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by levin-ae-111

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長い題名の本22

臨死体験で会う人々
 臨死体験に関する長期の調査により判明した事実は、臨死体験で見る光景が脳内麻薬による幻覚などではないという事をより強力に後押しする。
研究者たちが長期の調査で分かったことというのは、臨死体験で子供が親を見た場合は、必ずその親は故人であるということだ。しかも親だけでなく臨死体験で誰かに会えたかというと、例外なく心から愛していた人、たとえ一分でも先に亡くなっている人いうのが条件なのである。

キューブラー・ロス博士はその著書『死ぬ瞬間』で、この様な事例を多く示している。
臨死体験で共通するのは、先に亡くなっている近親者など、愛する人の存在を感知したしたことである。自分が来るのを心待ちにしてくれているおばあさん、10ヶ月前に死んだ仲良しだったおじさん、約2年前に拳銃の暴発で死亡したクラスメートなどである。
 批判的で懐疑的な研究者たちに、これらの知覚体験が史実であることをどのように示せばよいのだろうか。
 極めて危険な心臓手術の最中に、意識を失っていた少女が術後に兄に会って心が和んだと父親に語った。その少女は兄と自分は以前から知っていて、生活を共にしたように語った。現実には兄と一緒に育ったことなど無かったのに。
彼女の父親はこれを聞いて、口が利けない程に驚いた。彼女には兄がいたが、彼女が生まれる前に亡くなっていたのだ。

 記憶に新しい新潟中越地震で、母子が車ごと土砂に埋まり、後に赤ん坊だけが助け出された悲惨な事例があった。この様な場合、周囲の人々は母親が死亡したことを伝えない。
幼すぎて、その様な事実に耐えられないだろうし、理解出来ないだろうと思うからだ。
ロス博士の話しも、これと同様な事例である。
 アメリカでは膨大な数の自動車事故が起こり、多くの人々が傷ついたり亡くなったりしている。普通、負傷した子供は現場から最も近い病院に連れて行かれるが、事故の状況や外傷の重傷度によっては専門病院へ運ばれる。
子供たちは死の直前、私(ロス博士)が(透んだ瞬間)と呼ぶひと時を持つ。事故あるいは手術後ずっと昏睡状態にあった子供が目を開いて、とてもしっかりとしている様に見え、大きな痛みや不快感を感じていた子供が、穏やかで安らいだ表情になる。
こういう時に「もし良かったら、今、体験していることを話してもらえませんか?」と尋ねてみるのである。

「今はみんな大丈夫です。お母さんとピーターが僕を待っていてくれるから」と、ある少年は答えた。その少年は満足した笑顔で再びこん睡状態に戻り、静かに死へと移行していった。ロス博士は事故で母親が即死した、しかしピーターは死ななかったことを知っていた。ピーターは救出される前に車が引火した為に、火傷をし重度火傷患者の専門部も課のある別の院へ運ばれていた。
ロス博士は少年の言ったことを確かめるために、ピーターの容態を聞いてみようと決心した。しかしその必要は無かった。
ロス博士がナースステーションの前を通り掛かった時、ピーターの病院から数分前にピーターが亡くなったことを知らせる電話が入ったからだ。

ロス博士はカリフォルニアからオーストラリアのシドニーまで、資料を集めて廻った。白人の子供、黒人の子供、原住民、エスキモー、南アメリカやリビアの瀕死の子供たちについて調査した。
誰かが待っていると、子供が言ったとき、それは当たっていた。その人は、その子供が死ぬ前に(例えそれがほんの少し前であれ)必ず死んでいたのだった。
そしてどの子供も、これらの親族の死を前もって知らされてはいないのだった。
これは偶然であろうか、今までのところ、どんな科学者も統計学者も私に、何らかの合理的で科学的な理由でもって、こうした事が起こりえると納得させてくれた事がないとロス博士は述べている。

 偉大な臨床医であるキューブラー・ロス博士は私達に多くの示唆を与えてくれている。特に彼女が現実に日々、多くの人々の死の瞬間を目の当たりにしていた事実がその主張にこれ以上はない重みを与えている。
 それにしても、子供たちが死にゆく瞬間に、安らぎの時が存在し恐れも無く旅立って行くとは何と素晴しい配慮なのであろうか。
本当であれば全ての人々に、この様な配慮が為されているはずである。それが中有(バルドゥ)で出会う光や、三途の川の向こうで微笑んで手を振っている既に亡くなった親しい人々の姿であったりするのだろう。
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by levin-ae-111 | 2012-01-31 05:12 | Comments(0)

長い題名の本21

全盲の人が臨死体験で見る光景 
臨死体験は真実なのか、それとも脳が産みだした幻影なのであろうか。脳が産みだした幻影であるとすれば、先述した「窓の下のテニスシューズ」や臨死体験者に共通した報告の「上から自分を見ている」「周囲の人の言葉や、服装の詳細」などは説明されない事も多い。キューブラー・ロス博士はこう述べている。
「例えば突風のような自動車事故に襲われた場合、人々は自分が身体を抜け出すことをはっきりと知覚して、自分が最初に倒れた場所の近くにいることに気付く。
救急車が到着し、彼を車から救い出し火を消そうとしている光景を、その場面を事細かに描写する。驚くことに彼を潰れた車から救い出すのに使ったガスバーナーの数まで正確に言うのである」

「願望投影説を否定する、最も単純な方法があります。光を知覚できない全盲の人に、臨死体験はどんな風だったか聞くのです。もし単なる願望の投影ならば、自分の周りの状況を正確に描写することなど出来ないはずです。
私達は何人かの全盲の人に、臨死体験について質問しました。彼らは誰が最初に部屋に入って来たか、誰が蘇生を試みたか、その場に居た全員の服装を微に入り細を穿って描写してくれました。
自分を見舞いに来てくれた人々の洋服や宝石の色、セーターやネクタイの色や柄までを見て正確に描写することを確認しているのです」

 有名な臨床医であるキューブラー・ロス博士が、嘘をつくとは思えない。このことは、肉体を離れた意識体(魂)の実在を示す有力な証拠である。どの様な科学者も、これを願望の投影や幻覚とは呼べないのではないだろうか。
ワシントン大学の小児科医であるメルヴィン・モース氏は、1980年代に治療した溺死しかかった少女の臨死体験について語っている。
少女はプールで溺れ、呼吸と脈が19分間も停止した重態だった。そして3日間にも渡り昏睡状態が続いた。
通常は6分間の呼吸停止で脳の破壊が始まると言われるが、この少女は奇跡的に何の障害も残らずに回復した。

 博士が少女にプールで起こった事を聞いた時、少女は「天のお父様に会った時のこと?」と聞き返した。博士が困惑していると、少女はそれ切り口をつぐんでしまい、続きを聞き出せたのは3週間後だった。
少女は博士が自分にどの様な処置を施したかを、全て見ていてそれを正確に覚えていた。鼻にチューブを入れた時のことも正確に描写した。
「最初に先生は私を大きな部屋で治療していたの。それから私を小さな部屋に連れて行って、大きな機械の中に入れたの」
CTスキャンに入れた時のことを、子供が自分の表現で言えば、こうなるであろう。それから彼女は意識のある状態で、博士を見たことは一度もなかった。
それにも関わらず、彼女は母親に博士のことを知っていると主張し、「あのお髭の人が私を手当てしてくれたの」と言っている。

少女が語った臨死体験について、博士は以下のように語る。
世界が暗くなり、だんだん恐ろしくなった。向こうから金髪の女の人がやって来て、それから辺りが明るくなった。エリザベスという名のそり人は、少女を助けに来たと言い天国みたいな場所に連れて行ってくれた。そこには、子供も大人も大勢いた。
死んだばかりの人もいたし、生まれ変わるのを待っている人もいた。それからキリストの様な人に会って、ここで一緒に暮らしたいかどうかを尋ねられた。
少女は居たいと答えたのだが、お前は母親の手伝いをしなければ成らないと言われて、自分の身体に帰された。
それから8年間、モース博士は心臓停止から蘇生した何百人もの子供を診察した。これらの調査で、昏睡状態の子供たちが、自分や看護師の治療の様子や、話した言葉まで知っていることを確認した。また患者の多くが自分の肉体を抜け出して、自分の肉体と治療する人々を上から眺めていた事を確認するに至った。
モース博士は神経科医や精神科医らと「シアトル研究会」と名付けたチームを組み、臨死体験が薬物、感覚遮断、心理的ストレスなどでは起こらないことを証明した。

このチームは主種の薬物を投与されている患者や、心理的ストレスを持つ患者を調査し、それらによる臨死体験が起こらないことを確認して、以下の様に結論している。
「これまでの調査によると、人間はみな死ぬ時点で肉体を離れて、美しくやさしい光に向かって行くような感覚を持つと思って良いと思う。明らかに唯物論的な考えに反するわけだが、なぜ人々が身体から離れて美しい光に向って行くと感じるのか、最も簡単な説明は実際にその事が起こっているということだと思う。
いわゆる全てのデーターを説明する最も単純な仮説が正しいという原則を当てはめれば、臨死体験の一番簡単な説明は、人間には実際に魂があって、それが死の時点で肉体を離れていくというものだ。もっと複雑な説明が出てくると思うが」

また次の様なことも言っている。皮肉なことに臨死体験が多く報告されるのは、現代の医療技術のお陰なのだ。臨終の床の数時間で、死んで行く者がどんな体験をするかを医師や看護師や私達自身が学べば、これまでの医学と生命に関する思い込みは微塵に砕けるだろう。今日の医療には心が、精神性が欠けているように思う。技術と精神性が肩を並べて存在できない理由は何処にもない。

これらの事柄は何れも死後の意識の存在を示しているだろうし、医療関係者たちのこの様な真摯で綿密な検証の結果は十分に、唯物科学の猛襲に耐え得るものであるように見える。
ところで、唯物論者たちが臨死体験をした場合はどう感じるのだろうか?彼らの反応を予測すると、概ね二つに分かれるに違いない。
一つは自分の信念の間違いを認め、死後の生の存在を認める者。もう一方は自分の体験も疑い、相変らず唯物論に固執するケースである。
臨死体験者たちの多くが、体験後により精神的な方向へと人生の考えを転換している事実を考えれば、どちらが豊かな人生に成るのか言うまでもない事だと思うが。
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by levin-ae-111 | 2012-01-30 05:18 | Comments(2)

長い題名の本20

科学者たちの反論
 臨死体験とは一連の意識の経験であり、直接的な物理的証拠が存在するわけではない。臨死体験者が目撃した自身を蘇らせようと必死に努力する医療スタッフの会話や、周囲の状況を幾ら提示したところで唯物科学はそれを取り合わなかった。
しかし、現代に到って、それを科学的に実証しようとする動きもある。英国ブリストル大学の脳知覚研究所の講師で、異常心理学・体外離脱現象の科学的解明を専門とするスーザン・ブラックモアは言う。
「近年、国際臨死研究協会は臨死体験は人間の五感による知覚から開放され、テレパシーによるコミュニケーションを意識レベルにまで移行させる超常体験である。
そして臨死体験者は自分が日常世界とは時間、空間的に異なる周波数の高い次元にいる者と定義するに至った」

だが多くの学者たちはその対極にいて、臨死体験の正体をあくまでも苦しみや恐怖を和らげるための脳内現象であるとする見解を指示している。彼らによれば、これまで見て来た臨死体験は、脳内麻薬による幻覚や幻聴であるらしい。
アメリカの心理学者ロン・シーゲルは、どれほど麻薬中毒者が陥る幻覚や幻聴と、臨死体験が似ているかを示して、臨死体験は脳内麻薬による幻覚、幻想であると結論づけている。
また英国の精神科医は、この種の報告をした人に「本当に死んでいる人はいない」とし、臨死体験は生命が脅かされた状態でなくとも起こり得ることであり、化学的にもその状態をつくりだすことは可能だとしている。

臨死体験否定派の考えは、以下のように要約できる。
臨死体験の全ては「死にゆく脳の作用」によるもので、死の苦痛を和らげる脳内分泌物が生み出す幻覚であり、脳が死ねば最終的にストップする。従って臨死体験は、死後の生について何も語っていないことになる。例えギャラップ調査でアメリカ人の70%が死後の生を信じているからといって、臨死体験の証拠にはならないのだ。
そして臨死体験を肯定する根拠に対して、以下のように反論している。
これらの肯定派と否定派の攻防を、あなたはどうお感じになるであろうか。これだけを見れば、如何にも否定派の主張の方が優位なように見える。
だがそれは臨死体験(体外離脱体験を含めて)なる極めて個人的で主観的な体験を、誰にも分かる様に説明し、それが真実であると証明せよという極めて困難な課題の故である。
 
肯定派の根拠
・臨死体験は古今東西同じで、一貫性がある。
・臨死体験は極めてリアルで、現実感がある。
・臨死体験には、科学で説明不能な超常的な体験が含まれている。
・臨死体験で人が変わり良い方向に変わる。精神主義的になり、物質主義的でなくなる。
否定派の反論
・脳やホルモンは神経系など共通であり、従って同じような体験をするのは当然である。
・そう言っても、未体験の人には分からない。
・これも、体験したと主張する当人にしか分からない。
・化学物質の投与で、これらの事は容易に可能である。

こういった状況は、実は臨死体験などのデリケートな事柄に関してだけ発生するものではない。それどころか、私達の日常の行動や考えに常に付きまとう問題なのだ。
臨死体験を否定する学者たちの身にも、当然のようにその問題は降りかかる。と言うのはあの時、あなたはどうして、あの行動をとったのか科学的に証明しなさい、と言われているのと同様であるからだ。無意識の行動を如何に科学的に分析し、証明してみたところで無意味である。
「あの時、こう考えて、ああした」と分析しても、殆ど無数に存在したであろう行動パターンの一つを選択した真実の原因など現代唯物科学で正確に解き明かし、証明することなど本当は不可能なのである。

学者や発明家、芸術家などには時として閃きなるアイディアが何処かから降ってくるものらしい。現実にそういう閃きの恩恵を私達は受けているのである。
不思議なことに、自分の知識では到底及ぶはずのないこういう文章を記述している私(ブログ筆者)にも、正に今、同様のことが発生している。
今日の記述はコンノケンイチ氏の著書に従えば、上記に掲げた肯定派と否定派の部分で終わっている。
閃きというのは少々オーバーであるが、何か不思議な感覚に導かれて今日の記述を続けている。こういう状態は何度も経験しているが、それを証明せよと言われても不可能である。
私達の物質世界の実態とは、唯物化学が主張するような単純な、或いは複雑過ぎる理論では表現し切れるものではないのだ。
 私達の世界は画一的に表現できる事柄など、皆無であると私は考えている。この世界は私達の合意に基く一定のルールにより形成されているに過ぎないと私は思う。
そこにこそ、意識(魂)としての進化発展の余地が存在するのである。確たる物質的法則で縛られているかに見える私達の世界だが、本当は人間個々の意識が強く働く余地が十分に残されている世界なのである。
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by levin-ae-111 | 2012-01-29 12:42 | Comments(0)

長い題名の本19

臨死体験に共通するパターン

 臨死体験について自らも経験したキューブラー・ロス博士は次のように説明している。
「愛した人に迎えられ、指導役の存在たちに迎えられると、よくトンネルと表現されるものの中を通ります。トンネルは、ある人には川だったり、門だったり、それぞれに最も相応しいものとして現れます。私の時は野生の花でいっぱいでした。
と言うのは、私にとって天国のイメージは幼い頃のスイスでの楽しい思い出が基だったからです。この様に、死んだ直後のイメージは、各自の過ごした文化によって決まります」

何故ならば、物質のない中幽界(バルドゥ)では、全てが自分のイメージの通りに現れるからである。そこでは、そのビジョンこそが現実であり、彼らから見れば物質に縛られた私達の世界こそが虚しい一種の幻想であるのだとキューブラー・ロス博士は言う。
更に現世に住んでいる私達は臨死体験や中間生を脳が創り出した幻だとして、真面目に取り合わない傾向がある。だがあちら側から見れば、自分の境遇を忘れたまま死後の世界を否定し、物欲に捉われた生活を送る人々がとても哀れに見えるらしい。
 そういった意味で私達の物質世界こそが実態のない幻なのであり、科学が軽んじている心や意識こそが私達の実態であり真実なのだとロス博士は述べている。

 更にロス博士は、「私達の本来の姿は光であり、その波長の高さ(強さ)によって、その眩しさが異なるようです。臨死体験者の証言では、意識レベルが高いほど眩しく輝き、レベルが低いほど暗く沈んで見えるそうです。どの様な人も、本来はみな光なのです」

 この世を獄舎と考えれば、ロス博士の言うことの意味がより鮮明に理解できるであろう。現在では医療技術の進歩によって、夥しい数の人々が心臓発作や末期的病気、事故などの死の淵から蘇っている。
ギャラップ調査(1982年)によると、アメリカの総人口の20%ものアメリカ人が臨死体験を経験しているという。2004年時点でアメリカの総人口は約3億人であるから、15000万人もの人々が臨死体験をしている計算になる。

ケネス・リングは次の様に言っている。
「私は今、集団としての人類が、より高度な意識の境地に目覚めるために苦闘しているのだと思う。臨死体験は何年かの間に何百万の単位で、この変容を引き起こすための進化上の工夫なのではないだろうか」
  
 臨死体験は人によって異なるが、各段階での核となる共通のパターンが存在するのも事実のようだ。心理学者で臨死体験の最初の研究者であるレイモンド・A・ムーディ博士は、30年ほど前に50人もの臨死体験者と面談し、その個々のデーターを比較研究して共通のパターンを洗い出し『垣間見た死の世界』という著書にまとめている。
その博士が説明する典型的な臨死体験のプロセスを見てみよう。

1.耳障りな轟音を聞いて、気付いてみると自分が肉体から遊離している。その時、自分の肉体を真上から見ることが出来る。
2.苦痛も恐怖も消え失せて、静かさと安らぎに至る感情の変容が発生する。
3.視覚や聴覚、意識が極めて鋭敏になり、壁を抜けて移動することが出来る。
4.闇の中に入り、次元を超えた空間を漂い、トンネルの中を急速に移動していく。
5.はるか彼方に光が見え、ぐんぐん引き寄せられて光の輝きと愛に包まれる。
6.次いで天国の様な世界を目にし、妙なる音楽が流れて一体感を味わう。
7.それ以上は先に進めないという境界線に到達し、亡なった親族や友人と出会い、この世に戻るように告げられる。そこで家族の為に、或いは達成していない自分の人生の目的の為に肉体に戻っていく。

ムーディ博士は臨死体験で見聞する世界は、完全なる死後の世界ではなく霊界の入り口に近い、まだ引き返すことの出来る場所であろうと考えている。コンノ氏の言う刑務所の門の付近であり、境界線を越えるまでは引き返すことも選択できる場所であろう。
臨死体験の重要な点は、体験者の各々が人生や常日頃の態度、人間関係を変容させ得ることであり、例外は少ないであろう。
大方の体験者は、死を悪戯に恐れになくなり、より愛情深く忍耐強くなる。それから精神的価値観に重きを置くようになり、ひとつの宗教に捉われなくなり、人類共通の精神性に興味を抱くようになる。
またコネティカット大学・医学部精神科のブルース・グレイソン教授の調査によれば、臨死体験をした自殺経験者は、二度と自殺をしようとしなくなるとしている。
臨死体験により生と死を理屈抜きに受け入れられる様になり、その結果「生の意味」を知り「生きる意味」が改めて強化されるからであろうと述べている。
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by levin-ae-111 | 2012-01-28 05:58 | Comments(0)

長い題名の本18

体外離脱と臨死体験の違いは「死」の深み
コンノ氏の行きつけのバーで知り合った男性が、松葉杖をついていたのでどうしたのかと尋ねると、工場で機械の下敷きになり怪我をしたという。そして男性が語り出したのは、下敷きになり一瞬で意識を失った。気がつくと10メートル程度の上空から下敷きになった自分を見下ろしていた。意識は明瞭で、職場の仲間たちが慌てている様子や、騒いでいる話し声も覚えていると言った。その内に身体に引き寄せられて、気がつくと蘇生していた。これは、臨死体験ではなく、体外離脱の方に分類されるであろう。

さて、体外離脱は私や上記の男性、更に先述の女性マリアのような状態であろう。それは比較的に短時間の間に発生し、終息するといった感じがする。
それに対して臨死体験とは、生命の危機に瀕し比較的長い時間に及ぶ経験と言えるのかも知れない。
事故や病気で瀕死の容態に陥り、自分の周囲を取り囲む人々を上から眺めている。やがて暗いトンネルの向こうに光を見つけてそこを抜け、美しい花畑や三途の川などに辿り着く。対岸には昔に亡くなった身内や友人などが、ニコニコと微笑んでいる。
臨死体験者はそこへ行こうとするが、対岸の人々であったり光の存在や、人によっては神仏に「まだ、早い」などと告げられ、気が付くと肉体に戻っているパターンである。
意識が肉体の外から自分を見るなど、共通した部分が多いが、体外離脱と臨死体験の違いは「死の深みの違い」と言えるのかも知れない。

私(ブログ筆者)が考えるに、私達は誰しもが普通に体外離脱体験をしているのである。それは人によって明確な体外離脱体験として意識される場合と、それとは気付かずに体験している場合の二通りのパターンが存在するのではないかというものだ。
私も明確な体外離脱体験は記憶している限り、一度しか経験していない。しかし、よく考えてみれば夢とも幻覚ともつかない寝入り端の時に、何度も壁をすり抜けたりした。
そうして向う世界は、現実とも幻とも分からない世界なのである。

眠りに着こうと床に入り、暫くするとウトウトとし始める。時はヴーンという低いハミング音が聞こえる。そして体重の感覚が次第に薄れ、浮遊感が出てくる。
しかし、これは現実なのか、それとも夢なのか判然としない。そんな状況の中で、訪れる世界は様々である。
この様な状態の時にいつもとは限らないが、体外離脱をしているのではなかろうか。私達が夢と思い込んでいるものの中には、実際の体外離脱が含まれているかも知れない。


臨死体験の印象的な証言
体外離脱にしても臨死体験にしても、どちらの体験も体験者の生死に関する認識に幾分かの影響を与えずおかないだろう。特にそれが実際に死の瀬戸際まで行った人々では、より大きいと予想されるがどうであろうか。
 現在では脳死問題などをきっかけにして、臨死体験への関心が高まっている。心臓が止まって完全な死の兆候を示しながらも、生き返った人々の体験が臨死体験である。
ここで臨死体験をした人々が、体験後に死に対してどのような認識を持っているのか、印象的な証言を挙げてみよう。

マーゴット・グレイ(42歳)
こうして(臨死体験の後)私は、死後も生命がある事を確信したのです。その事を露ほども疑っていません。だから死ぬことが恐ろしくないのです。そう、怖くないんです。
知人の中には酷く死を恐れて、怯えている人がいます。死後の生を疑っている人や、死ねば終わりだと言っているのを聞いたりすると、私はつい微笑んでしまいます。みんな知らないんだと、心の中でつぶやくのだ。

シルビア・マーガレット
死後にも生命があることを、私は知っているんです!!誰にも私の信念を揺るがす事はできません。私は全く疑っていません。それは安らかで、怖がることなど何もないのです。
私が体験したその先に何があるのか、そこまではわかりません。
でも、あれでもう十分なのです。そう、死後の生はあるのです!!私達の想像を超えた、何よりも美しい生が!ただ知るだけなのです。

医師の証言
 昭和大学病院の高宮医師が、中日新聞で語っている。
末期癌患者の深刻な苦悩や死に対する不安や恐怖は、私達の想像を絶するものだが、そういった患者に対して医療関係者はどう対処したら良いのか。
「私の医師としての体験上、肉体の死で全てが無になるとは思っていない。私が信じているのは、患者の臨死体験で語られる死後の世界である。」
高宮医師の担当した5人の患者たちは、皆同じ体験をしていたという。つまり自分が肉体から離脱して、温かい光に包まれてトンネルを抜けて行く。
その先の景色は人それぞれであるが、概ね花畑や芦原、川や湖があったりする。
患者たちの共通の証言として、「死後の世界があんな所だったら、死ぬことはそれほど怖くない」と述べていた。
 それを信じた高宮医師は患者たちに「肉体の死で全てが無になるとは思っていない。死後の世界は良い所だと思っている」と告げると、多くの患者は安心するのだという。
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by levin-ae-111 | 2012-01-27 04:53 | Comments(0)

長い題名の本17

獄舎(この世)からの脱走(死)について
身体から抜け出す意識
 

 人間の意識が身体から抜け出して活動する(体外離脱)を欧米では、OOBB(体外遍歴透視)と呼んでいる。スウェデンボルグがロンドンに居ながらにして、自宅の火事を知ったのもOOBBといえるであろう。自分が寝ている姿を上から目撃したり、遠くの光景をそこに居るかの様に直接見るという奇妙な現象は古代から知られていて、宗教的にも重視されてきた。
聖書にもそのような記述があるし、体外離脱は聖者の有するひとつの属性とすら考えられていたようだ。肉体から遊離した意識が自分の姿を見たという話しを聞いた事があるだろう。そして肉体から遊離した意識と、意識が抜け出した肉体の両方が第三者によって目撃されるドッペンゲンガーなる現象も存在している。かつてはゲーテも、馬車に乗った自らの数年後の姿を目撃したという。

私(ブログ筆者)は、肉体から意識が遊離する現象を一度だけ体験した。一瞬だが空間が歪んだ様な気がして、次の瞬間には工場の天井近くの空間から下を見下ろしていた。
見ると意識が遊離しているにも関わらず、私の肉体は何事も無く作業を続けていた。肉体と遊離しているので、私自身(意識の方)は肉体と一体であった時に感じていたあらゆる刺激を全く感知していなかった。
それと同時に肉体の持っている欠陥(視力が弱い)などの弊害の影響も、全く感じていない。
また肉体に対して特別な感情を抱いている、という事も無かった。
私(意識)は、ただクリアな視界や珍しい視点、安らかで落ち着いた気分、それから何とも言えない軽快で新鮮な体験にワクワクしていた。
 それからもっと以前には、私と同じ車(色も型式も同じ)に乗って、同じ様に眼鏡を掛けて同じ色のポロシャツを着た人物の運転する車とすれ違った。と言うよりも、それは私自身だったに違いない。パープルの半そでのポロシャツは、当時の私のお気に入りだった。
その車と出会った日の私は、目撃した車の運転手と同じ色の半そでのポロシャツ姿だった。
日本ではこの様な現象の原因を、悪霊あるいは生霊の仕業とされて来たという。

 この分野の研究は20世紀の最初の研究者は、フランスのヘクター・ダービルと英国の心理学者オリバー・フォックスである。二人とも自らこの不思議な現象の体験者である。
特にオリバーの体験報告は、多くの示唆を含んでいる。
フォックスの最初体験は、夢の中で自分が夢を観ていると自覚することから始まった。ここまでならば誰にでもあるだろうが、フォックスの場合は体験を重ねる内に、自分の身体が思うがままに壁を突き抜けて、外に出られる事を発見した。不安な感じはなく、目前の光景は見慣れた現実のものだった。
眠りにより表層意識が消滅した無意識状態で始まるこのトリップ体験は、夢の中でも明確な意識と現実感を伴っていた。
こういった問題に科学機器を用いて研究を開始したのが、カリフォルニア大学心理学教授であるチャールズ・T・タートだった。被験者は24歳の女性、エリザベス。
エリザベスは子供の頃から体外離脱を頻繁に体験し、それは誰にでも起こることだと思っていた。成人してからも週に2、3回もベッドで寝ている自分の姿を、天井付近から眺めたという。

タートの行った実験は、エリザベスに電極を付けて脳波や眼球運動をチエック出来る状態で、別室に居るタートがランダムに拾い出した5つの数字を、エリザベスが体外離脱して見て来てタートに報告するというものだ。その数字は5桁で、これを当てる確率は10万分の1しかないのだ。
エリザベスは4回の実験で数度の体外離脱を体験し、エリザベスは悉くこれに成功した。
体外離脱は普通には意識的に可能なものではないが、それを意図的に行える人物もいるようだ。大学生だったブルー・ハラレーは、この稀な例でロバート・モリス博士のもとで被験者として実験に参加した。離れた場所の一室に子猫がいて、ハラレーの体外離脱のターゲットはこの子猫だった。指示に従いハラレーは数回の体外離脱を行い、この子猫の所へ向かった。子猫はハラレーが体外離脱を支持された時、とても静かにしていたが、ハラレーが去ると元気に遊び始めるという反応を実験の度に示したという。こうしてモリス博士は、ハラレーの体外離脱を証明したのだった。

最近では体外離脱した意識は、どの程度の距離を移動できるかという実験も行われている。
それによれば、メイン州ポートランドとニューヨークの間でも可能である事が証明されている。それにしても、これらの実験を行った学者たちは本当に好奇心が旺盛だし、勇気があると感じる。学術的な分野に身を置く人々であるからこそ、そう感じるのである。
 体外離脱の例は、他にもある。心臓発作を起こして病院へ運び込まれた女性マリアは、手術中に意識不明となり、その間に体外離脱をしていたと主張した。その証拠として、病院の3階の窓下にテニスシューズが片方だけ落ちているという。
そこは意識して探そうとしない限り目に付く場所ではなかったので、職員が探しに行って見ると、確かにマリアの告げた通りにテニスシューズが片方だけ落ちていたという。
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by levin-ae-111 | 2012-01-26 05:15 | Comments(2)

長い題名の本16

ETの魂を持つ人々 
「宇宙人の魂を持つ人々」という本がある。日本語訳されて出版され、ベストセラーになったのでご存知の方も多いと思う。この本の著者はアメリカ人のスコット・マンデルガー博士で、奇しくも私(ブログ筆者)は勝手にこれをブログにして半年以上にも渡って毎日書き続けた。著作権の侵害も懸念されたが、幸いなことにブログ読者の方のご尽力を頂いて博士からOKを頂いた。最後には博士から「まとめて読みたいと思う人も居るだろうから、本にしたらどうか」などと、望外のご提案まで頂き恐縮したものだ。
仲立ちの方が殊の外、上手な説明を博士にして下さった事や、博士の寛大なお心に今でも感謝している。
 
さてここでETの魂を持つ人々と表現されているのは、宇宙人が地球人に成りすまして地球に侵入している、という話しではない。そうではなくて、地球よりも高度に発達した宇宙の文明社会から魂として地球人に生まれて来ている人々の事を扱った内容である。
博士によれば、これには二つのケースが存在する。
①ワンダラー:最初から地球人として生まれた宇宙由来の魂を持つ人々のこと。
②ウォークイン:途中から宇宙由来の魂が、人間の魂と入れ替わった人々のこと。
これらの人々は、地球人類の意識の底上げを目指して、各々のやり方でそれに貢献しようとしている。
 この宇宙由来の魂の持ち主たちの人数は、驚くべきことに1億人は存在するという。つまり60人に一人が、このETの魂を持った人であるということだ。
そして自分が宇宙由来の魂の持ち主であると気付いている人は、全体の15%程度であり、その多くは価値観の違いによる違和感や阻害感に苦しんでいる。
ワンダラーとウォークインの割合は、95:5程度であり、ワンダラーが圧倒的に多いとしている。

コンノ氏の本には、自分がETの魂を持っているかどうかを知るための簡単な質問が、マンデルガー博士の著書に基いて記載されているが、ここでは割愛したい (詳しくは私のブログ「勝手に言っています」及び「勝手に言っています2」やmixiの日記(よしりん)で載せている─タイトルは「ETソウル」─)。
コンノ氏は価値観の違う人として、手塚治虫氏を挙げている。
無論マンデルガー博士が主張する様な現象に対する科学的証拠は何も存在しないのだが、極めて精神的な問題であるから現代唯物科学の検証の網に掛かるはずもない。
しかしマンデルガー博士がコツコツと自分がETだと自覚している人々をインタビューして回り、その証言と自らの経験を基にして書き上げたレポートは圧巻である。
博士の考えの基礎にあるものは、キリスト教的な宇宙論と仏教の輪廻転生論、それに加えて最新のチャネリング情報を基にしたニューエイジ的思想を融合させたニューエイジ哲学とでも呼ぶべきものである。

それによれば、宇宙の本質とはワンネス(完全に調和とた一体性)であり、私達が生きる意味はユニティ(神との一体化)の達成にあるという。それは物質的な進化ではなく、精神的・霊的な進化のことで、それ為に私達は人生経験から真の愛と寛容を学び、自己啓発を続けながら霊的進化の階段を一段ずつ登って行かねば成らないのだ。
基本的で無機的な段階から心と体を持つ動植物の段階を経て、心と霊がスパークして意識を持ち人間のように魂が宿った存在が第三段階だとしている。
ここで人間は魂の選択を迫られ、人間に留まるか第二段階へ落ちるか、或いは進んで第四段階へと上るのか何れかに成るという。
更に英知と光を体得かするにつれ、段階を上り第7次にまで上がると、そこは神仏のレベルであり永遠の存在となって創造主と一体となるのである。

博士のこの主張は、これまでに見て来た霊界の構造に一致している。尤も博士はインド等で瞑想修行を何年も行っており、ある意味でこれは当然のことかも知れない。
キリストの「あの星とこの星の間に、栄光の差がある」という言葉は、正しくETソウルのことを言っているのだ。
昔、日本の牢獄に外国人は居なかった。それが現代では実に多くの国や地域の外国人が収監されている。彼らは異国の牢獄で、強い孤独感と阻害感に苛まれていることだろう。
彼ら外国人の囚人をマンデルガー博士のいう「ETの魂を持つ人々」と置き換えれば、理解し易いであろう。

王任三朗の主張では「この世はあの世(霊界)の写し絵」で、霊界の仕組みが箱庭のようにレプリカとして造られたのがこの世で、しかも日本が最初の鋳型である。
つまり霊界で起こった事が、まず日本でミニュチュア化されて発生し、次いで地球規模へと発展して行くのだ。
王任三朗は「この世の大掃除が迫っている」と主張していたが、現代の情勢を見るとその時が近いのかも知れない。

キューブラー・ロス博士の次の様に述べている。
「私達は今、新しい時代に生きています。恐らく科学技術と物質文明の時代から、本当の霊性の時代に移行したのではないでしょうか。ここで言う霊性とは宗教や、信仰のことではありません。
私達より偉大な何か、即ち宇宙を創り、生命を創造した何かが存在する、そして私達はその重要で不可欠な一部であり、その発展に貢献できる・・・・そういう意識のことです。
 私は精神科医として、とても大切な事を申し上げましょう。手遅れになる前に、この世界を癒さなくてはなりません。世界を癒すためには、まず自分自身を癒さなくてはならないのです」

この世に自分が生きて存在していること、まだ、人間存在の真の意味がわかっていないにしても、そこに超自然的な意義が与えられていること、そして死後にその意味が開示されるのは確かであるようだ。
この世は「獄舎」であり、自分という存在の神秘性を思うことによって、多くの人に希望が生まれる。そのことに全人類が気付けば、現在の多くの危機は乗り越えられるはずである。宇宙(この世)は無意味に存在しているのではない。
人間の運命は永遠の世界に向って開かれ、常に存在しているのだと著者(コンノケンイチ氏)は確信している。
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by levin-ae-111 | 2012-01-25 05:28 | Comments(0)

長い題名の本15

この世には地獄界から来た人がウヨウヨいる

 ある年齢までコンノ氏は、人間の生来の資質は善であると信じていたという。それが悪事を働くようになるのは、時代環境や貧富の差が原因であろうと考えていた。
だが、どうやらその認識は間違っていたと述べている。何度も書いた様に、この世があらゆる階層の霊界人の集合体だとすれば、一様に人は善であるとは言い難くなる。
現在の地球の総人口65億の人々は、全員が神界レベルから地獄のレベルまでのあらゆる階層の霊界からこの世に送り込まれているならば、その霊的資質も大きく異なって当然である。

 マフィアややくざに代表される修羅界の人、オレオレ詐欺を働くような餓鬼界の人、自分の娘をレイプする様な父親などは畜生界から転生したのであろう。
コンノ氏はかつては賑やかな繁華街が好きであったが、上記の様な考えを知ってからは繁華街や人混みの雑踏を歩くのが怖くなったと言っている。
それは同じ人間の皮を被って、修羅界や畜生界、餓鬼界や地獄界から転生した魂が闊歩しているからだ。昨今の通り魔事件、強盗、詐欺などの犯罪の増加を見れば、そうした低い霊界からの転生者が増えているのが分かるだろう。
 
 コンノ氏は言う。日本には十二支が存在するが、これを霊界の階層にあてて考えると解り易いという。子・丑・卯・辰・巳・・・・という本性(霊質)の異なる人々が、同じ社会で同じ様に生きているのだ。人間関係なども、ウマが「合う」「合わない」などと表現されるが、これは本質的には人の本性(霊質)が近いか隔たっているかのという事かも知れない。
また「類は友を呼ぶ」と言われ、似た様な心情や生活態度の人々が集まり易いのも、この霊質が似ているからかも知れない。
巳と亥では話しは通じないであろうが、卯と卯や亥と卯ならば少しは通じ合える可能性も高まるであろう。
しかし、普通はこれが分からないので、恋愛などで燃え上がりゴールインしてしまう。最初はアツアツなので気に成らないが、恋愛感情が冷めてしまうと途端に相手のアラが見えてくる。そして、離婚や別れ話のもつれなどのトラブルに発展してしまうのだ。
出身霊界が同じであれば、それこそ本当に赤い糸で繋がっているかも知れず、所帯を持っても幸せになれるであろう。

コンノ氏によれば、どちらが良い悪いの問題でなく、出身霊界が異なる故にトラブルは当然なのだとなる。氏は自分と合った相手かどうかを見分ける簡単な方法があるという。
結婚前なら、その人と一緒に居ると「心が休まり癒される」。既婚者なら、生まれ変わってもまたこの人と一緒に居たいと思える。そんな相手が、同じ霊界層の出身者である可能性が高いと言うのだ。

聖書にも次の様な一節がある。
「全ての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鶏の肉があり、魚の肉がある。天(天上界)に属する体もあれば、地(地獄界)に属する体もある。
天に属する者の栄光は、地に属する者の栄光と違っている。
日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に栄光の差がある」

私(ブログ筆者)も、人混みや雑踏は嫌いである。田舎育ちの故という原因は大きいだろうが、やはりコンノ氏が抱く様な類の恐怖を感じているからであろう。
少し前に紹介した喜文治さんとは、時々お会いしてお話しの相手をして貰っているが、最近は彼の表現を借りれば、この世は「鬼が島」だという。
つまり社会の上層部の人間は鬼であり、その社会で出世しようと思えば、自分も鬼に成るしかないという事である。
人間であっては、出世できないどころか苦痛を感じながら生活しなければ成らないと。
確かにその通りだと、私も思う。身勝手な要求を平気で押し付け、相手の事など意に介さない人も多い。私など人様を観察して、場合によっては以前に飼っていた猫よりも程度が低いと感じる事がある。猫だって、私に気を使ってくれていたのが分かったのにと考えてしまうのだ。ともかく、この喜文治さんの「鬼が島」なる表現は、言い得て妙である。
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by levin-ae-111 | 2012-01-24 05:16 | Comments(2)

長い題名の本14

この世の霊位は逆転している
 スウェデンボルグは「この世はあらゆる霊界からの霊人の集合体」と言い、王任三朗は霊界物語で「この世の霊位は逆転している(体主霊従)」と語っている。仏教でいう六道(天上界、精霊界、修羅界、餓鬼界、畜生界、地獄界)の霊順位が、この世では逆転しているというのである。
これらの説が正しいのならば、この世では、地獄界から転生した下位の霊が、上層に君臨しているという事になる。そんな馬鹿なと思われるだろうが、この世は監獄(刑務所)なのである。そこは通常の世間とは異なり、凶悪な犯罪者ほど他の囚人から一目置かれる世界である。
時代劇などの牢屋シーンでは、獄中で畳を積み上げた高い場所で、大きな顔をして座っている牢名主などと呼ばれる人物が登場したりする。現代の刑務所でも、重犯罪者ほど幅を利かせているし、外国も同様である。
マフィアのボスなどは収監されていても個室に、電話まで自由に掛けられ、食事、飲酒も許されているなど別格の扱いを受けているのだ。

 刑務所でなくともこの世の情勢を見渡せば、その事がよく分かる。一人殺せば殺人者だが、一万人を殺せば「英雄」と呼ばれるのである。戦争はその典型である。
先の大戦で日本の諸都市を壊滅させ、最悪の原爆攻撃を指揮した人物カーチス・ルメイは後にもベトナムで爆撃の指揮を執り、多くの人々を殺している。
この悪魔の様な下衆に、後に日本国の総理が叙勲までしているのだから呆れ返るが、それもそのはずである。総理もルメイも、所詮は地獄から転生した同じ仲間であるからだ。
他にも大勢おり、枚挙に暇が無いが近代ではアドルフ・ヒットラー、古代にはローマ帝国の暴君ネロなどは、畜生界、餓鬼界、地獄界の何れからかの転生組みであろう。
現代日本も決して例外では有り得ない。現在の政治経済、マスメディアの上層に君臨する人々の言動を見る限り、決して高位の霊界から転生しているとは思えない。
人並み外れた権勢欲、物欲など修羅界や餓鬼界の生命状態そのものであり、目標達成の為に手段を選ばすに食い合うのは、畜生界の姿そのものである。
この世で如何に権勢を誇り栄耀栄華を極めようと、所詮は刑務所内の争いに過ぎない事を私達は肝に銘ずる必要があろう。

脳研究のパイオニアであり、ノーベル賞受賞者であるジョン・C・エックルスは以下の様に述べている。
「ここで、人類の未来に暗い影を落とす一つの暴力的存在について言及しておかねば成らない。それはホモ・サピエンス(賢い人)ならぬホモ・プリダトリアス(獰猛なる人)の存在である。彼らは様々な仮面を被って人間世界に登場し、社会の至るところ─政界、財界はもとより学会も彼らの舞台になる─で他の人間を支配しようとする。
彼らの頭に在るのは、人を思い通りにする力を貪欲に追求することだけであり、自己の最善を尽くして人間の文化と繁栄に貢献しようなどという気持ちはさらさらない。
この、それと知らぬ間に忍び寄る(獰猛なる人)の驚異に、私達は常にさらされているのである」と。

 世界情勢に目を転じても、各国の指導者たちの人相の悪さが目に付く。先のアメリカ大統領であるブッシュやロシアの指導者プーチン、など悪相と暗い目が共通している。
これらの共通点は何を示しているのだろうか。彼らが高位の霊界から転生しているとは言い難い。どう見ても修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界などの低位の霊界から転生しているとしか思えない。
そうでなければ、アフガンやイラクなどに無慈悲な攻撃を仕掛けることなど出来ないであろう。幾つかの秘密結社がこの世を動かす力を持っているのも、この世では本来の霊界での霊位が逆転しているという事を象徴している。
翻って現在の日本も、全く例外ではない。多くの人々を塗炭の苦しみに陥れながら、責任も取らず謝罪もせず、ましてや更なる電気料金の値上げまで言い出す東京電力は、修羅や餓鬼に支配されているに違いないし、それを手をこまねいて見ている現政権与党も官僚達や野党の政治家も同様である。この苦しい時に、増税などとは全く狂っているとしか思えない。
これらの例を挙げるまでもなく、やはりこの世は霊界の霊位が逆転しているのである。

コンノ氏の著書では、ここから「スカル&ボーンズ」という、強力な権力を持つ秘密結社の入会儀式やその活動などに言及しているが、余りに嫌悪感を伴うのでここでは割愛したい。
キリストは次の様に語っている。
「もしあなたが、この世から出た者であったなら、この世はあなたを自分一人のものとして愛しただろう。しかしあなた方はこの世の者ではない。だから、この世はあなた方を憎むのである」
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by levin-ae-111 | 2012-01-23 05:28 | Comments(0)

長い題名の本13

地獄界に墜ちたら
 マイヤーズは「霊界の喜びを知らない」と述べているが、必ずしも精霊界以上の霊界へ行けるとも限らない。地獄界へ墜ちたらどうするのか?そういう不安の声も聞こえて来そうである。無理もない、私も(ブログ筆者)実はそういう不安を抱えている。
スウェデンボルグによれば霊界には概ね三つの世界が存在し、天上界、精霊界、地獄界に分かれている。更にそれが各々三つに分かれているという。
そして下層へ行けば行くほど、凶悪な霊が住む恐ろしい世界になると記している。
仏教では霊界を六道(天上、精霊、阿修羅、餓鬼、畜生、地獄)と教え、ヴェーダ聖典でも神のレベルから、悪魔の支配する地獄界までの存在を説いている。
何れもこの世で過ごした精神レベルに合致した霊界へと、寸分の狂いも無く振り分けられるというから恐ろしい。
ここでは自分の意志とは無関係に、厳格な選別が為されるのである。勿論、誰かが決めるのではなく、自分自身の生きていた時の精神的なレベルがそれを決めるのだ。
こう思うと、とても不安になってしまう。

 たがよく考えてみれば、自分の精神レベルに合致した世界となれば、私達にとって最も住み易い世界と考えることも出来るだろう。
この世の生物を例にとってみても、その環境に最も適した生態を持っている。海底火山の熱水が噴出すチムニーと呼ばれる噴出口にも、驚くべきことに生物がいる。
巨大な水圧と酸性で熱い海の底で、エビや蟹、ゴカイの類が生息している。他の生物にとっては地獄だが、これらの生物にとっては天国であり、逆に彼らはそこでしか生きられないのだ。
人霊にしても周囲が神仏レベルばかりの世界に放り込まれても、普通の人間ならば緊張して萎縮してしまうだろうし、窮屈で落ち着かないに違いない。それよりも、自分と同じ程度のレベルの霊たちと一緒の方が楽しいに違いない。
これは冷酷な様に見えて、何処までも私達のことを考慮してくれている宇宙の愛なのだ。

これまでコンノ氏は多くの場所に移り住んで来たという。戦争中の疎開に始まり、仕事で各地を転々とした。その経験からコンノ氏が感じたことは、その土地なりの独特の気が存在するという事だった。
土地の気と自分の持つ気が合えば、運気も上昇し勢いもつくが、その逆の場合は悲惨なことになると言うのだ。
「水が合う・合わない」という言葉があるが、これがその場所の持つ気で「気の合った場所」かどうか、神経の鋭敏な人なら「気配」で判るはずだと書いている。
これが動植物ならば、先に述べたように決して生存できないのであるから、自分の住み良い世界に住むのはある種の幸福というものである。

 元々は現世の考えなど全く通用しない世界であれば、クヨクヨと心配して考えこんで悩んでも仕方のないことである。ここは「郷に入っては郷に従え」といわれる様に、その世界に馴染むしかない。しかし、そこはあなたの霊質に最も合致した霊界であり、住むには違和感は無いはずである。
だが問題は霊的な進歩を遂げて、より上層の霊界を目指すことが肝要だとされる点にある。
自分の霊質に合致した世界に浸ると、自分の居る霊界がどの程度の階層に属する世界であるか分からない。それに気付かない限り、上の階層へのステップアップは難しいのである。
これは現世の私達にも当てはまる事であり、如何にして外の世界へ意識を向けることが出来るのか日頃から心掛ける必要があるだろう。
テレビやインターネットといった情報が溢れる世界に住む私達は、その点でとても恵まれた環境に居るといって良いだろう。
時には自身の生活と異なる世界の価値観を、こういう道具を用いて覗いてみるのも良いであろう。
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by levin-ae-111 | 2012-01-22 05:23 | Comments(0)