身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


by levin-ae-111

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1996年から三年連続で、縁あって位山へ出掛ける機会があった。なかでも二度目となった97年の登山は格別に思い出深く、不思議な雰囲気につつまれた登山となった。
位山は太平洋側と日本海側の分水嶺として有名であり、その山腹には巨石が散在していることでも知られている。古くは酒井勝軍がピラミッドと断定したとされ、天皇家へ献上される一位の木はこの位山から採取されると聞く。
海抜は1529メートルあり、林道および登山道を経て山頂へ続くコースはハイキングに適している。山頂に設けられた休憩用の高床式の展望台からは、遠く北アルプスや中央アルプスの峰々が眺望できる。私たち一行はお盆過ぎに訪れたのだが、とても良い体験をさせて頂くことになった。

私と二人の友人、MさんとKさんの三人はその日早朝から車に乗り込み位山を目指して国道41号線を高山方面へ向かった。ハンドルを握るのはMさん、私は助手席で後席のKさんと神通川の渓谷の景色を眺めたり、互いの不思議体験を話し合ったりしていた。位山については某霊能力者が本に書かれているのを読み興味を持った。そんな訳で95年にはMさんと二人で訪れていた。
出発から約二時間後、Mさんが突然に車を脇道に乗り入れたので何事かと驚いたが、そこは飛騨一ノ宮『水(み)無神社(なしじんじゃ)』だった。「お参りしていこう」と、Mさん。立派な大鳥居の横に車を止め、下車すると途端にムッとする暑気。八月も下旬だというのにまだまだ暑い。神社や神様について無知な私は「ここは位山を御神体にしているのかなぁ」などと思いながら二人の友人の後に続いた。まず私たちは正面の大鳥居をくぐったところで驚いた。そこには車を降りた時から感じていた暑気がまるでない。境内は杉の巨木に囲まれているが特に日陰というわけでもない。だがまるで冷房の効いた室内にいるような涼しさだ。今にして考えれば、この時から既に不思議な現象は始まっていたのだった。

私たちは一礼して石畳の参道を歩き、境内のお手水(ちょうず)で手と口を清めお賽銭を投げてお参りした。私は神社参拝の礼儀には無知なので、ともかく二拍手二礼して合掌し、「これから位山へ行ってきます。宜しくお願いします」と祈った。そこで思いも掛けず誰かの返事があった。返事といっても無論、耳に聞こえる声 ではない。その声は頭の中に直接流れ込んできた。
「そうか、そうか。行ってこい、行ってこい。道中守護してやるから、安心して行ってこい」中年男性と思しき声で、とても嬉しそうに返答があった。
まさか!神様の返事?驚きながらも嬉しくなった。恐怖心は微塵もなく、無礼を承知でしばらく境内を徘徊し、写真撮影をしてから一礼して再び大鳥居をくぐり外に出た。またもや酷い蒸し暑さを感じ、境内の涼しさはまさに神域ならではと実感させられた。

車に戻り不思議な涼しさについて語り合ううちに林道の入り口に到着した。冬場にはスキー場となるそこは食堂や売店、ロッジが数棟あるが夏場は閉鎖されていて閑散としている。林道は未舗装で整備が悪く、所々に車を傷つけかねない大きな凸凹(おうとつ)が口をあけている。Mさんは狭くギャップの多い林道を慎重に車を進めていく。それでも車は大きく揺れ、登山口までまだ数キロあったが道幅の広い場所に駐車し歩くことにした。私たち三人は急坂の砂利道をテクテクと歩きだした。
当時Mさんと私は三十代後半で、Kさんは五十代だった。標高が上がっても意外に気温が高く、風も弱く湿度が高くて足許も悪い。
果てしない砂(じゃ)利(り)の急坂が続いている。さして重くもない荷物が酷く重く感じる。

セミ時雨(しぐれ)の中をしばらく頑張って歩いた後の最初の休憩で私たちは周囲の異様な気配に気がついた。風も無いのに周囲の山々がざわめき、私たちを追ってくる。それはまるで大勢の人々が一緒にゾロゾと同道している感じで、しかも皆が楽しく談笑しながら歩いている気配が伝わってくる。男も女も老人も子供もいる。元気な子供たちは私たちの周囲を走り回っている気配もする。そのざわめきが私たちのスピードと歩調を合わせて林道の周囲の山に常にある。しかし怖いとか不気味な感じはせず、暖かい視線が私たちに注がれているのを感じとても歓迎されている気がする。集落の人々が総出で出迎えてくれている、そんな感激の気分に浸りながらも暑さで体力は次第に消耗し日ごろの運動不足が悔やまれた。

「まだ、遠いのかなぁ」Kさんが汗を拭いながら呟く。予想以上に辛い道のりに挫けそうになったとき、また不思議な現象が起こった。疲れた私たちを励ますように何処(どこ)からか良い香が漂ってきた。上質の御香を焚いたような甘く上品な香は私たちに力を与えてくれた。「神社の匂(にお)いだ、もう登山口は近いのね」とKさん。「そうだね、もうすぐだ」と、Mさんと私。
でも考えてみれば登山口の神社は香がするような建物ではないし、木造の建物があったとしてもこんな所まで木の香が届くはずもない。当然、登山口まではまだ遠く更に一時間近くも歩いた。その間に二度もあの『神社の匂い』で神様に励まされた。私たちを励まし導く『神社の匂い』と、暖かい視線を感じる大勢の人の気配に後押しされて何とか林道の終点、つまり位山の登山口にようやくたどり着くことができた。しかしこれからが勝負だ、より険しい登山道が待っている。
 
登山口には金属製の鳥居と不気味な人面をした龍の像が向かいあう形で一(いっ)対(つい)、球形の祠(ほこら)と記念碑が建立されている。この山には不釣合いに感じられるそれらを横目に見ながら、私たちは細く急勾配の続く登山道へ踏み入った。一緒に来てくれた大勢の人たちの気配は位山に入ることなく、周囲の山にあって私たちを見守っている。
山頂までの道中には様々な形の巨石が急斜面の山肌にへばり付くように点在していて、それらの一つ一つには注連縄(しめなわ)と名前を記した看板が着けられている。しかしどれも朽ち果てていて、岩の名前も読めない状態になったものが殆どだった。山頂近くには『天の岩戸』と命名されている巨石構造物が存在していて、やはり注連縄が張ってあり、榊のお供えと賽銭箱が設置されていた。そこからの道は平坦で気温も低くなり、快適な登山となった。そしてついに山頂へ到着。山頂には標準点と木造高床式の展望台が設けてあり、私たちは景色を眺めたり、写真撮影をしたり涼風に涼んだりと大いに楽しんだ。
 
登山道とは反対側へ下った場所に水汲み場がある。しばらく頂上の眺望を楽しんだ後で、私たちはそこを目指した。心配されたKさんの体調も万全で美味しい山の清水を味わった。それから下山し、登山口の傍らにある休憩所で食事を摂った。周囲の山は相変らずザワザワしていたが、今は風もあり気温も下がっていて心地よい涼風が吹き抜けている。
Kさんは「私たちが三人とも子供で、そこらを走り回って遊んでいるイメージが見えたわ。前世はきっとここに居たのね」と言っていた。私はそこまでは感じなかったが、何だか久々に里帰りをしたような懐かしい感覚を強く覚えていた。
 
  時間も押し迫り、いよいよ下山を始めた。後ろ髪を引かれるような感情がわきあがり、「帰りたくない」というのが私たちの本音だった。私たちの足取りに合わせ、人々の気配も山を降りてくる。空には四神『青龍』『白虎』『朱雀』『玄武』に似た形の雲が現れては消えていった。林道を下るにつれて周囲の人々の気配は次第に薄れていく。人々があるところで立ち止まり皆が手を振って見送ってくれている。子供たちはまだ一緒に降りてくるが、その気配もついには消えた。何と不思議で嬉しい体験だったことか、水無神社の神様が約束されたとおりに私たちの道中を守護してくださったのだろう。私たちは去りがたい感情を胸に位山を後にしたのだった。

この話にはまだおまけがある。帰ってダイニングで一服していた私を見た母親と妹が私の「肩に何か憑いている」と言い出した。私は自分の生命エネルギーが拡大したのだろうと思った。というのも、日ごろから運動不足の私が突然十数キロ歩いても筋肉痛に成らなかった。私だけでなく、MさんKさんも全く筋肉痛とは無縁だった。Kさんにいたっては日ごろから話をするときにも息苦しそうにする人だ。それが元気に山を登り、筋肉痛にも成らない。本当に神様のご配慮をいただいたに違いないと実感した。

そして撮影した写真にも異変があった。参道から移した拝殿の写真は屋根の上あたりまで赤くなっていた。また山頂からの写真も白昼にも拘らず全体に夕焼けを写したように赤みがかっていた。これらの現象は不思議ではあるが、不気味ではない。しかし水無神社での嬉しそうな神様のお返事をはじめ道中に感じた好意的な数々の現象は解せない。
 どうして氏子でもなく、日ごろから参拝もしない私たちに神様がご好意を寄せてくださったのか。私たち三人が特別に神様に好かれる要素を持っていたとは考えられない。少し強引かも知れないが、ここに一つの手掛かりがある。
 
それは『飛騨(ひだ)福来(ふくらい)心理(しんり)学(がく)研究所(けんきゅうしょ)』を主催しておられた山本(やまもと)建造(けんぞう)先生(故人)の説である。
それによると日本列島で最初に隆起した土地は乗(のり)鞍(くら)岳(だけ)周辺であったとされ、人類も発生し文明を築くまでに発達した。人々は上方(うわかた)様(さま)と呼ばれた長(おさ)を中心に平和な生活を営んでいた。水に映る太陽を信仰の対象としており、水に映る太陽を皆で囲んで瞑想していた。その儀式を『日抱(ひだ)き』と呼んだ。それが飛騨の地名の由来であると謂(い)われているとされた。気候の寒冷化とともに人々は乗鞍岳周辺から現在の飛騨(ひだ)久々野(くぐの)周辺へ移住して(水無神社の所在地付近)都とした。平穏に生活していたが、やがて大陸からの野蛮人の侵入に備えて各地へ人々を配して防備に当たらせた。国民の中心が上方様であり後の天皇家にあたる家系である。つまり上方様は日本国民の親のような存在である。その御霊(みたま)が数千年を経た現在でも水無神社に鎮座ましますとしたらどうだろうか。遠方からの国民の訪問を喜ばれ、偶然にも私が御霊の思念を受信できたのだと考えられないか。故に御霊のご配慮を感じられ先に記したような素晴らしい位山登山となったのだと思う。
古(いにしえ)の都に未だに鎮座される親神様は今も全国民を見守ってくださっている。ありがたい親のご好意を戴いた心温まる登山であった。
以上
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by levin-ae-111 | 2010-02-28 18:46 | スピリチュアル | Comments(4)

今度はパラリンピック


バンクーバー五輪も終盤を迎え、各競技の最終結果が続々と伝えられている。
悲喜こもごもだが、健常者の五輪から障害を持つ人々の祭典へと競技は引き継がれる。
不幸にして障害を抱えた人々が、その障害にも関わらず素晴らしいアスリートの顔を見せてくれる。その表情にはハンデを抱えている陰りは微塵も無い。

競技会場は健常者の使用したものと同じで、種目によっては危険度も迫力も健常者のそれと変わらない、いやそれ以上に凄い迫力だ。
チェアスキーなどは、そのバランス感覚は通常のスキー以上に難しい様に見えるし、姿勢が低い分、スピード感もより大きいに違いない。

実はパラリンピックでは、日本勢はけっこう強い。夏冬どちらの大会でも、沢山のメダルを獲得している。それにも関わらず、テレビの中継も僅かでメダリストが注目を集める度合いも通常の五輪よりも少ない。
国が選手に行う援助も薄いもので、多くの選手は金銭的な気苦労を強いられると聴く。

何故にこうも異なった対応なのか?彼ら彼女らも立派な国の代表である。
しかも強いとなれば、応援や支援に力が入ってしかるべきだと思うのだが、どうしてそう成らないのだろう。国を挙げて応援し、日本人のメダリストが生まれる度にマスコミがお祭り騒ぎをしても良いではないか。
連日、耳にタコが出来るほど同じニュースを流し続けても良いではないか。

そうならない理由の一つには、根底に障害者スポーツに対する軽視が存在しているからではないだろうか。記録が出てもメダルを獲得しても、世間では大きく報道する価値が低いと思っているようだ。
私はそれをとても変に思う。ハンデを抱えていても一般人には出来ない妙技を披露してくれる選手たちは、各々が立派な一流のアスリートである事に何ら変わりはない。
アスリートをアスリートとして扱う事に何の違いがあるのか、健常者のアスリートと同様にハードな練習を経て世界レベルに登りつめた人々の努力や勇気に隔たりは無い。
ハンデを克服して頑張るアスリートたちに、心からの拍手を送りたい。
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by levin-ae-111 | 2010-02-28 08:16 | Comments(0)

飛燕の舞

 精神世界に興味を抱くずっと以前に、読んだ戦記物の本の中に飛燕を駆って戦ったパイロットの著書があった。もう探しても無いが、その本は僕の宝物のひとつだった。
田形竹男元陸軍准尉の著書だったが、タイトルは忘れてしまった。

陸軍三式戦闘機「飛燕」
日本機にしては珍しい液冷エンジンを搭載し、速度、上昇力にも優れた戦闘機とのイメージがある。美しいフォルムは零戦とは趣を異にし、力強さをも感じさせる。
エンジンはダイムラーベンツのライセンス製品だったが、トラブルが多く後には空冷エンジンに換装して五式戦闘機の母体となった。

肝心の本の内容だが、飛行時間1000時間を越えるベテランの田形准尉と僚機の台湾上空でのグラマンとのドックファイトの記録である。
現在と違い一度の飛行時間が長くても6時間程度の当時、1000時間を飛ぶのは容易なことではない。田形准尉は名実ともにベテラン搭乗員の域に達した達人だった。

僚機を率いての飛行中に台湾上空で遭遇したのは、二十数機のF6Fだった。それから地獄のドッグファイトを30分以上も続け、数機を撃墜して不時着し生き延びた。
気に成っていた僚機も同様に逃げ延びて不時着し、二人とも生還したという体験手記だった。
周囲の敵を把握し、常に冷静な判断と抜群の技量を駆使し、群がる敵を振り切って生還するのは尋常な技ではない。
喉は渇き、唾液も枯れ、手足は痺れ度重なる強烈なGフォースで意識も朦朧となる。
常に敵の攻勢に晒される体力の限りを尽くしての戦闘で、二人の日本人パイロットは見事にその実力を発揮したし、二人の愛機「飛燕」もそれに応え性能をフルに発揮した。
一機撃墜する度に敵はエキサイトし、益々追撃に躍起になる。

僚機とのコンビネーションが取れたのは最初のうちだけで、ドッグファイトの大半は各々が単機で敵をかわし僅かな隙に反撃するといった繰り返しだった。イメージ的には何だか日本の時代劇に似ていると感じ、一人で大勢の敵を切り倒す殺陣のシーンを思い出したものだ。
僕も以前から寝入り端に、闇の中で全身に衝撃を感じ振り回される感覚に苦しんだのだが、これがどうもGフォースの感覚らしいと気づくまで暫くかかった。それだけに現実の空中戦でのGフォースはどれほど辛いか、予想もつかない。

生還し部下も無事と判り安堵した田形准尉だが、畑に墜落した敵機のパイロットの亡骸を荼毘に臥し生命の儚さをしみじみと感じた。戦争だから仕方がないが、さっきまで生きていたアメリカ青年の亡骸は、田形准尉に少なからず衝撃を与えた。
空で命のやり取りをしていても、亡骸を見るまでは実感が無かったのだろう。

現在の戦争は相手の亡骸さえ見えない。湾岸戦争以来流される戦闘の模様は、ピンポイントで目標を破壊する爆弾やミサイルの映像ばかりだ。それらは無機的で、まるでTVゲームの様であり現実感に乏しい。
こんな戦争の見せ方も人々の感覚を麻痺させる意図があり、一方的に仕掛けたアメリカの正当性をアピールするプロパガンダに違いない。
画面の中で炸裂する爆発の下には、抵抗できない人々の死がある事を忘れてはならない。
私達は想像力を逞しくし、この例に見られる様な政治ショーに隠された事実を見極める努力をする必要があるだろう。
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by levin-ae-111 | 2010-02-27 05:42 | Comments(0)
第二次大戦の最中、ドイツ第三帝国からの迫害を逃れる為にユダヤ人がリトアニア日本領事館へビザの発給を求めて殺到した。領事代理であった外交官、杉原地畝 (すぎはらちうね)氏は本国からの訓告を無視して手書きのビザを時間の許す限り発行し続けた。
帰国後は外務省を解雇され、裏切り者と白眼視されて不遇な晩年を過ごした。

杉原さんが発行されたビザで逃げ延びる事ができたユダヤの人々の内では、今も彼への感謝が絶えない。数年前に放映されたドキュメントでは、今や曽祖父母となった人々が杉原氏のお陰で、こんなに家族が増えたと喜び感謝する姿が在った。

さて新聞では、杉原氏のビザを手にシベリア経由で脱出した人々に関連する新事実が発見されたという記事があった。
それは元JTB職員の大迫辰雄さんの遺品から、ユダヤ人女性6名、男性1名の顔写真が発見されたというもの。大迫さんは戦中、ウラジオストックと福井県敦賀市と結ぶ輸送船「天草丸」に乗り組んで二十数回も往復したという。

写真の裏には、ユダヤ人から大迫さんへ宛てた感謝のメッセージが記されていた。
「素敵な日本人へ」「私を覚えていて」などの言葉が、ポーランド語やブルガリア語などで記されているという。関係者によれば、大迫さんは真面目な人柄で親身になって面倒をみたのだろうとの事。
関係先では写真の人々を探し出したいとし、杉原氏と同様に陰で力を尽くした大迫さんの偉業を紹介したいとしている。

それにしても杉原さんだけでなく、日本人がここでも素晴らしい人間愛を発揮していた事実が誇らしく嬉しい。当時の日本はドイツと同盟関係にあり、ユダヤ人に対しても好意的な筈はなかった。杉原氏が外務省を解雇されたのも、同盟国たるドイツに協力する外務省の指示に反した行いをしたからだった。
大迫氏も杉原氏ほどではなくとも、ユダヤ人に親切にするには勇気が要ったに違いない。そう感じるのは、現代の我々が察知できない独特の雰囲気が存在しただろうと想うからだ。

何もかもが殺伐としていた当時、国命に反して「命のビザ」を発行し続けた男、それを受け継いで黙々と脱出を援助した男が居た。見事な命のリレーが日本人により成された事実は、未来永劫まで輝きを失うことは無い。そして二人の男たちは戦後も自らこの偉業を口にすること無く逝ってしまった。これが本来の日本人の精神的な高潔さなのであろうか。
無論、大迫氏以外にも多くの日本人が彼らの脱出行を援助したに違いない。
脱出を援助した総ての人々の魂には、永久に消えない金メダルが輝いていることだろう。
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by levin-ae-111 | 2010-02-26 05:43 | Comments(0)

オリンピックに想う

 冬のオリンピック・バンクーバー大会が華やかに開会し、世界中が競技の勝敗に注目している。テレビでも各国のメダルが何個とか、国旗の後ろに表示したボードを映す。
日本期待のフィギアスケートの女子SP(ショートプログラム)が今日から始まり、日本の三人は上位につけている。結果はどうあろうとも、オリンピックに参加した総ての選手たちに拍手を送りたい。

昨日(2/23)に荒川静香さんとイリーナ・スルツカヤさんのドキュメントが放映されていました。初めてのオリンピックの時、荒川さんに送られた様々な勝手なアドバイスで方向性が見えなく成った。まだ若かった彼女に周囲の関係者が勝手な助言を各々に繰り返した。
中には正反対の助言もあった。そんな中で荒川さんはオリンピックに出場し、13位と敗退した。それ以来、荒川さんはオリンピックを目指さなくなった。

荒川さんが本当に目指したのは、アイスショーの世界だった。楽しく滑る、そこには勝敗は無くお客さんとの一体感がある。だが競技で上位の選手しかアイスショーには呼んで貰えない。そこで実績作りの為に競技を続けた。他にもコーチを変えたり、採点ルールの変更に翻弄されながらも競技を続けた。
その結果がトリノ五輪での日本で唯一のメダル、しかも金メダルへと繋がった。現在は念願のアイスショーでお客さんを楽しませ、自らも楽しみながら滑っている。

一方のスルツカヤさん、彼女の悲願は五輪の金メダリストに成ること。ソルトレイクではそのチャンスが在ったが、疑惑の採点で金メダルを逃した。最高の演技をしたにも関わらず、優勝は地元アメリカの選手だった。
その出来事以来、スルツカヤさんは状況により採点が左右されると思い始めた。
そんな事もあり今度こそ、と臨んだトリノだった。
しかしその時は他種目の金メダルは総てロシア勢で占められており、スルツカヤさんの脳裏には「これ以上はロシアに金メダルをやりたくない」とジャッジは考えるだろうとの想いが過ぎったという。

そして・・・彼女の前で素晴らしい演技をした荒川静香選手は、パーソナルベストをたたき出しトップに居た。スルツカヤさんは最終滑走だった。
彼女らしからぬミスをして2位から3位に落ち、悲願の金メダルもまた彼女の手をすり抜けて行ってしまった。
演技以外の要素がスルツカヤさんを苦しめ、荒川さんをして五輪には出たくないと思わせてしまった。そこには選手の情熱を萎えさせてしまう様な、何かがある。
勝敗に拘る周囲の人々や加熱する報道が、無用のプレッシャーとなり選手に襲い掛かっているだろう事は想像に難くない。
いうまでもなく、最も努力精進をしているのは選手自身だ。その選手の努力とは別の処で蠢く不気味な何か。それはナショニリズムか、商業主義の果てしない欲望か。

アイスダンスやフイギアなどは勝負よりも、その華麗な舞いを楽しむべきだと思う。タイムなど厳格な差が認められない競技は、どうしても採点に公平を欠く傾向があるのではないか。僕としては採点する人間が周囲の雰囲気に流される事は絶対にないのか、選手の好き嫌いやナショナリズムによる影響を完全に排除できるのか、などの疑問が尽きない。
五輪が勝負に左右されず、真に努力した選手達の技を世界の人々に披露する場になればよいと想うのは僕だけだろうか。

勝敗の無い五輪は詰まらない、そう思われるだろうが誰かが負けて泣く場面を見なくて済む。勝負のプレッシャーで実力を出し切れずに終わり、落胆する選手を見なくて済む。
勝負を度外視すれば、より実力も出易いというものだ。選手の満足した満面の笑みが見たいと思いませんか。
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by levin-ae-111 | 2010-02-25 05:39 | Comments(0)
 江戸時代のこと、加賀藩の江戸屋敷へと雪を運ぶ飛脚たちが存在した。加賀藩では真夏まで氷室で保管されていた雪を将軍に献上する慣わしが在ったらしい。
その雪を遠く加賀から江戸へと運ぶのが「加賀飛脚」たちの使命だった。
これは相当に辛い仕事で、四人が一組でチームを結成し事に当たる。途中の宿場で次のチームに荷物を渡し、駅伝のタスキよろしく江戸まで走り抜けたのだ。

これはドラマであるから、途中に様々なアクシデントが起こった。例によってレポートは要潤さん。これまた例によってリアルな設定で、飛脚たちのふんどし姿や汚れた尻、ほとばしる汗で黒光りする顔、乱れた髪など真に迫っている。ただ林道を使用したと思われる山中の街道筋の風景は一部、いただけなかった。

さて、ドラマはベテランの親方とこれがデビューの若者を中心に描かれていた。この仕事を成し遂げて一人前の飛脚を目指す若者。それを暖かく支援する親方だが、新参者の加入に不満を漏らす中堅の先輩連中は渋い表情だ。
荷物は前述のとおり「氷室の氷(雪)」だが、最初は約10Kg程度を丁寧に箱詰めし何重にも覆って出発する。

行き倒れの死体があったり山賊に氷を奪われ、隠れ家を突き止めてこれを急襲して取り戻したりと、ドラマチックな展開だった。
そして次のチームが待つ飛脚宿へ辿り着くのだが、ここでも大問題が出来する。次のチームのメンバーが酔いつぶれている者や、何処かへ出たまま帰って来ない者がいて全員が揃っていない。

親方同士で悶着の末、最初のチームの志願者と後のチームのメンバーとの混成で輸送を続けることに決した。これが飛脚デビューの若者は「江戸に行ってみたい」と志願し、二人の親方と若者、後のチームのメンバーが一人加わり出発した。
江戸までもう少しの所で、若者が足を捻挫した。親方は迷わず運んでいた氷を取り出し、手ぬぐいに巻き患部に当ててやる。この時点で氷は1Kgにも満たない量に激減している。そこでリーダーは更なる意外な行動に出る。治療に使った分の残りも取り出し、道端の泥で汚しを入れたのだ。

「えっ、どうしてですか」と、要潤リポーター。
「綺麗なままだと、来年の連中が困るだろう。これも俺達の知恵なんだよ」と親方。
庶民の知恵は逞しいものである。氷室の雪など見たことも無い江戸詰めの武士や、幕腑の役人連中は「そんなものだ」と思っているから、問題は無いのだろう。
所詮は将軍が一瞥もくれないかも知れない無意味な儀礼の一つなのだが、加賀藩にとってはそれなりに重要な儀式であったのだろう。
いつの世も政治的な配慮の為に庶民が苦労させられる。政治や行政に携わる人々には、是非とも賢明であって欲しいものだ。
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by levin-ae-111 | 2010-02-24 05:24 | Comments(0)

内なる神との対話

今夜は浴槽にドップリと首まで浸かり、様々な事を考えていた。とても重要な懸案があり、それについて考えを巡らせていた時「あっ、聞いてみれば良いじゃん」と思った。
それで「○×の件について、どうでしょうか」と、何時もご贔屓にして貰っている神様に質問した。

Q:例の件ですけど、どうでしょうか?

A:大丈夫ですよ、私が行くからね。任せておきなさい。

質問に対する答はこれだけだったが、以前に上手く行かなかった理由を尋ねた時に意外な内容へと発展して少し驚いた。それでまた人間とは意識とは何と不思議なものかと、今更ながらに実感させられた。

Q:この前はどうして上手く行かなかったのでしょうか?

A:前回は貴方の集中が今ひとつだった。
(確かにそうでした。)
貴方の集中が私達に力を与える。貴方の内に私達が在り、私達の内に貴方が居る。
貴方の外の世界に私達は祭られているが、私達の世界では貴方が祭られている。
その真意は貴方の内なる世界に私達が居り、私達の内なる世界に貴方が居るからだ。
私達は互いに己の内に相手を見出すのであり、我々の関係はそれ以上でもそれ以下
でもないのだ。

これはどういう事だろうか?この時、僕は手力男の命様に話し掛けていた。それがこの内容にまで発展し、混乱してしまいそうだ。
宇宙創造の意識は無論、総てを内包しているし、この意識を離れては何者も存在が不可能な事は分かっている。その意味では至極当然なのだが、それにしても飛躍しすぎの感がする。内なる神との会話なのだろうか?
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by levin-ae-111 | 2010-02-23 05:38 | Comments(0)

走れ駆逐艦

 連合艦隊の艦種で最も活躍したのは「駆逐艦」だと思う。1000トン未満のものから最大でも3500トン前後の小兵ながら、船団や艦隊護衛に大戦末期には物資輸送や兵員の撤退など太平洋戦争全般に渡って活躍している。海軍の作戦全般に投入された駆逐艦は、開戦前には175隻を数えたが、最終的には36隻にまで激減し、その消失率は78%と凄まじい。消失率だけなら他にもっと高い艦種も存在するが、絶対数が圧倒的に多い駆逐艦の被害の比ではない。
駆逐艦の兵装は主砲、機関銃、魚雷、爆雷だったが何といっても、そのスピードが最も重宝された理由のひとつだろう。高速で小回りが利き、最高で30ノット以上もの速度が出せた。潜水艦の水中速度6~9ノット程度と比較すると、駆逐艦がいかに高速だったかが判る。

この駆逐艦だが実は海軍では「軍艦」とは呼ばれず、単に艦艇として区分されていた。つまり掃海艇や水雷艇などの小型艦艇と同様の扱いだった。従って艦首には菊の御紋を戴かず、艦長も「駆逐艦長」と呼ばれ、軍艦の艦長とは区別されていた。
この様な扱いを受けていた駆逐艦だが、太平洋戦争全般に渡って最も多くの闘いに参加し補助艦艇としての役割に徹した。戦艦大和に最後まで付き従ったのも駆逐艦で、漂流する兵士を生き残った駆逐艦が決死の救助を行った。

その中でも最高の武運艦として有名な「雪風」(宇宙戦艦ヤマトで古代進の兄が指揮していたのと同名)は、戦後も大切にされ台湾海軍の艦艇として活躍した。引渡しの際に、元の乗員たちが隅々までピカピカにして引き渡した。台湾側も雪風の艦暦を知っており、敬意を持って受け取り大切に使用した。退役後に返還をしようとした矢先、嵐で沈没し舵輪だけが日本に返還された。あの秀麗な艦が失われたことは非常に残念だ。

駆逐艦はその高速と引き換えに、防御機能を捨てていた。スピードを得るために幅を狭くし全長を長くしたスタイルは、航行の安全性に悪影響を及ぼす場合もあった。しかも装甲は施されておらず、僅か10mm程度の鋼板で船体が造られていた。
これは小型爆弾の命中でも致命傷となる程度の貧弱なもので、魚雷などが命中すれば一瞬で沈没してしまう脆弱な造りの船体だった。また高速ゆえに船体内部空間の半分近くをエンジンルームが占めており、騒音や振動、揺れが激しく居住性も悪かった。

僕が太平洋戦争に参加した艦艇の内で駆逐艦を最も好きな理由は、スタイルのスマートさや勇猛さ以上に乗員たちの心意気や一体感にある。
駆逐艦や潜水艦などの小型艦艇では、戦艦や空母には見られない独特の人間関係が在ったようなのだ。
海軍は陸軍と比べ階級の上下による人間関係の隔たりが比較的小さかったらしいが、それでも大型艦では階級による差別が厳然と存在し、風紀についても厳しかった。
士官室(ガンルーム)には、世話をする当番兵以外の下士官兵の出入りは禁じられていたし、敬礼がだらしない等と言って因縁をつけての暴力も存在した。

その点、駆逐艦では員数が少ないことや船が狭いこともあり、より人間臭い関係が存在したらしい。闘いとなれば全員が結束し、手持ち無沙汰な者など誰もいなかった。
一発でも被弾すれば沈没する確率の高い駆逐艦では、全員が運命共同体でありその事が駆逐艦独特の雰囲気をかもし出していたらしい。

前述のように簡単に沈んでしまう駆逐艦の乗員たちは、意外な事に決戦前夜となっても特別に緊張した風も無く淡々としていたという。一方で戦艦などでは緊張でピリピリした空気が張り詰め、覚悟を決める為に酒盛りなどが行われたらしい。
駆逐艦乗りには大型艦の乗員には無い独特の誇りがあり、それが彼らをして決戦を目前にしても動じない強さに繋がっていた。
駆逐艦乗りにとっては遠洋航海そのものが命懸けであり、常に肝を据えている必要があったのだ。

荒天下の太平洋を疾走する駆逐艦、大きな波浪が一瞬で艦(ふね)を呑み込む。沈んだかと見まごう光景から数瞬の後、日本刀の切っ先のごとく鋭い艦首を躍り上がらせ、波頭を蹴立て波間から飛び出してくる駆逐艦の勇壮な姿が眼に浮かぶ。
喫水線から甲板までが10メートルに満たない駆逐艦は、ブリッジまでも波を被る。日頃からこんな風だから、駆逐艦乗りは常に命懸けだった。自然と必要以上に階級の差に拘らない雰囲気や無用な風紀は捨て去られ、全員の結束が強まり人間関係が濃くなるのである。

誰もが自分の成すべき仕事を心得ており、戦闘ともなれば無心で自分の務めと向き合ったのだろう。しかし駆逐艦にとって戦果を挙げる機会はそう多くなかった。
駆逐艦最強の武器は魚雷だったが、これと主砲だけが戦艦や巡洋艦などの大型艦に立ち向かう武器だった。しかし小口径の主砲は非力であり、大型艦を沈める唯一の手段が雷撃だった。だがこれを使うチャンスは滅多に巡って来なかった。

大戦末期、ガダルカナル島への補給を担ったのは駆逐艦や潜水艦であった。この補給作戦で多くの駆逐艦が失われているが、駆逐艦が本領を発揮した数少ない闘いが展開された海域でもあった。
「ルンガ沖夜戦」がそれで、田中少将の指揮で米国巡洋艦と駆逐艦の多くを葬った。
輸送任務中の駆逐艦隊を襲った米艦隊の重巡洋艦(1万トンクラス)数隻と駆逐艦に対し、魚雷戦を仕掛けた日本駆逐艦隊が勝利した闘いだった。
米側は田中少将を最高の駆逐艦指揮官と高く評価したが、日本側はこれと反対に田中少将を司令官から解任した。その理由は伝統の指揮官垂範を放棄し、自艦を隊列の先頭ではなく中央に位置せしめた事にあるようだ。

戦後田中元少将は、この件に関して余り語らず「僕はただ、突撃せよと言っただけだよ。後はみな部下がやってくれた」と述べている。こんな処にも階級の上下を超えた駆逐乗り同士の信頼や友情が見え隠れしている様に感じる。
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by levin-ae-111 | 2010-02-22 06:04 | Comments(0)
 今日は何だか判らないがやたらと怒りがこみ上げて来て、総てに投げやりな感情になっている自分に気が付いた。そこで気分転換にと散髪に出かけ、少しスッキリするかと思ったが正体不明の憤怒の勢いは治まらない。
これは何かに取り憑かれたかと感じたが、どうも違う様な気もする。

そこで何故だか、日々一編ずつ楽しみながら読む積りでいた佐藤さんのエッセーを開いた。
相変らず楽しく面白い、もう少し、後チョットと読み始めたら止まらず、とうとう最後まで読み切ってしまった。
それで今更ながらに気づいたのだが、どうも佐藤さんと自分の感性は似ている。
彼女のエッセーの面白さは、当たり前の事を当たり前に主張している点にある。
自分自身を変わり者と称しながらも、至極真っ当な論調なのだ。それを上手に面白可笑しく書く辺り、流石はプロだと感じさせる。

例えば息子が事件を起して会見を開いた大物女優さんへのマスコミの態度に憤慨する佐藤さん(否、今後は親愛の情を込めて「愛子さん」と呼ぶ)は叫ぶ。
息子は一人前の大人なのであり事件の責任は親である女優さんには一切ない、それを知りたがるマスコミや世間の連中に逆に問いたい「今、どんな心境ですか」と。喜びの頂点にいる人、悲嘆のどん底に居る人に向かって「今、どんな心境ですか?」は、確かに馬鹿げた質問の最たるものだろう。嬉しい、悲しいに決まっている。
確かに愛子さんが仰る様に、テレビのインタビューでは必ずこの馬鹿げた、厚顔無恥な質問が飛ぶのだ。

それから二十年にも渡った怪異現象との闘いで、愛子さんが学んだ霊的真理をエッセーとして出しておられるが、それに対する誤解も甚だしいようだ。
ご他聞に漏れず、マスコミは怪異現象にのみスポットを当てて真実に大切な事柄には見向きもしない。何故に彼女が自家の怪異現象をエッセーとして公開するか、その心、想いが全く理解されていない。
そして誤解の上に迷惑な電話や手紙が多いらしい。夜中に突然、見ず知らずの人から電話があり、これまた唐突に「死にたい」とか「亭主が浮気して・・・」とか、「弟夫婦が一銭も払わずに居候している・・・」とか言ってくるらしい。そんな相手は大抵、名乗りもせず一方的に喋り、相談している積りに成っているのだ。

それで愛子さん「どうして、私にそんな事を??」と成ったらしいが、漸くエッセーの内容が誤解されているらしいと気づいた。彼女は自分が霊能者だと勘違いされているらしい事に
思い当たり、戸惑っていた。しかし、相手の気持ちを慮り「死にたい」人には地獄の話
で脅かして萎えた気持ちを吹き飛ばし、時には一緒に亭主の悪口を言い立て、はたまた「自分で出て行って、と言いなさい」と尻込みする相談者の背中を押す。
彼女の家族や友人は人好を揶揄するが、その辺りが愛子さんの愛子さんたる所以だろうと想う。この「想う」と「思う」の使い分けにも一説あげられているが、それに関しても全く同感である。

これとは無関係な話しだが国会に於ける論議で「政治と金」の問題が白熱している今日、彼ら国会議員はそれで自分の務めを果たしていると思っているのだろうか。
もしも、万一にも、本当にそれで「自分は国会議員の職務を果たしている」と思っている人は、直ぐに辞職しなさい。何故かと問うなら、見当違いも甚だしいからだ。
今はそんなスキャンダルよりも、緊急に成さねば成らない課題が山積している。
スキャンダルを追求したければ、その課題をクリアした後に気が済むまでやれば良い。
とまあ、こんなのが国民の本音ではないかと想像するのだが、こんな事を考えてしまう辺りも何となく愛子さんとの感性の類似を感じてしまうのである。
そして気づくと、訳のわからない憤怒も和らぎ今は心中も平和になりつつある。
愛子さん、ありがとう御座いました。
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by levin-ae-111 | 2010-02-21 08:16 | Comments(0)

大先輩との再会

 リーマンショック以来の不況の追い風に乗り、会社は次々と情け容赦なく同僚たちの首を切り落としていった。その付けが最近になって回って来た。
幾分の先行きが見えだしたのか、最近は注文が回復傾向を示してきた。それで、さあ大変。
たちまち人手不足となり、会社は急遽地元のシルバー人材センターへ人材派遣を依頼した。
その派遣で遣って来たのが、元社員の大先輩たちだった。

二人の先輩が派遣されて来られたのだが、二人とも十年以上も前に僕がお世話になった方々だった。お二人とも気さくで話し易く、当時新入社員だった僕の質問に気軽に親切に答えてくださった。
突然の再開だったが、あの頃の思い出がよみがえり感無量だった。

当時は仕事に関する研修も無いに等しく、突然に他部署での手伝いを命じられた。しかも大切な最終仕上げ&製品検査と梱包だった。教育はたったの30分程度で、教育係りの先輩は忙しいからと僕を放置して何処かへ消えた。
「えっ、いきなり一人で!!」目前の作業台には山積みの製品が・・・。

仕方が無いので教えられた通りに仕事を開始したが、実際に作業してみると疑問が次々と浮かび判らないことばかりだった。そこで僕は手当たり次第に付近の先輩に尋ね回ることにした。
「あの、○×が△なのですが、どうすれば良いでしょうか?」と、何人にも訊いた。

大抵の先輩連は迷惑そうな表情を隠さなかったが、このお二人を含めた何名かの先輩は自分の仕事を中断してまでアドバイスや見本を実施して教えてくださった。
とりわけお世話になったのは、以前に僕の命ぜられた仕事をしておられた方だった。
風貌はXメンの教授やスタートレックのジャン・リュック・ピカード艦長役でおなじみの俳優さんに似ている。いや、その俳優さんよりもハンサムだと、僕は思った。
その後も疑問や問題が出るたびに、その先輩にお世話になった。

その先輩と今度は一緒に仕事をする。当時教えては貰ったが、基本的に部署が異なっていたので一緒に仕事をすることが無かったのだ。
当時との違いは僕が先輩の身体を気遣う様になったことくらいだが、もう質問することも無く大先輩のブランクを埋める手伝いが出来ることが嬉しい。
大先輩たちはシルバー人材なので、会社の都合によっては直ぐに居なくなってしまう。
今はこの状態が少しでも長く続くように願っている。
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by levin-ae-111 | 2010-02-20 07:32 | Comments(0)