掛けさせている。
日本は、まんまとそれに乗ってしまった。
当時、米国の世論は戦争反対であり、表向きルーズベルトもヨーロッパの戦争には参加しないと名言していた。ところが真珠湾攻撃で世論は激変する。

これこそが米国の真の狙いであり、ルーズベルトは国民の怒りを背景に対日対独戦の参加を謳いあげ世論を参戦へと纏め上げるのに成功した。
日本軍の真珠湾攻撃を事前に察知したふしがあるが、現地の軍司令部にも伝えていない。
いい加減で嘘がバレバレの大本営発表で戦果を偽るよりも、国民をもペテンに掛けて自ら戦争へ突き進ませる相手の方が、一枚も二枚も上手だ。
現代の政治的駆け引きや経済的なそれにも、この巧緻でずる賢い手法が用いられている。

 考えても詮ないことだが、あの戦争で亡くなった若者たちが存命であれば今の日本とはどう変わっていたのだろうか。賢明で忍耐強く、豪快で繊細な彼の若者たちが存命であればと、つい考えてしまう。
彼らならば、奸智に長けた連中の意図を見破れただろうか?
それとも・・・・
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by levin-ae-111 | 2010-01-22 05:22 | Comments(2)