身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


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<   2011年 07月 ( 31 )   > この月の画像一覧

 豊臣政権党は秀吉の死去で揺れていた。代わりに息子である豊臣秀頼を擁立し、豊臣政権を維持しようとする石田三成や前田利家と天下の支配権を手中にしたい徳川家康との間で争いが始まった。
この両派は全国の有力代大名に味方に付く様に様々に説得工作を繰り広げる。

豊臣家の前途を案じながら前田利家が死去すると、徳川家康の攻勢は強まり、石田官三等は有力代大名とのトラブルを理由に解任され、領地の沢山に蟄居させられる。
一方で家康は五大老筆頭として伏見城に入り、いよいよ徳川政権の実現へと動き出す。家康は天下を狙っている事は、誰の目にも疑いようが無いがそこは狸爺の家康のこと、建前はあくまでも御曹司、豊臣秀頼を擁立し党を守る為としている。

だが石田三成も動きを止めず、御曹司秀頼の出陣を喧伝し有力代大名を味方につけていく。上杉景勝、毛利輝元、小早川秀秋、島津義弘らが賛同し、毛利輝元を派閥の領袖に担ぎあげた。小領主で今や奉行ですらなくなった自分よりも、大大名である毛利輝元の方が大将に相応しいと考えたのだろう (諸将に石田三成は不人気だった)。

家康方は秀吉子飼いの福島や黒田などを抱きこみ、彼らに自分の大儀を信じ込ませた。
家康は伏見から大阪へ移り、いよいよその政権への欲望を露わにし、反対勢力の反感を募らせておいてから、大阪を去り江戸へ閉じ篭ってしまう。
無論、各代大名への説得工作と密約をより頻繁に行うためであり、反対勢力の決起を促すためでもあった。江戸に戻った家康は、この間に多くの書状をしたためたという。

更に決定的な仕掛けとして、家康は時期を見て上杉征伐に出陣し、わざと自分の背後を狙わせ三成の挙兵を誘う。
それに乗った三成が挙兵し、それに対して福島正則を先頭に戦端を開かせ、自分は江戸に引き返してのんびりと頃合を見計らっていた。福島らは強く、石田方の戦略は次々と潰えていく。

加えて御曹司、秀頼の出陣は遂に無く、石田方の意気は上がらない。大将に担ぎ上げた毛利輝元は家康退去の後に入った大阪城を出ず、現場には姿を見せない(全く何を考えているのか。やる気ゼロ?)。
三成らは大垣市(岐阜県)と岐阜市を結ぶラインを最終防衛ラインとしていたが、これもあっさりと突破されてしまう。

一方で大将たる家康の出陣が無いことに、福島をはじめとする東軍諸将は不満を募らせつつあったが、それもまた家康の策略の内だった。家康の出陣を望む声が高まった頃、満を持した家康の出陣で、東軍の勢いは更に増し西進の速度も自然と速まる。

慌てた三成も軍を東進させ、期せずして(三成にとって)両軍は関ケ原での決戦に及ぶのだった。西暦1600年、天下分け目の総裁選挙の始まりである。
後年の面白いエピソードには、こんな話しがある。関ケ原の布陣を見せられて、どちらが勝利したかと問われたドイツ軍仕官は「間違いなく西軍」と答えたという。
布陣だけなら、誰でもそう思うに違いない。
周囲の山上から東軍を包み込むように布陣した西軍に対し、東軍は平野部に布陣しており完全に包囲されている形だからだ。

その常識的な見解とは異なる結果に終わった事は皆さんご存知だろうが、どうして毛利輝元は動かなかったか、何故に豊臣秀頼は出撃しなかったのだろう。
勿論、負ければ命が無いので、石田方の勝利に確信が持てなかったのだろうが、これでは勝てる目は最初から無い。石田三成が誰の為に決起したのか、坊ちゃまには判らなかったらしい(お母さんの過保護が祟ったのかな)。秀頼が三成に付けば、家康は賊軍となり戦の大儀名分を無くする。従って、福島など豊臣恩顧の武将たちが集って来た可能性も高いと思われるからだ。

毛利輝元は一族の間で東西どちらに付くか意見が分かれており、こちらも悩まししい立場にいたらしい。毛利両川といわれる吉川(広家)と小早川(秀秋)が対立しており、輝元としては中立か日和見を決め込みたかったに違いない。それが総大将に担がれて、内心は困っていたのかも知れない。彼は結局、戦場に向かわず静観していた。

 両軍がそれぞれに前進した結果、関ヶ原が戦場として設定された。
周囲の山は西軍が占拠して陣張りし、東軍は低地でそれを見上げる形で布陣した。
西軍と直接対峙する前線には、福島、藤堂、京極、細川、加藤、黒田などの精鋭が轡(くつわ)を並べて陣を敷いた。西軍では後に寝返る脇坂、朽木、赤座、小川の各将が東軍に最も近く布陣し、その後方の山上に小早川軍が控えていた。

西軍からみて右翼に寝返った軍勢が集中して布陣しており、真の西軍はその後ろに大谷吉継が居るだけであった。大谷勢は後に乱戦の中で奮闘し、全滅してしまう。
さて戦闘開始は現在の暦で10月15日、午前8時に始まったとされる。
鉄砲隊の銃撃戦から始まり、長槍隊の小競り合い、そして騎馬隊の突撃と当時としてはオーソドックスな順序で闘いは進行していった。
縷々たる屍を残して終了したのは、午後2時過ぎといわれている。

戦況は一進一退だったが、小早川勢の裏切りにより均衡は破れ、流れは大きく東軍へ傾く。大谷隊の腹背を突く様に突撃した小早川勢に対し、小勢の大谷隊は奮戦したが遂に全滅。
やがて東軍の攻勢に耐えられず、次々と西軍の諸隊は退却を開始する。
三成の片腕、島左近も戦死し西軍は総崩れとなり、三成は沢山城を目指すも遂に捕縛され処刑された。

特筆すべきは敗走する西軍の中にあって、中央突破を図り堂々と退却した島津軍であろう。
島津義弘は軍議で夜襲を主張したが、三成等に入れられずヘソを曲げていた。従って三成の参戦要請を無視し続け、戦闘に参加せず戦力を温存していた。
勿論、島津勢が中央突破での脱出を考えたのには訳がある。それは敗走する西軍を追って、東軍各隊が左右に散っていたからである。
この隙を突いた島津隊が、タイミング良く手薄となった中央への突破を試みて見事に成功したのである。

両軍あわせて16万人の兵力が激突、といえば壮大だが実際に戦った部隊はそう多くない。
一説には死者は6000人(これでも大量死だが)で、多くの大名は優勢な方に付こうと戦況を見ていたのだろう。
戦後処理は戦闘に参加しなかった上杉、島津、毛利は移封による減封で済まされているが、実戦参加した石田、小西、浮田、長宗我部らは取り潰しになっている。
それにしても、上杉や毛利は天下を狙う気が無かったのだろうか?狙っていたとすれば、この有力な大名達の動きは余りにも鈍いと謂わざるを得ない。
戦国大名たちも、やはり本音では平和を望んでいたということなのだろう。
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by levin-ae-111 | 2011-07-31 08:09 | Comments(0)
 「むざんやな兜の下のきりぎりす」これは、松雄芭蕉の句である。
この句は芭蕉が石川県小松市の多太神社を訪れた時に詠んだものだ。神社には斉藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)が、篠原合戦の際に着用していたと伝わる兜が奉納されている。
それを見た芭蕉が老齢にも関わらず、合戦に参加し戦死した実盛を偲んでこの句を読んだ。

倶利伽羅(くりから)合戦で敗れた平家軍だったが、平維盛(たいらのこれもり)の指揮する軍勢は未だに義仲の軍勢を上回る。加賀まで後退して建て直しを図った維盛だったが、土地勘の優れた地元武士団により突破口を開かれ、浮き足だった平家軍は一気に瓦解した。

義仲軍に追われ逃げるのが精一杯の平家軍にあって、ただ一騎のみ華麗な鎧兜を身に纏った武者が踏み止まっている。
さぞ名の在る武将と思った義仲軍の武者が、挑んで組み付くとこの武将は弱く、あっさりと首を取られてしまった。首をよく見ると髪は黒いものの顔は皺が深く、相当な老齢である事が判った。その戦死した人物こそ、斉藤別当実盛その人である。

実盛は木曽義仲にとって、幼少の砌(みぎり)に大恩のある人物であった。義仲を逃がし、木曽との縁を結んでくれた人である。当時は源義朝に仕え義朝が滅亡すると諸国を流浪したが、最後には平家に仕えていたのである。この時は平維盛の軍に加わり、戦場での華やかな最後を望んでいたのだろう。齢は七十を越えていた実盛は白髪を染め、ひと際目立つ鎧を身に付けかって命を助けた木曽義仲(源義仲)の軍に立ちはだかったのだった。

実盛が安楽な老後を求めていたならば、義仲の許を訪ねれば良い。だが武士としての矜持がそれを許さなかったのか、元は源氏に仕えながら今は平家に仕えている身の上を恥じたのか。どちらにしても、実盛は死に場所を求めていたとしか思えない。
老齢の武人が責めても成長した義仲の率いる軍に討たれる事で、最後の死に華を咲かせようとしたのだろうか。

数十年前に自分が逃がした子供が、立派な御大将として数万の軍を率いて決起した。
そういう知らせを耳にしたその時に、実盛は己の死に場所を見出したのだろう。
その心境は複雑なものであったろうし、恩人の実盛を殺した義仲にしても切ない気持ちであったろう。
立派な兜の下には深い皺を刻んだ老人の顔、芭蕉はそれを「きりぎりす」と詠んだ。
切なさの中にも仄かな喜びを抱いていたかも知れない実盛。その心をも見事に表現していると感じさせる。
多太神社に実盛の兜を奉納したのは、木曽義仲だと伝えられている。
敵の兜を奉納したその事実に、義仲の実盛に対する切ない想いが伺える。

その後も各地で連敗を重ねた平家は、壇ノ浦で遂に滅亡してしまう。その平家を滅亡させた源氏の義経、義仲もまた頼朝により滅ぼされる。武士でありながら、貴族たらんと望んだ平家の人々に代わり、頼朝は初めて本格的な武家政権を創り上げる。
当時は田舎であった関東の鎌倉に幕府を開いた頼朝。そこには平家との違いを明確にし、貴族社会と一線を画す頼朝の決意が込められていたのかも知れない。
しかし、その政権内でも源氏の血は続かず北条氏へと実権は移っていくのである。

 現在は歴史の一場面として語られる出来事には、人々の様々な思いが込められている。今は静かな佇まいを見せる史跡には、当時の人々の生きた証が刻まれている。
私は史跡を訪ねる時に、その史跡そのものよりも当時の人々の生活振りや思いにより興味をそそられる。この場面、私ならどう考え行動するかと、想像してみる。
しかしそれも所詮は後世の人間の考えであり、歴史的事実をある程度俯瞰する事ができる特権に浴した考えであるのだ。

 歴史に想いを馳せる時、いつもある想いが脳裏を過る。それは私たちの文化に対して後の世で歴史として振り返ってくれる人々が果たして存在するであろうか、という一抹の不安である。時代はもはや人間の生きた痕跡など残さないかも知れない。
人類の絶えざる攻防の果ての結末は、どうなるのだろう。僕がそれを目の当たりにする事態は在り得るのか。諸説紛々としているが、真実は闇の中なのである。
確かなことは、私たちが今を精一杯に生きることが肝要であるという事だけである。

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by levin-ae-111 | 2011-07-30 07:43 | Comments(0)
 久し振りに喜文治さんと、ご対面。
ラッキーにも執筆者に名を連ねさせて貰った書籍をお渡しし、近況など様々な話しをさせて頂いた。
彼に背中を押されて、ハテナの販売元を訪問し、チャネリングメッセージを書き綴った原稿を代表者の方にお渡ししてから、もう暫くで一年になろうとしている。
例え一部の執筆にしても本を出せたという思いも掛けない結果に驚き、喜んで下さった。

コーヒーを飲みながら、世界情勢や日本について語り合う。戦後から始まったと思っていたワンワールド主義者たちの日本支配は、それ以上前から用意周到に練られたものであったらしい。
どれくらい前か?どうも明治維新以前からという説がある。
今ブームの維新の志士、坂本竜馬をはじめとする下級武士が何故に突如として歴史の表舞台に立てたのだろうか。
その陰にはグラバーが関与していたらしく、グラバーはイギリス政府の命令を受けていた。
クラバー自身にとっても、自由なビジネスを展開するには幕府が邪魔であった。
という内容の書籍「竜馬の黒幕」が面白いという話しを聞いた。

確かに田舎侍のしかも郷士でしかない者が、いかに才能に溢れていたとはいえ、いきなり世界を視野にいれた発想が可能なものなのか、との疑問はこれで氷解する。
船や海援隊、亀山社中といった組織は、設立にも運営にもお金が掛かる。一介の浪人が何処からその資金を用意したのか。
親切ごかしのグラバーに操られ、指示と援助を受けていた可能性が高い。それでも意見が対立すると、あっさりと殺害されてしまう。
グラバー等の真実の狙いは、日本という新しい市場に兵器を売り込むことだった。勿論、平和な国には兵器など不要であるから、倒幕という口実を設けて内戦を発生させたのである。一方で幕府側にも兵器を売りつける。フランスやイギリスは、この時点で兵器の売り込みに余念がない。
竜馬殺害の実行者は恐らく、中岡慎太郎であろう。いきなり切り掛かる中岡に、竜馬はピストルで応戦、だが致命傷を受けて絶命。中岡の身体には無数の切り傷があったそうだが、恐らくは銃傷を隠すための細工だろうとその本では推論しているとも聞いた。

それから山本五十六元帥は、何故に同盟国ドイツに歩調を合わせてソ連を攻めなかったのか。北方から日本が攻め上れば、ソ連は二正面作戦を取らざるを得ず日独の前に膝を屈したかも知れないというのに。
真珠湾の奇襲作戦でも、攻撃隊は膨大な貯蔵燃料には目もくれず旧式の戦艦を沈めて大喜びしている。燃料貯蔵庫を破壊すれば、港湾施設を狙っていたなら、アメリカ太平洋艦隊は本当に壊滅したかも知れない。

これからは航空機の時代と言いながら、航空母艦を増やさず、新型の航空機の開発も遅れ結局は制空権を奪われアメリカに蹂躙されてしまった。
山本元帥は先見の目を持って開戦に最後まで反対し、仕方なく真珠湾攻撃の賭けに出た名将として評価されている。
しかし、この様な事実を検証してみると、本気で戦争の勝利を望んでいたのかと、疑いたくなる。緒戦の勝利で講和を、などとは夢物語だと十分に熟知していただろうに。
山本は大使館付き武官として、若き頃にアメリカへ赴任した経歴を持っている。
彼のアメリカ赴任時代に何があったのか。アメリカは光輝く理想的な国家として、青年山本の目に映ったとしても不思議ではない。
そして、その様な近代国家へと日本を変容させたいと思ったかも知れない。その様な考えを抱いた将来有望な青年仕官に、死の商人たちが目を付けるのも頷ける。恐らくは彼らによってワンワールド志向へと洗脳でもされていたのだろう。

この歴史の地下で不気味に蠢く潮流は、今も勢いを増しつつ流れ続けている。彼らは政治経済の操作は無論のこと、商売の為ならば殺人も厭わない。紛争やテロの火種となる状況を自ら自作しつつ、せっせと商売に精を出す。
 そうした彼らの動向が産み出したのが、戦争の世紀といわれる20世紀であった。より強力な殺傷力を持った兵器が、世界中で大量の犠牲者を生み出した。その結果、国家同士の戦いが頭打ちになると、今度は内戦、民族紛争、対テロなど様々に背景を変化させて兵器の売り込みを続けているのである。敵味方を選ばず兵器を売りつける彼らのせいで、アメリカ製の武器でアメリカ兵が撃たれる、そんな事態も発生することになる。
その彼らの拠点とした国がアメリカであったが、アメリカを食い潰した後は何処へ移って行くのだろうか。どうやら彼等にとって如何なる国家も宿主以上の意味はないらしい。

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by levin-ae-111 | 2011-07-29 08:09 | Comments(2)
 久しぶりに本を買いました、しかもコンビニで。
関裕二氏著の「古代史、封印された謎を解く」です。内容は卑弥呼から桓武天皇までと範囲がけっこう広いものです。関心もあるし休みで暇なので、つい買ってしまいました。
正史として扱われている事実がいかに歪められているか、著者の研究を基に様々な角度から検証し推理されています。この類の本は沢山あるのですが、要は支配権を握った時々の王朝により真実の歴史が歪められ、捏造されているといった内容です。
一々に尤もと感じるのですが、この時代になっても知るべき歴史の真実が解明されておらず、それが日本人の事なかれ主義な性格と相まって現代日本のあやふやな歴史観へと繋がっていると感じます。
この本では最後に日本古来の宗教観にも触れていますが、著者の見解で日本本来の宗教観は神道ではなく修験道にこそ受け継がれているとしています。著者によれば神道とは「藤原神道」であり8世紀に創作されたものとしています。
本来は男神であった天照大神もこの頃に女神に変更されたとしています。確かにそうかも知れません。陰陽でいえば陽であるはずの太陽が陰である女性を象徴としているのは確かに変です。月こそは女性性の象徴だと思うのですが、月読み命は余りに軽視されていて、神話でもチラッと触れられている程度です。
まあどちらにしても、確たる歴史を知らない日本人が不幸であることに変わりはないと感じます。自分たちの歴史を知らず、その時々の権力の説く尤もらしい史観に操られてきたのが日本人ではないでしょうか。
先の大戦では「神風」の美名の下に幾多の若者が命を散らしています。この神風とは鎌倉時代の元寇を、幸運にも台風により切り抜けられた史実をいいます。偶然にも襲来した台風が船で待機していたモンゴル帝国軍に大打撃を与え、撤退へと追い込んだのでした。鎌倉時代当時「神風」と呼称したかどうか知りませんが、軍部はこの史実を利用して若者たちに国を守る「神風」となれ、と強要したのです。

 現在でも日本人の歴史的視点の欠如が、大戦から60余年を経てなおもアジア諸国から軽蔑され続けている原因と思えてならないのです。明治維新以来、列強に追いつけ追い越せで走り続け、日本人らしさを捨て続けてきました。維新の開国以後は日本人を知った世界の人々は、その穏やかさ、教養の高さ、礼儀正しさ、親切さなどに驚き高く評価していたのです。その頃の残光が、湾岸戦争勃発の折に手を束ねていた日本政府に代わってトルコ共和国が日本人の脱出を命懸けで手助けしてくれた原動力となりました。
トルコは首相自らの指示で現地日本人の救出にトルコ航空機を飛ばし、日本人を救出してくれました。その理由は遥かな昔に日本で遭難したトルコ軍艦の乗員を漁村の人々が助けていたからです。貧しい漁民たちでしたが、自らの食物も救出したトルコ人に差し出しました。後には寄付を募り、乗組員の遺族へ渡したりもしています。この恩義を彼らは忘れていなかったのです、だから命懸けで日本人を救ってくれたのです。この世界に輝く先祖の偉業を歴史では教えていません。
助けに向かったトルコの人々は無論、知っていました。飛行機のクルーたちは政府の呼びかけに応え、志願してイラクに向かったのでした。救出された日本人は「何故にトルコ航空?」と思ったことでしょう。
また大戦中の総領事「杉原千畝」氏が手書きのビザを発行し続け、多くのユダヤ人の脱出を助けた事実を何故、教科書に載せないのでしょうか。外国、殊にユダヤの人々の間では、あのシンドラーと並ぶ恩人として今もなお賞賛されています。杉原氏は帰国後に裏切り者として蔑視され、不遇のうちに生涯を終えています。彼は日本人としてより、人間として成すべきことを成したのでしたが、その根底には良心に忠実であろうとした気高い日本人の本来の姿がありました。
このような歴史的事実をしっかりと学び、自分たちが何者であるかをしっかりと知らねばなりません。これは民衆に限らず政治や行政を指揮する人々にこそ必要です。
自己の基盤に確たる民族の歴史が存在すれば、国際問題への対応も異なってくると思います。それとも、国民が自国の正しい歴史を認識することが、何ら加の不都合をもたらすのでしょうか。
歴史は所詮過去の出来事といわれるかも知れませんが、それなら何故に歴史学が存在し私達の興味を引き続けるのでしょうか。何故に過去の出来事の真実が明かされないのでしょうか。
自分たちの歴史を知らないことは、精神的に貧しいとことと感じます。精神的貧しさは誇りを持てない人間へと繋がります。
現代の様々な問題の根底には、誇りなき日本人の姿が見える気がするのです。

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by levin-ae-111 | 2011-07-28 05:28 | Comments(2)

 大正7年8月に米価の異常な高騰に業を煮やした主婦を中心とした富山の民衆が、歴史に残る騒動を起した。俗に言う「米騒動」である。
当時の日本は第一次世界大戦の連合国側として参戦しており、戦時下で貿易額も減少していたが戦争が激化し長引くうちに状況は一変する。

参戦といっても国土にダメージの無い日本は、兵站(軍需物資の補給)の拠点として急激に輸出を増やしていった。空前の戦争景気で「戦争成金」や「船成金」と呼ばれる人々が誕生し、日本は負債国から債権国へと短期間の内に経済的な転換を果たした。
しかし、その一方で庶民は著しい物価の高騰に苦しむこととなる。多くの物資が輸出へと振り向けられ、国内向けの物資も次々と輸出されていたからである。

全ての物価が上昇する中でも主食たる「米」の値段は、2年で2倍以上にも高騰する。原因は需要を見越した商人たちの買占めで、それにつれて味噌、醤油、塩、砂糖、種油などの生活必需品も短期間に著しく高騰したのである。
米騒動の震源地である現在の富山県滑川市(なめりかわ)から魚津市にかけての富山県東部では、漁民が多く季節柄、不漁が続く夏でもあり生活苦に拍車を掛ける状況であった。

大正7年の資料では米一升が24銭5里であったものが、年末には43銭にも値上がりしている。当時、漁民の一日の収入は約50銭で、家族の人数が平均5.7人となっているからとても生活できるレベルの収入ではない。漁師は一日で1升程度の米が必要な重労働で、これでは自分の分しか賄えない。無論、主婦たちも懸命に内職に精を出し家計を支えようとした。
米の積み出しの手伝いや各種工場で働いた。米の積み出しでは60Kgもの米俵を担ぐのだが、そんな辛い仕事にも女性たちは進んで就労していたのだ。その重労働も完全歩合制で、一つ運んでも1銭1理しか貰えず、せいぜい20銭程度の収入にしかならなかった。
子供たちも働き、薬の紙包みや袋張りなどの仕事で家計を助けていた。

米価が2倍以上に高騰し、働いても賃金は上がらず人々の生活はいよいよ苦境の色を増し生存を賭けた女たちの抵抗が始まった。最初は5、6名で手分けして米問屋や米穀商へ涙ながらに懇願して回るという穏やかなものだった。その趣旨は米が移出されるから品薄となり、米価が高騰するのであるから米の移出を中止して、以前のように米を廉価で販売して欲しいと言うものだった。
しかし商人たちの反応は冷たく、横柄で馬鹿にした態度で相手にもしなかった。

女性たちは示し合わせて大人数で嘆願を繰り返すが、商人の態度は相変らずで女性たちの憤慨は増すばかりだった。米の移出は相変らず続き、騒ぎは頻発するようになる。
警察は警戒を強め監視を常時付ける、行政は輸入米を調達しチラシを出して安く売るなどの手立てを講ずるが焼け石に水であった。一度は輸入出来た米も、需要の拡大で富山の注文分は届かない。人々の生活はより困窮し、生きる為により過激行動に出るようになる。

最初は100名程度だったが、遂には2000名にも群集は膨れ上がった。これは漁民の主婦だけでなく他の労働者もこれに加わり老若男女を問わず集りだした為だ。
公務員の一月の給与が20円前後で、米一升が43銭なら一般労働者の賃金(男性でも330日就業・1日10時間労働で1円前後の日給。女性はその半分)を考えても到底生活できるものではない。

人々の請願にも関わらず米移出の船が入港し、人々は遂に実力で阻止に出る。
艀(はしけ) の下に子供を抱いてもぐり艀を使用出来なくし、荷積みを待つ船を退去させたりした。それでも移出の船はやって来る、遂に人々の怒りは爆発してしまう。
この時点で騒ぎの主導は主婦から漁師、一般労働者へと移り参加者は更に拡大する。

警察は騒動の中心と目される人物を相次いで逮捕、拘束する。だが釈放を求める1000名以上もの群衆が警察署へ押しかけ、罵声と共に投石を繰り返し警官たちも手を付けられず傍観するしかなかった。

米問屋や米穀商へも民衆が押し寄せ、押しかけ、打ち壊しへと事態は深刻化する。
しかし騒ぎは次第に沈静化し、米の廉売も始まりこの地方での騒動はほぼ終わった。
だが、騒動は富山市、名古屋市、和歌山県、京都、大阪と飛び火し、急速に全国を席捲し史上かってない大騒動へと発展して行った。
「全国的に同じ状況だったから、自然にそうなったのだと思う」と老婆たちが語ったという。
この騒動は遂に当時の寺内内閣を崩壊させ、原政党内閣の誕生へと繋がっていった。
僅か数日のこの騒動だったが、日本の政治中枢にまで影響を及ぼしたのである。
十月に入り富山県最後の騒動が泊町と宮崎村(ヒスイ海岸として有名)発生した。
そしてこの騒動の最中には滑川普通選挙期制同盟会が発足し「物価の暴貴は生活不安を煽り、社会人心に一大動揺を来たす恐れあり、就中米価の暴騰は国民の心身を害するに甚だし(以下略)」との決議文を原敬総理や農商務省大臣その他へと打電している。
この滑川発の声明は、日本近代社会における最初の社会問題意識の発現であるだろう。

米騒動は生活苦に喘ぐ家庭の主婦層から発して、全国へと瞬く間に拡大し内閣交代という事態まで発展した。無論、彼女たちの望みはそんな事でなく米の廉価販売だったのであり生活の為に儘ならずとった行動であった。
だがここに大衆の大いなるパワーの存在を見出すことが出来る。パワーは本来的に大衆のものであり、それをいかに削ぐか為政者が常に苦心してきた部分でもある。
先人が苦労して勝ち得た選挙権や婦人参政権なのだが、為政者は更なるトリックで大衆のコントロールを試み続けている。
「大衆は生かさず、殺さず」が彼らの本心だろう。一人ひとりに余りに無力だと思い込ませる事もまた、コントロールの一環である。大正時代の米騒動は単に歴史上のトピックスに止まらず、真実民衆の力が存在する事の証なのである。

【参考文献】
著者  :斉藤弥一郎  米騒動
発行者 :斉藤弥一郎遺著刊行会
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by levin-ae-111 | 2011-07-27 05:15 | Comments(0)

私の心霊体験

2009年11月のリバイバル
 猛暑続きなので、涼しくなって戴くために、今日は安易に心霊体験です。幽霊は怖いけど、本当のところ、私の体験では余り怖くありません。
あれは忘れもしない高2の出来事でした。野球部に所属していた僕は練習が終わり帰宅するとすぐに風呂、飯で少しTVを観て寝る生活を繰り返していました。
 その日もいつも通りに床に入り、朝まで爆睡するはずでした。ところがその日に限って夜中にパッチリと目覚めたのです。
廊下を隔てた弟の部屋からは深夜番組のオールナイトニッポンがクリアに聞こえていました。しばらくはラジオ番組を聴いていたのですが、下から階段を上る足音が聞こえてきました。全く普通の足音で僕は「両親のどちらかが見回りに来た」と思っていました。足音が近づき、廊下に着いた途端にラジオはノイズだけになってしまいました。
怪訝に思いふすまを見つめていると、タバコの煙状の細かなモヤが引き戸の隙間から出ています。なおも見つめていると、それは濃度を増して、次第に人型にまとまっていきます。
「え~っ」と思いつつも目が離せず凝視していると、どうやら和服の女性らしき姿が浮かんできました。「ヤバイ!!」とっさに布団に潜り込み、様子を伺います。人の居る気配!しかもこちらに近づいて来ている。もう布団の端に来た、と感じたその時に足先から痺れだして頭のてっぺんまで麻痺。「これが金縛り!!」
 どうにも動けず、助けを呼ぼうにも声が出ない。金縛りが続いた時間は不明ですが、解けた後で時計を見ると午前3時ちょうどでした。怖くて布団から出られず振るえているうち再び眠り込んだようでした。気がつくと朝になっていて、僕は家族に体験を話し翌日からは違う部屋で寝ることにしました。それからは何も起こらず、体験から4日目に自室で眠りました。ところが・・・・
また3時にお目目パッチリで金縛り。今度は恐れつつも必死の抵抗を試みました
手足、指、声、どれも以前と同じで機能しませんでした。そして次の晩もやはり3時に起床(笑い)。
「来る」と思って身構え金縛り対策を試みましたが、全く金縛り中には動けず。
また次の日もと覚悟していましたが、意志の通じない僕に何かを伝えようとするのを諦めたのか幽霊は現れませんでした。
 二日目からは幽霊さんは金縛りにするだけで無害なので、恐怖心はかなり減少しました。怖がらなくなったから、相手もつまらなくなったのでしょうか。それで手を抜いたのか、二日目からは姿を見せず金縛りだけになってしまいました。
  
これが私の心霊体験ですが、大して怖くないでしょう。僕が最近思うことは、生きている生身の人間の方が幽霊よりも余程恐ろしいという事です。
爆破事件や銃の乱射、殺人事件、イジメ、最近の原発事故など、この世ほど恐ろしい場所も無いのかも知れません。

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by levin-ae-111 | 2011-07-26 05:16 | Comments(2)

友人との語らい

 今日は久し振りに友人が、我が家にやって来た。ブログや日記に最近までアップしていた千賀一生さんの著書を貸してくれた人である。記事は60回を数えているので、約2ヶ月振りに会ったことになる。
 互いの近況などを話しながら、自然と話題はスピリチュアルな方面へと流れる。ネット上にアップした宮司さんご夫妻の事などを話しながら、不思議に私は苛だちを覚えている自分に気付いた。
多くの話題で共通する見解を持つ私たちだが、今日は何だか少し勝手が違う気がた。
話しの割合は友人を8とすれば、私が2程度の割合だ。何時もそんな風なので、それは別に気にならない。多くの場合で、私が聞き役に回っているのが常だからだ。

 何時もは私が2割程度の発言でも、彼には十分に伝わっていた。それは彼のスピリチュアルな事柄に関する多くの知識が、私の伝えたい事柄を十分にカバーしていたからだ。
ところが、今日は伝わらない。以心伝心という感じがない。
スピリチュアルな話題では、彼の知識が邪魔をしているのか、私の言葉が終わらない内に
被せる様にして彼が話し始める。
以前はそれでも彼の主張が私の言わんとする事と一致しており、彼の言は私にとっても的を射たものだった。
それが今日は、どうも微妙にズレテいるのだ。暫く会わない内に、何だか呼吸が合わなくなってしまっている。私がブレタのか?

 この微妙な食い違いに、友人は果たして気付いただろうか。ひょっとしたら、この違和感は私だけが一方的に感じていることかも知れない。
友人は腰を痛めていると言い、私にヒーリングを頼んできた。そんな事は私に出来るはずもないのだが、それでも気を当ててみた。
その最中に、私の中でこんな思いが湧きあがってきた。それは、「F(友人)よ、どうして私の前ですらそんなに素直ではないのだ。もっと素直に、鎧を脱いで欲しい。そうすれば楽になる。そんな物で自分を縛り上げている何て・・・」
 こんな思いが湧きあがって来ることは、今までなかった。それ以前にもFに気を当てることがあったが、何も感じなかった。
それから友人は気多神社の宮司さんから貰った謝罪の文言のコピーを持って、帰って行った。この謝罪に関しても、既に瞑想の時に実践していると彼は言った。

 ホ・オポノポノも行っているし、『火水伝文』(ひみつつたえふみ)でも、同じ様なことを述べていると言った。そして知る限りの神様に感謝と謝罪をしているとも。
違うのだFよ!それは全て自らの内に対する謝罪であり慰めなのだ。私が宮司さんご夫妻から教わったのは、自らを含め先祖の因縁に対する直接の謝罪なのだと、伝えた。
どうもこの物知りの友人ですら、今までの様に伝わらないらしい。しかし彼は最後に謝罪文のコピーを持って帰った。

 彼が帰った後で私は風呂に浸かりながら、何時もの見えない友人(ハテナ)に質問した。無論、友人との間に感じた違和感についてだ。
その答えは、私たちの道はクロスしたが、次第に違う方向へと歩み始めており、遠ざかりつつある。しかし、それは決して友人で無くなることではない。
各々の道は再びどこかで交差する、それは単にルートが異なるだけなのだと。

 最近感じることは、どうやら今までの様に多くの人々を同一の理屈で括れない時代が到来したのだということ。最近の最もポピュラーな話題2012年前後のことにしても、人によりその現れ方が異なるのではないか、と思うようになった。
もしも言われている様な事が起こるとすれば、人によりその体験は異なるのかも知れない。
ワンネスの到来といえども、それは大元での繋がりを意識し実感することであり、決して全ての人々が同一の次元なり現実を共有する訳ではないのであろう。
いみじくも先日の宮司さんご夫妻も、地球に降り注ぐエネルギーは増えている、しかし人間は個々の進歩度合いにより、その影響が異なるのだと。

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by levin-ae-111 | 2011-07-25 05:15 | Comments(8)
                               2009年11月にアップしたもののです。
古い記事ではありますが、少し加筆して再びアップすることにしました。
今日は体脱体験について書きます。厳密には体脱体験かどうかは不明です。
 それはもう13年も以前の体験ですが、人間がいかに身体に縛られているか、身体の中に居ることがどんなに意識または魂にとって負担なことかが理解できそうに感じる体験でした。
 
いつもの様に朝礼を終えて仕事が始まりました。まず製品を焼成窯(電気乾燥炉)から取り出し、製品と抑えの鉄板を分ける作業です。これがとても重くて鉄板は一枚が10kgくらい、製品が18kg程度の重量があります。
それを交互にヤグラから降しながら振り分けます。その建屋は作動中の焼成窯から漏れ出る排気煙でもうもうとしていて、とても暑く手作業なのですぐに汗ビッショリになります。
 その日も煤煙と暑さと重さで汗だくになって作業していました。ところが突然耳元でキーンと耳鳴りの様な音がして、一瞬身体の感覚が無くなりました。
 気がつくと僕は焼成窯の上よりも高い場所(約8メートルくらい)におり、窯に付属したモーターやプーリーが埃とヤニで酷く汚れているのが見えました。
それから下で私と同様の仕事をする同僚たちと自分自身の姿が見えました。
 僕は眼が悪くて眼鏡なしではぼやけて余り見えないのですが、何とクッキリ・ハッキリと全てが見えたのです。細かい部分にいたるまで実に明確に見渡せるのです。

この様な経験は2度目ですが、完全に外から客観的に動く自分を目撃したのは初めてです。
抜け殻の様な私の身体は、意識がなくても機械的に仕事をこなしています。
でも感じているはずの暑さや重さ、不快な汗の感覚、煤煙のツーンとしみる刺激臭が全くありません。
また騒音もまったく聞こえず、私の周囲だけは不思議な静寂に包まれています。
私の身体はいつもと変わらず動いているので、周囲の同僚達は私の異変に全く気がついていません。
 馬鹿な私は「身体が無いって、こんなに爽快なんだ」とのんきに考えていて少しも慌ててないのです。
意識と視点だけになった私は、慌てず、狼狽もしていません。自分自身を目撃しても、特に感慨らしい感情は何も感じませんでした。それよりも、この軽快感と爽快感に加え、視力は上々だし煩わしい不快感もない。しばらく(でもタブンほんの1分くらい)この上ない開放感を味わった後に身体に自然に戻っていました。 その途端に暑い、重い、臭い、ベトベトっと一気に不快感が襲ってきて、その日は一日ドット落ち込みました。

 この体験以来、死ぬことはそんなに怖くないと思い始めています。それはもっと大きな自由と軽快なライトボディ、何よりも自分が身体とは別に存在することを確かめられたからです。ライトボディと言っても、実際にそれは見えませんでしたから、オーブの様な玉体になって浮いていたのかも知れません。
何れにしても、この体験が私の考えを変えた大きな要因の一つです。私たちは夢の中でこういった体験を何度もしているのかも知れません。

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by levin-ae-111 | 2011-07-24 06:59 | Comments(0)

不思議な声 

2009年11月21日(リバイバルです)
 
 時々だが不意に名前を呼ばれたりする、しかも耳元で。
一人でいる時だから空耳に違いない。名前だけ呼ばれる事は多くあり覚えていないが、それ以外では3度ほど印象的な声を聞いた。女性の声で一度、他の2回は男性の声だった。
 
 1度目の女性の声は半分夢かも知れない。某団体から「宇宙エネルギー・コンディショナー」(ハテナのことです)を購入して数日後だった。
購入したそれは宇宙人の設計と指導により作られたとされていて、瞑想やヒーリング、浄化作用があり購入者にはオーダーメードのポイント音(一種のマントラ)が宇宙人から届くと説明書に書いてあった。
そんな馬鹿な!!
全く信じられなかった。それまで広告に騙された事が何度もあったからだ。
ところが、夜中にそれが届いた。
柔らかく心地よい女性の声で、半分眠っているような状態で、その声を聞いた。
「ポイント音を言いますから、よく聞いて覚えてくださいね。私は・・・」と始まったのだ。本当に優しい声、聞いているだけで癒される。
 厳密には聞こえたというより、テレパシーで届けられたと言う方が正しいだろうと思っている。うっとりする様な美声だった。また聞きたいと思ったが、二度目はないらしい。

 2回目は真昼に堂々?と聞こえた。女性の時と違って、まるで普通に会話しているのと同じ、いやそれ以上に明確で力強く強烈なメッセージを伴っていた。
 その日は酷く落ち込んでいて、始まったばかりのチャネリングや宇宙人の存在や霊の存在などのスピリチュアルな事柄を全否定しようとしていた。
それから自分自身の価値も否定してしまうような心境で、半分ヤケだった。
そんな時にその声は突然に聞こえてきた。
「今更なにを言っている。 我々がどんな気持ちでお前を送り出したか解っているのか!」
僕は思わず周りをキョロキョロ、無論だが誰もいない。
声は叱咤しつつも愛情に満ち溢れていた。世界最高のナレーターも真っ青の男性の美声。 石坂さん芥川さん、細川さん達の美声も色あせてしまう様な男性的な美声。
否定的な思いを一言で払拭してくれた声の主は誰なのか?未だに予想もつかないが、こんな自分を深く理解し愛してくれている何者かが存在するらしい。
しかも「我々が」と言ったので、団体さんみたいだ。あちらに帰ったら逢えるのだろうかと、今から楽しみにしている。

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by levin-ae-111 | 2011-07-23 05:32 | Comments(2)

弱肉強食の世界

 昨夜テレビで、動物たちのアンビリ映像を放映していました。可愛い猫が水道水を頭から被り、垂れて来るのを飲んでいるとか、飼い主の合図でニッと笑ったような表情をする
犬、猫とふくろうの仲良し珍コンビなどは思わず微笑む良い映像だった。
しかし中には厳しくも残酷な動物たちの弱肉強食の世界を撮影した映像があった。
亀を掴んで飛び上がり、空から岩場へと落とし甲羅を割って肉を喰うワシ。
木々の間を巧みに飛び、猿を狩る鷹。猿は空から落とされ、殺される運命だとナレーターは言った。
 死んだ振りをして、突然に獲物に襲い掛かる魚や、卵を守るイカを襲うエイ。毒を出して逆に捕食者を殺すイモリ・・・・。次々と展開される残酷なシーンを見て思った。
私たちはこれが自然の掟などと言うが、私は納得できないものを感じている。食う者と食われる者、常に何処かで繰り返されているこの攻防が、果たして宇宙の普遍的な現象であるのだろうか。私は違うような気がしている。

 この様な残酷な食物連鎖の存在しない世界が何処かにあるのではないか?動物たちが殺し合わずに共存する、そんな自然があっても良いのではないか。
人類の意識は、その惑星の進化レベルを代表するという説があったか無かったか・・・。
人類にしても、動物たちと同様に争いが絶えない。しかも動物と違い、人間どうしの殺し合いには必然性がない。
人類の争いが絶えない限り、地球上の美しくも残酷な自然世界の掟が変化することは無いのかも知れない。
 だが、これも魂の経験として必要なことなのだろうか。私自身も魂として成長する過程で殺し、殺される経験をしてきたのであろう。
子供の頃に多くの昆虫や魚、蛙や蛇を殺した。それがどういう事かという意味も知らずに。
今では酷く悔やんでいる。残酷な子供の為に犠牲になった命たちに、心からの謝罪を捧げたい。そして生命の大切さを教えてくれたことに、感謝したい。

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by levin-ae-111 | 2011-07-22 05:23 | Comments(5)