身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


by levin-ae-111

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長い題名の本51

大霊界を構成する10の法則(1)
 霊界という存在に初めて接する方にとっては、その仕組みや実像は掴み難いものであろう。王任三朗の『霊界物語』や天明の『ひふみ神示』、キリストやスウェデンボルグの教えも全貌を伝えてはおらず、まだまだ不明な点が多々あるからである。
とは言え、多くの資料を分析すると、3つの基本的なことが判る。
まず、霊界は広大きわまるところであるという事だ。仏教ではこれを表して「三千世界」という。この世を刑務所に例えれば、一般社会と比べた場合にいかに広大な敷地を誇る刑務所であろうとも、小さな点のようなものであることを考えれば、想像がつくだろう。
それに加えて、キリストは地球外から転生して来た霊体もあると教えている。そうなると、一口に霊界といっても無限に近く、他の星の霊界を言っても始まらないので、ここでは日本を主軸として地球の霊界に絞って考えてみたい。

もう一つは、この世の私たちも、霊界に住む人々も、基本的には何ら変わらないということである。一般社会人と囚人たちとの違いは、自由行動を制限されていることの違いだけであり、基本的な生活に必要な事柄は大きくは違わない。
それから三つ目は、この世に上流、中流、下層とあるように、霊界においても天上界(上流)、精霊界(中流)、地獄界(下層)と同じレベルの霊が、集団で街を形成して生活しているということである。但し大霊界の最上階に存在する「神界」については、余り判っていない。

『ひふみ神示』より
人間の死後、自分の命の最も相応しい状態に置かれるのであるぞ。悪好きなら悪好きの、善好きなら善の状態に置かれるのであるぞ。そこには無限のものが、無限にあるのであるぞ。物質界は霊界の移写であり、また衣であるから、霊界と現界、霊と体は殆ど同じもの、同じ形をしているのであるぞ。
故に物質界と切り離された霊界はなく、霊界と切り離した交渉なき現実界はないのであるぞ。
霊界と申しても天国(神界)と霊国(神界以外)に分けられ、それはまた霊界と幽界とに大別され、天国には天人、霊界には天使から悪魔が住む。

この『ひふみ(日月)神示』に関する多くの著作がある中矢伸一氏は、霊界(あの世)を貫く10の絶対法則を示している。

【法則1】既に私たちは霊界に生きており、誰でも霊界と通じている。
この世は特殊な霊界であり、霊にとっての獄舎である。ただこの世の刑務所と異なる点は、入所する時点で、入所前の記憶を一切残さないことである。
従って、私たちは自分が何処から来て、何処へ帰るのかを知らず、まして霊界と密接に通じ合っていることなど知る由もない。
私たちは常に霊界から監視され、その影響下にあることを忘れてはならない。

【法則2】霊界で起こることは、時をおいて現界に移写される。
 この意味も法則1に通じ、人間は霊界と通じ、その干渉を受けながら生活している。つまり、この世(獄舎)に現れる現象は、あの世(一般社会)からの投影ということが出来る。但し、常に霊界での事が先で、霊界で起こらない事は、この世でも起こらない。
また霊界で起こったことが、そっくりそのまま現界に投影される訳ではないことも、刑務所と一般社会の関係を見れば判る通りである。
この世は天国界と地獄界を総括した、大霊界の縮図であるといえるだろう。
『ひふみ神示』より
 霊界に起こったことが現界に起こると申しても、そのまま移るのではないぞ。
宇宙のすべてが繋がりであるぞ。石でも水でも草でも木でも動物でも、総てが繋がりぢゃ。手と頭のようなもんぢゃ。拝み合えよ、親しみ合えよ。
和せよ。和すと自分となるのぢゃぞ。自分、大きく明るくなるんじゃ。豊かに嬉し、嬉しぢゃ。

 この世で起こることも反射的に霊界にフィードバックされるが、飽くまでも主体は霊界である(霊主体従)も同じ意味である。この世は大霊界に所属している関係から、これは当然のことである。

 私(ブログ筆者)は、この『拝み合えよ、親しみ合えよ』の一節に驚いた。というのも、以前にチャネリングで、こんな内容を受けていたからだ。当時は自分でも不信感を持っていたものだが、どうやら完全に出鱈目とも言えないようだ。

『内なる神との対話』
ある案件について、内なる声に質問した時の事である。
「貴方の集中が私達に力を与える。貴方の内に私達が在り、私達の内に貴方が居る。
貴方の外の世界に私達は祭られているが、私達の世界では貴方が祭られている。
その真意は貴方の内なる世界に私達が居り、私達の内なる世界に貴方が居るからだ。
私達は互いに己の内に相手を見出すのであり、我々の関係はそれ以上でもそれ以下
でもないのだ」

これはどういう事だろうか?この時、私はいつものように内なる英知に話し掛けていた。それがこの内容にまで発展し、混乱してしまいそうだ。
宇宙創造の意識は無論、総てを内包しているし、この意識を離れては何者も存在が不可能な事は分かっている。その意味では至極当然なのだが、それにしても飛躍しすぎの感がする。
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by levin-ae-111 | 2012-02-29 05:30 | Comments(0)

長い題名の本50

人に取り憑く下級霊

 死後直後にバルドゥに入ることも出来ず、この世と接する空間層をウロウロと彷徨っている霊体も多いから、注意せよと『ひふみ神示』は述べている。無論、同じことをスウェデンボルグや出口王任三朗や聖書、も述べている。

先祖霊に化けて、何かを企てる動物霊が多いから注意せよ。
 特別な使命を持つ天使は別として、人霊意外の霊で人民に憑依するのは、日本では天狗風(てんぐてき)、神風、仙人風、狐風、猫風が大部分であるから気つけておくぞ。

 高度の霊が直ちに肉体人に感応することはなく、それぞれの段階を経て感応することを忘れてはならんぞ。下級霊は現実界と紙一重のところに住んでいるのであるから、その感応は極めて強く、いかにも尤もらしく人民の目に映るものであるぞ。
高度のものは、その人民の御霊(霊質)によって、それと同一波調の神霊に伝達され、その神霊の感応によって表現されるのであるぞ。

最近は日本のテレビでも神霊現象に関する番組も多いが、迷信でも幻覚でもないと、現実に起きていることだと、コンノ氏は述べている。
それらは人間の心そのものに憑依するから始末が悪く、その苦しみは本人にしか分からない。次の言葉を心に留めておくことが必要だろう。
 幽界は人間界と最も深い関係にあり、初期の霊憑の殆どはこの幽界からの反応によることを忘れるでないぞ。
高ぶったり、威張ったり、命令したり、断言したり、高度の神名を名乗ったりするものは、必ず下級霊であるぞ。インチキ霊にかかるなよ。
それを信じる人が多くなれば、信じる想念が実体化し、有力な霊界の一部を作り出すことあるから気付けておくぞ。無きはずのものを生み出し、それがまた地上界に反映してくるものであるから、心してくだされよ。(『ひふみ神示』より)

 私ごとで恐縮だが私には、ほんの少しだけチャネリングなる技能を駆使する能力があるらしい。現在の私の霊的な事柄や宇宙構造についての知識の多くは、頭の中で囁く何者かから教えられたものである。
その何者かは、名前を尋ねても「私はあなた自身である」と言うのみで、決して○○の神であるとか、○○星の×△であるとは名乗らない。何度も尋ねたが、現在に至るまで名乗ってはくれない。
 命令して来ることもなければ、決して無理強いもしないが、一時期の無職状態の頃に生活が乱れた。その時に口煩く、洗顔しなさい、歯を磨きなさい、と言われたのみである。

当時の無知な私がチャネリングというものに関して抱いていたイメージは、霊媒師のように本人の意識が無くなり、その上で語りだすものだという程度であった。しかし、私の場合は自分の意識があり、聞こえて来る声は普通のことしか言わない。それで、これはチャネリングなどではないと考えていた。意識を保ったままのチャネリング、コンシャス・チャネリングなる現象も存在することを知ったのは、ずっと後のことだった。

そのチャネリングで教えられた数々の事柄が、偉大な先達たちが述べている事柄と不思議に一致することが多いのが謎である。「私程度の者が・・・」という気持ちは、常に抱いているが、事実は小説よりも奇なりである。
それにしても、先述の『ひふみ神示』言葉を聞けば、自分がどれ程に幸運だったかが分かり、感謝の気持ちが湧いてくる。
その感謝の気持ちの表れが、無知であるにも関わらず、こうして先達の言葉を借りてネット上に文章をアップし続けている理由の一つなのである。
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by levin-ae-111 | 2012-02-28 04:56 | Comments(0)

長い題名の本49

第7章 なぜ戦争は無くならないのか-霊界の戦争がこの世に移写してくる

バルドゥは何故存在するのか?

 死後の世界と、生まれ変わりのおおよそを述べて来たが、スウェデンボルグが述べる「この世は特殊な霊界」ということを『ひふみ神示』は次のように表現している。
現界とは霊的に高い者(天国界)と低い者(地獄界)が入り混じる、特殊な世界である。
 また、この世では霊的に高い者と低い者の位置が、逆転している。それも牢獄であるからには当然だと述べた。政治的なスキャンダルや大きな汚職事件などはその典型である。

それについて出口王任三朗は、次のように述べている。
「現代の人間は、その齢進むに従って、ますます奸智に長け、表面は楽隠居のごとく世捨て人のごとく、或いは聖人君子のごとく装うといえども、その実ますます不良少年の域に進む者が大多数である。
優勝劣敗、弱肉強食を以って社会の真理と看做して(みなして)いる現代に立ち、多数の与党を率いて政治界あるいは実業界に跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)し、ますます見坊術策を逞しくして、僅かにその位置を保ち、世間的な権勢を掌握して無情の功名とみなしている人物のごときは、霊界よりこれを見る時は実に哀れむべき亡者である。
 
かくのごとき現界の権力者よりも、無知にしてその日の労働に勤しみ、その無道に圧倒され、孜々(しし)としてこれに盲従し、不遇の生活を生涯おくりし人間が、霊界に到って神の恩寵に浴し、その霊魂は智慧相応の光を放ち、善と真との徳に包まれて、生前の位置を転倒している者が沢山あるのである。
 故に霊的観察よりすれば、権勢ある者、富める者、知者・学者といわれる者よりも、貧しき者、卑しき者、力弱き者、現界において小さき者として、世人の脚下ふみにじられたる人間が、却って愛善の徳に住し、信真の光に輝いて、天国の団体に円満な生活を送るものである。
故にひたすら神を愛し、神に従い、正しき預言者の教に信従せば、生前においても例え物質的な満足は得られずとも、その内分に受ける歓喜と悦楽とは、とうてい現界の富者や権力者や知者・学者の窺知(きち)し得るところではないのである」

 これは神示の中の一節であるから、近代・現代どの世界の世間に対して述べられたものかは分からないが、現代社会に対してよりフィットしている感じがする。無論、これが降ろされた当時も、既に酷い格差社会であったことは間違いがないのだが。
何れにしても、この醜悪なる監獄社会の仕組みを痛快に看破し、苦しみの中でもがく大衆に僅かでも希望を与えようとする意図が見える気がする。

特殊な霊界であるこの世の人間は、物質の肉体という拘束衣を着用させられ、重力という鉄格子で外界(他の霊界)から遮断され、本来なら持っている能力の殆どを発揮できなくされている。そして脱獄(自殺)すれば、直ぐに連れ戻され、より思い罪(カルマ)を追加され、より苦しむことになる。
事故死や暴力死は刑務所内の他動的な事故で、取りあえず獄内の病院に入れられるが、やはり直ぐに一般の牢屋(この世)へと戻される。
無事に刑期を終えて出所する時は(人生をまっとうして亡くなる時)、刑務所内のシャワー室(バルドゥ=中有界)で獄舎の垢を落とし、身辺を整理して一般社会(自分が帰属する霊界)へと帰って行くのだ。

 この様に人が死の直後に入る世界(バルドゥ)は、霊界そのものではない。そしてこのバルドゥで生まれ変わるか、各々の霊質に合致した霊界に入るか、解脱して輪廻転生の輪を抜け出すかが決定される。『チベット死者の書』でいうバルドゥが、スウェデンボルグが語る「この世と金貨の表裏の関係にある背中合わせの世界」である。
『ひふみ神示』も以下の様に述べている。
死の直後にひとまず置かれる場所は、この世と霊界の中間世界で、その期間は50日前後。
ここで物質的な部分を脱ぎ捨て、生存知のカルマの増減の程度によって、生まれ変わるあるいは自分の霊質に合った霊界へ帰るかが振り分けられる。

 また次のようにも述べている。
 幽界は陽界と陰界に分かれ、陽霊人と陰霊人とがいる。幽界は本来は無いものであるが、人民の獄舎的想念が生み出したものであるぞ。
 天から気が地に降ってものが生命し、それがまた天に反映れるのであるが、地には凹凸があるから、気が天に返らず、横に逸れることあるぞ。その横の気の世界を幽界と申すのじゃ、地獄ではないぞ。
 神界から真っ直ぐに感応する想念を正流と申す。幽界を経て、また幽界から来る想念を外流と申すぞ。天国の意志は人間の喜びの中に入り、誘拐の意志は人間の悲しみの中に入る。幽界は神の創りたもうた世界ではない。
幽界とは人間の地獄的な想念が生み出した世界であり、止むを得ず、一時、その存在を許したもうた世界である。よって、幽界はいずれ淘汰される運命にある。
いや、その動きは始まっているといって良い。幽界の大掃除、大淘汰はやがて世界に移写してくる。

 このように主な霊界・幽界について述べた多くの人々や書が主張する霊界・幽界の実相は、驚くほどに共通している。また前述のように神と名乗る意識体からの現代社会への、警告や励ましとも受け取れる神示もある。また、あの世の真実は量子物理学の学者たちが口にするように、最終的には現代科学を以ってしても、解明できないものなのであろう。
 私(ブログ筆者)には、もっと根本的な疑問を抱いていた時期がある。その疑問は死後の存在の有無を飛び越えて、もっと素朴で原始的な問いであった。
それは存在の理由、意義とは何処にあるのか?その疑問は、人間存在に止まらず、自然、地球、太陽系と広がり、最終的には宇宙存在の意義にまで到達するものである。

 しかしブッダは、そのような意味の無い事柄に拘るべきではないと述べて、苦しみの海たる現実社会からの脱却(解脱)に専心せよと説いている。仏説による人間の始まりは、マーラ(悪の意識)が善の意識領域への侵略を図ったことに端を発しているとしている。
マーラの侵略に対抗する為に、梵天が生み出され、梵天の働きにより善の意識は多くの領域の奪還に成功した。しかしマーラは地球という物質世界を産み出し、その美しい幻想に引かれた梵天の一人が地球へ降りた。しかし、それはマーラの罠であり、梵天は想念力を奪われ、永遠の牢獄である六道(地獄・我鬼・畜生・阿修羅・精霊・天上)へ閉じ込められたのが人間の始まりであると述べている。
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by levin-ae-111 | 2012-02-27 05:18 | Comments(0)

長い題名の本48

量子物理学の基本理念は仏教哲理で説明できる
 今、量子物理学が認識しつつあるのは、人間の精神力がこの世のリアリティーを現出するエネルギーとして深く介在しているということだ。
この世(宇宙)は私たちの意識と無関係に形成されているのではなく、人間の心と自覚そのものが現実(リアリティー)を創り出しているということである。
量子論の権威、ユージン・ウィグナーは「人間の意識という概念に言及しないで、量子物理学の法則を定式化することはできない」と述べている。また物理学者であるフォン・ノイマンは、人間が自然を認知する瞬間に「波束の収縮」が起こると結論し、量子物理学の最大の発見は、精神力の自覚であるとした。そして実在が意識を形成するのでなく、意識が実在を形成するのだという自覚作用が深く潜在しているとして、こうした意味で現代物理学の哲学は、仏教と区別できなく成りつつあると語っている。

 私たちの意識する自然界の山や川は、見ていようがいまいが、何も変化せずに存在すると考えるのが従来の物理学である。しかし、それは完全な錯覚で、山や川という存在はこの世とあの世の波動を重ね合わせたもので、私たちが見た瞬間にパッと存在位置が決まる、まさにステレオグラムの世界なのである。
 東京駅は個々のレンガで全体が形成され、個々のレンガが存在しなければ東京駅も存在できない。同様に私たちの世界も身体もミクロ粒子の集積によって構成され、その集大成によって私たちの世界が存在していることに誰も異論はないだろう。
だが量子物理学が究めた結論では、この世を構成する個々のレンガは存在しないという。
科学者が実験室で観察する行為が、実在を究明しているのではなく、科学者自らの意識が個々のレンガを形成しているという訳である。

ひふみ神示も、次の様に説いている。
地上に山や川があるから、霊界にあるのではない。
霊界の山・川がマコトぞ。
地上はそのマコトの写しであり、コトであるぞ。
ハイゼンベルクは「客観的実在の概念は、こうして雲散霧消してしまった」と嘆き、コーネル大学の物理学者デビット・マーミンは「誰も見ていないなら、そこに月は存在しない」とまで、過激に言い切った。
アメリカの科学ジャーナリストで『踊る物理学者たち』の著者ゲーリー・ズーカフは「量子力学の姿勢が正しいもので、経験の基盤となっているミクロ構造を、これ以上完全に表現できないとすると、普通の意味でいう物質的な世界は実在しない。この結論は(存在しないかも知れない?)という弱々しいものではなく、客観的な物事の存在をハッキリと否定するものである」と。

アメリカの著名な物理学者、E・H・ウォーカーも「なんであれ物事の究極はミクロ界の集積なのだから、はっきりとした意識を持ち、この世の隅々まで影響を及ぼしている超越的存在がこの宇宙には生きている」と述べている。
結局は名だたる学者たちの結論は同一であり、それは仏教やスウェデンボルグ、出口王任三朗や空海たちが語っていることとも同じなのである。
量子物理学の父ボーアも、いくら理論を学んでも、この世の本質を理解することは不可能である。実際に体験したものが本物で、リアリティーそのものが観測者の行為に依存するとしている。

 やはりここでも、私たちの現代科学は決して2500年前の原始仏教の教えを一歩も出ていないことを思い知らされる。ブッダは自分で確認できる事柄に立脚して考え、決して彼の教えを鵜呑みにしてはならない。考え、行じてみて、それで良ければ信じなさいと告げている。
量子物理学を最先端にして、多くの学者や知識人が、漸くこのスタート地点に位置したのではないだろうか。
それだからと言って、多くの大衆が直感的に学者たちに先んじて、仏教哲理を正しいと信じ生活に取り入れたものでもない。大衆にとってのそれは、妄信であり迷信の域にさえ達している様な情態であった。大衆に伝えられた仏教哲理は、大衆におもねる一方で、これを利用して大衆支配をしようという思惑で、改ざんされ歪められてしまったのだ。
現代でもそれは形を変えて生きていて、意識せずとも私たちの生活の隅々にまで浸透している。

 宇宙は巨大な思惟体である、そういう驚くべき考え方に現代科学も徐々に近づきつつある。その一つがグレート・ウォール(宇宙銀河の巨大構造)の発見である。
1986年にスミソニアン天文物理学センターのマーがーレット・ゲラーの研究発表は、このグレート・ウォールについてであった。
それによる結論は、宇宙の銀河の配列の大局的な分布には、規則的な配列が確かにあるという。「現在の宇宙モデルには、基本的に何かが欠けており、ビッグ・バンではあのような
構造は出来ない」著名な宇宙理論家、ジム・ビーブルズも衝撃を受けた様子だ。
しかし、これはブッダが既に感得していた宇宙の実相に、僅かに近づいたに過ぎず私たちがブッダの偉大さを、改めて知らされた事例の一つなのだ。
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by levin-ae-111 | 2012-02-26 09:17 | Comments(0)

長い題名の本47

宇宙の最高思惟が「この世」を創り出している!
 
 私たちが見たり聞いたりしている全てが脳の作用だとしても、その基盤となる確固たる外部存在があるのではないか、という疑問は残る。だがしかし、仏教はそれをキッパリと否定している。
改めて「般若心経」の一説(現代語訳)を覗いてみよう。
感知、認知、表象、知識もまた同じく実態はない。それ故、空であるこの世には色もなく、受相行識もなく、眼耳鼻舌身意もなく、色声香味触法もない。見える領域から意識の領域に至るまで、あらゆるものは無い。

この意味を紐解くには、ユングが述べていることが参考になる。
第一に物事には統一性が存在し、おのおのの事物には、それ自体と一体をなし、それ自体から成り立ち、それ自体と結合している。
第二の統一性においては、ある生物が外の生物とともに結び合わされて、この世界の各部分がひとつの世界を形成している。
第三の最も重要な統一性は、宇宙全体が人間と一体になっていることである。
 神は天を起源とし、人間を終局となしたまうた。宇宙は不滅なる対象の中で最も完全なものであり、人間は地上に生を受けた最も高貴なるもの、ひとつの小さな宇宙である。
 神は人間自身の内に宇宙の起源と終局をあてがった。宇宙は人間の中に吹き込まれており、最も小さな部分でありながら、人間は宇宙全体を内に宿しているのである。

 人間には表層意識の下に真相無意識があり、その最深部に神の領域といわれる「原始心像」がある。人間は皆、この深層無意識によって結合・一体化している、というのがユングのいう集合無意識「第一の統一性」である。
「第二の統一性」は、人間の深層無意識が他星の宇宙生物と結び合わされて、一つの世界を形成している(私たちの銀河系)を生み出していること。
「第三の統一性」は、宇宙最高の知的生命パワーによって宇宙というものが現出されており、それが人間の「原始心像」と通じあっていることを意味している。
 これは密教でいう「宇宙は大日如来そのもので、そのカケラが人間それぞれに含まれている」という教えと同じである。

 そのカケラは、私たちの何処に隠されているのか。ユングは神の領域と言われる「原始心像」がそうだと主張している。
同様のことを仏教も述べていて、ユングの深層無意識に対応するものは「未那識(まなしき)」と云われるもので、神の領域と云われる「原始心像」が、「阿頼耶識(あらやしき)」である。
宇宙最高の超知的生命ともなれば、そのパワーは計り知れないものであろう。その最高存在、大日如来がこの世を含む全霊界を創り出していると考えれば、納得がいく。

ひふみ神示も同様のことを語り、それを私たちが自覚できない理由をも示している。
地上人は地上に生き、死後に生き、死後に向って歩みゆく。しかし、その全ては神の中の存在である。地上人は肉体を衣とするが故に、宇宙の全てを造られたもののごとく考えるが、創造されたものならば永遠性はあり得ない。
 天界も無限段階、地界(地獄界)も無限段階があり、その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、内的交流はあっても全面交流はないのである。
 かくして、善霊は善霊のみ、悪霊は悪霊のみ、中間霊は中間霊のみの世界に住み、善霊は善霊のみ、悪霊は悪霊のことのみを考え、且つ行為することになる。

イギリスの科学者、ジェームズ.ジーンズ卿も、次の様に語っている。
「今、自然を理解するための根本的な概念は、私の考えでは・・・・宇宙が壮大な機械ではなく、壮大な思考のように見えきたのである」と。

 こうした考え方は、精神世界を探求する人であれば、遅かれ早かれ自然に辿り着くものである。大乗教(ヒンドゥ化した仏教)では「大日如来」が、キリスト教では「父なる神」が、イスラム教では「アッラーの神」が、この宇宙の中心であり全ての創造主と考えられている。
どうやら、呼び名こそ異なるがユングのいう「第三の統一性」から呼び起こされた、宇宙の主催神たちは、時代と地域性などを加味されて、各々の存在として人間の意識上に浮き彫りにされたもののようだ。
この深層意識の最も深い部分から浮き彫りにされた、宇宙の主催神たちの正体とは何なのであろうか。これまで見て来たコンノ氏の説によれば、これらの神々もまた逆転・裏返しに成った存在であるに違いないのだ。それこそが先述の「原始心像」として、私たちの中心に存在するものなのであろうか。
 これを私的に表現すれば、「私たちの総意」ということになるが、言い換えれば私たち全ての存在の本体、根源とも表現できるだろう。

この世は幻想であり、実際には何も存在しないとしても、唯一の存在、実在は自らの意識である。それは「般若心経」でその存在を否定している表面的な意識ではなく、この幻想の世界を創り出している根源の意識のことである。私たちは、そこから出発して、またそこへ戻って行く長い旅の途中なのだ。
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by levin-ae-111 | 2012-02-25 07:24 | Comments(0)

長い題名の本46

この世はバーチャル(仮想現実)世界だ 
霊界は想念の世界で、無限に広大な精霊世界である。私たちがフォーカスしているこの世という現実世界は、全て神霊世界の移写であり、また縮図である。故に現界を「写し世」という。
例えば写真の富士山は小さいが、本物のの富士山は大高山であるように、神霊界は現界人の夢想だにしない広大なものなのである。
出口王任三朗は、『霊界物語』に次の様に記している。
すべての世界は霊界が主で現界すなわち形体界が従である。一切万事が霊主体従に組織されるのが、宇宙の真相で大神の御経綸である。現実界より外に神霊界の厳然として存在することを知らない人が、こんな説を聞いたなら定めて一笑に付して顧ないでありましょう。無限絶対・無始無終の霊界の事象は、極限された現界に住む人間の知力では、とうてい会得することは出来ないでしょう。

「いま、ここが仮想現実だとは信じられんが」
「現実とは何だ、明確な区別などできん」
「五感で感知できるものが現実というなら、それは脳による電気信号の解釈に過ぎん」
「この肉も本当は、存在しないんだよな」
「このスプーンも無いんだ。曲がるのはスプーンではなく、自分自身の心なんだよ」
これは、映画『マトリックス』のワンシーンで交わされた会話だ。

バーチャルというものを上手く表現しているが、実際にこの世はバーチャルな世界となるとどうだろうか。
 地球は太陽系の一惑星で、私たちの銀河一つに含まれる太陽(恒星)は約1000億個、地球総人口の15倍以上の太陽がひしめき合って存在している。これに惑星や衛星を加えると、想像を絶する数の天体が一つの銀河に存在することになる。
しかし、これと同様の銀河が現在確認されているだけでも1250億個、その実在を私たちは全く疑っていない。
確かに夜空を見上げると、満天の星が瞬いている。しかし、これらの星は真の実在なのであろうか。あなたの御爺さんは50年前に実在したが、今は亡くなってしまい実在しない。この様に実在とは、客観的に何処から、誰が見ても同時に在ることをいう。

 しかし月光が地球に届くまで約1.2秒、太陽光は約8分、隣の太陽系アルファ・ケンタウロスは4.2年、銀河中心付近の太陽は約3年掛かとされる。隣のアンドロメダ銀河の光は210万年、最も遠い銀河の光が地球に届くまで130億年も掛かるのである。
そうなると、私たちの頭上で輝く星の光には、あらゆる過去が入り混じって見えているわけで、真の実在とは言えないのではないのか。
私たちに見えているこの宇宙(この)はバーチャルそのもので、私たちはその真ただ中に居るのである。しかも私たちは真の宇宙どころか、逆転・裏返しの宇宙を見せられているのだ。

 仏教では外部の世界そのものを、心は写し取っているのではないと教えている。物の姿形など眼球の網膜に映り、その情報が視神経を通して脳に送られる。
これが眼識(視覚)で、耳識(聴覚)、鼻識(嗅覚)、舌識(味覚)、身識(触覚)も各々の神経を経由して、脳へ送られるのも同じメカニズムである。
脳に送られるのは人間の五識(感覚器官)が捉えた情報で、現代風にいえば脳への電気信号なのである。この情報を脳が解読し、映像を創りあげる。その創り出した映像を私たちは見ているのである。
私たちはこうして現実を意識するが、仏教では、それは真の実態ではないという。

 これについて、コンノ氏は面白い例えを記している。
ここに赤く色付いて、美味しそうなりんごがある。香りも芳しく、かぶり付くと甘酸っぱい何ともいえない美味しさが口中に広がる。これは一般的な人間の感覚であるが、それが猫や蛇など私たちと感覚の異なる生物にとっては異なって知覚されるはずだ、と。
それが人間を越えた超生命体となると、その感覚は私たちの想像の及ぶところではない。
 ノーベル賞の利根川進博士は、『精神と物質』で、「人間の脳の在り方が異なれば、私たちは異なった在り方の世界を見るであろう。だから私は唯脳論者であり、その意味で唯心論者である」と述べている。
利根川氏が言うように、私たちが診ているものは真の実態ではなく、脳が創り出している幻影である。
その虚像を私たちは確かなモノ、真の実態と認識して、それを基に外界を意識していることになる。私たちが体験している存在は、全て自分の心が創り出したものであり、このようにして世界が成り立っているしいうのが仏教の教える唯識で、また唯心論なのである。

 コンノ氏のように説明すれば、このように長くなる。私たちの認識は、例え客観的に寸分違わぬ同じモノを見ても、只の一人も同じ認識は無いと、私(ブログ筆者)は考えている。
そんな馬鹿なと思われるだろうが、厳密に言えばという事である。
しかし、このような事例は、私たちの生活の中に幾らでも転がっている。
この間など、上司と顕微鏡を使って製品の成分を覗いた。上司は色が薄く、透明だから素材はÅだろうと言い、私は明らかにそれをBだと思った。私には上司とは逆に、その素材の色が十分に素材Bだと考える程に濃い色に見えていた。
これは単に私と上司の視力の差ではない、視神経と脳の違いであるのだ。更に言えば、それは人生経験の違い、意識の差であるのだ。もっと言えば、上司と私の見ている(感知している)現実は異なっているのだ。
また、同じ光景であっても、その時の感情によって異なる感じを受ける場合もある。
私たちが確たる現実と信じているモノとは、かくもフレキシブルで頼りないものなのである。つまり、やはりそれは、幻とは言えないだろうか。
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by levin-ae-111 | 2012-02-24 05:20 | Comments(0)

長い題名の本45

既に科学の哲学は存在しない
 
『黄金の花の秘密』という著書で、ユングは物質と錬金術の関係を説きながら、「人間の心ほど制御しにくいものはないし、我々の経験する最も不明瞭で、最も秘密に満ちたものである」と述べている。密教の行法においても同様で、自己の肉体と意識との対立をどのように統御するかが難しい。人は外界へ働きかけるよりも、内なる心との闘いの方がはるかに困難で過酷なのである。
『ひふみ神示』も、このことに関して、次のように語っている。
時・所・位、総てが想念の中にあり、想念のままに現れてくるのである。判るように言うならば、時間も空間も映像であり情態が変わるだけである。
情態の元、本質は変わりなく、無限であり自由であるから、霊界は絶対、自由自在であるのだ。心の中では時間に関係なく、距離に関係なく、一箇所に並べられるであろう。
心の世界では時間、空間がないという道理を、これで分かるであろう。

 スウェデンボルグはこの世に多くの霊界が滲み出しているという。それは天国界から地獄界までの総ての霊界が、この世に滲み出していると思えばよい。
ご飯を炊く前には30分ほど、水に浸す。その方が水不が浸透して、よりふっくらと美味しく炊き上がるからだ。米が私たちの脳みそ、水が霊界だとしよう。
水には天上界(白色)精霊界(黄色)、地獄界(黒色)などの色が着いているとすれば、それぞれが混ざり合ってこの世に滲み出している。どの色を好み、選択するかは各々の帰属する霊界、またはカルマによって決まる。炊き上がったご飯が、何色になるかは自分次第だ。
ユングも空海も心的統御によって、多くの色の水の中から天上界の水を識別し、それを自己に同化させて「あの世の物理学」を出現させていたのだ。

 海岸に絶え間なく波が打ち寄せるように、私たちの脳細胞には常に天国界や地獄界が浸透して、それを心というプログラマーが操っている。キリストが「あなたの中に白い蛇と黒い蛇が同居している」と言っているのは、このことである。
ニュートリノの予言で、ノーベル物理学賞を受賞したヴォルフガング・パウリは、唯物科学の限界に対して深い洞察力を持っていた。50歳の時に「未来科学は神秘主義から出現する」という研究発表をしている。
そこでパウリは「今日、我々には自然諸科学があるが、もはや科学の哲学は存在しなくなった。自然の究極的な量子が発見されてから、物理学者たちは自然の全てを解明できるという奢った主張を完全に捨てざるを得なくなった。
この現代科学者が置かれている苦しみの中にこそ、偏った唯物科学を見直すチャンスがある。宇宙全体を統一する科学の構築に向って、量子物理学にこそ真理の種が隠されているのだ」

 今、仏教は近代科学を超えるパワーを持つ宗教として、注目されている。
晩年の空海は「どの宗教も密教に遥かに及ばない。密教こそ仏教の完成した形である」と述べている。そして「あの世の科学」と呼ばれる量子物理学も、今の人の意識(心)にピタリと照準を合わせている。仏教は全てを知っていたのである。

 偉大なる先達ブッダは、如何にして現代物理の最先端である量子物理学の領域にまで、悟りの智慧を及ぼすことが出来たのであろうか。ユング的に言うならば、修行を通して得た深い洞察力で、遂には人類全体の深層無意識へとアクセスしたのだろうか。
それともコンノ氏が主張するように、「この世」に滲み出ている「あの世」の物理学を感得した結果であったのだろうか。
その答えは、深い禅定により、第三の智慧を獲得して、ただ見たのだという。ブッダの云う第一の智慧は聞く読むことによって得られる智慧で、第二の智慧は考えて得られる智慧であるとしている。それに対して第三の智慧は、ただ見ることによって得られる最高の智慧だとして説いている。

だとしたら霊的段階の違いは雲泥の差があるにしても、私たちにもそれなりレベルで同じ力が発現する可能性は大いに存在するのではないか。
直感を感じた時や虫の知らせなどと言われる現象は、私たちなりに「この世」に滲み出た「あの世」との交信が成立した瞬間なのかも知れない。
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by levin-ae-111 | 2012-02-23 05:23 | Comments(2)

長い題名の本44

ユングも重視した錬金術 
現代人にとって錬金術とは、中世ヨーロッパオカルトの象徴のように思われていて、頭から否定されてしまう。だが錬金術が中世のヨーロッパ文化や思想に影響を与えたことを考えると、根拠の無い荒唐無稽な学問だとは思えない。
その錬金術といえば、カール・グスタフ・ユングを抜きにしては考えられないと、コンノ氏はいう。
 ユングと空海の共通点は、錬金術師であり、ある種の超能力者であるということだ。ユングは自伝で、彼自身が体験した多くの超常現象への当惑が、彼をして錬金術に興味を持たせたとしている。

 錬金術をユング流に表現すれば、人の持つ深層無意識が事故を変容させながら、それを物質の原子構造にまで及ぼすことをいう。これは空海が『即身成仏義』(そくしんじょうぶつぎ)で述べている「密教における奇跡は、如何に自己の六識(五感+意識)を如何に統御するかにかかっている」という表現に、とても近い。
 実際にユングが錬金術に触れてみると、非情に実りの多いものであると判ったという。
 当時の科学者の間では、科学と心理学との間には共通点は存在しないと考えられていた。
しかしユングは原子物理と心的現像(アーキタイプ)の考え方は、将来は同じ領域へ進んで行くと予言していた。その予言は量子物理学の登場と、「意識が現実を創造する」(観測者効果)の実験によって、ユングの予言は現実となった。

 ユングによる自己の深層無意識の検証には、錬金術が非常に重要な役割を果たしていた。
錬金術の基本手法は密教と同じ「深層無意識の心的操作と、統御テクノロジー」の重視で、そこに出現する変容した自己の深層無意識が、外界世界へ投影されて物質化してくるのだ。
判り易くいえば、自己の心的なパワーが物質の化学反応や、原子配列の変化として出現するということだ。
錬金術で水銀が重視されたのは、液体金属ゆえに容易に化学反応や原子配列するからであろう。多くの奇跡を示した空海にとって、水銀を金に変えるくらいは容易なことだったのかも知れない。
 ユングはより重要なことを予言している。
「物質には心的な相があり、逆に意識にも物質的な相がある。それはまだ把握されていない科学の上に成り立っており、その時こそ心と無縁と思われてきたシンクロニシティ(共時性=神の創造行為とされる偶然の一致)も、科学として理解出来るようになるだろう」と。

スウェデンボルグは「あの世では全てのものが意識を持ち、心で思ったことが瞬時に実現化する」と述べている。ユングが言う「物質の心的な相」と「意識が持つ物質的な相」とは、ミクロ界に滲み出ているあの世(霊界空間)への心的な相があり、それと人の意識が感応することだと考えると判り易い。
 そして錬金術はミクロ界に滲み出ている霊界空間への心的な操作、そのプロセスを現世へ反映させることだと見なせるかも知れない。
ユングも空海も、あの世の物理学をこの世に出現させていたのである。

 ユングは「物質に内在する二元性(善悪の心的な相)の対立は、人間の心のレベルによってコントロールできる」と指摘し、「人は誰でも本来より高い心のレベルを萌芽として持っており、恵まれた環境下では高度に発展させることが出来る」と述べている。
つまり環境や努力次第で、だれでもキリストのような超能力を発揮できるということである。ユングと空海は多くの共通する考えを示しつつ、錬金術師としての手法も驚くほどに似通っている。献金術の本質を形成する不可欠な要素である」としている。これは空海の修した「虚空蔵求聞持法」に、虚空蔵菩薩の画像を描くことから始めるのと同じだ。
更には書き言葉では表現できない事柄を、錬金術師たちは絵の中に書き残したものらしい。
これも、ボーアが「量子現象を表現する科学の言葉さえ存在しない」という言葉と同じである。
 
 カール・グスタフ・ユングが錬金術に興味を持ち、それを通して人間の意識と物質との係わりを探っていたとは知らなかった。錬金術は西洋の悪魔的呪術の象徴の一つであるという認識しか持っていなかったが、それと同じことを空海も行っていたとは驚きであった。
そして、それは決して迷信ではなく、人間の意識を使いあの世とこの世の境目に作用を及ぼすという、私など想像もできない未来科学の範疇にまで立ち入った事柄だった。
 やはり改めて感じるのは、古代の英知とは現代科学を持ってしても及ばぬほどに深く、鋭いものであるということだ。
私たち現代人は、自分の理解の及ばぬことは、迷信であるとか存在しないとして切り捨てる傾向がある。しかし、ユングの時代のヨーロッパの人々にも、そういった傾向が在ったに違いない。ここでもまた、勇気ある先人の努力に感謝したい。
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by levin-ae-111 | 2012-02-22 05:28 | Comments(0)

長い題名の本43

空海の「観察者効果」2 
弘法大師「空海」は非常に謎の多い人物であるが、どうやら彼の足跡を辿ると水銀鉱床の存在する山岳地帯を渡り歩いていたらしいと判明した。
そこで、以下のような疑問が浮かびあがってくる。
・どうして日本全土の山岳地帯を精力的に踏破したのか?
・どうして水銀や銅鉱床の多い高野山に密教道場をひらいたのか?
・何故、密教は難解なのか?
・何故、密教は顕教と大きく異なるのか?
先に示した①~③の疑問も加えて、これらの疑問は、近年囁かれる「空海」錬金術師説によってある程度の納得が得られるかも知れない。

唐へ出発する僅か一月前に得度(公式に僧侶と認められること)し、遣唐使の一員に加わったことも、黄金を豊富に提供できる空海の力が役人を動かしたからかも知れない。
真言密教が山岳宗教と強く結びつき発展していったという事実も、その説を補強し、高野山は錬金術師空海が活動する本拠地だったというのである。
 一口に錬金術といっても、その幅は広く、中国のそれや道教の練丹術は、主に水銀を利用して不老不死の仙薬を作る目的があったらしい。
しかし最大の狙いはやはり、水銀や鉛を黄金に変えることにあった。

 空海=錬金術師という説の根拠は、青年時代の空海が満行した「虚空蔵求聞持法」(こくうぞうぐもんじほう)である。一般的には真言を百万遍となえるという荒行だけが強調されているが、記憶力増進の神薬を作って、これを服用することも重要な目的であったらしい。この神薬は主に水銀が使用されていた。
インドから伝わった「虚空蔵求聞持法」に、正しい修法についての記載がある。
『前後通計して百万遍満ぜよ。その数、及び終わり。また時の限りなし。しかして中間に於いて間蕨すべすらず。牛酥一両とりて、塾鍋の器の中に盛り貯え、並に乳ある木葉七枚及び枝一条を取って、壇の上に置け。華香等のもの常に倍せよ』

虚空蔵菩薩は、無限にして無辺、同時に全宇宙にあまねく、福徳と知恵とを蔵する菩薩といわれている。
修行はまず、その菩薩の画像に意識を集中し、その虚空蔵菩薩の画像を描くことから始まる。次にその描いた画像を閑静な場所を選んで掛け、虚空蔵菩薩の陀羅尼(こくうぞうぼさつ・の・だらに)真言を百万遍つづけて唱える。
陀羅尼読誦の回数は絶対に守られなければならず、一編の多少でも、それまでの苦労は水の泡となる。しかも、それを100日間、もしくは50日間で終えなければならない。
 陀羅尼の読誦が規定回数に達したら、いよいよ牛酥加持法(ぎゅうそ・かじほう)という秘密の行を遂行することになる。
その日は日月蝕にあたることが条件で、牛乳を煮詰めて作った牛酥(チーズかバターのようなもの)を銅製の鍋に入れる。密教寺院で護摩を焚く時に用いる乳木で攪拌しつつ、陀羅尼を唱える。
そして牛酥に煙・火・気のいずれかの相が生ずれば、その時に求聞持法は達成されたとみなされ、神薬となった牛酥を服用すれば、たちまち抜群の記憶力を得て、限りない知恵を獲得できるのだという。

 この方法は、とても大変そうである。何よりも日蝕か月蝕の時と指定されているので、余計に難しくなる。しかし、空海の場合には、この最期の牛酥加持法(ぎゅうそ・かじほう)を行った形跡は見当たらないという。
その代わりに、口中に明星が飛び込むという神秘体験が起こり、これによって「虚空蔵求聞持法」が見事に達成されたと伝わっている。
空海が一僧から「虚空蔵求聞持法」を伝授されたとき、同時に神薬の製造方法も伝授されたといわれている。
その神薬とは牛酥に水銀と何かを混入させたものと考えられている。

 かくして「虚空蔵求聞持法」により、空海の本来より持っていた超能力が一気に開花したのではなかろうか。そして、当然の如くにより強力な呪法を求めたに違いない。
その結果として錬金術へと辿り着き、密教の布教や遣唐使のメンバーに加わる際の大きな推進力となったのだろう。

 私(ブログ筆者)は、化学の知識は持ち合わせていない。だが水銀は猛毒であり、近年の水俣病やイタイイタイ病の原因物質として特定されていることは知っている。
その有害物質を利用した古代の人々は、どの様にしてその利用法を編み出したのだろうか。
不思議なことに、日本でも弥生時代以前から水銀を何らかのかたちで利用していたらしい。
上記の幾つかの疑問で、空海が仙薬の調合を知っていたにも関わらず、68歳という年齢で亡くなっているのは何故か?とコンノ氏は挙げていた。
空海は即身成仏を目指して、入定したと伝わることから、死亡年齢に関する氏の疑問からは割愛させて頂いた。
しかし、水銀を用いた呪法や仙薬・神薬で寿命を縮めた可能性も否定はできないだろう。

ウイキペディアから転載
『入定(にゅうじょう)とは、真言密教の究極的な修行のひとつ。原義としての「入定」(悟りを得ること)と区別するため、生入定(いきにゅうじょう)という俗称もある。
僧が、生死の境を超え弥勒出世の時まで衆生救済を目的とする。後に、その肉体が即身仏となって現れるのである。明治期には法律で禁止された。また入定後に肉体が完全に即身仏としてミイラ化するには長い年月を要した為、掘り出されずに埋まったままの即身仏も多数存在するとされる。 ただし現在では、自殺幇助罪に触れるため、事実上不可能になっている。』

空海が入定してから、数十日経過しても顔の色艶は生前と変わらず、髪も伸びていたと伝わる。後の世にも空海の廟を開けた人物がいたが、髪が伸びていたので切り揃えて、再び扉を閉めたとしている。現在でも天台座主でさえ空海の廟へ立ち入りは許されておらず、担当の僧侶ただ一人だけが出入りを許されているという。
担当の僧侶は、毎日、空海に食事を届け、年に一度は衣装も着替えさせる。高野山の奥で空海は現在も生きているかの様に扱われている。
全国でも多くの僧侶が入定しており、現在も未確認の即身仏が多数存在すると予測されている。
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by levin-ae-111 | 2012-02-21 05:24 | Comments(2)

長い題名の本42

空海の「観察者効果」1

 引仁2年(811年)に空海は嵯峨天皇の御前にて、御意にお応えして彼の凄まじいばかりの神通力を披露した。天皇の思し召しに応じた空海は、印を結び真言を唱えると、見る間に顔面が黄金に輝き出し、眉間には白光が放射されて頭上には宝冠が出現して、五色の光を放った。芳ばしい香りと絢爛たる光が周囲を満たし、すべてを包み込んで行った。
「大日如来だ!」居合わせた人々は驚愕した。
光輝く大日如来の姿は、光を放射しながら空中を漂い、揺れ動いて人々の心に大きなパワーで働きかけてきた。人々の気が遠のく手前で、如来は消え元の空海の顔に戻っていた。

 空海は『弁顕蜜二教論』で、一般仏教と密教の違いを説明している。
それによれば、法身の説(密教)は深奥であり、応身の教(顕教)は浅略なのだと述べている。更には密教には二つの秘密がある。一には衆生秘密であり、二は如来秘密である。
秘密の教えは大日如来の説かれたものであり、人間には奥が深くてとても理解できない。だから秘密の教えであり、故に密教なのである。
秘密の教えの中味は、人間の本性は仏なのに、誰も気がつかないということ(衆生秘密)と、そして大日如来は真言でしか話さないので、真の内容は人間には判らない(如来秘密)という二つの秘密である。

 空海はただの宗教家ではない。時には深層心理学者であり、ある時は錬金術師であり、科学者でもあった。無論、宗教家としても図抜けた存在であるのは確かである。
直弟子の真済が『空海僧都伝』の中で「国家の為に壇を建て、法を修すること51度、風を息め、雨を降らせし霊験その数あり」と記している。
空海は、その他にも水を湧き出させたなど多くの伝説を各地に残している。
量子物理学が究めたひとつのエッセンスは、人が見ることによりミクロ粒子が瞬時に変化する「観測者効果」である。空海が行ったか数々の軌跡も、この「観測者効果」によるものだとコンノ氏は言う。
 空海は無論、現代の量子物理学は知らない。しかし、それでも壮絶な修行を通して、観測者効果を体得し、数々の奇跡現象を出現させていたのだ。

コンノ氏は1999年にバイクで、四国88箇所を巡り、予想以上に空海のエネルギーを感じられたそうである。車も無い時代に四国88箇所の寺社を創設、その幾つかは険難な峰に建てられている。空海は江ノ島にも訪れており、そのスタミナは現代人の想像を超えていると記している。
その点に関しては私(ブログ筆者)も、コンノ氏同様の感慨を抱いている。昔の人々、そうはいっても、そう大昔でもない大正初期の頃までも、日本人は誰しもが素晴しいバイタリティーに溢れていた。田舎ではもっと最近まで、昭和の初期までも同様であったろう。
以前に調べた武士団の足跡では、何度も京の都まで攻め上っていたり、都から遠征して地方を征圧に向ったり、とそれを多くの兵たちは徒(徒歩)で行っていたのであり、道中も全て野営であった。
昔の人々のこのバイタリティーは、本当に現代人には考えられないものだと思う。

 空海は遣唐使として中国へも渡っており、これは更に現代人には考えられない苦難の旅であったろう。24歳からの7年間、空海は消息不明で記録上に存在しないという。
その空海が突然に遣唐使の一員として、唐突に歴史に浮上してくる。
歴史上の人物の多くには、必ず謎の部分が存在するのであるが、空海のそれは他を圧倒してはばからない。入唐にしても、多くの謎が付き纏っている。

①当時、遣唐使に参加するには莫大な費用が必要だった。一介の私度僧にしか過ぎなかった空海が何故、国家的一大イベントに参加できたのか、費用はどうしたのか。

②渡航費ばかりか、私費留学生としての立場で遣唐使に参加した空海だったから、20年にも及ぶ膨大な費用をどう工面したのだろう。

③空海が得度(国家公認の僧侶となること)したのは、出発の僅か一月前であったという。
如何なる手を使って、遣唐使節団に滑り込んだのだろう。

これらの謎を解く鍵は、空海が踏破した山岳地帯には、水銀鉱床が存在したということだ。
例えば徳島県阿南市の若杉山遺跡は、水銀の採掘跡であることは明白であり、その山を更に登ると、空海が虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を修したと伝わる大龍寺に行き着く。ここも弥生時代からの水銀の産地で、近くには銅鉱山も多いという。
 そして空海の最大の業績、高野山金剛峰寺の創設がある。この山岳霊場を修験道場として開いたが、ここもやはり日本有数の鉱床地帯で、現在でも水銀などの鉱物が埋蔵されている。これらの例のように、空海の足跡を辿ると水銀鉱脈と重なってくるのである。
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by levin-ae-111 | 2012-02-20 05:19 | Comments(0)