身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


by levin-ae-111

<   2011年 08月 ( 30 )   > この月の画像一覧

 明治時代の初期、米相場を東京から地方へと伝える仕事が存在した。
旗振り師がそれで、支給された初歩的な望遠鏡と大きな赤い旗を持って、各々が決められた持ち場に日がな一日、待機している。
取引所で決まった米価を、赤旗の信号で次々とリレーし、各地へ伝えるという重要な仕事のためだ。
伝わった米価が間違っていれば、米商人は大きな損失を出してしまう。
江戸時代には禁止されていた裏家業だったが、明治新政府はこれを素早い通信手段として正式に正当な仕事として認可した。
番組では東京から九州(確か小倉だったか)まで、米相場が伝達されるまでの時間は僅かに20分足らずであった。

 地味ではあるが重責を担う仕事だ。番組では親方と親戚の若者のコンビをクローズアップする。
親方は若者に先の中継所から送ってくる旗の信号を読ませ、自身は力一杯に旗を振る。
送信したら、次の中継所を覗きこみ、正確に信号が伝わっているかを確認し、OKの信号を出す。こうして双方が確認を重ねて、慎重に作業が進められるのだ。
しかし、そこは番組、必ず何がしかのアクシデントが発生する。
若者が近くの山中に数人の人影を発見する、人影の正体は盗人だった。
信号を盗んで、ひと儲けを企む輩である。
色めき立つ若者に対し、親方は至って冷静に「放っておけ、どうせ解りはせんわ」と告げる。旗の信号自体は暗号化されているので、安心という訳である。

更に事件は続く、仕事が終わり暗い山道を下山している時、親方が転倒して足を骨折。
若者は道具を近くの茂みに隠し、親方を背負って下山した。
翌日は一人で信号を中継せねばならず、旗振り初体験の若者は緊張する。
骨接ぎ医者の友人に、時々若者の様子を見てくれと頼む親方も心配顔だった。
帰宅した二人は早速、旗振りの特訓を始め、夜更けまで続けるのだった。
翌朝、一人持ち場に登った若者だったが、隠して置いた道具がない。近くに潜んでいた盗人を発見し、格闘の末に道具を取り戻す。

時間が無い中で必死に準備をする若者、しかし先ほどの盗人が仲間と共に現れて乱闘になる。旗は谷底に捨てられ、多勢に無勢で若者は大ピンチ。
そこへ現れた骨接ぎ医者が、加勢して何とか盗人を撃退する。怪我を押して望遠鏡をスタンバイするが、旗が無い。
だが若者は下着(赤フン)を枝に結び、立派に信号をリレーするという物語だった。
その噂は仲間内に広がり、若者は大いに褒め称えられたという。
若者の仕事に対する責任感の素晴らしさに感動しつつも、人間の知恵にも感動せずには居られなかった。
戦国時代の狼煙に始まり、明治初期には具体的な数字まで伝えられる様になっていたとは、人間の工夫は全く素晴らしいものだ。
ボロ着にハンティング帽という若者のスタイルも、当時はいかにも有りそうだ。どんな時代にも若者は流行の先端を行こうとする、そんな気持ちが汲み取れて微笑ましくもあった。

 考えてみれば、飛行機、列車、船、自動車と性能は格段にアップしているが、基本原理はその物が登場した時代となんら変わっていない。昔の未来予想図のように自動車が空中を飛ぶ事もないし、列車からレールが消えた訳でもない。
こう思うと昔の人々は何と素晴らしい発想をし、何と凄い発明を行ったものだろう。
無論、現代の発想、発明も素晴らしいが、昔に比べて小粒に見えてしまうのはどうしてだろうか。
そこには精神性を失い、利益一辺倒に走ってしまった現代社会の悲しさが見える様な気がする。社会の為にという発想が欠落し、自己利益に奔走する多くの現代人の姿は、如何に格好をつけても美しくない。
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by levin-ae-111 | 2011-08-31 05:39 | Comments(0)

北陸の武将たちⅢ

 三、火打ちヶ城での裏切り
古代から明治に至るまでの長い間、福井県南条郡今庄地域は大和路や京阪路と北陸を結ぶ重要な地域であった。というのも、同地は周囲を険しい山々に囲まれた盆地状の土地で、ここを通らなければ、深山に迷うことに成ってしまうからだ。
京へ攻め上がろうとする木曽義仲は、この盆地の背後にあたる火打山の頂上に拠点としての城を築いた。そこが火打城であり、本来なら京から向って来る平家軍をここで食い止める重要な城であった。だがここで義仲軍は敗北を喫する。無論、そこには原因があったのである。
 南進を図る義仲軍を迎え撃つ為に出陣した平維盛の先鋒である平通盛の軍勢は、養和元年(1181年)の夏に、今庄を一機に通り抜けて越前武生にまで至った。この時に義仲軍の先鋒、梶井太郎行親の軍と出会い、戦端を開くこととなる。
しかし、戦況は思わしくなく、徐々に圧し戻されて敦賀まで敗走してしまった。

 要害の地今庄を制圧した義仲軍は、火打ヶ城を拠点に守りを固めた。しかし、平維盛が指揮する本体が10万の大軍との情報が入り、どうにも防ぎ切れるものではないという観測が広まった。この時、越後に居た義仲は火打ヶ城を守れと下知した。
義仲軍の先発隊である越前の仁科太郎守弘と加賀の林六郎光明らが謀議を重ねて、今庄盆地の近くを流れる河川を一斉に堰き止めることにした。
工事には将兵が総出で当たり、付近住民もかり出されて、昼夜兼行の突貫工事が行われた。その結果、小さな盆地は全て水没し、火打ち山だけが水面にポッンと浮かび城は水濠に囲まれた水城となった。
 寿永二年(1182年)の4月下旬に、維盛に率いられた10万の平家軍は、木之元から柳ヶ瀬を経て椿坂峠、栃ノ木峠を進むコースと、木之元から琵琶湖沿いに進むコースを取って北陸の関門、今庄へと辿り着いた。

 今庄に着いた平家軍は驚いた。今庄盆地が全て水没し、深く大きな湖に変わっていたのだから無理もない。義仲軍討伐の義憤に燃えた平家軍の進軍の勢いも、ここで停められてしまった。
一方、火打ヶ城では、越前勝山の僧侶である斉明らが宗徒らを千名ほど率いて加勢し、城方の総勢は6千ほどになっていた。
人造湖をはさんで対峙する内に、他勢の平家軍には徐々に焦りが出始めていた。時間を経るごとに城方の人数が増えていったことも維盛の神経を痛めた。
平家軍はやがて周囲の山々に登り、湖を囲むようにして布陣を始めた。
次々と各隊が合流して、その人数は頼もしい限りであった。しかし、それ程の大軍を持ってしても、湖水に守られた城には手が出ない。歯がゆい思いが募る上に、よく晴れた日などには、城に篭る敵が見える。的兵は明らかに平家軍をあざ笑っている風である。
どうかすると、尻など叩いて見せる敵もいる。

ところが、火打ヶ城側にも思わぬ問題が生じた。
焦りに焦った平家軍は緩慢ではあったが、周囲の尾根伝いに徐々に城へ接近しつつあった。
周囲の山に敵が布陣したからいって、どうと言う事はないのだが、後から後から沸いて出る平家の大軍は自然と城方にも焦りを誘っていた。
 中でも宗徒を引き連れて加勢に加わっていた僧侶の斉明は、焦りと平家軍の10万という数に目が眩んで、結果的には平家軍が勝利するに違いないと読んだ。
そして、今の内に維盛に内通すれば、助命は無論のこと恩賞も夢ではないと踏んだ。
戦乱が治まった後に勝山一帯に領地を貰って、天台宗の浄土圏を建設するのだ、斉明の夢は限りなく膨らんだ。そして、遂にその身勝手な筋書きが実現するに違いないと、夢の中に埋没してしまった。

 四月の生暖かい夜に城を密かに抜け出した斉明は、対岸の岸に取り付いた彼は草を掻き分けて山を登る。むせ返るような草の臭いの中を登り切ると、彼はかねて用意していた堰の切り方をしたためた文を矢にくくり付けた。
そして、平家軍がたむろする場所を目掛けて、矢文を放った。城方にとっては、痛恨の裏切りであった。
 矢文を読んだ維盛は嬉々としての下知した。命令を受けた足軽たちにより、各河川の堰は次々と切られ、今庄盆地の人口湖は一夜にして消滅してしまった。
 翌朝、城兵たちは驚いた。無理もない、昨夜まで満々と水を湛えていた湖水が、完全に消えてしまっていたのである。城内は混乱した。
見れば平家の大軍が押寄せて来る。加えて篭城していたのは北陸の各地から集った混成部隊であり、指揮系統もバラバラであり混乱に拍車が掛かる。
城方の兵士たちは、城をすてて山を駆け下り逃走を図った。

 間もなく火打ヶ城は炎上、追撃する平家軍の中に居た斉明は、昨日までの味方に矢を射かけながら恩賞は間違いなしとほくそ笑んでいた。
この戦の第一の功労者は斉明であったが、同時に彼は裏切り者の汚名の第一人者でもあった。従って彼は、この戦の目的を北陸の仏法領を手に入れる為という、大義名分を拠り所にした事は当然であった。この夢を実現する為には裏切りなど、問題ではなかった。また当時の部将たちもまた、自分の領地を維持することや増やすことに権謀術数を駆使する時代であり、斉明の裏切りもまた特に非難される行動では無かったのかも知れない。
斉明は平家軍にはや変わりし、武生・福井・加賀・小松と平家軍と共に北進し、遂には運命の俱利伽羅で大敗の憂き目に遭った。合戦の後に義仲の前に引き出された斉明は、裏切り者として激しい叱咤を受けた後に、首を刎ねられてその夢と共に散っていった。
裏切りから僅かに14日目の事であったという。
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by levin-ae-111 | 2011-08-30 05:31 | Comments(0)
 江戸時代のこと、加賀藩の江戸屋敷へと雪を運ぶ飛脚たちが存在した。加賀藩では真夏まで氷室で保管されていた雪を将軍に献上する慣わしが在ったらしい。
その雪を遠く加賀から江戸へと運ぶのが「加賀飛脚」たちの使命だった。
これは相当に辛い仕事で、四人が一組でチームを結成し事に当たる。途中の宿場で次のチームに荷物を渡し、駅伝のタスキよろしく江戸まで走り抜けたのだ。

これはドラマであるから、途中に様々なアクシデントが起こった。例によってレポートは要潤さん。これまた例によってリアルな設定で、飛脚たちのふんどし姿や汚れた尻、ほとばしる汗で黒光りする顔、乱れた髪など真に迫っている。ただ林道を使用したと思われる山中の街道筋の風景は一部、いただけなかった。

さて、ドラマはベテランの親方とこれがデビューの若者を中心に描かれていた。この仕事を成し遂げて一人前の飛脚を目指す若者。それを暖かく支援する親方だが、新参者の加入に不満を漏らす中堅の先輩連中は渋い表情だ。
荷物は前述のとおり「氷室の氷(雪)」だが、最初は約10Kg程度を丁寧に箱詰めし何重にも覆って出発する。

行き倒れの死体があったり山賊に氷を奪われ、隠れ家を突き止めてこれを急襲して取り戻したりと、ドラマチックな展開だった。
そして次のチームが待つ飛脚宿へ辿り着くのだが、ここでも大問題が出来する。次のチームのメンバーが酔いつぶれている者や、何処かへ出たまま帰って来ない者がいて全員が揃っていない。

親方同士で悶着の末、最初のチームの志願者と後のチームのメンバーとの混成で輸送を続けることに決した。これが飛脚デビューの若者は「江戸に行ってみたい」と志願し、二人の親方と若者、後のチームのメンバーが一人加わり出発した。
江戸までもう少しの所で、若者が足を捻挫した。親方は迷わず運んでいた氷を取り出し、手ぬぐいに巻き患部に当ててやる。この時点で氷は1Kgにも満たない量に激減している。そこでリーダーは更なる意外な行動に出る。治療に使った分の残りも取り出し、道端の泥で汚しを入れたのだ。

「えっ、どうしてですか」と、要潤リポーター。
「綺麗なままだと、来年の連中が困るだろう。これも俺達の知恵なんだよ」と親方。
庶民の知恵は逞しいものである。氷室の雪など見たことも無い江戸詰めの武士や、幕腑の役人連中は「そんなものだ」と思っているから、問題は無いのだろう。
所詮は将軍が一瞥もくれないかも知れない無意味な儀礼の一つなのだが、加賀藩にとってはそれなりに重要な儀式であったのだろう。
いつの世も政治的な配慮の為に庶民が苦労させられる。政治や行政に携わる人々には、是非とも賢明であって欲しいものだ。
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by levin-ae-111 | 2011-08-29 05:22 | Comments(0)
 毎年秋口の9月1・2・3日と我が町では「風の盆」が開催される。町内ごとに踊り手と三味線、胡弓、歌い手が「越中おわら節」を奏でながら町を流す。
常は人口が2万程度の小さな山間の町だが、この時には20万人もの観光客が押し寄せる。
八尾は別名を坂の町として知られていて、坂に沿って間口が狭く奥行きの長い町屋が隙間なく建ち並んでいる。
その家々は古い時代の面影を残し、懐かしい風情をかもし出している。

 夜ともなれば、この日の為に設置された雪洞(ぼんぼり)に灯が入り祭り情緒がより一層の盛り上がりをみせる。
踊り手は男女ともに深すげ笠を被り、男性は法被姿で、女性は浴衣姿で優美に華麗に舞う。それに歌い手と伴奏の三味線と胡弓が付き、町内をゆったりと流す。
情緒的で切ない感じがし、しっとりした「越中おわら」が忘れられず町内の空き家を買い取る人や、旅館に予約を1年も前から入れる人、引越しまでして来た人もいる。

 おわらが行われる3日間は、狭い八尾のメインストリートは立錐の余地も無い程に人で溢れる。観光バスが長蛇の列を連ね、日頃は10分の道のりが1時間以上も架かってしまう程の渋滞を引き起こす。近隣ばかりでなく、遠く関東や東北ナンバーのバスも多い。

 この人気は小説「風の盆恋歌」が出版されてからと聞くが、残念ながら僕はまだ読んでいない。他にもテレビドラマの舞台として、歌謡曲として表現されている。
小説にしても歌やドラマにしても情緒的な雰囲気のせいか、少し暗めのストーリーばかりである。その辺りが町民としては少し不満も残るが、それらが媒体となり「風の盆・越中おわら節」を有名にしたのは間違のいない事実であるだろう。

 おわら節は元々、芸姐さんがお座敷で踊っていたものだ。それを見出し、郷土を代表する民謡にまで育て上げた人物がいる。
川崎順二(かわさきじゅんじ)氏がその人で、彼は私財を投げ打っておわら節を現在の形態にまで整え、育てあげた「おわら」の恩人である。
 
 八尾で医師を開業していた川崎は、全国各地の芸術家たちとも交流があり度々、様々なジャンルのアーティストを八尾に招いていた。おわら節が廃れるのを惜しみ、芸者のお座敷芸から町民が参加する一般の歌と踊りにしたいと考えた。
振り付けは日本舞踊の専門家に委ね、民謡とは思えない優雅な基本系の振り付けを完成させた。
その振り付けは全国舞踊大会などで何度も優勝をし、評価は高かったが相変らず芸者さんたちのお座敷芸の域を出なかった。
町民は芸姐の座敷芸を自分たちが舞うことに躊躇していた。当時は花街と一般人とでは感情的にも隔たりがあり、心理的な抵抗が町民たちには存在したのである。

一向に振り向かない町民に対し、川崎が打った手は意外なものだった。
川崎家は八尾町でも三本の指に入る名家であったが、他の二軒の名家と相談し、各々の家の娘たちにおわらを踊らせたのだった。
これを観た町民たちは「お嬢様たちが踊るのなら」と、こぞって参加する様になったという。

現在では10月にも「月見のおわら」が行われ、以前に比べておわらが踊られる機会が増えている。町内の人々は幼少から「おわら」に親しみ、踊りや演奏の稽古に励む。
町の人々にとって「おわら」は生活の一部であり、人生に無くてはならないものとなっている。
彼らにとって「おわら」を舞い唄い、年に3日の二百十日(にひゃくとおか)の風を鎮める祈りを込めた「風の盆」は最も心躍る楽しみな行事なのである。
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by levin-ae-111 | 2011-08-28 06:14 | Comments(0)

ワンコインの宇宙論

今「宇宙はわれわれの宇宙だけではなかった」を読んでいます。コンビにで売っていた500円の本です。
著者の佐藤勝彦氏は宇宙論・宇宙物理学の研究者で「インフレーション理論」を説いている博士です。
専門家の宇宙論にしては一般読者のことを実によく考慮されていて、非常に丁寧に解りやすく書いてある本です。
近代物理学の祖ニュートンの学説はアインシュタインが出現するまで、誰もこの殻を破れませんでした。アインシュタインの閉じた宇宙モデルから、ビックバン仮説へそして宇宙膨張説、著者の説くインフレーション理論までを解説しています。
「非常に丁寧に解りやすく」といっても、数学と実験・観察を主武器にする学問分野ですから一般人には解った様な、解らない様なあやふやな感じが残るのは否めません。
まだ途中までしか読んでいないのですが、要するに宇宙創成のころは非常に高温の火の玉状態で、それが膨張すると共に冷えていき物質が生成され始めたのです(あくまで宇宙モデルの一つです)。
その膨張に伴う冷却や物質の密度が均一ではなくムラが生じており、それが原因で幾つもの宇宙が発生したというお話しです。主に温度ムラに原因があって、温度が均一になるまで宇宙の生成は続いたと予想されています。親宇宙から子宇宙、それから孫、ひ孫それ以上の連鎖があるとの予想です。イメージ的には沸騰した泡の上にまた泡が出来て、更にそのうえにも泡が出来る、そんな感じらしいです。それから学問的にその宇宙の間の行き来は不可能だと考えられているそうです。
それにしても僕程度の学力では想像も出来ない世界の話しですが、この分野の学問では宇宙の始まりについての仮説も登場しています。無から生じた宇宙が発展し、現在に至ったとする理論が検討されているのです。それには揺らぎが関係しているとされています。
宇宙の元は常に揺らいでいる状態(出たり消えたりしている)にあり、それがトンネル効果と呼ばれる現象でポロッとこちら側に出てくる。そのポロッと出たものは非常に微細で・・・知恵熱が出そうです(笑)
要するに物質の生成過程や宇宙からの電磁波、遠くの銀河からの光が赤色偏向するといった観測とアインシュタインのような計算上考え得る理論、更に最近では粒子加速器(最近光の輪で淺川氏が原因として指摘したCERNもその一つ)やカミオカンデ等を使用した実験などによって宇宙を考えるというわけです。
 しかし人間の探究心には驚かされます。途方もない事象を長年に渡り考えぬき、それが違う研究者に引き継がれ宇宙をどんどん解明していっています。ある種のマニアックな論評ではアインシュタインを使い、間違った方向へと人類の知識を導く陰謀があったなどとしていますが僕はそう思いません。
その原動力は人間の飽くなき好奇心と自己認識への欲求の賜物だと思います。

僕程度の頭ではとうてい理解は無理なのですが、それでも何時もの声はこの本を読むずっと以前から「宇宙は沢山ある」と言っていました。宇宙は自己認識を求める根源的な意識(全ての源)の身体であるとも言っています。私達だけの宇宙しかないとしたならば、私達は自分で単細胞生物だと言っているようなものだとも聞いています。
無数に存在する宇宙の内の一つが私達の宇宙だとしたら、僕らの存在はどれほど小さいのでしょうか。
小さな人間存在に自分達の世界を探求させ、大いなる自己を認識しようとするとは宇宙意識の英知は正に無限です。そしてその為に自己の意識の一部を人間に与え、遥かな探求の旅路へと送り出したのです。
更に絶対に本体である創造主の意識へと必ず帰れるように、用意された接着剤が「愛」であるとする能力者もいます。
全ての存在に宇宙意識の関与があります。元来、宇宙意識の関与無くして何者も存在できません。
 ですが、ここでまた疑問が発生します。存在の全てに寿命があるなら、宇宙創造の意識にも寿命があるのでしょうか?それは即ち、宇宙に寿命があるのか?との疑問です。
単純にいえばエネルギー保存の法則により宇宙のエネルギー自体は尽きないが、全てのエネルギー変換が終了してしまったとしたら、エネルギー変換が消滅して飽和状態になり宇宙が死ぬ事になるのかも知れません。
僕達の宇宙が宇宙創造意識の身体の一部とすれば、一つぐらい細胞が死んでも何ら差し支えは無いはずです。ですから、宇宙が死んでしまう事もあり得ます。
それから宇宙創造意識が眠りについたら(彼か彼女かは知りませんが)、その意識の表面に湧き上った泡みたいな物質世界は消えて無くなるかも知れません。
想像するだけでも恐ろしいのですが、でもそこは宇宙創造意識の「愛」に期待したいところです。
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by levin-ae-111 | 2011-08-27 05:31 | Comments(0)
 今日は何だか判らないがやたらと怒りがこみ上げて来て、総てに投げやりな感情になっている自分に気が付いた。そこで気分転換にと散髪に出かけ、少しスッキリするかと思ったが正体不明の憤怒の勢いは治まらない。
これは何かに取り憑かれたかと感じたが、どうも違う様な気もする。

そこで何故だか、日々一編ずつ楽しみながら読む積りでいた佐藤さんのエッセーを開いた。
相変らず楽しく面白い、もう少し、後チョットと読み始めたら止まらず、とうとう最後まで読み切ってしまった。
それで今更ながらに気づいたのだが、どうも佐藤さんと自分の感性は似ている。
彼女のエッセーの面白さは、当たり前の事を当たり前に主張している点にある。
自分自身を変わり者と称しながらも、至極真っ当な論調なのだ。それを上手に面白可笑しく書く辺り、流石はプロだと感じさせる。

例えば息子が事件を起して会見を開いた大物女優さんへのマスコミの態度に憤慨する佐藤さん(否、今後は親愛の情を込めて「愛子さん」と呼ぶ)は叫ぶ。
息子は一人前の大人なのであり事件の責任は親である女優さんには一切ない、それを知りたがるマスコミや世間の連中に逆に問いたい「今、どんな心境ですか」と。喜びの頂点にいる人、悲嘆のどん底に居る人に向かって「今、どんな心境ですか?」は、確かに馬鹿げた質問の最たるものだろう。嬉しい、悲しいに決まっている。
確かに愛子さんが仰る様に、テレビのインタビューでは必ずこの馬鹿げた、厚顔無恥な質問が飛ぶのだ。

それから二十年にも渡った怪異現象との闘いで、愛子さんが学んだ霊的真理をエッセーとして出しておられるが、それに対する誤解も甚だしいようだ。
ご他聞に漏れず、マスコミは怪異現象にのみスポットを当てて真実に大切な事柄には見向きもしない。何故に彼女が自家の怪異現象をエッセーとして公開するか、その心、想いが全く理解されていない。
そして誤解の上に迷惑な電話や手紙が多いらしい。夜中に突然、見ず知らずの人から電話があり、これまた唐突に「死にたい」とか「亭主が浮気して・・・」とか、「弟夫婦が一銭も払わずに居候している・・・」とか言ってくるらしい。そんな相手は大抵、名乗りもせず一方的に喋り、相談している積りに成っているのだ。

それで愛子さん「どうして、私にそんな事を??」と成ったらしいが、漸くエッセーの内容が誤解されているらしいと気づいた。彼女は自分が霊能者だと勘違いされているらしい事に
思い当たり、戸惑っていた。しかし、相手の気持ちを慮り「死にたい」人には地獄の話
で脅かして萎えた気持ちを吹き飛ばし、時には一緒に亭主の悪口を言い立て、はたまた「自分で出て行って、と言いなさい」と尻込みする相談者の背中を押す。
彼女の家族や友人は人好を揶揄するが、その辺りが愛子さんの愛子さんたる所以だろうと想う。この「想う」と「思う」の使い分けにも一説あげられているが、それに関しても全く同感である。

これとは無関係な話しだが国政に於ける情勢は「ポスト管レース」が白熱しつつある今日、彼ら国会議員はそれで自分の務めを果たしていると思っているのだろうか。
もし、万一にも、本当にそれで「自分は国会議員の職務を果たしている」と思っている人は、直ぐに辞職しなさい。何故かと問うなら、見当違いも甚だしいからだ。
今はそんなことよりも、緊急に成さねば成らない課題が山積している。
権力の座を追求したければ、その課題をクリアした後に気が済むまでやれば良い。
とまあ、こんなのが国民の本音ではないかと想像するのだが、こんな事を考えてしまう辺りも何となく愛子さんとの感性の類似を感じてしまうのである。
そして気づくと、訳のわからない憤怒も和らぎ今は心中も平和になりつつある。
愛子さん、ありがとう御座いました。
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by levin-ae-111 | 2011-08-26 04:53 | Comments(2)
 今日はヒーリングを受けた体験について書こうと思います。
仕事柄、常に身体の何処かが痛んでいますが、整体や成型に行くことも多かったのですが、そうでない気功などの治療も受けた経験があります。
気功治療は基本的には気持ちが良いものですが、例外もありました。ここで紹介するのは特に人のチャクラをいじる様なものは受けない方が良いという体験です。

 十年近くも前です。知人が遠方から呼び寄せたヒーラー達のために、員数合わせで呼ばれたのですが思いがけずヒーリングを受けることになってしまいました。
会場では意外に大勢の人々が、恭しく二人のヒーラーを迎えていました。ヒーラーは男女のペアで、女性は気を男性はチャネリング情報を伝えて患者を癒すスタイルだ。
最初に軽いガイダンスを行っていましたが、その中で気になる台詞がありました。
「宇宙を余り信用しないで下さい」と、女性が集まった人々に話しています。
僕は怪訝に思いましたが、それでも集った人々は誰も気にも留めていない様子でした。

暇を持て余した僕は、近くに小さな女の子がノートに絵を描いているのに気がつきました。
この子には、どうやら人の背後霊が見えるらしいのです。
「おじさんのも描いて」とお願いしたら、快く頷いてノートからはみ出しそうな大きな顔をひとつ描いてくれました。それからヒーラーの男性の背後霊を描いたものも見せてくれました。
小さな顔が2つか3つ描いてあり、女の子が言うには小さく描くのは良くなくて大きく描くのは良いらしいのです。

そうこうしている内に、ヒーリングは終わり知人の事務所に車で移動することになりました。車中では皆が歓談しているので、僕は黙って会話を聞いていました。
すると知人が「彼は宇宙人とチャネリングしています」と紹介してくれた。二人のヒーラーは怪しい者を見る様な目で僕を見ています。
「宇宙人は、私達も用心して掛かります」などと、ヒーリングを受けなければ成らないと言い出した。知人の手前、仕方なく受けることにしました。

知人の事務所でイスに座り、目を閉じる。ヒーリングが始まりましたが、女性の気は余り感じません。男性は「貴方は何でも自分の中で解決できると思わないで。もっと人に心を開きなさい」とチャネリングメッセージを伝えています。
女性は容姿からは想像も出来ない声で唸っている。「ヴーン、グーッ」とまるで獣の唸り声の様です。
それから女性は前に回り、額に手かざしをした次の瞬間に異変が起こりました。
まるで不意に殴られた様な凄い衝撃があり、閉じた目の中で強烈な光の明滅があり星が飛んでいます。本当に衝撃でした。
ヒーリングが終わり、女性のヒーラーに「神様からここ(額を指して)が開いているので閉じよ、と言われたので閉じました」と告げられました。
僕に憑いていた物の正体も判らず、ただチャクラを閉じたと言うのです。
暫く前に始まった頭痛が酷くなったので、5000円を支払ってその場を辞し帰宅しました。頭痛は治まらず、5000円が勿体無かったのですが自分で気を出して20分くらいかけて治しました。
チャクラは閉じられておらず、感覚は相変らずでした。
今にして思えば、ヒーラーの気を瞬時にシャットアウトした様です。気と気がぶつかり合い、火花が散り、衝撃が発生したに違いありません。
どうやら、これは自分で防衛したというよりは、僕の背後霊かチャネリング相手が守ってくれたようだと感じています。

このヒーラーさんには僕自身、最初にガイダンスの時の言葉で不信感を持っていました。
彼女等は「神様から」と言いましたが、僕には単なる人霊がしかも余り高級でない霊が憑いているとしか思えませんでした。
酷い目に遭いましたが、この経験はとても貴重な体験だと感じています。
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by levin-ae-111 | 2011-08-25 05:36 | Comments(0)

北陸の武将たちⅡ

二、篠原合戦と実盛
 俱利伽羅(くりから)の合戦で大敗した平維盛(たいらのこれもり)は、加賀平野ぞいに南へ敗走を続けながら小松(石川県小松市)安宅海岸の松林で部隊を再編しようとしていた。この付近の地形は日本海を後ろに控え、木場潟、今江潟(小松市)と柴山潟(加賀市)が連なる要害の地だったからだ。
俱利伽羅で大敗したとはいえ、平家軍にはまだ義仲軍よりも多くの兵力が存在した。まだまだ巻き返しは十分に可能なはずだった。
しかし、義仲軍には林氏、富樫氏、倉光氏など地元の武将たちが多く加わっていた。戦勝の勢いがあり、土地勘に優れた武将たちの存在は、多少の兵力差など問題にしなかった。
 義仲軍の先鋒は加賀の林六郎光明(はやしろくろうみつあきら)の軍勢で、彼らは安宅口を流れる梯川(かけはしがわ)の浅瀬を渡河して、まだ陣容が整っていない平家軍へと突撃して行った。この林勢の働きで、突破口を開いた義仲軍は平家軍へと殺到した。

 予想以上に早い義仲群の追撃に、平家軍は陣容を整える余裕も無く完全に浮き足立つ。この日寿永二年(1183年)6月1日は、風も無く戦場を暑気が包みこんでいた。
山育ちの義仲軍と都育ちの平家軍との体力差が、この暑く足場の悪い砂浜での戦闘で如実にあらわれることになる。
各所で布陣の乱れた平家軍は、柔らかい砂地に足を取られ、根上がりの松につまずき戦いどころか逃げるのが精一杯だったのだ。転んだ者は追って来た義仲軍に虱潰し(しらみつぶし)に討ち取られていく。この惨状に、平家軍の誰もがただひたすら逃げた。
将軍も雑兵もなく、逃げ出す平家軍に更に勢い良く襲い掛かる義仲軍。もう勝敗は見えていた。右大臣九条兼実の日記には、『甲冑を帯びた武将で京に逃げ帰った者は僅か45騎、平家第一の勇士と聞こえた盛俊、影家、忠経らも髻(もとどり)を振り乱して逃げた』とある。
 しかし誰もが逃げ出すなかで、ただ一騎で目にも鮮やかな具足を身に付け、義仲軍の前にたちはだかった武者がいた。馬上豊かに、錦の直垂(ひたたれ)が日の光に眩く輝いている。それを見た信濃国の手塚太郎光盛は、さぞ名の在る武将と見て戦いを挑んだ。
だが以外にもこの武将は弱く、彼はあっさりとその武将を討ち取った。この武将の具足の見事さから、手塚太郎光盛はその首級を義仲に捧げた。
兜の下の首は、髪こそ黒いものの顔は思いのほか皺が深い。樋口次郎兼光が近くの池でこの首を洗うと、黒髪は白髪に変わった。この齢(よわい)七十にも成ろうかという老武将の首は、更に樋口を驚かせる。
この敵将の名は斉藤別当実盛(さいとうべっとう・さねもり)で、何と義仲が幼少の砌に命を救ってくれた彼の人だったのだ。
それはまだ義仲が2歳の頃、父親の源帯先生義賢(みなもとたてわき・せんじょうよしかた)が討たれた時に、幼い義仲も殺害されそうになった時のことだった。その時に実盛は幼い義仲を隠し、信濃の中原兼遠へひそかに預けたのであった。
首が実盛であったと知った義仲は、衝撃を受けたに違いない。義仲は顔を顰めてしないたに違いない。無理もない。
義仲が今日あるのは紛れも無く実盛のお陰であり、実盛もまた何度かは木曽谷を訪ねて義仲に会っていたかも知れない。
この合戦でも実盛がその積りであれば、幾らでも助命されたであろうが、そこは老齢といえども武士の矜持が許さなかったのであろう。
その潔さは平家物語にも語られ、篠原合戦を彩るエピソードとなっている。

斉藤別当実盛は、越前南条郡の能根村の生まれと伝わっている。祖先は藤原利仁将軍というから、越中の猪口、加賀の富樫、林、越前の斉藤と同じ祖を持つことになる。
幾台か前の祖先が源氏と縁をむすび、長らく源氏の旗下にあって使えていた。実盛が壮年の頃に主人である源義賢が討たれ、放浪した後に平家に使えたという。
源義仲に頼れば余生は安穏だったに違いないが、彼は平家に義理立てして死を選んだ。けれども虚しい死に臨んでも、煌びやかな甲冑に身を包み美しく装い、中世の武人の華麗なあり方を自ら讃えているようである。
 内大臣・宗盛は実盛に自身が秘蔵していた赤錦の直垂(総大将が鎧の下に着る衣服)ともえきどおしの鎧、くわがたの兜、鷹の切斑(きりふ)の矢を実盛の出陣の餞別(はなむけ)として与えたという。
実盛は千秋萬歳の心地でこれを着用し、出陣したと言われている。中世の武士道は兵の道(つわもののみち)と言われ、近世幕藩体制の処世術的で観念的な武士道とはかなり異なっていたようだ。その心意気は戦士の名に則した実用的なもので、武芸を専業とする兵の道であった。だから戦場では己が持てる全てを出し切って戦う場であり、戦闘に命を賭ける武士にとっての晴れ舞台だったのである。

 源平の武将たちは死をより美しく飾るために、美しいいでたちで出陣したのである。軍記物語や絵巻物に描かれている源平の武将のいでたちは華麗で色鮮やかだが、血みどろの戦場に臨む武将の悲壮な心を思うと、その美しさがかえって恐ろしい(二木謙一・源氏武将出陣のいでたちより)。
実盛のエピソードは、美しくも悲しい中世武士のロマンを示して、篠原合戦に彩りを添えるものとして伝わる。
この実盛の哀史を刻んだ篠原合戦場、片山津温泉から柴山潟に沿って約700メートルの砂丘の松林にある。バス停の道路わきには、実盛の首を洗ったと伝えられる伝説の首洗い池が浅い水をたたえている。傍らには、この場所を訪れた際に詠んだといわれる芭蕉の句碑が建てられている。その奥には実盛塚がひっそりと佇んでいる。
『むざんやな兜のしたのきりぎりす』芭蕉の実盛を偲ぶ心情が良く表れている。
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by levin-ae-111 | 2011-08-24 05:16 | Comments(0)

北陸の武将たちⅠー2

かくして、両軍は俱利伽羅峠の山で激突し、小競り合いを繰り返す内に夜の帳が降りた。この時こそが義仲が攻勢に出る機会を伺っていた時であった。義仲軍は峠の三方から夜陰に乗じて接近し、休息していた維盛軍を急襲した。
更に混乱する平氏の大軍の中へ、昼間の内に周辺の村から集めておいた牛400~500頭(と伝わっている)の角に松明を括り付け、平氏軍へと突入させた。
平維盛の軍は狼狽のうちに敵の居ない南側へ自然に後退したが、そこは切り取られた様な断崖絶壁であった。多くの兵は暗闇の中を逃げ惑いながら、その断崖から落ちて行った。
伝説では、この時の平氏軍の戦死者は1万8千ともいう。これは後に天下分け目の合戦と謳われた関ヶ原の犠牲者(約6千名とされる)の実に3倍である。
平氏軍の兵士たちの死体は崖下で山のように積み重なり、谷底を流れていた渓流は血に染まったという。今日でもその谷を地獄谷と呼んでおり、そこを流れる渓流は膿川と呼称されているという。今日では、立派な供養塔が建てられている。

 この戦いに快勝した義仲は、京の都を目指すがその道のりは比較的に平坦であった。しかし僅かにその八ヶ月後に、義仲は義経の軍に敗れ戦死してしまう。義仲31歳、ここに義仲を担いで独立を夢見た北陸武士団の望みも彼の死とともに潰えてしまうのである。
この悲運の原因は、義仲軍の粗暴な行いが都を不安に落し入れ、朝廷から嫌われた為だったとされている。戦場では素晴らしい指揮能力を発揮した義仲も、山育ち故に都の雅な習慣にまで気が廻らなかったものらしい。義仲に巧妙な政治的ブレーンが存在したならば、このような悲劇は起こらなかったであろうし、初代武家政権の首魁として幕府を開くことも夢ではなかったかも知れない。

源義仲とは、どんな人物であったのだろうか。
義仲は久寿元年(1154年)に源帯刀先生義賢(みなもと・たてわき・せんじょう・よしかた)の次男として生まれた。幼名を駒王丸(こまおうまる)と号した。
その翌年に父の義賢は武州(埼玉県)で兄である源義朝の長子である悪源太義平(あくげんたよしひら)に討たれている。義平は後日の憂いを断つために駒王丸をも殺害しようとしたが、斉藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)が密かに救い出し、信濃の国木曽谷の中原兼遠(なかはらかねとう)に預けた。
兼遠はこの源氏の御曹司の将来を期待し、大切に育てると共に、自らの子供たちが、この御曹司の手足となって働くように育てた。つまり男子である兼光と兼平は義仲の腹心として育て、女の子二人を義仲の妻にしたのである。
 その妻の一人が有名な巴御前(ともえごぜん)で、戦場へも同行したのが彼女である。伝説では俱利伽羅合戦の時、彼女は身重でしかも臨月であったという。そして俱利伽羅から離れた富山県西砺波郡福光町(現在は南砺市福光町)で、出産したという。
しかし戦場のこととて、泣く泣くこの子を殺し埋葬した。そこには松が植えられ、後に剃髪した巴が死去した折に同じ場所に埋葬され、この母子の墓は巴塚と言われている。
 
 素晴らしい手腕を発揮して、短期間の内に都に入り、旭将軍とまで持て囃された義仲は都では好色ぶりを発揮している。多くの女性を愛したと伝わる。
後に鎌倉で切られた嫡子、義高の聖母は宮崎氏の出身だったとも伝わっている。
さてそれは置いておいて、義仲の武将としてのセンスは相当なものであったらしい。後に楠正成(くすのきまさしげ)が義経よりも優れていると絶賛している。
だが戦場の戦術と都の権謀術数とは勝手がちがったのか、院政の仕掛けた罠にあっさりと嵌り都を追放され、遂には義経に討たれてしまうのである。挙兵から僅かに三年後の出来事である。武士の時代の黎明を駆け抜けた男の、余りにも早い死であった。
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by levin-ae-111 | 2011-08-23 05:26 | Comments(0)

北陸の武将たちⅠ

 
 私は歴史好きである。特にどの時代と特定せず、全般に好きなのであるが世界史よりも日本史に興味がある。興味は持っているが、実のところ日本史に造詣が深いわけでは決してない。正直に言って何も知らない、それが本当のところである。
歴史好きの始まりは、子供の頃から慣れ親しんだ時代劇や戦争もののドラマや本にその端緒があるのだが、30代半ばまでは歴史上で有名な武将や将帥にしか関心がなかった。
それが名も無き武将たちや庶民の生活へと関心の矛先が変化したのは、何時の頃からだっただろうか。
 私は富山県で生まれ育った。僅かに10数年間は県外に出て一人で暮らした経験があるのみだ。だが、その僅かな月日の内にも、家族の在り難さをしみじみと感じされられたし、我が郷土の在り難さも同時に感じるように成っていた。それが、それまで何も思うことの無かった故郷の歴史に対して興味を抱く切掛けになったようだ。郷土を離れて返ってその素晴らしさを認識し、その故郷の恩恵を受けていながら何も知らないということに気づいたというわけだ。

 さてそんな故郷にも古来より連綿と続く人々の営みがあり、時には平穏で穏やかにまた時には荒れ狂う時代の波に翻弄された歴史がある。私が生まれた狭い地域にも、神話時代からの伝説が残っている。そのエピソードが旧郡名になっていたと知ったのは、つい3年ほど前であった。
今回は歴史研究家の方々が著された本を基に、武将たちの北陸地方での足跡を辿ってみたい。

一、俱利伽羅(くりから)の合戦と義仲
 日本の中世は貴族に取って変わって、武士たちの世の中となった。貴族が所有した地方の荘園などの管理者として雇われていた彼らは、次第に力を台頭してきたのだ。
中でも初の武家政権となる鎌倉幕府が発足する前は、各地で武士団が結成され、戦の時代へと突入する下地が十分に出来上がっていた。北陸でも多くの中小武士団が存在し、互に僅かな土地の領有を巡って争っていた。
 時代は平清盛を頂点に、平氏の時代である。『平氏でなければ、人にあらず』とまで言われたほど権勢を誇った平氏の時代も遂に終わりを迎える時がきた。
源頼朝へ下った平氏追討の令旨は、木曽にいたもう一人の源氏の若者の決起をも促す。すなわち信濃木曽谷にいた木曽冠者源義仲である。
挙兵した義仲は、北陸地方最大の平氏である城長茂(じょうながもち)を撃破し、逃走する彼の軍を追って、戦勝の勢いのままに北陸へとなだれ込んでいった。

 では、北陸の武士団は、その時にどうしたのか。それまで平氏一門に押さえ込まれていた関係から、彼らは押しなべて挙兵し各々の兵を引き連れて、義仲の陣へと馳せ参じたのである 加賀の林氏、富樫氏、倉光氏、越中の石黒氏、宮崎氏といった加賀・能登・越中の武士たちである。
 この北陸の武士たちもまた、時代に相応しい考えを持っており、台頭する機会を伺っていたのであったが、好機到来とばかりに義仲に組したのである。
義仲の軍は歩を進めるごとにその数を増し、平氏方としても無視できない勢力と成っていった。義仲は初め馳せ参じた彼らを疑っていたが、全員が誓詞を出すに及んで彼らを信用するようになった。

 一方の平氏は平維盛(たいらのこれもり)と通盛(みちもり)を総大将にして10万もの大軍を義仲討伐のために差し向けたのだった。この時点では平氏側の軍勢が圧倒的に多く、義仲はこの半数5万程度の軍勢でしかなかった。
平氏はまず福井県今庄を突破し、加賀に入り手取川を渡り、犀川(さいがわ)の岸あたりで二手に分かれた。平通盛の率いる軍勢は、海岸線沿いに河北潟の西を通過して、能登半島へと侵入した。もう一軍は維盛が率い、浅野川、森本川を渡河し俱利伽羅峠方面(石川県津幡町と富山県小矢部市の境)へと進軍した。
 越後にいた義仲は、これを知り宿将の今井兼平に6千の兵を与え先発させる同時に、自ら海沿いの道を俱利伽羅方面へ進撃した。他方で叔父の源行家に1万の軍を預けて、海岸沿いの敵に当たらせた。源行家と平通盛が率いる両軍は、能登半島の志雄山で対峙する。
 平氏軍より先に到着した義仲軍は、地形その他を丹念に調べ上げ入念に戦略を練り上げて敵を待つ。平維盛の軍は大軍を頼みにし、越前(福井)での戦勝気分も手伝って堂々として意気揚々とした進軍である。
そこには戦の結果に対する楽観とおごりが満ちており、全体の意気は高いものの最初から
勝ったような雰囲気が蔓延していたという。
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by levin-ae-111 | 2011-08-22 06:22 | Comments(0)