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by levin-ae-111

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かつてイスラエル十二部族をイスラエル王国とユダ王国とに分裂させた要因と同様の原因が、十四世紀の日本に動乱をもたらした。場所と時を変え、再びこの対立が発生したのだ。
その動乱の記録『太平記』には、ユダヤ教の兜巾(ときん=山伏や天狗が頭に着けている)を身に付けた天狗が動乱の始まりを予見する。
それは王権の実質的な性質についてのイデオロギーの違いによる争いであった。
後醍醐天皇の肖像には、ユダ族のシンボルであるライオンが描かれている。後醍醐は幕府から実質的な権力を奪おうと画策したが、結局は上手く行かなかった。
後醍醐を権力闘争に駆り立てたものは、遠祖から伝えられているダビデ王の如くに政治と軍隊の両面での実権支配であったろう。政治は幕府に、軍隊は幕府と地方豪族に握られている状況を後醍醐は苦々しく思っていたに違いない。
天皇制とは本来エジプトのファラオをモデルとしているのであり、古のダビデ王のように総ての実権が天皇に無くてはならなかったのだ。
しかし勝利を収めたのは本来のヘブライ型天皇制であった。

この様に考えてみれば、ヘブライ人に対するイスラエル人の強い嫉妬や攻撃性の根っこが何処にあるのか想像がつく。
すべての元凶は聖書なのであり、歪んだ信仰の結果なのである。それ故に長い時を経て、大いなる大陸と海原を隔てても尚、イスラエル人(特にユダ族)のヘブライ系民族への攻撃が続くのである。
そしてそれが日本の歴史を歪め、真実を闇へと屠り新たに出鱈目な歴史を綴ったユダ族の数々の所業となってあらわれたのだ。
十四世紀、後醍醐の試みもまたその一つであったし、古くは出雲の国譲り、記紀のみを正史とし、他を排除したことも同様の意味があるのだろう。


(十七)日本は神の宝箱か。
 伊勢の国はイセツヒコとイセツヒメという兄妹の神が、平和に統治していたが突然に天日鷲命が現れて強制的に国譲りを迫る。兄妹はその夜に風を呼び、大波に乗って光に包まれながら東へ旅立ったという。彼らは信濃の国へ行ったと伝説は語る。
水上氏はイセツヒコとイセツヒメが象徴的に単純化されているとすれば、国譲りを迫った天日鷲命の名もまた、そうであろうと予測する。
氏はこの神の名から、有翼日輪という水平に翼を伸ばした日輪の紋章が連想されるとしている。
有翼日輪は古代エジプトの王権の象徴であり、ツタンカーメンの玉座の背板にも刻まれている。天文学者は日食の時の赤道型コロナが原型と予測しているが、同じ紋章はヒッタイトやペルシャの美術にも見られるのだという。
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by levin-ae-111 | 2010-07-31 05:41 | Comments(4)
(十六)ヘブライVSイスラエル
 私などは無知な故にヘブライもイスラエルも区別が付かないが、この両者はどうも異なる民族であるようだ。いや、これを書き始めてから知ったのだが、イスラエルとは正確には特定の民族の呼び名ですらないらしい。
 さて、アイデルバーグによると日本武尊(ヤマトタケル)の物語は、エホデが衣に隠した剣でエモシの首領を殺した物語と同じであるという。それがヤマトタケルの場合は少女に変装して熊襲(クマソ)の首領を殺す。
またヤマトタケルの活躍した伊吹の山はヤボク山、死んだノボの荒野をネボの荒野とみなしている。この神話時代の英雄の物語ですらも、ユダヤと関連しているとの指摘は日ユの異常なまでの緊密性をうかがわせるに十分だ。
しかしアイデルバーグは、これ以外にも文字という視点からもより深い日ユの共通点をも指摘している。
それは日本人が発明したひらかなとカタカナという二種類の文字についての指摘で、ひらかなはヘブライ文字の草書とカタカナは楷書とよく似ているという。
カタカナはひらがなと異なり、日本の歴史上で余り使われていない印象だが古くからカタカナを主に使う人々が商業都市『堺』に存在していた事実を発見した人物がいる。
それはごく自然なことで、帳簿付けには楷書が必要となる。
これを発見したのは八切止夫氏で、氏によると堺はエビス島と呼ばれ住んでいたのは日本人ではなく、エブス人であったという。
大阪からはエジプト式の船が発掘されているし、大阪を代表する神の名前も彼らが何者であるかを示している。
大阪人の神『エベス様』は、彼らの民族の名前そのものだ。
しかし、本国エルサレムのエベス人が謎めいた存在であり、現在は明白でなくなっている理由はその存在をユダヤ人が徹底的に隠したかららしい。

 古史古伝には漢字伝来以前にも日本に文字があったと伝えるものがある。神代文字がそれであるが、現在では一切を偽書として片付けられてしまっている。
しかし、古史古伝の主張が本当ならば、ヘブライ文字であるひらかなとカタカナが日本の歴史に及ぼした影響は非常に大きいと言わざるを得ない。
その神代文字のひとつにアビル文字があるが、アビルとは古代エジプト人がイブリと呼んでいた人々ではないのか、そのイブリこそがヘブライの語源なのであり、そうだとすればアビル文字こそヘブライ文字なのではないか。
また、イスラエル人がヘブライ文字と呼ぶものはエブス文字である。
聖書に登場するのはヘブライ人なのであり、そのことでイスラエル人はヘブライ人に深い劣等感を抱いたのではないかと、水上氏は推察する。
エジプト脱出後にユダヤ人をヘブライ人と呼んだのは異邦人であり、ユダヤ人は自分たちをヘブライ人であるとは言っていない様だ。
この事実から恐らくはユダヤ人にはエジプトでの体験が無く、聖書の編纂者にとって極めて面白くない隠蔽すべき事実であったろう。
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by levin-ae-111 | 2010-07-30 05:18 | Comments(4)
前述の木村氏はペルシャの王朝に『オムヤマド』があり、それもまた同様の伝説に関連していると言っている。浅草の厩橋を地元では『おんまやばし』と呼んでいることから、正しくは『うまやど』ではなく『おんまやど』と呼ばねば成らないのかも知れない。
その聖徳太子がまず行ったことはヒッタイト神話のヤズルカヤ遺跡の風神と太陽女神の誓約のシーンを日本の伝説に持ち込むことだった。
物部氏を滅ぼし、その史書を隠滅し新たな歴史を書き綴る元を作った。その行動は特に聖徳太子に限らず、ユダヤには昔から歴史を改ざんするプロ集団が存在し普通に行われていたことらしい。
古事記も例外なく新たに創り出された神話や歴史なのであり、それはヒッタイトの伝承やユダヤ、ペルシャなどの神話を元に捏造されたものであろう。
では、その伝承や神話は何処から、どのようにして西暦700年代の日本人が知り得たのであろう。少なくとも交易などで得られる文物ばかりではなく、人的交流も行われており、日本に定住した渡来人も多数いたのであろう。
古代の日本で神話や歴史の主体となったのは、その渡来人であったのだ。

 興味深いことに神話の国譲りのシーンは、伝説でなく実際の出来事であると主張する人々が日本に実在するという。それは出雲王朝の子孫と名乗る一族で、改ざんを恐れて文字では記録せずに口伝でその史実を伝えているらしい。
富氏の人々は、遥かな国譲りの時代の出来事を昨日の事のように怒りに肩を震わせて語るというのである。出雲はエドム人の築いた国であったと言われるが、その子孫と名乗る一族は富氏を名乗っているから、部族の名はトミだったのかも知れない。
エドム人は聖書に書かれているごとく長子の権利と父の祝福を奪われたが、日本では王権を奪われたのである。しかし富氏をエドム人とするのは、不自然な気もする。
エドム人であれば他の名を名乗るだろう。他にもダン族は壇・団・段・團などと名乗っていることを見れば、やはり富氏の部族はトミであったと考えるのが自然だ。
エドム人としたのは、聖書に合わせたのであり、勝者の意図的な改ざんであろう。
聖書でエドムに敵対してみを持っているのはユダ族であり、日本でもユダ族はそれを再現してみせたのであろう。

歴史は偶然に繰り返したように見えるが、本当は意図的に繰り返されたのかも知れない。
古代の天皇家(ユダ族)が、日本にいたエドム族から奪ったものは王権の他にも有るという。それは勾玉であるというのだが、三種の神器の一つである勾玉とは本来は出雲の王族だけが身に付けることを許されたものであると前述の富氏は主張する。
アイデルバーグによれば、勾玉の形はヘブライ文字の信仰を意味するという。
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by levin-ae-111 | 2010-07-29 05:24 | Comments(0)
古代日本には大海原や広大な大陸を踏破し、東洋の端の島国へと辿り付いた民族が幾つもひしめき、互いに覇を競っていたのである。
彼らは各々の伝統と文化、習慣、信仰を携え、異民族と出会う度にそれを取り込んだり排除したりしながら、日本という島の中で次第に融合していったのだろう。
その中にはヒッタイト帝国を築いた民族がおり、イスラエル王国やユダ王国の流れを汲む人々がおり、南洋系や北方系の人々が居たのであろう。
現在のアメリカのように人種の坩堝(るつぼ)の様な状況を呈していたのかも知れない。
その多くの人種の中でもヒッタイト系の人々が最初に支配権を握っていたのかも知れないが、その覇権は転々と各部族の間で移動したのだろう。
聖徳太子と呼ばれる人物も、恐らくはその中の一人であったろうと思われる。
つまり伝承を見る限りは、蘇我氏と結託して旧勢力であった物部氏を急襲して滅ぼしてしまう。そして、その時に物部氏に伝わっていたであろう多くの史書を焼き捨てたのだ。

そして恐らく彼はユダヤ系の人物であり、それ故に出生のエピソードをキリストと似たものにしたのかも知れない。水上氏の予測では聖徳太子とは仏教をイデオロギーとするユダ族の人物であり、蘇我氏とはペルシャ系のサカ族(釈迦の出身部族か?)であろうとしている。今日に伝えられ様な聖人では決してなかったであろうこの聖徳太子と呼ばれている人物は、政治権力の象徴として実在の誰かを様々なエピソードで飾りたてたものであろう。
研究者の木村鷹太郎氏はキリストの名、イムマニエルを『神とともにある』と聖書学者が解釈しているのは間違いであるという。その真実の意味は厩戸(うまやど)であるという。
つまり『厩戸皇子』の別名を持つ聖徳太子と同様の意味であるという。
貧しい女性が旅の途中の厩で出産するというのは、それ程に不自然ではないかも知れないが、仮にも皇子と呼ばれる子供を産んだ女性が厩などで出産するはずもなく、どう解釈しても作為的なエピソードとしか思えない。
では何故に馬小屋なのか、恐らくイスラエルでは馬は権力や富の象徴として捉えられていたのだろう。
イムマニエルも聖徳太子も、その出生のエピソードは作為的に創作されたと予想されるが、そのベースは同じ古代文明に求められるのかも知れない。
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by levin-ae-111 | 2010-07-28 05:25 | Comments(0)
私達が古代国家の形成を考える時、同一の民族あるいは幾つかの民族の集合の中で農耕民と支配層とに自然に別れて社会の階層が形成されると考え勝ちであるが、実はそうでもないようだ。
本当のところ支配層と農耕を行う人々とでは、民族が異なっていたらしいのだ。
ヒッタイトは鍛冶師を頂点に製鉄技術を使い、武器と農具を生産する支配階級と、農耕民とに分かれていたらしい。
これと同様に、その当時の多くの国々でも同じ様であったのだろう。

 その頃のヒッタイトの支配層が信仰するのは勿論、スサノオである。スサノオのスサとは古代ペルシャに在った地名で、スサノオとは『スサの男』という意味の名前であるらしい。
我々の先祖の中でスサから来たペルシャ人が、スサノオ信仰をもたらしたのであろう。
しかし農耕が盛んになり、作物の豊凶に人々の関心がシフトするに従い荒ぶる風の神は次第に疎まれていく。
記紀神話でも誓約をしたのは良いが、スサノオは悪戯を繰り返す。
神聖な場所に粗相をしたり、建物の屋根を剥がしたり、田の畦(あぜ)を壊したりと高天原で縦横に暴れまわる。
最初は何かと擁護していたアマテラスも、スサノオの悪戯で死者まで出るに及んで、怒り心頭に達して岩屋にこもってしまう。
元来のスサノオは荒ぶる神であり、強風を吹かせることを期待されている神である。
従って大人しくして居たのでは仕事に成らないから、暴れるのは当たり前なのである。

とにかく、スサノオの悪さが元でアマテラスは岩屋に入り、世界は暗黒に閉ざされてしまった。後は一連の神話のごとく、手力男命(たじからおのみこと)に岩戸をこじ開けられ、アマテラスが引き出されて世界に光が戻ったというストーリーへと続くのである。
この神話のストーリーの背景には、製鉄を頂点とした価値観が徐々に農耕重視の価値観へとシフトしていく様子が伺えると感じるのは私だけであろうか。


(十五)聖徳太子は歴史の変革者か?
 もう随分と前になるが、某自称コンタクティーという人と会う機会があった。その時に私の住所を尋ねられたので答えたら、そこは聖徳太子の荘園の在った場所で、どうしてそれを地域振興に役立てないのか不思議だと言われた。
それはさておき、昔の人のバイタリティーには驚かされることばかりだ。
戦国時代の武将は何百キロも徒や馬で平気で移動して戦を行っていたし、私の住む市の山奥には平安時代ころに都から旅して来たとされる『猿丸太夫』なる人物の墓がある。
そこは越中の古史では、日本海から越中岩瀬(えっちゅう・いわせ)の港への目印として使用された夫婦山(めおとやま)の麓である。
とにかく歴史を振り返れば、現代人の私でも驚くほどの遥かな距離を古代人たちは自在に移動している。
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by levin-ae-111 | 2010-07-27 05:24 | Comments(0)
このサンカには女尊男卑の思想がある。
そして女尊男卑の思想は太陽神が女神である民族にとっては、自然なことなのであろう。
日本では妻のことを『山の神』などと表現することがあるが、これは怒らせたら怖い存在のことであり尊ばざるを得ない。こんな所にも女尊男卑の伝統が見え隠れする。
その昔、大原女と呼ばれた人々には、極端な女尊男卑の習慣がみられたと伝わる。
それは外観の良い男だけを床にはべらし、後の男は土間で寝かせ、働きの悪い男は売り飛ばした。そして声を掛ける時は猫でも呼ぶように舌で「チョ、チョ」と音を出して呼んだというのだ。だとすれば、この人々はペルシャ系であったのかも知れない。

さてヒッタイト帝国から見て、太陽が昇る海はペルシャ湾しかない。彼らは良質な鉄鉱の鉱床を求めて各地に散ったのだろう。そしてトルコの首都アンカラから150キロ程度はなれた場所に良質な鉄鉱を発見したのだ。
そこに居たのは原ハッティ人であったが、彼らはヒッタイトと契約しその労働力を供給したのであろう。それは契約により成されたことであり、決して力による支配下での強制などではなかった。
それが神々の契約、つまりスサノオとアマテラスの誓約の神話に反映され、今に至っているのかも知れない。
その神話を携えた人々が既に日本に居り、そこへ同系列の秦氏が遅れて渡来して来たのであれば、今日の私達が外国人に対して抱く感情とは異なった想いで受け入れられたとしても不思議ではないのである。
そして、後の秦氏の隆盛を考えると、秦氏とはイスラエル化されたヒッタイトとでも呼ぶべき存在であったのかも知れない。


(十四)スサノオはヒッタイトの天候神
 神話のスサノオは荒ぶる神として恐れられ嫌われ、姉のアマテラスさえも彼に対して武装して身構えるという事態を呼んでいる。
スサノオが忌み嫌われるのは農耕社会から見たスサノオの働きに対する評価であり、その本来の仕事はタタラ製鉄に於いて重要な風の神なのである。
これを農耕という一面的な見地から捉えたならば、農耕に天候は重要な要素であり天候の神を祭るのは当然であると、成るであろうが、これだとスサノオが別名牛頭天王といわれ牛を象徴とすることに対する説明が付かない。
もっとも私見では農耕に於ける労働力としての牛の存在を考えると、根拠の無いものだとも言えないかも知れない。

しかしスサノオは荒ぶる神であり、天候を穏やかにする神ではない。
現在でも製鉄関係の人々の信仰を集める神社では、祭礼の時に天候が荒れるほど良いとされているという。
ともあれスサノオは本来、農耕よりも製鉄に関係する神であり、タタラに風を送る『フイゴ』は牛の皮を用いて作られた。タタラ製鉄に欠かせない風は、農耕とは相反する要素でもある。しかも強く吹けばより喜ばれる風の神であり、フイゴに用いた牛皮からその象徴を牛とするのである。
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by levin-ae-111 | 2010-07-26 05:13 | Comments(0)
追放されたスサノオはアマテラスに別れの挨拶に出向くのだが、アマテラスは高天原を弟が奪いに来たと勘違いし武装して対峙するのだ。
姉弟は天の安河を挟み向かいあって話しをする、スサノオはアマテラスに別れを告げる以外に他意の無いことを示す。
アマテラスはスサノオの剣を受け取り、天の真名井で清め、剣を三つに折りこれを噛みに噛んで口から吐き出すと、清らか三柱の女神が出現した。
スサノオはアマテラスの宝石を貰い受け、これを天の真名井で清めると噛みに噛んで口から吐き出した。するとスサノオの心を表すように、清らかな五柱の男神が現れた。
それでアマテラスはスサノオに他意の無いことを知るのである。

 ヤズルカヤ岩神殿のレリーフは、この場面を現していると水上氏は推測する。
この解釈が正しいのならば、私達の神話にヒッタイトの神話が入り込んでいる証拠となるだろう。
太陽神が女神であるとする神話は世界にも余り類がないように思うが、ヒッタイトも日本も太陽神は女神なのである。紀元前1300年頃のヒッタイト王の太陽神に対する祈祷文には太陽が海から昇るとある。
白人の学者がこの祈祷文と自分達の説の辻褄を合わせ尚且つ、ヒッタイトがアーリア人の帝国であると証明する為に、コーカサス山脈を越えてメソポタミアやトルコへ向かったとする苦しい説明を展開していることは見苦しくさえある。
太陽信仰は何もヒッタイトや日本の専売特許ではないが、白人が主張するようにアーリア人、しかもドイツ人がヒッタイトであるとすれば、彼らの何処に朝日を礼拝し、元旦に初日の出を拝む人がいるのか、太陽を女神とする慣わしは存在するのか?そんな事実は一切ない。
やはりヨーロッパ系の白人種は、ヒッタイト帝国の主役には成り得ないのだ。

烏帽子の存在や神話に加え、ここに面白いエピソードがある。
名古屋地方出身の学者が、アッカドの遺跡を調査する際に訪れた地でアジア人に風貌の似た人々に出会った。しかし言葉が通じず、つい漏らした名古屋便のボヤキが驚くことに通じたというのだ。
そこからこの研究者はシュメール人の子孫は、日本人とアラブ人だという発想を得たのだという。この人物は奇遇にもサンカ(定住せず漂泊して暮らしている人々)の子孫で、そのサンカはスサノオを穴抜けの神として信仰しているという。
これは恐らく、洞穴などの穴式住居から抜け出した遠い祖先の記憶が反映されたものであろう。この学者はスサノオ信仰については知らないとされているが、それでも名古屋地方のサンカは『八』と呼ばれていたという。恐らくはハッティのことであろう。
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by levin-ae-111 | 2010-07-25 05:56 | Comments(0)
ヒッタイトの製鉄技術の高さは、インドのクトプ・ミナール寺院の鉄柱が示している。酸化防止の手段として黒さびを付けたその鉄柱は、精錬技術の高さを物語るように1500年も経た現代でも錆びずに現存している。
この柱は地上7メートルの高さがあり、伝説では大地を支配するヘビの首に突き刺してあるという。神話ではヒッタイトの人々は、ヘビを嫌うのである。
それにしてもこれ程の技術を持った人々の帽子が、日本の権力の中心に伝わっているとなれば、ユダヤ同様にヒッタイト文明の日本文化への影響を想わずにはいられない。
ヒッタイト人は紛れもなく、私達の祖先であるのだ。
旧約聖書ではカナンの人々は、四方の壁に穴を開ける(窓)は悪霊を招き入れるとして嫌うのだが、ヒッタイトの人々は積極的に太陽の光を屋内に取り入れるように窓を設けた。
これを今日的に解釈すれば、ヒッタイトが太陽信仰を持っていた証にもなろう。
ヒッタイト帝国の首都『ハットウシャッシュ』の近くに、『ヤズルカヤの岩神殿』がある。

その岩神殿は岩盤を掘削して造られているが、その壁面には興味深いレリーフが刻まれている。男性の列と女性の列が二つの部屋の端で、向かい合う形式でかれている。
この岩神殿は、天候神と太陽の女神が出会う会見の場所なのである。
白人の研究者はこれを天候神と太陽神の結婚の場面だと解釈しているらしいが、私達には神話にある別の場面が想い浮かぶのである。

それはスサノオが姉であるアマテラスの許へ、父のイザナギにより追放されたことを報告しに向かい、警戒した姉に他心がないことを証明する儀式を行った日本神話のあの場面である。
神話では姉であるアマテラスは高天原を、弟は地上を治めるようにと父であるイザナギに命じられる。
スサノオは冥界に行ってしまった母イザナミを恋しがり、嫌々ながら向かった地上で泣き続けた。その凄まじい悲しみにより、地上の海も河も全て彼の涙となって流れ草木は枯れてしまう。父であるイザナギが心配し訳を尋ねるが、訳を知ったイザナギは却って激怒しスサノオを地上から追放する。

 追放されたスサノオはアマテラスに別れの挨拶に出向くのだが、アマテラスは高天原を弟が奪いに来たと勘違いし武装して対峙するのだ。
姉弟は天の安河を挟み向かいあって話しをする、スサノオはアマテラスに別れを告げる以外に他意の無いことを示す。
アマテラスはスサノオの剣を受け取り、天の真名井で清め、剣を三つに折りこれを噛みに噛んで口から吐き出すと、清らか三柱の女神が出現した。
スサノオはアマテラスの宝石を貰い受け、これを天の真名井で清めると噛みに噛んで口から吐き出した。するとスサノオの心を表すように、清らかな五柱の男神が現れた。
それでアマテラスはスサノオに他意の無いことを知るのである
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by levin-ae-111 | 2010-07-24 06:37 | Comments(2)
丈夫な鉄製農具を手にしたヒッタイトは、その生産性を飛躍的に向上させたことだろう。
古代では十分な食料確保こそが民族の繁栄にとって最も大きな要素であり、ヒッタイトは十分な勢力を蓄えることが出来た。
最初は交易を考えたであろうヒッタイトも、もっと手っ取り早い富の蓄積方法があると考えだした。それは、侵略と略奪である。
メソポタミアを押さえ、強大なエジプトに戦いを挑むには膨大な兵士が必要となる。

そこで彼らが目を付けたのがアーリア人種だった。暗い森の中で原始的な生活を営んでいた彼らは体格も大きく、力が強く野蛮であった。この未開人を飼い慣らし、兵士として使用することを思い付いたのはヒッタイトの中のフリル人であったろう。騎馬民族である彼らは、最も簡単で儲けの多い略奪をヒッタイトの政策に持ち込んだのだ。
こうしてヨーロッパ系の白人は支配層ではなく、まして記録が残ることも無い兵卒としてヒッタイト帝国の一員に加えられた程度のことに過ぎなかったのであろう。
結局はエジプトを破るという野望は叶えられず、前述の和平条約となるのだが、ヒッタイトにも最後の時が訪れた。海洋民族といわれるペリシテ人の祖先の前に破れたのだ。
この頃には恐らく鉄は主な国々に行き渡っていたろうし、ヒッタイトの特産もその神通力を失っていたのだろう。鉄というアドバンテージを失ったヒッタイトは、押し寄せる海洋民族の前に膝を屈したのだ。
ヒッタイトの民が再び歴史にその姿を現すのは、後にアレクサンダーが台頭するまで待たねばならなかった。


(十三)日本神話に見るヒッタイト
 ヒッタイト帝国は多くの民族の寄せ集めで構成された寄り合い所帯だった為か、一旦滅亡するとそのカケラも無い程に離散し消滅してしまった。トルコで遺跡が発見されるまで、その痕跡は聖書の中に見られるのみだった。
しかしヒッタイトの長い帽子はフリギア帽として伝わったが、それはギリシャ時代に不恰好で可笑しいと揶揄され捨て去られてしまった。
その帽子の起源は恐らく鍛冶作業で火の粉を防ぐ目的があったのであろうが、ヨーロッパでは前述のごとく消滅した。しかし、それが伝わっている国がある。
しかも上流階級の正装として、古来より伝わる王朝の儀式に現在もその帽子を見ることが出来る。
その国とは、他ならぬ日本である。
皇室の儀式に必要な正装として被られている烏帽子は、まさしくこのヒッタイトのフリキア帽なのである。
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by levin-ae-111 | 2010-07-23 05:25 | Comments(0)
これらの研究からヒッタイトはヨーロッパ系の白人であったと一旦は認定され、輝かしい古代史を持たなかったヨーロッパの人々に祖先の栄光の歴史をもたらしたと考えられたのだった。
しかしチェコ人学者がヒッタイトはヨーロッパ系と発表してから、僅かな後に発表されたスイス人学者の論文はヨーロッパの人々の喜びを束の間の夢に変えてしまう。
スイス人言語学者は遺跡を再調査した結果、発見された粘土板には少なくとも八つの言語が刻まれており、それまでヒッタイト語とされていたものはその中の一つに過ぎないと発表したのだ。
八つの言語とはシュメール語、アッカド語、原インド語、フリル語、原ハッティ語、ルヴィア語、パーラー語そして最初にヒッタイト語と認定されていたカネシュ語である。

それはヒッタイトに於いてヨーロッパ系の白人種が全体の支配者ではなかったという結論に繋がるものであり、メソポタミアで活躍した人種を考えると白人種はその一部ではあっても、決して主役たり得ないことを示唆するものであった。
 この他には水上氏がエジプト人の肖像について、ヨーロッパ人学者が見落とした重要な点を指摘している。それは目の形であるのだが、細く吊り上った目は日本人のそれであり、決してヨーロッパ人のそれではない。

白人種がヒッタイトの支配者でないばかりか、それが八つにも分かれてしまい、しかも白人種が名乗っていたと解釈されていた『ハッティ』とは、被征服民族の名であった。
このことは学者たちを混乱と困惑に陥れた。
勝者である征服者が、突然に被征服者の名を名乗るとは経験上、在り得ないというのだ。しかし、本当のところハッティは被征服民族ではなく、ヒッタイトの支配層に名を連ねていた民族であった。
水上氏が言うように彼らアーリア人の考えの狭量さには呆れてしまう。自分たちが勝者であり、征服者であり帝国を築いていたのだとする考えから離れられないのである。
傲慢で利己的な白人種の根底に在るこの偏狭で傲慢な考えが、如何に世界に暗い影を落としてきたのか、絶え間ない戦争と支配の近代人類史を見れば一目瞭然である。

 ヒッタイトは八つの言語に代表されるように、複数民族の合体集合した帝国であったのだろう。そして鉄の文明として世界に打って出たのだが、その当時の世界は青銅文明であり強くて丈夫な鉄がヒッタイトに栄光をもたらしたのだ。
従ってヒッタイトの支配層は、鉄を精錬加工する鍛冶技術を持った人々であったろう。
この鍛冶師たちが『アマツタタラ』であり、卓越した航海術を用いて外国にも鉱山を求めて旅をしたのだろうと、水上氏は述べている。
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by levin-ae-111 | 2010-07-22 05:37 | Comments(0)