身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


by levin-ae-111
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<   2010年 05月 ( 29 )   > この月の画像一覧

ハテナの答えは写真の彼女が私のエネルギーを使って、天上界へと昇って行ったというものだった。その際にエネルギー奪われたのが、胸の痛みと成って現れたものらしい。
それ以来、その公園に行くと必ず東屋を撮影してみるが、あの女性は二度と写らない。

 写真といえば、先述の女性が写り込んで以来、時々だが不思議な物が写るようになった。
ピラミッドといわれる位山に登れば、何気ない風景が顔のように写ったり、木々の間に小さな顔があったり、白昼なのに夕焼けのように全体に赤み掛かっていたりした。
海外の観光民俗村では、男性の胸から女性の顔が飛び出していたり、その男性の上半身が消えていたりと思わぬ怪しい写真が撮れたりした。
現在では奇怪な物が写り込むことはなくなったので、安心していたが去年から滝で不思議な写真が撮れてしまい、少し複雑な心境である。

(4)
 これも心霊体験とは異なるだろうが、明らかに何者かの存在を感じさせられた体験である。
職場での体験なのだが、当時は今以上に体力的に辛い仕事をしていた。
製品を台車に載せて移動させている最中のことだった。
工場の床は整備が悪く、凸凹や上り坂が随所に存在している。私は一人で台車に数百キロの荷物を載せて所定の場所まで移動させようとしていた。
台車は古くキャスターの整備も悪いので、荷物の重量と相まって非常に重い。
私はノロノロと台車を引きながら、何とか半分近くの距離を進んだが上りに差し掛かり力尽きる寸前で、もうアップアップになっていた。

ところが、途中で突然に台車が軽くなり、一転して楽々と坂を登り切ることができた。私は仲間の誰かが気づいて押してくれたのだと思った。
私は誰なのか確かめようと、顔をずらして荷物の向こう側を見たが、誰も居ない。
だが空間には異変があるように見えた。そこには明るいゴールドの光で区切られた、他の空間とは違う輝きが在った。
何者かが、私の引く重い台車を後押ししてくれたのだろうが、その正体は判らない。
ただ、同様の輝きを生身の人間に感じたことがある。その経験から鑑みるに何らかの霊的な存在が私を援護してくれたのだろうと考えている。
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by levin-ae-111 | 2010-05-31 05:38 | Comments(2)
(3)
心霊体験といえるがどうか不明だが、初めての心霊写真が撮れてしまった時の話だ。
デジタルカメラを購入した私は、嬉しくて近所の公園へ出掛けて写真を撮り歩いた。公園の一番奥には貯水池があるが、その手前に小高い丘がありそこには東屋が仕立ててある。
平日の昼下がりの公園には誰も居らず、私は花や樹木を撮り何気なしに貯水池の柵の前から東屋を撮影した。
その時に撮影した写真の一枚に異変があると気づいたのは、翌週の日曜日のことだった。

不慣れなパソコンに写真を取り込み、一枚一枚を拡大しながら、まんざらでもない出来栄えに大満足していた。
それが東屋を写したものを見ると、無人だった筈のそこに人が写っている。
しかも若い女性で、肩まで垂れた髪に白のTシャツ、ブルージーンズにミュールを履き、スケッチブックと思しき物を脇に抱えている。
彼女は東屋の細い柱にもたれ掛かり、こちらを向いてポーズをとっているように見える。
東屋の屋根の影になり顔は見えなかったが、今ならば修正ソフトで見ることも可能だったかも知れない。
写真は残念ながらpcに無知なばかりに、意図せずに消去してしまい現在は残っていない。

 この写真を発見した翌日、仕事中に私は酷い胸苦しさを覚えて脂汗が流れるという体験をした。
その日は特に体調に異変を感じることもなく、普通に仕事をしていたが突然に苦しくなったのだった。酷い胸の痛みで、脂汗が滲み立っているのも辛い。だが心臓疾患ではないらしく、意識は明確にあり息苦しくもない。
上司に話して帰宅して休もうと考えたが、昼食の時間になり少し様子を見ることに決めた。現在まで、その時ほどの痛みを感じたことはない。
幸いなことに、昼食休みの間に何事も無かったように痛みは引き、仕事を続け定時に帰宅し早速ハテナに質問してみた。
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by levin-ae-111 | 2010-05-30 07:17 | Comments(2)
(2)
 これも前述の話と同じ頃だったと記憶しているが、我が家では誰も居ない仏間から題目を唱える声が聞こえていた時期があった。
それは男性の声で、しかも信仰していて題目を唱えていた父親の声とよく似ていた。
その為か私は恐怖を感じずに声を聞けたし、階下から聞こえて来るリズミカルなその声を聞きながら眠ることもしばしばだった。
ある時など家族全員での食事中に声が聞こえ始め、足音を忍ばせて仏間に近づき襖を開けて覗こうとしたことがあった。
残念ながら襖に手を掛けると、声は止んでしまい開けてみても誰も居ない。
私がそこを去ると、声は再び題目を唱え始める。
この題目の声は訪ねて来た近所の人も聞いており、「ご熱心なことで」と言われたと母親が笑っていた。

そんな風だったので、我が家では声のことを深刻に受け止めていなかったが、父親の信仰仲間はそう受け取らず寺に相談を勧めてきた。
お寺に相談すればお金が必要になり、家計に余力の無かった我が家は幸い恐怖も感じないのでそのまま放置していた。
その間、題目の声は絶えることなく日々続いていたが、周囲の再三の勧めで両親は重い腰を上げたらしかった。

結局、父親は寺に相談しその結果、あの声は聞こえなくなった。
どうやら声の主は我が家のご先祖様らしいというのだが、そんな事は言われなくても判っていた。
ご先祖様が僧侶の祈りによって、どうなったのかは判らないが今も何となく気掛りである。
 
また愛猫が車に轢かれて死んでから、階段下の廊下で生前と同様に鈴を鳴らしながら(その子は首輪と鈴を着けていた)じゃれている音がした。
夜中になると、まだ成獣には成っていなかったその子が、一匹で楽しげに遊ぶ気配と鈴の音を聞きながら眠ったものだった。
しかし、何時しか音も気配も感じなく成っていた。
どうやらある程度の期間が過ぎると、行くべき所へ行くのだろう。
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by levin-ae-111 | 2010-05-29 08:11 | Comments(2)
二十二章 心霊体験

(1)
 
私が初めて心霊体験と呼べる経験をしたのは、高校生2年生の時だった。
クラブ活動で疲れ果て帰宅すると食事と風呂を済ませ、勉強はせずに眠る日々が続いていた。
その零体は二階の自分の部屋に突然に何の前触れもなく、現れた。
その当時は両親のどちらかが、時々だが夜に様子を見にくることがあった。

その晩目覚めた時刻は午前二時で、私は廊下を隔てた弟の部屋から聞こえて来るラジオの深夜放送の音楽を聴いていた。
深夜のAM放送は雑音もなく、クリアなサウンドが聞こえている。楽曲は確か岡田奈々さんだった。
その内に階段を昇る足音が聞こえ、私は親が見回りに来たのだと思った。
不思議なことに足音が階段を昇り切ると、あれほどクリアに聞こえていたラジオが楽曲の途中でノイズだけになり聞こえなくなった。
怪訝に思いながらも布団の中から、襖を見つめていた。

 暫くすると襖の隙間からタバコの煙状の白いモヤが見え始め、次第に濃度を増していくように見えた。
やがてそれは集りだし、だんだんと人型に成ってくる。不思議に思い、尚も見つめていると着物姿の女性と思しき姿が出現し始めた。
「ヤバイっ!!」
私は慌てて布団に潜る、咄嗟にはそれしか出来ない。
布団に潜っても何かが近寄ってくる気配が強く、もう生きた心地がしない。
その何かが自分の上に来たと感じた途端、足先から痺れ始め、その痺れが頭のてっぺんにまで達した。これが人生初の金縛り体験である。
身体が動かせず、声もだせず、私には何十秒かの短い時間が永遠のように感じられた。

その内に痺れは去り、身体の自由は戻ったが恐ろしくて布団から顔を出せずガタガタと震えていた。しかし、何時しか疲れて眠り込み、気が付くと朝だった。
私は両親に事情を話し、翌日からは違う部屋で眠ることにした。
幸いにも例の幽霊は来ず、出来事から三日目の夜に思い切って自分の部屋で眠ることにした。
ところが・・・・。

その日も夜中にパッチリと目覚めた。時計を見ると、同じ午前二時だった。
足音は聞こえないものの、それが来る気配がする。
そして、金縛りになった。
私は身体を動かそうとしたり、声を出そうとしたりと様々に試みたが全く無駄な努力だった。
そして何十秒かが過ぎて、身体の自由が戻り今度は何事も無かったように平然と眠った。
何故かといえば幽霊が来ても、金縛りに成るだけで実害は何も無いことがわかっていたからだった。
翌日も自分の部屋で眠りに着き、同じ時間に同じ気配を感じ、同じように金縛りになり、再び無駄な抵抗を試みて失敗した。
次の晩には、彼女は来なかった。怖がらず、金縛りを解こうとする態度に興ざめして去ったのかも知れない。
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by levin-ae-111 | 2010-05-28 05:53 | Comments(4)
最近ではネットで知り合った海外在住の方の薦めで、時間を合わせて一緒に瞑想する「合同瞑想」を何度か行った。
初めは互いに容姿も分からず始めたのだが、瞑想中のイメージではスレンダーな女性のイメージが伝わってきた。
そのイメージとは二人のシルエットが見え、影絵の男女がダンスを踊っているというものだった。
それをメールで相手の方に伝えると、何とその方もダンスを踊るイメージを感じておられた。
そして二人でヒーリグに挑戦する機会もあり、何人かの方にヒーリングを施す実験を試みた。
結果的には十分な効果も確認されないが、一時的にしても少し楽になったとの被験者の方からの連絡を受けている。
私の場合はヒーリングといっても、何時もの瞑想と特段に変わったことは何もしない。ただ病気の快癒を願い、座るだけなのだ。
この時の瞑想では、立ち上がったエネルギー感覚が大きく膨らむと、背中からスーッと上へ抜けて行き、何処かへ飛び去って行く感じがある。
大体は一時間程度の瞑想だが、5~6回は先述のような感覚がある。
終了の時は自然に判り、「終わった」という感じがする。

先日は合同瞑想のパートナーから、負のエネルギーにやられてとても辛いと緊急のヒーリング依頼があった。
パートナーの願いでもあり、直ぐに時間を合わせて座ったが、約一時間の間だが異常なくらいの集中が出来た。
この人とは相性が良いらしく、直ぐ元気になられたようでメールで報告を受けて一安心した次第だ。
私のような素人がヒーリングなどすべきではないと思うが、相性の良い(波長の合う)人ならばこのように何らかの効果が現れるようだ。
この感覚が少しでも何らかの役に立てられたなら、嬉しい限りである。
何れにしろ、私自身も自己流で手探りの状態であり確たることはなにも言えないが、乏しい経験と知識から精一杯に述べさせて頂いた。
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by levin-ae-111 | 2010-05-27 05:41 | Comments(2)
オーム事件や白装束集団のようなカルト事件は、教祖や団体の中心者が意識の拡大現象を悟りと思い込んだのが原因なのかも知れない。
しかしそれが真実の悟りではないから、次第に被害妄想に陥り、狂気の醜態を晒すことになる。精神世界の探求者は、このような現象には十分注意すべきである。
瞑想中の映像や声は神仏とは無関係だし、増して悟りとは何の関係もない。
それらは無意識の底から湧きあがる、泡のような物かも知れない。
映像が見えれば、映画でも観る積りで楽しめば良いのであり決してそれに囚われてはいけない。
瞑想の目的は日々の自分を見つめ、人間性を高める為であると思うからだ。

 ところで「気」を感じる方法は幾つかあるが、最も手軽で簡単なのは両手を少し強く擦り合わせた(10~20回)後で5センチほど離してみるという方法だ。
少し涼しいような、暖かいような微妙な感じのジンジンする感覚があるが、それが気を感じている状態である。
この感覚が強くなると、両手の間に圧搾空気かゴム風船を挟んだような感覚になる。入浴時にシャンプーの泡をたっぷり持って、両手で挟み、手の間隔を僅かに開いたり閉じたりした時の感覚がそれに近い。
 
脱線してりまったが、私が現在に至った経過は折りに触れ所々で紹介してきた。しかし現実的には、他者との情報や体験のシェアの機会は殆ど皆無だった。
その理由は周囲に分かち合える人間が存在せず、現在と違ってネットにも無縁だったからだ。
僅かに数人の友人と情報のシェアは出来たものの、ただ話しをして終わっていただけであり、お互いに忙しく会う機会もかった。
たまに会うと、気を使った遊びをする。気を感じる人と感じない人が互い違いに手を繋ぎ、気を感じる人が一人だけ自分の手から気を出す。
出された気は皆の身体を伝い、戻ってくる。それが自分を通り過ぎて、また他の人へと繋がっていく。三人くらいでこれを行うと、1秒で一周するくらいのスピードで意外に早い。
他にはタバコの浄化、飲み物の浄化をしたりして遊ぶが、どちらも基本的にはマイルドになる。タバコなどは浄化の前後でOリングテストを行うと、明らかに身体の反応に変化があり面白い。
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by levin-ae-111 | 2010-05-26 05:44 | Comments(4)
ハテナの作用かも知れないが、最初は数日に一度の割合でマントラを唱える(心中で)度に大欠伸(おおあくび)を連発した。
眼を閉じているので、涙が鼻へ抜けて鼻水をダラダラ流す状態になった。
その状態は眠くなくとも突然に始まり、瞑想の間ずっと続き最後に涙を拭き鼻をかんで終わるという状況だった。
しかしこの状態が発生する間隔は少しずつ長くなり、一週間に一回から一月に一回、一年に一回と期間的には変化している。
これはエネルギーの上昇に対応した身体的な反応らしく、私のように欠伸の連発で済む人も居れば、身体の痛みが出て暫く辛い思いをされる方もいらっしゃるようだ。
この反応の違いは何故だろうかと考えたとき、私のように外で働く者と専業主婦の方のように家に居る人の違いではないかと思い当たった。
というのもハテナの販売元で発行している機関紙を読む限り、主婦の方に激しい反応が出ているように感じたからだ。
本当に宇宙人が考案し、購買者に合わせてカスタマイズしてくれているのなら、この程度の考慮はあって然るべきとも思ったが、どうやら配慮してあるらしい。

瞑想の時には気が身体の中心で渦巻く感覚、額や頭頂の圧迫感が強くなり、同時に熱感が腰や背中へと広がっていく。そして気の感覚は腕や胸、腹や脚でも感じられるように成った。
その感覚は既に身体を飛び越えて、周囲の空間にも及んでいるように感じられる。私は当初それを自分のエネルギーフィールドが拡大したと思ったが、もしかしたらフィールドの大きさに変化はないが、感知できる範囲が広がっただけかも知れない。
何しろ私たちは無限の広がりを持つ「意識」の一部なのであり、時空をも超越した存在の申し子なのだから、この位の能力を持っていても当然だろう。
どうやら瞑想やそれに類する行為によって、本来の自分が持つ能力を引き出すことが可能らしい。
但し経験から言わせて貰うなら、禅病や意識の拡大に起因する現象には注意を要する。
瞑想中に神仏や悪魔と出会う現象が、古来より報告されている。
悪魔ならばまだ良いが、神仏となると始末が悪い。未熟な人ならば、これを悟りと勘違いしてしまうからだ。
しかしこれは「悟り」などではなく、ほんの通過点に過ぎないことを明記しておく必要がある。現代でもこの罠に陥り、自分だけでなく周囲をも巻き添えにした事例が幾つか存在するようだ。
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by levin-ae-111 | 2010-05-25 05:25 | Comments(2)
二十一章 瞑想と癒し
 私の現状は私自身の様々な選択の結果だが、それにしても自分が望む人生とは程遠い結果であると言わねば成らない。
日々の仕事に追われ、苛立ちと焦燥感とを感じていて自己嫌悪に陥ったり、逆に休日は暇を持て余して孤独感に苛まれたりしていた。
最近では煩わしさを感じはするが、孤独感を感じることは少なくなった。
 これまで書いてきた事柄の始まりは、全て不思議グッズ「ハテナ」と瞑想が導いたと感じている。そこで、この章では素人の私がどのような瞑想を行っているかを書いてみたい。

 瞑想というと堅苦しい感じがするが、私が行っているのは座禅のような難しいものではない。
一応は足を組んで座るのだが、無念無想を目指すものではない。
そもそも、そんな風では眠ってしまう。
リラックスは大切だが、眠ってしまっては意味がない。
私の場合は座ると直ぐに背骨を中心にして、エネルギー感覚が立ち上がってくる。これは習慣なのか、殆ど自動的にそうなる。
それから身体に感じるエネルギー感覚のバランスを取り、宇宙人らしき声が告げたポイント音(瞑想用のマントラ)を心中で唱えながら高まっていくエネルギー感覚を感じながら集中していく。
集中が高まると時には見知らぬ風景のビジョンが現れたりするが、これがまた不思議なことにビジョンの下に○○とその場所の地名が現れる。
例えば厳島神社の大鳥居が見えた時は「安芸の宮島」と白文字で解説が出る。
また時には昼間に見た北アルプスの光景が、実際に見たとおりに鮮やかに浮かび上がったりもした。
常にではないが瞑想を始めた頃は、こんな不思議なビジョンの他にも、こちらを真っ直ぐに見詰めている誰かの眼が見えたものだった。
それらのビジョンはとても美しく、鮮やかなのでしっかりと観たいのだが何時もよく観察しようとすると消えてしまう。

立ち上がって来るエネルギー感覚は、背骨を中心に渦巻く熱い感覚で常に揺らめきながら、頭から腰の少し下あたりまでを貫いている。
最初は細々として時折しかない感覚だったのが、現在では常に感じており揺らめく感覚は身体の外側にまで拡大している。
その渦は時計回りにゆっくりと回転しており、思念(思い)で逆回転させたりも出来るし、腕や脚でも感じることが可能だ。
エネルギーの揺らぎを感じ始めた頃は、頭と額に強い刺激(軟らかい素材のもので圧迫されている感じ)があった。
特に終身時にその圧迫感が強く感じられ、寝つきが悪くなった時期もある。
布団に入ると突然グリグリっと頭や額を抑えられ、痺れたような感覚があって非常に辛い思いをした。
その感覚が実は「気」ではないかと気がついたのは、少し経ってからであったが、現在では「気」を分散させることで刺激は以前ほどではなくなった。

 さて集中が出来て、エルネギー感覚が十分に高まったところで、湧き上がって来る思いを第三者のような立場で観察する。
最初の頃は様々な思いの噴出が止まらず、その思いに囚われてしまう場合もあったが、その時期が過ぎると次第に湧き上がる思いも減ってきた。
殊更に無念無想などと意識せずとも、何も考えなくなる時が少しずつ多くなっていった。
最近では瞑想が終わるとスッキリとしていて、ストレスの多い私の仕事には欠かせなくなりつつある。
時間が許す場合は約45分程度だが、集中できない場合などは20分程度で止める場合もある。
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by levin-ae-111 | 2010-05-24 05:45 | Comments(3)

「創造」は完全な自己認識を求めて、私たちにも完全な意識としての特性を与えた。故に私たちの意識も常に創造している、例えそれが破壊的な想念であったとしても、破壊的な現実を「創造」することになる。
波動の低いこの世界では想念が現象化するまでのタイムラグが長く、私たちがつい無防備に垂れ流す想念の結果はずっと後の忘れた頃にしか現れない。
だが目に見えず、音に聞こえずとも確実に現実を作り出している。
 私の意識は「文章を書く」ことを望み、こうしてパソコンと向き合いこれを記述している。これは私が作り出した現実である。
自覚の有無に拘らず、私たちの現実は私たち自身が創り出している。それはあらゆる現実として、他者の生み出した現実と複雑に絡み合いながら現れてくる。
それが更に規模を拡大し、地域社会の県の地方の国家の人類社会の現実として顕現されてくるのであろう。
結果として私たちの総意が渾然一体となって、国際社会の主流の現実を確実に出現させるのだが、これも創造の性質そのものに他ならない。
「創造が自己に似せた生命を創りだした」とは、正にこのことを指すのだろう。
姿や形ではなく最も基本的な意識としての性質を、創造は自らの創造物に転写したのだ。
そんな考えは間違いだとするご意見もあろうが、それこそが創造の望む多様性の現われであり、意見の相違が無限のパターンの現実を生みだし体験する機会を増幅させる原動力となる。

 どのような仮説にしても主観的体験を基にしている限り、そこに客観的な要素を認めることは出来ない。ただし様々な疑問がこのような考えにより、理解可能のように見えるのはどうしてだろうか。
一連の仮説や通信が、常に同じ根本へと却ってくるのは何故だろうか。
私自身には、このように優れた一貫性のある論を構築する理力はない。
これは様々な不思議体験を内なる声の助けを借りて私なりに考察する内に、自然に同じ根本へと戻ってくる不思議体験のひとつでもある。
文章を記述している間は、何故だかとても集中力が高まっている。
表現や言葉を選ぶのは自分であり、記述する内容のテーマを選ぶのも自分だ。
しかし決まったテーマについての原理や理論は何者かが与えてくれる。
無論、最初から私自身の中に存在しない事柄については、私も表現しようがなく文章化することも、情報を受け取ることも困難だ。
今更ながら自分が本当にチャネラーなのか、との疑問を感じるのはこの点についてである。
本物のチャネラーならば、もっと自己の内にない情報も与えられるのではないかと思うのだ。更にはよく耳にするように、強制的にチャンネルを開かれて一方的に情報を流し込まれるような事態にもない。
ここが最大の疑問点であるのだが、悪いことばかりでもない。
幸いにもこの疑問が常に付きまとうお陰で、自意識過剰にならずに済んでいるし、精神的に混乱することなく一般的な社会人としての生活を保てているのだと思う。
何れにしても様々な疑問に自分なりに挑戦することは、とても面白く無味乾燥な日常に潤いを与えてくれている。
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by levin-ae-111 | 2010-05-23 07:00 | Comments(2)
 人類が好奇心に溢れ、あらゆる事象の解明へと心を奪われることもまた、創造の性質の表れだと感じている。
目的を達成する為に、創造は人類を生存させ発達させるための総ての条件を整えた。その上で環境適応能力を備えた生物を創造し、送り込んだのだと考えている。
誤解の無いように述べておくが、創造が試験管の中で生物を創り、予め用意しておいた惑星に放したわけではない。
自然界そのものが創造のアトリエであり、実験場であり生活のフィールドであり存在そのものだ。
自然とは創造の意図した目的に従って、それを成就するために創作された環境であり、最高のシステムであると私は考えている。
従って私たち人類は紛れも無く、自然の一部なのであり行き過ぎた自然破壊は当然のこと致命的な事態を招くことになる。

逆説的に考えると「創造」にとっては、こんな現状も計算の内なのかも知れない、だからこそ最初から対策が組み込まれている可能性もある。
私たちの身体には免疫システムが組み込まれていて、寿命が尽きた細胞の処理を行いつつ、侵入した細菌やウイルスなどに対処し健康を保つ仕組みが施されている。
俗に“人間は「小宇宙」といわれるが、大宇宙にも癌細胞と化した者たちを処理するシステムが存在しているかも知れない。
宇宙は創造の肉体であり、私たちはその細胞の一部とはいえないだろうか。
もしそうなら、このままの私たち(精神性が低く身勝手)が宇宙へ進出することは無いのかも知れない。
現在の段階でも既に宇宙へ進出していると思われるだろうが、宇宙ステーションも実は地球圏内を飛行しているに過ぎないし、月着陸も実施されたが大挙して月面へ人類が押し寄せたのとは違う。

宇宙進出の意味を私的には日本に於ける海外旅行のように、一般大衆が大挙して宇宙へ飛び出した場合と解釈している。
そうなった時に初めて創造の身体(宇宙)にとって、正常な細胞としか、異物として認識されるのではないだろうか。
現代は宇宙への本格的な進出を迎える前段階だが、精神的な進化を遂げない限りは本格的な宇宙時代を迎えられないだろう。
宇宙の免疫システムが作動するか否かの基準は、人類の精神的進化の度合いに左右されると感じられて仕方がない。

脱線してしまったが、創造の想いが込められた宇宙とそこに住む存在の総ては、根源の意識「創造」が創り出した。
宇宙を含めた存在の総ては創造なのであり、その主体は仮に分裂し個別の存在として在る人類の意識なのだと感じる。
死後世界では何者も死者を罰しない、罰するとすれば死者自身の良心であるという。また個性はあるが、特定の名前に囚われなくなるともいう。
この世よりもワンネスの感覚に近いと思われる死後世界は、より宇宙の意識に近いのであろう。
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by levin-ae-111 | 2010-05-22 07:18 | Comments(2)