身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


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<   2011年 09月 ( 30 )   > この月の画像一覧

 福島正則といえば「賤ヶ岳七本槍」の一人として、有名な戦国大名である。
柴田勝家の軍を羽柴秀吉軍が賤ヶ岳で破り、後の豊臣政権の基盤を築いたターニングポイントとなった戦いである。この合戦の勝利により、秀吉は反対勢力を一掃し残った佐々成政も降伏せざるを得ず、徳川家康にも豊臣の天下を認めさせたのである。

この合戦の後に大活躍したとして、秀吉は7名の名を挙げ「賤ヶ岳七本槍」として大いに称揚したのである。その内の一人が福島正則で、正則は秀吉の親戚筋にも当たる。
その後にこの7名は何れも豊臣政権下で出世し、大名に取り立てられている。
尤もこの「賤ヶ岳七本槍」はどの人物も、若い頃からの秀吉の子飼いの人物で真実に彼らが賤ヶ岳の合戦で活躍したかどうかは怪しいものである。

普通に考えれば、政権を奪取した豊臣秀吉が政権を守るために、信頼する子飼いの人物に力を与える為の口実として賤ヶ岳合戦に手柄を立てたことしたのだろうと思われる。
いくら秀吉でも、側近を出世させるには大儀名分が必要だったのだ。そうでなければ、他から不満が出る。無論、当時でもそんな名目は見え透いていたであろうが、それでも一応の格好を付ける必要があったのである。

それでこれから漸く、福島正則さんの話しです。
福島正則は多くのドラマや小説で猪突猛進の猪武者として、或いは思慮深さとはかけ離れ単なる武骨者として描かれている場合が多い様に思う。豪傑ではあるが単純というキャラクター設定は、イメージ的には三国志の張飛とよく似ている。

だがしかし、果たして秀吉の子飼いで血縁者というだけで大名にまで上り詰められるものであろうか。スタートは縁故で有利だったとしても、その後はそうは行かない。
手柄を立て武将としての実力だけでなく、大名として領国を経営する十分な器量と頭脳を秀吉に認めさせねば成らない。その事実ひとつ取っても、小説やドラマに描かれる様な単純な男では決してあり得ない。

関ヶ原の以前にはいち早く家康に恭順を示し、彼の去就を見て多くの大名が東軍に加わったらしい。福島正則は関ヶ原では余り活躍していないが、それでも旧領に倍する安芸広島44万石を拝領している。正則は豊臣恩顧の大名の中にあって、最初に東軍の旗を掲げたのだ。
家康の勝利を見越しタイミングを計り、家康が最も高く彼を買ってくれる時に味方になると表明したのだろう。つまり自分の評価をより高くする術を心得ていたのである。

その頭脳は安芸広島の領地で更に力を発揮し、検地の結果を農民に公開し公平な徴税を実施した。また豊臣秀頼と徳川家の仲介役として活躍し、戦争回避に尽力したりしている。
これらの事実は、私達が抱きがちな福島正則のイメージと実態の大きな食い違いを示している。戦に明け暮れていた様なイメージの戦国大名たちも、その実は領国経営に様々な知恵を巡らせていたのである。殊に各領主たちが治水に知恵を絞った名残は、信玄堤などに見られる様に各地にその痕跡を残している。
大身の大名といへえど、明日をも知れぬ戦国時代を生き抜いた人物である。彼もまた決して粗暴なだけの凡庸な人物では無かったのである。
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by levin-ae-111 | 2011-09-30 05:53 | Comments(0)

久し振りのゴルフ練習

 土曜日に健康診断を受けた後で、会社主催のバーベキューに参加した。
勿論、車だからお酒はNG。なので、ノンアルコール飲料をチビチビとやる。
朝食抜きだったので、焼きソバや焼肉をひたすら食べて、頃合を見て抜け出した。
そして、一年振りの打ちっ放しへGO!
帰るチャンスを狙っていた後輩も、私と一緒にその場を脱出し一緒に練習に行く。

近く企業団地内のコンペがあり、ゴルフなどする者は会社には居らず、以前にやっていた
私のところへ必ずお誘いがある。上司と同僚と私の三人でエントリーしていたが、上司は突然に決定した会議で出場できず、結局は下っ端二人で参加することになってしまった。
単なるお遊びではあるが、それでも参加しないと会社としては不都合らしく参加費の助成もしてくれる。
とは言っても、出てくるのは他の会社のお偉いさんばかりで、本当は行きたくない。
邪魔になってはいけないので、一応の練習が必要になる。
朝、一年振りに埃にまみれた道具を取り出し、車のトランクへ放り込んでおいた。

後輩君は全く未経験で、暇だからついて来たのだが、後輩の手前ここは一発、気合を入れてイザ、ひと振り。
奇跡的にジャストミートし、打球は真っ直ぐに飛んで行く(やれやれ、当たったか)。
握りとフォームを教え、その後で後輩に打たせてみる。
飛距離は少ないが、後輩もジャストミートし、真っ直ぐに飛ばす。
「才能あるぞー、普通は空振りだぜ!!」
と、絶賛しつつ更に続けて打たせる。
後輩君が疲れたところで、私が練習し、私が疲れたら後輩が・・・を繰り返す。

「凄く難しいですね、それに、こんなに汗をかくとは思いませんでしたよ」
後輩君は生涯初のスイングでのジャストミートに気を良くしたのか、その後も彼なりに考えながら練習している。
「よしっ、ハマッタな」と、内心でニンマリの私。
これで来年は・・・・と、勝手に想うのだった。
今日はもう「次は何時、行くのですか?」との質問。
私の夢は上司と同僚と、後輩の四人で楽しくラウンドすること。
その夢に一歩、前進した健康診断の日でした(^^)♪~。

という日記をUPしたのが、恐らく1年くらい前です。そして今年も恒例の工業団地のコンペが間近に迫っています。もう1年も振ってない・・・・。
気がついたらバックはボロボロで、ビニールが剥がれて酷い状態になっていた。これは人前に出せる代物ではない(><)
思い切って買った。昨夜は工場長に付き合って練習へ、当たるかなぁと思っていたが、これが意外と当たる。飛距離も昔と大差ない(^v^)♪~
でも本番に行くと力んで、駄目なんだよな。で、今回の課題は脱力、飛距離はクラブに任せておこう。
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by levin-ae-111 | 2011-09-29 05:19 | Comments(0)

三式戦闘機『飛燕』

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精神世界に興味を抱くずっと以前に、読んだ戦記物の本の中に飛燕を駆って戦ったパイロットの著書があった。もう探しても無いが、その本は僕の宝物のひとつだった。
田形竹尾元陸軍准尉の著書だったが、タイトルは忘れてしまった。

陸軍三式戦闘機「飛燕」
日本機にしては珍しい液冷エンジンを搭載し、速度、上昇力にも優れた戦闘機とのイメージがある。美しいフォルムは零戦とは趣を異にし、力強さをも感じさせる。
エンジンはダイムラーベンツのライセンス製品だったが、トラブルが多く後には空冷エンジンに換装されて五式戦闘機となった。

肝心の本の内容だが、飛行時間1000時間を越えるベテランの田形准尉と僚機の台湾上空でのグラマンとのドックファイトの記録である。
現在とは違い一度の飛行時間が長くても6時間程度の当時、1000時間を飛ぶのは容易なことではない。田形准尉は名実ともにベテラン搭乗員の域に達した達人だった。

僚機を率いての飛行中の台湾上空で遭遇したのは、三十余機のグラマンF6F戦闘機だった。
グラマンF6Fは、アイアンワークスと異名を取るほどに頑強な機体に強力な武装と防御力と大馬力の高出力エンジン、そして一撃離脱戦法で零戦を圧倒した名機である。
そんな強力な敵を向こうに回し、地獄のドッグファイトを30分以上も続け、数機を撃墜して不時着し生き延びた。
気に成っていた僚機も同様に逃げ延びて不時着し、二人とも生還したという体験手記であった。
周囲の敵情を把握し、常に冷静な判断と抜群の技量を駆使し、群がる敵機を振り切って生還するのは尋常な技ではない。
喉は渇き、唾液も枯れ、手足は痺れ度重なる強烈なGフォースで意識も朦朧となる。
常に敵の攻勢に晒される体力の限りを尽くしての戦闘で、二人の日本人パイロットは見事にその実力を発揮したし、二人の愛機「飛燕」もそれに応え性能をフルに発揮した。
一機撃墜する度に敵はエキサイトし、益々追撃に躍起になる。

僚機とのコンビネーションが取れたのは最初のうちだけで、ドッグファイトの大半は各々が単機で敵をかわし僅かな隙に反撃するといった繰り返しだった。イメージ的には何だか日本の時代劇に似ていると感じ、一人で大勢の敵を切り倒す殺陣のシーンを思い出したものだ。
僕も以前から寝入り端に、闇の中で全身に衝撃を感じ振り回される感覚に苦しんだのだが、これがどうもGフォースの感覚らしいと気づくまで暫くかかった。それだけに現実の空中戦でのGフォースはどれほど辛いか、予想もつかない。

生還し部下も無事と判り安堵した田形准尉だが、畑に墜落した敵機のパイロットの亡骸を荼毘に臥し生命の儚さをしみじみと感じた。戦争だから仕方がないとはいえ、つい先刻まで生きていたアメリカ青年の亡骸は、田形准尉に少なからず衝撃を与えた。
空で命のやり取りをしていても、亡骸を見るまでは実感が無かったのだろう。
最近の番組での元戦闘機パイロットの証言では、撃墜された相手パイロットの苦悩に満ちた恨めしそうな顔は今でも忘れないという。
飛燕は後に震天制空隊と呼ばれるB29相手の特攻機として用いられ、何人ものパイロットが特攻で散っている。

現在の戦争は相手の亡骸さえ見えない。湾岸戦争以来流される戦闘の模様は、ピンポイントで目標を破壊する爆弾やミサイルの映像ばかりだ。それらは無機的で、まるでTVゲームの様であり酷く現実感に乏しい。
こんな戦争の見せ方も人々の感覚を麻痺させる意図があり、一方的に仕掛けたアメリカの正当性をアピールするプロパガンダに違いない。
画面の中で炸裂する爆発の下には、抵抗できない人々の死がある事を忘れてはならない。
ほんの60数年前にも、日本の各地で同じ否、それ以上の無差別爆撃があったのだ。
私達は想像力を逞しくし、この例に見られる様な政治ショーに隠された事実を見極める努力をする必要がある。
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by levin-ae-111 | 2011-09-28 05:14 | Comments(0)
 僕の会社のTさん、Mくん、Dくんの三人が揃うとたちまち漫才が始まる。
趣味が同じでよく一緒に出掛けるらしい三人は、休憩時間に趣味の話しで盛り上がる。
Tさんが突っ込み、Mくんがボケ、Dくんは突っ込み&合いの手とみごとに役割まで決まっている。

趣味の話しや仕事のことでMくんは大風呂敷を広げる、この子は基本的に何でもそう。そこへTさんの突っ込み、だがMくんは更に笑いながら話しを大きくする。
これが屁理屈にもならず、余りに馬鹿馬鹿しいのだが聞いている方としてはお腹が捩れるくらいに可笑しい。この間など舐めていたのど飴を、笑った拍子に飲み込んでしまい危うく窒息しそうになった。

Tに突っ込まれたMは、次第に話しの辻褄も合わなくなり子供のように自分の主張を繰り返すばかり。だが、決してめげない。
最終的には休憩時間が終わるか、T、Dが呆れて、突っ込まなくなるまで続く。

「Mブランドの○○を売り出せは、絶対に売れる。バカ売れ間違いなしだ」とか、「××に△を付けたら、絶対に凄い。これで大金持ちだ」などと風呂敷を広げるM。
空かさず「そんなもの、誰も買わん」「出来るもんならやってみろ、お前に出来るならもうとっくに売り出されとる」と、Tの突っ込みが炸裂する。
「世界中の人が、競争で買うもん」「違うって、××にはこの機能が無いから△を付けたら
こうなるから凄く便利だし」とM反撃。
するとDが、「××に△を付けたら、××でなくなるよ。バカじゃないの」とか、いう具合。

最近はこのMと一緒に仕事をしている。この間、Mから面白い話しを聞いた。
TがMの居るところで、Kに「こいつは口先だけだから、信用するなよ。こいつの言うことは聴いたらあかん」と言ったとか。
無論、質の悪いジョークだ。

後日、残業を命じられて不満気なKに、Mが珍しく真面目に意見したらしい。
「残業があるだけ幸せだと思え。手取りも増えるし、今のご時勢でありがたいと思わないか。気持ちよく喜んでやれよ」と、告げたらKの反応がまた面白かったと笑っていた。
なんとKは「Tさんから(TはKの上司)Mさんの話しは聞くなと、言われています。ちゃんと上司から、そんな通達が出ています」と真顔で答えたらしい。

流石に聞かされた僕も、しばしボーゼンとなった。
Tの言葉を聞いたその場の雰囲気をKは感じていなかったのか?
それとも、ただMへの反撃として、判っていて言ったのか判然としないが、Mの口調ではどうも前者のようであるらしかった。
まあ、何にせよこの3人の会話を聞いていると、M-1グランプリのプロよりも面白いと感じることが多々ある。

今日も残業でMと一緒になり、こう言ってみた。
「俺は残業なんかしている暇はないんだよなぁ。日記をアップしなきゃあならない。だって、全国の人々が俺の日記を待ちわびているんだからなぁ」
「どこかで聞いたような言い方ですね」とM。
「お前の真似だよ」と僕。
「あっ、やっぱり。Hさんでもそんな言い方するのかと、思って驚いた。な~んだ、僕の真似かぁ」とMは明るく笑った。

こうして毎日続く、辛い残業もMと二人で馬鹿馬鹿しくも楽しく終わるのであった。
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by levin-ae-111 | 2011-09-27 05:32 | Comments(0)

 物語は1940年のリトアニアで始まった。その年の7月の朝、日本領事館の門前には多くのユダヤ人が押しかけていた。彼らは口々に日本の通過ビザの発給を求めていたのだ。
ナチスドイツがポーランドへ突如として侵攻し、イギリスやフランスはそれに対する準備が出来ておらずナチスの連戦連勝が続きヨーロッパの全を支配下に収める勢いだった。
リトアニアはドイツとソ連に挟まれた小国で、ポーランドにも近い。
ユダヤ人排斥を謳うナチスの迫害を恐れて、多くのユダヤ人がポーランドからリトアニアへと逃げて来ていた。
その彼らのヨーロッパ脱出の命綱は唯一日本の通過ビザを入手し、日本経由でアメリカなどの第三国へ逃れることだった。そして、ヨーロッパで日本以外にビザを発給できる国も無かったのだ。

 ドイツの勢いに目が眩んだ日本は、三国同盟への道を歩み始める。その様な情況下でドイツの意向に逆らうような真似は断じて出来なかった。リトアニア日本領事は今では有名な杉原千畝であり、彼は押寄せたユダヤの人々の運命を想い二日二晩、幸子夫人と共に悩み抜いた。勿論、ビザ発給の許可を本国の外務省へと願い出たが、本国はドイツとの関係を慮ってか頑として許可を出さない。
現在でも当然であろうが、外交官が本国の意向に逆らうなど考えられないことである。
杉原夫妻は、覚悟を決めてビザを発給する事にした。一日に300通ものビザを手書きした杉原の手は腫れ上がり、愛用のペンは折れた。それでも彼はユダヤ人の命を救う為に、ビザを書き続けた。そして大戦の為に領事館の撤収が命じられ、最期通帳が突きつけられた時にも、休暇と称してリトアニアに留まり可能な限りビザの発給を続けたのであった。
そして最期の日、列車の窓から身を乗り出してユダヤ人の差し出す紙に、ビザを書き続ける杉原の姿があった。
ユダヤ人たちは「私たちは貴方を忘れません。必ず逢いにいきます」と約束をして、涙で杉原とその家族の乗る列車を見送ったという。

 戦後の杉原への外務省の対応は冷たく、即座に首を言い渡された。幸子夫人によると、杉原は相当のショックを受けていたという。杉原は職を無くし、家族を養う為に雑貨屋、電球売り、塾の講師など幾つも職を転々とした。そして商社のロシア駐在員の仕事を見つけ、単身でモスクワへ駐在した。杉原のロシア語は堪能で、元の同僚はネイティブと変わらない位に上手だったと語っている。
 そんな折、ユダヤ人たちが相次いで来日し、恩人杉原を探し求めていた。彼らユダヤ人の間で杉原千畝はセンポ杉原の名前で通っていた。センポとは、千畝の音読みで、杉原が外国人にも分かり易い様に自らそう名乗っていたからだ。
 だがお堅い外務省は ゛センポ杉原なる人物が在籍した形跡はない ゛としてユダヤ人たちを門前払いしていた。
だがユダヤ人たちは諦めない、分かれの時に駅で交わした約束を彼らは忘れていなかった。彼らは遂に杉原を探しだす。
この時に杉原は68歳に成っていた。ユダヤ人たちは1969年に叙勲を、1985年には栄誉あるヤドバッシェム賞を杉原に対して授与している。その時、杉原は「やっと、認められたんだなぁ」と嬉しそうだったという。
それから杉原のビザを得られなかったユダヤ人たちの運命を聞いた。ナチスの手に掛かって5万人も殺されたと聞き杉原は泣いた。
しかし杉原が発給した命のビザで、約6000人のユダヤ人が生き延びたという。その彼らは現在では25万人にも増えている。ユダヤ人の間では、杉原は英雄であり決して忘れえぬ人であり、その杉原への限りない尊敬の念は子孫たちにも確実に伝えられている。

 杉原千畝は1900年(明治30年)岐阜県八百津(やおつ)町に生まれた。幼少から記憶力が抜群で、勉強も良く出来たので父親は千畝を医者にしたがった。千畝の方は医者など眼中に無く、英語教師に成りたいと望んでいた。しかし、父親には逆らえず医大の受験をするが、白紙で答案を出しわざと不合格になった。それが父に知れ、勘当同然に上京し、アルバイトをして学資を稼ぐと翌年、早稲田大学英語学科へ入学を果たしている。
そこで知った外務省の特別留学制度に応募し、普通は何年も前から準備が必要とされる難関をわずか半年にも満たない期間の勉強で合格した。これは史上最年少の合格であった。
杉原はここでロシア語を学び、外務省の若きエースとして期待された。

 それから年月が流れ、杉原はリトアニア領事として赴任した。リトアニアは小さいながらも中立を保っており、ドイツやソ連の情勢を探るのに好都合な場所だった。そこで杉原はドイツがソ連侵攻を開始する一月も前にそれを察知し、本国へと知らせている。
そして1940年の7月の朝、領事館の門前に群がるユダヤ人たちを見ることになる。
本国はビザ発給を許可しない、しかし、無視して放置すればユダヤ人たちがナチスに殺されてしまうのは火を見るより明らかだった。
外務省とのやり取りの中で、杉原は以下の様に述べてビザ発給の許可を強く求めている。
「親ナチス迎合政策によって、ユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまでビザを拒否しても構わないとでも言うのか。それが果たして国益に叶うことなのか」
杉原の言う国益とは、我が国さえ良ければ良とする様な狭量な意味ではない。国際社会からの信頼を無くしてしまう事が、果たして本当に日本と日本人の為に成るのであろうか?という広い視野からの叫びである。

 杉原の性格について夫人やお嫁さんは、基本的にはやさしい人であったこと、言い出したら必ずやる人、命に対する尊厳というものを持っていた人などと語っている。
幸子夫人は、あの時も杉原の気持ちは最初から決まっていたという。これは何としてでも助けねばならない、という気持ちは彼女自身も同様であった。それで、自分は本国の命令に背いてビザを発給するという決意を聞いたときに、私たち家族はどうなるか判らないけれど、ビザを発給してあげて下さいと夫に言ったという。

 杉原からビザの発給を受けて、母親と共にシベリア鉄道を使い日本を経てアメリカへ逃れたというマーシャ・レオンさん80歳(当時9歳)の女性は語る。
当時、塀際に一列に並ばされて番号をふられた。そして、奇数番号の人は殺された。でもそれに理由は無く、その時のドイツ軍指揮官の気分でそれは決められたのだと。
反面でユダヤ人にとって日本は天国だった、命の危険もなく、空襲の恐れもなく本当に良い国だったという。
そして「杉原さんはヒーローではなく、聖人です。ヒーローならば偶然に成れることもあるでしょうが、彼は自分で判断して選んだのです。貴方は上司の命令に逆らえますか?模範的な外交官ならば、絶対に逆らえない筈です。もし、貴方が政府の人間で、汚職を知ったとしてそれを間違いだと告発できますか?普通の人には出来ない事を彼はやったのです。
彼は自分の心の声を聞くことが出来た人なのです」と結んだ。

杉原自身は「あの情況なら、誰でもそうするでしょう。たまたま僕がその立場にあっただけ」と言う様な発言を晩年に残している。
確かに尤もらしくは聞こえるが、その実、誰もがあの様な素晴らしい決断を下し、それを実行できる訳がないではないか。ああいう事が可能だったのは、杉原の中で何が本当に大切な事であるかが確率されていたからだ。
何が正しいのか正しくないのかよりも、自分が正しいと思うことをしなさい、というのが杉原の信念であったようだ。
命が最も大切なもの、という杉原千畝の信念は、狂った戦時下にあっても揺らがなかった。
そういう人間を育てた私たちの国、その誇らしい業績を何故に学校で教えないのだろうか。
私は不思議で仕方がない。
その魂に輝かしい金字塔を抱いて、杉原千畝氏は86歳で亡くなられた。

1998年、外務政務次官であった鈴木宗男氏の尽力で、遺族と外務省との間で和解が成立した。鈴木氏は省内の圧力を撥ね退け、この和解に漕ぎ着けたのである。
それまでは、この誇るべき先輩を外務省はどう評価して来たのであろうか。無論、大使館や領事館の仕事は、人道的支援ではないが、それにしても余りに心ない、血の通っていない文切型の対応ではなかったかと、役人たちの人間としての素養を疑いたくなる。
私たちには何も出来ないが、責めてこの輝かしい人間としての杉原氏の業績を心に留めておきたいものである。
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by levin-ae-111 | 2011-09-26 05:23 | Comments(0)

戦国の緊急非難

 今日もタイムスクープハンターからのネタである。戦国時代の戦が打ち続く世の中で、当時の農民たちはその過酷な戦をどう切り抜けていたのであろうか。
舞台は西暦1505年(永正2年)尾張の国、柿谷村である。当時は室町時代の後半ころであり、武士の台頭により荘園制度が揺らぎ幕府の威光も失せつつあった。世はまさに戦国時代の到来を告げる物騒な情勢だった。従って各地で守護方の勢力が領地の拡大を狙って、公卿や寺社の荘園を武力で奪い取るという事件が頻発していた。
柿谷村も荘園領主の経営する領地のひとつであり、その領地を狙って守護方の雑兵が侵入するという噂があった。村は貧しいが、それでも、それなりの蓄えもある。
村では敵の襲撃に備え、番頭の儀助(村の代表者)を中心に、主な財産を集め隣村の寺へ預かってもらう事にした。寺では荷物に紙の封印を施し、割り印に当たる印を描き預かり証を書く。更に土地の権利書の写しを作成し、そのコピーを村人にわたす。

 儀助たちが無事に荷物を預けて村に帰ると、揉め事が発生していた。平助という若者が村の食料を盗み食いしたとして、村人たちから糾弾されていた。村の掟では盗み食いは死罪だったが、村人の手を振り切って逃げ出した平吉は村払い(追放)となった。
それよりも村人にはまだまだ仕事があった。寺へ預けなかった食料や財産を隠さねばならない。人々は地面に穴を掘り、大切な物資を隠蔽していく。
取材を受け入れた家族は、源六と亀夫妻に長男の伍助、長女の千代の4人家族だ。この様な事は年に2度か3度あるが、いつも実際に攻めて来るとは限らない。今度も恐らくは噂だけだろう、と源六が話している最中にヒュンと音をたてて飛来した弓矢で村人が倒れた。
突然の雑兵たちの襲撃に、驚き恐れ慄いて暗闇の中を逃げ惑う村人たち。

 源六たち一家は、悲鳴が飛び交う暗闇の中を裏山へと走る。途中で番頭の儀助一家と出会う。儀助たちは荘園領主の館へ向かうと言うが、源六は自分の掘った穴倉へ向うと言う。
裏山を少し登った場所で源六が落ち葉をどけると筵(むしろ)が現れた。そこが非難用の穴倉の入り口だ。この様な場合には多くの農民が穴倉に隠れるか、領主の館へと走ったという。
穴の広さは6畳ほどで、中には水や食料、鎧や刀剣や槍が準備されている。ドラマの設定では、食料の備蓄は4日分となっていた。食料といっても米を干したものだけであり、後は水で空腹を満たすことになる。

 夜が明けて外の様子を長男の伍助が偵察に出る。村には雑兵がたむろし、彼らは地面を掘り返している。農民たちが埋めた物資を探しているのだ。
非難した次の日の夜、源六が用心の為に張り巡らせておいた紐に誰かが触れ、穴の中で鳴子がガランガランと音を立てた。緊張が走る、が、穴に転げ落ちる様にして入って来たのは負傷した番頭の儀助だった。移動の途中で皆は殺されたという。更に村の資産を預けた寺も焼き討ちされ、彼らの主だった財産は焼失したとも聞かされる。
村には相変らず雑兵が居座り、遂には土地の権利書も発見されてしまう。更には再び鳴子が音を立て、また緊張が穴倉を支配する。
今度は村を追放になった平吉が、やはり負傷して穴倉へと転がり込んで来たのだ。平吉は隣村の衆と山を逃げている内に襲われ、何が何だか分からぬ内に負傷したという。
番頭の儀助は平吉を追い出そうと言うが、源六はこれを断り置いてやる事にした。人数が増えた分、食料の分配が減った。
加えて雑兵たちが立ち去る気配は無い。7日目に食料も水も底を突き、このままでは死を待つだけの決定的な危機を迎える。

 そんな中で平吉は自ら水汲みを買って出る。その代わり、罪を許して欲しいと必死で願い出たので、源六はこれを承諾した。穴を出た平吉だったが、帰って来ることはなかった。
騙されたと憤る男たち、今度はわしが行くと名乗り出た伍助を抑え、父親の源六が水汲みに村の井戸へ向う。敵の様子を伺いながら井戸に到達し、何とか桶を調達して水を汲んだ。
だが、走り出そうとした刹那、雑兵に見つかり源六は捕まってしまう。
遂に意を決した長男である伍助が、父親の救出と村の奪還を目指して村へ向かうという。反対する姉の千代だったが、母の亀は村を取り戻せ、百姓の意地を見せろと心を鬼にして励ます。
番頭の儀助も立ち上がり、自分も行くと鎧を身につける。
成功したら村の中心にある鐘を鳴らすと約束して、二人は槍と刀で武装し穴を出る。

 農民といっても、当時は兵士として戦場に召集されることも多く、彼らは各々に鎧や武器を持っていた。私の父親の実家は山奥の寒村にあったが、父が子供の頃には鎧や槍や刀が在ったという。武士でもないのにと、その話を聞かされた時は不思議に思ったが、越中の山奥までは秀吉の刀狩も及ばなかったのか、或いはその後の時代にでも密かに先祖が用意したものかも知れないとも考えたものだった。

 伍助は現代では中学生くらいの年齢だが、この時代にはもう立派な働き手である。二人は足音を忍ばせて村に入り、無防備な雑兵たちの不意を衝いて一人一人を始末していく。
伍助たちは雑兵の背後から、容赦なく槍を突き刺す。そして、喉を刀で切り裂き息の根を止める。そして雑兵たちの声がする家の前で二手に分かれ、表と裏から同時に切り込む。
不意の敵襲に慌てた雑兵たちは、二人の農民に手も無く捻られて行く。悲鳴と怒号の中で逃げる雑兵の最後の一人を伍助が突く、ひっくり返ったところへ再び槍を突き込まれた雑兵は絶命した。背後には儀助に助け出された源六の笑顔があった。
伍助は約束通りに鐘を鳴らした。何度も何度も、穴倉に隠れている母と姉に伝える為に打ち続けた。それは勝利の雄叫びであり、父と村を救った歓喜の鐘の音であった。

悦び勇んで穴倉を出る母と姉。しかし周囲には多くの雑兵が槍を構えて待ち伏せていた。
絶体絶命のピンチ!もう駄目だと覚悟した時、ヒュンヒュンと矢の唸りが辺りに響き渡り雑兵たちは悲鳴も上げられず次々に倒れていく。
天の助けだった。逃げたと思っていた平吉が、国侍(守護勢)を討伐する為に出た近在の村人と共に帰って来たのだ。
平吉は水汲みに出たが、雑兵が多く無理だと考え救援を求めに走っていたのだ。
逃げたと思ったと言った亀に、平吉は二度も逃げ出す訳はないと胸を張った。村で伍助が力いっぱいに打ち鳴らす鐘の音がまだ響いていた。
逃げていた場所から次々と帰って来た村人たちと、命の有った事を喜びあう人々を背にレポーターの沢嶋はこの時代を後にしたのだった。

 それにしても、何時の時代も民衆は搾取されるだけの存在でしかないのであろうか。この物語の中で源六の長女千代が、領主が勝とうが守護が勝とうが自分たちには関係がないと言っていた。
つまり自分たちは多くの年貢を取られ、時にはこうした略奪もあり、結局は楽に成らないという事である。
今の私たちも似た様な情況にあると、私は思う。領民の事など考えずに、己の勢力拡大ばかりを目論んでいた当時の守護や地頭たちと、現代の政治家たちの姿が重なって見えてしまう。
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by levin-ae-111 | 2011-09-25 05:35 | Comments(0)
 華々しい面の歴史も良いが、私としては名も無き古の人々の生活にも興味がある。その点でこの番組『タイムスクープハンター』は、実に面白く視聴出来る数少ない番組の一つである。
 さて今回のテーマは『うわなりうち』である。これは漢字にすると『後妻打ち』となる。この『うわなり』とは、古くからの呼びであるらしい。一夫多妻制であった時代、第二夫人以下を『うわなり』と呼んでいた事に由来し、後の時代には後妻をこの様に呼んだ。
それでは後妻を打つとは、どういう事であろう。『打つ』とい文字が入ことから、後妻に制裁を加えるという意味である。
その内容は離縁された先妻が多くの助人を連れて(勿論女性のみ)後妻の家へ押しかけ、暴れて憂さを晴らすというものだ。しかし、ここにも如何にも日本的な作法が在った。
後妻打ちの条件として、離縁されてから一月以内に夫が再婚した場合にのみ受け入れられた。更に男性が口出しする事は許されず、全ては女性だけで行うこと。ルールとして刃物の使用は厳禁で、予め後妻側へ日時、人数、使用する道具を明記した書状が送られた。

今回の物語は1636年(寛永15年)の江戸時代を舞台にしている。この寛永年間は三代将軍家光の治世で、鎖国令が布かれたり日光東照宮が造営されたりした時代である。
 物語の主役は志乃(しの)さん、夫から離縁されてまだ一月と経っていない女性である。そして一方の主役はくにさん。志乃さんの夫の後妻に納まっている気の強い女性だ。
通常『後妻打ち』は作法に則り、先妻方が暴れ尽くしたところで、仲裁が入りそれで終わりとなる。

志乃は叔母から元夫が自分を離縁して一月にも満たない内に再婚したと聞かされ、怒り取り乱す。しかも、再婚相手は志乃も見知っている女性だった。直ぐにも元夫の許へ走ろうとする志乃を押し止めた叔母は、後妻打ちを提案した。
二人は早速に動き出し、協力してくれる女たちを集める。親類縁者やその知り合いなどを尋ね、次々と参加者を確保してゆく二人。中でも染物屋のトメさんは顔が広く、70人もの参加者を募ってくれた。
志乃は早速に作法に従い参加人数や日時、使用する武器などを記した書状をくにの許へ届けた。この時に書状を届けるのは年老いた男性が多く、男性が関わるのはここだけである。

 書状を受け取ったくには、如何にも気の強い女性らしく、返り討ちにしてくれると宣言する。それは作法には無いことだと言う夫に、女の戦であるから口出しは無用とばかりに噛み付き、仲裁人を立てない旨の返事を書いた。
更にくには仲間を集め、敵襲に対する作戦を練る。
そして、遂に決行の日が来た。しかし志乃の方は、いささか困っていた。
予定した仲間が次々と辞退を申し出て来たからだ。その訳は、くにが麻疹に罹患したとの噂があり、皆がうつるのを畏れたからだった。
70余人の予定が身内と親友たちだけに減ってしまったが、志乃たちの決意は堅く予定通りに出発した。くにの家の門前で開門を声高に求めるが無視され、志乃たちは力ずくで強引に扉を開けなだれ込んだ。と、走り出してすぐに、幾人かが落とし穴に落ちる。
落とし穴とは卑怯だと激怒して家内に侵入すると、部屋には高価な調度品が整然と並べられている。皆が手当たり次第にそれを破壊して行くが、穴に落ちて遅れて来た志乃が悲鳴を上げた。
そこに並んでいたのは、夫の家に残されていた志乃の嫁入り道具の数々だったからだ。
その後も相手を求めて家内を突き進むが、所々に罠が仕掛けてある。
ようやく敵の助人連中が姿を見せ、両陣営はもみ合いになる。志乃は乱戦を抜け、奥へと突進、遂に憎い『くに』と対面。くには臥せっていたが起き上がり、口論の末に短刀を抜く。狼狽する志乃。問答無用と切りつける『くに』。
その時、悲劇は起こった。揉みあう内に、くにの胸に短刀が刺さり、彼女は血潮に染まって倒れた。

 呆然とする志乃と助人たち、責任をどう取ると責めるくに側の助人たち。騒然とした家内が静まり返る。と、誰かが志乃が居ないと言い出した。
探し出した人々の目前には、責任を取って自刃した志乃の哀れな姿があった。これには逆にくに側が蒼白となる。死んでいた筈のくにまでが起き出して、真っ青になっている。
そう、くには死んだ振りをしていた。徹底的に志乃を困らせてやろうと思いついた作戦だったのだ。
くにが起き出したところで、志乃側の女性たちが大笑いしだした。「お前は死んだのではなかったのか?」などと、野次を飛ばす。そして、自害した筈の志乃が立ち上がる。実はくにたちの作戦は志乃たちに筒抜けだった。
染物屋のトメが大量の紅を買い込んだ者が居るとの情報を得て、予め敵の出方を予想しており、志乃たちはその逆手を取ったのだ。
女たちは安心するやら悔しいやら、兎に角にもこうして志乃の後妻打ちは終わりを告げたのであった。

 ところで志乃はどうして離縁されたのであろうか。彼女には確たる心当たりが無い。
ただ合わなかったのであろうとか、妻として至らなかったからであろうと言うばかりであった。しかしその実、彼女に落ち度は無かった。
天下泰平の世となり、武士たちはサラリーマン化していた。志乃の元夫は、くにの父親が近く藩の重役に出世するのを聞きつけ自分も出世コースに乗ろうと志乃を離縁し、くにを娶ったのだ。誠に勝手な話ではあるが、江戸時代の武士の世界では出世こそが肝要な事柄であったのだ。結婚も当人同士よりも、家と家の結婚であり相手の家柄なども大切な結婚の要素であった。早い話し、志乃の夫は出世のために志乃を離縁したのだ。
何とも切ない女性たちの心情を少しでも晴らそうというこの習慣、多くの女性たちは一生の間に2回や3回はこの後妻打ちに参加したという。
記録では80歳の老婆が、16回もこの後妻打ちに参加したというものまで残っているらしい。ただ感情が激しい女性たちのこと、この物語の様に死者が出た事実も伝わっている。
現代にこの習慣が残っていたなら・・・背筋が寒くなる殿方も多いのではなかろうか。
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by levin-ae-111 | 2011-09-24 04:02 | Comments(2)
毎回、チャネリング情報を日記やブログに載せているが、もう歴史物を書きたくてウズウズした状態になった。そんなに詳しい訳でもないが、垣間見える史実から各時代の人々の心情や生活、実像に思いを馳せるのが好きなのだ。
今回は名門のご頭首「今川義元」さん。
そう、桶狭間で信長に討たれた彼だが、当時は天下取りレースの優勝候補ナンバーワンに挙げられる程の実力者だったらしい。

キャッチフレーズは「東海道一の弓取り」であり、その実力の程が伺われるというものだ。
駿河守護の今川氏は足利将軍家の親戚筋にあたり、その血筋を遡れば清和源氏に辿り着く。
一流の武門の名家であり、室町時代には副将軍とも呼ばれていたらしい。
そんな名家の惣領なのだが、義元は胴長短足のうえに肥満していて馬には乗れなかった。
鐙(あぶみ)に足が届かず危険であったので、戦での指揮は輿(こし)に乗り家来に担がれて執った。

しかもスタイルは公家スタイルで、眉を描きお歯黒まで入れていたといわれている。
公家の様に毛鞠も嗜んだし、薄化粧までしていたらしい。
武門の誉れ高い今川氏でなければ、こんな真似は出来ない相談だろう。武骨な戦国大名の時代に、実力が伴わない者がこれをやれば、たちまち巷の笑い者である。
足利幕府時代から続く権威が、義元をして公家風のライフスタイルにさせたのだろうか。
だが、これは馬鹿にされるどころか却って義元と今川家の威厳を高めることにもなった様だ。つまり、今川義元の権力の凄さを誇示する要素として働いたのだ。

しかしこの義元さん、剣の実力はちゃんとしたものであったらしく、桶狭間では自ら抜刀して戦っている。ただ怯えて家来に守られていただけのイメージがある義元だが、襲い掛かった織田の侍を自ら撃退したらしい。最後まで闘い、首を取った武将の指を噛み千切ったと伝えられている。
一見して雅で煌びやかだが、その真の姿はやはり戦国大名であったのだろう。もっとも他国との駆け引きも見事なものがあり、武田や北条とも同盟を結び自らの領国の安全にもしっかりと考慮している。

結果的に桶狭間で討たれたが、義元にすれば織田など眼中に無かったのが災いしたというべきだろう。2千程度の動員力しか持たない信長が、3万もの大軍を率いた自分を襲うはずなど無い、と確信していたとしても無理もない。義元が凡庸なのでなく、その隙に付け込んだ信長が優れていたというべきである。

それにしても、桶狭間での義元の驚愕はいかばかりだったろうか。突然の敵襲に狼狽しただろうが、武将としての血が騒ぎ、人生で初めて死に物狂いで戦った時であったかも知れない。
戦国天下取りレースでは早々にリタイヤしてしまい、あれっ今川義元って出場してた?と思わせる彼だが、やはり天下を狙っていたに違いない。

義元が討たれず今川家が存続していたなら、信長や秀吉、家康などの覇権は無かったかも知れないのだ。後の世界への影響を慮っても、やはり今川義元は大きな存在だったといえよう。
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by levin-ae-111 | 2011-09-23 07:29 | Comments(0)

工業製品としての兵器

a0160407_5225752.jpg 第二次大戦での日本の誇るべき戦闘機は何と言ってもゼロ戦。この呼び名は正しくないが、零戦(れいせん)または零式艦上戦闘機と呼称する方がより正しいだろう。
この零戦には帝国海軍の無茶な要求をクリアすべく、様々な工夫が施されていた。
重量軽減のために限界までくり貫かれた骨組み、外板は新開発の超々ジュラルミンで硬くて軽く、肉厚を限界まで薄く仕上げてあった。

当時、飛行機を生産できる国はアメリカ、イギリス、ドイツ、ソ連、イタリアとその殆どが西欧の国々に限られていた。その他の地域では唯一日本だけが飛行機を生産できる工業力を持っていた。しかし部品には輸入品や外国製品のライセンス生産品も多く、完全に国産という訳でもなかったが、若手技術者たちの努力によるその設計は独自のものだった。

零戦と並び海軍が誇った戦艦「大和・武蔵」も無論、世界に通用する立派な工業製品であった。幾重にも仕切られた船体はダメージコントロールを考えたものだし、巨弾を発射する砲を載せて旋回する砲塔はそれだけで数千トンもあり、これを安定して旋回させるには山積みであった技術的な課題をクリアする必要があった。
そればかりでなく巨弾を弾庫から上げる仕組みや、巨大な推進力を搾り出す機関、加えて砲弾そのものにも意外な工夫があった。海に着水した砲弾の頭部キャップが自然に外れ、水中を魚雷の様に水平に進む仕組みなどは日本の工業力・科学力の賜物だった。

明治維新以来、西欧に追いつけ追い越せと血道をあげて来た日本人が、百年に満たない短期間で先進列強に肩を並べた事実は十分に胸を張るに値するであろう。
だが見逃しては成らないことは、明治維新以前の江戸時代から、いやそれ以前の時代から培ってきた日本人の教養が基礎に存在しているということだ。戦後の奇跡的な復興も朝鮮戦争などの世界情勢ばかりでなく、その基礎が残っていたから成し遂げられたのだろう。

この優れた国民性を持って築きあげた工業力も、更に先を行く欧米列強の大量生産を可能にしたシステムの前に敗れ去った。日本の工業力はアメリカのそれの前では、大量生産が困難な手造りに等しかったからだ。更には基礎工業力の不足から油漏れが絶えない航空機用発動機、雑音が多く使い物にならない無線機、品質のバラツキが多い諸部品など未熟な工業力の弊害に現場の兵士が悩まされたのも事実だったようだ。

戦後は世界に冠たる優秀な品質を誇っている日本製品だが、昨今トヨタやホンダのリコール問題に見るように陰りが出てきた。現地人による現地生産品の欠陥が招いたトヨタの苦境は、下手をすれば日本工業界全体を揺さぶるスキャンダルに発展したかも知れない。
捲土重来を願うなら、政府は国民の教育に今一度の注力を成すべきだと考える。
戦後のアメリカ支配からいち早く脱して、日本人の本来の姿を取り戻す努力が必要となるだろう。
いや、時代はもはやそれすら不要としているかも知れない。
精神世界では今後は意識の時代へと突入するとされているからだ。
意識の時代は感性の時代でもあろうし、魂の時代でもあるだろう。
本来は自然と共存する日本人の生活、習慣はこれからの時代にマッチする優れたものだ。
自然こそは宇宙の意思であり、法則の表れに他ならないからだ。
これからが日本人の本領が遺憾なく発揮される時代が来る、と信じて待ちわびている。
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by levin-ae-111 | 2011-09-22 05:23 | Comments(0)

走れ駆逐艦

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連合艦隊の艦種で最も活躍したのは「駆逐艦」だと思う。1000トン未満のものから最大でも3500トン前後の小兵ながら、船団や艦隊護衛に大戦末期には物資輸送や兵員の撤退など太平洋戦争全般に渡って活躍している。海軍の作戦全般に投入された駆逐艦は、開戦前には175隻を数えたが、最終的には36隻にまで激減し、その消失率は78%と凄まじい。消失率だけなら他にもっと高い艦種も存在するが、絶対数が圧倒的に多い駆逐艦の被害の比ではない。
駆逐艦の兵装は主砲、機関銃、魚雷、爆雷だったが何といっても、そのスピードが最も重宝された理由のひとつだろう。高速で小回りが利き、最高で40ノット以上もの速度が出せた。潜水艦の水中速度6~9ノット程度と比較すると、駆逐艦がいかに高速だったかが判る。

この駆逐艦だが実は海軍では「軍艦」とは呼ばれず、単に艦艇として区分されていた。つまり掃海艇や水雷艇などの小型艦艇と同様の扱いだった。従って艦首には菊の御紋を戴かず、艦長も「駆逐艦長」と呼ばれ、軍艦の艦長とは区別されていた。
この様な扱いを受けていた駆逐艦だが、太平洋戦争全般に渡って最も多くの闘いに参加し補助艦艇としての役割に徹した。戦艦大和に最後まで付き従ったのも駆逐艦で、漂流する兵士を生き残った駆逐艦が決死の救助を行った。

その中でも最高の武運艦として有名な「雪風」(宇宙戦艦ヤマトで古代進の兄が指揮していたのと同名)は、戦後も大切にされ台湾海軍の艦艇として活躍した。引渡しの際に、元の乗員たちが隅々までピカピカにして引き渡した。台湾側も雪風の艦暦を知っており、敬意を持って受け取り大切に使用した。退役後に返還をしようとした矢先、嵐で沈没し舵輪だけが日本に返還された。あの秀麗な艦が失われたことは非常に残念だ。

駆逐艦はその高速と引き換えに、防御機能を捨てていた。スピードを得るために幅を狭くし全長を長くしたスタイルは、航行の安全性に悪影響を及ぼす場合もあった。しかも装甲は施されておらず、僅か10mm程度の鋼板で船体が造られていた。
これは小型爆弾の命中でも致命傷となる程度の貧弱なもので、魚雷などが命中すれば一瞬で沈没してしまう脆弱な造りの船体だった。また高速ゆえに船体内部空間の半分近くをエンジンルームが占めており、騒音や振動、揺れが激しく居住性も悪かった。

私が太平洋戦争に参加した艦艇の内で駆逐艦を最も好きな理由は、スタイルのスマートさや勇猛さ以上に乗員たちの心意気や一体感にある。
駆逐艦や潜水艦などの小型艦艇では、戦艦や空母には見られない独特の人間関係が在ったようなのだ。
海軍は陸軍と比べ階級の上下による人間関係の隔たりが比較的小さかったらしいが、それでも大型艦では階級による差別が厳然と存在し、風紀についても厳しかった。
士官室(ガンルーム)には、世話をする当番兵以外の下士官兵の出入りは禁じられていたし、敬礼がだらしない等と言って因縁をつけての暴力も存在した。

その点、駆逐艦では員数が少ないことや船が狭いこともあり、より人間臭い関係が存在したらしい。闘いとなれば全員が結束し、手持ち無沙汰な者など誰もいなかった。
一発でも被弾すれば沈没する確率の高い駆逐艦では、全員が運命共同体でありその事が駆逐艦独特の雰囲気をかもし出していたらしい。

前述のように簡単に沈んでしまう駆逐艦の乗員たちは、意外な事に決戦前夜となっても特別に緊張した風も無く淡々としていたという。一方で戦艦などでは緊張でピリピリした空気が張り詰め、覚悟を決める為に酒盛りなどが行われたらしい。
駆逐艦乗りには大型艦の乗員には無い独特の誇りがあり、それが彼らをして決戦を目前にしても動じない強さに繋がっていた。
駆逐艦乗りにとっては遠洋航海そのものが命懸けであり、常に肝を据えている必要があったのだ。

荒天下の太平洋を疾走する駆逐艦、大きな波浪が一瞬で艦(ふね)を呑み込む。沈んだかと見える様な光景から数瞬の後、日本刀の切っ先のごとく鋭い艦首を躍り上がらせ、波頭を蹴立て波間から飛び出してくる駆逐艦の勇壮な姿が眼に浮かぶ。
喫水線から甲板までが10メートルに満たない駆逐艦は、ブリッジまでも波を被る。日頃からこんな風だから、駆逐艦乗りは常に命懸けだった。自然と必要以上に階級の差に拘らない雰囲気や無用な風紀は捨て去られ、全員の結束が強まり人間関係が濃くなるのである。

誰もが自分の成すべき仕事を心得ており、戦闘ともなれば無心で自分の務めと向き合ったのだろう。しかし駆逐艦にとって戦果を挙げる機会はそう多くなかった。
駆逐艦最強の武器は魚雷だったが、これと主砲だけが戦艦や巡洋艦などの大型艦に立ち向かう武器だった。しかし小口径の主砲は非力であり、大型艦を沈める唯一の手段が雷撃だった。だがこれを使うチャンスは滅多に巡って来なかった。

大戦末期、ガダルカナル島への補給を担ったのは駆逐艦や潜水艦であった。この補給作戦で多くの駆逐艦が失われているが、駆逐艦が本領を発揮した数少ない闘いが展開された海域でもあった。
「ルンガ沖夜戦」がそれで、田中少将の指揮で米国巡洋艦と駆逐艦の多くを葬った。
輸送任務中の駆逐艦隊を襲った米艦隊の重巡洋艦(1万トンクラス)数隻と駆逐艦に対し、魚雷戦を仕掛けた日本駆逐艦隊が勝利した闘いだった。
米側は田中少将を最高の駆逐艦指揮官と高く評価したが、日本側はこれと反対に田中少将を司令官から解任した。その理由は伝統の指揮官垂範を放棄し、自艦を隊列の先頭ではなく中央に位置せしめた事にあるようだ。

戦後田中元少将は、この件に関して余り語らず「僕はただ、突撃せよと言っただけだよ。後はみな部下がやってくれた」と述べている。こんな処にも階級の上下を超えた駆逐乗り同士の信頼や友情が見え隠れしている様に感じる。
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by levin-ae-111 | 2011-09-21 05:49 | Comments(0)