身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


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<   2012年 04月 ( 11 )   > この月の画像一覧

弟分

 今日は突然に私を「兄貴」と呼んでくれる知人から連絡があり、会うことになった。
彼は私より7歳年下ですが、人生経験に於いては私では絶対に経験できないことを経験している。その問題が先日決着し、その報告を兼ねて会いたいと伝えてきたのだ。
この彼Jは明るいがいい加減な性格で、私を「兄貴」と呼びながら連絡しても返事もよこさず、いつも突然に連絡してくる。今日も以前に会ってから、一年以上が過ぎている。

 久々の再会だが、話しは自ずと精神世界のことになる。彼の周囲には、怪しい話しをできる相手がいないのだ。話しの内容はアセンションやフォトンベルト、パラレルワールド果てはタロットカードや占いまで。
先日決着したという問題だが、彼の中ではまだ引きずっているのでその事柄に関連した精神的な質問が、ポンポンと飛び出す。
私はそれに「あくまでも自分の見解だよ」と但し書きを付けながら、一般的な例を引きながら応えていく。

彼の質問は「アセンションとは?」とか、「愛とは何か?」とか、「兄貴の一番怖いものは?」そんな曖昧で漠然とした質問ばかり。私は一つ一つ、できるだけ丁寧に自分の見解を話して聞かせた。
それから、二人ともがまだ若かった頃の、共通の友人たちの話しに花を咲かせていると、あっと言う間に数時間が経過していた。
様々な話しをしたが、彼はどれだけ納得してくれただろうか。特に納得しなくとも、彼なりに少しでも楽になってくれたらそれで良いと思う。
私を兄貴と呼びながら、メールの返信もよこさない身勝手な弟分は、少しスッキリした顔つきで、にこやかに去って行った。次に連絡があるのは何時のことか(笑)
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by levin-ae-111 | 2012-04-29 19:56 | Comments(0)
 今週はどうも体調が思わしくない。月曜日は膝が痛み、火曜日は臀部、水曜日は背中と腰が痛んでいた。午前中は何とかなるが、夕方近くなると歩くだけでも辛い。
そして今日(木曜日)は、朝から足腰がだるく、歩くと痛い、身体全体が重く背中も痛かった。
それでも何とか出社し、重要な仕事をひとつ片付けたが、立っていることも辛いので思い切って早退した。
原因はおおよそ察しが付いていたので、直ぐに接骨院で治療を受けて帰宅した。

 どうも歳なのか?と一瞬感じ、そして若い頃に務めていた会社の同僚の口癖を思い出した。
「ああっ、歳は取りたくない・・・」と、その同僚は毎日のように言っていたものだ。しかし、その当時の彼はまだ20代半ばだったのだから笑える口癖だったと思う。
今頃は彼も歳を実感しているだろうか?それとも、元気で頑張っているのだろうか。

しかし確かに、若い頃は確かに歳を取りたくないと思っていた。身体が思うように動かせず、力も俊敏性も失われ、目も悪くなり肌艶も悪くなるのだから当然であろう。
とても嫌なことであり、出来れば遠ざけたい『老い』という問題は、アンチエイジングとして沢山の研究があちらこちらで成されてきている。
あの始皇帝に始まり、現在に至るまで人類は『老い』と『死』という大問題から何とかして逃れようと絶望的な戦いを繰り広げている。
だが『老い』とは本当に悪いことばかりなのであろうか。私は正直、そう悪いことではないと考えている。

老いとともに人生経験を重ね、若い頃には知り得なかった境地に達する、素晴しいことではないか。私は若かりし頃の自分を思い出すにつけ、随分と人間的に成長したものだと手前味噌であろうがそう感じている。
どういう道であれ自らの軌跡が人生には必ず存在する。他の人の評価はどうあれ、一人の人間が一生懸命に生きて来た足跡を確かに残しているのである。
世間的に名声を得ずとも、何も物質的な証拠を残していなくとも、現在の自分自身が人生の軌跡、足跡そのものである。歳を重ね人としての中味を成長させる、『老いる』とはそういうことであると私は考えている。
故に人生の先輩たちの言動には、時として失望を禁じえない場合もあるのだが・・・。

私の場合は夢中で働いた若き日、短気故に何度も失敗を重ね苦汁を噛み締めながら、次はこうしよう、ああやってみよう、ああ言えば良かった等と試行錯誤の連続であった。
歳を取ること、『老いる』ことは悪くない。不謹慎かも知れないが、私にとっては『死』も同様に悪くはないと思える。それはしかし、無論のこと人生を全うした場合に限られるとは思っているが。
私は自分の生き方に必ずしも満足している訳ではない。だが、若き日よりも少しは成長したと感じられる生き方が出来ていることを自己評価したいと思う今日このごろである。
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by levin-ae-111 | 2012-04-26 17:38 | Comments(4)

ボーダーライン上の人類

 私がUFOや宇宙人、心霊現象などへの好奇心から俗にいう精神世界へと歩みを進めたのはもう20年近くも前のことである。
いつの間にかチャネリングらしきメッセージを受け取るようになったが、疑い深く小心者の私は、それらを鵜呑みにすることは無かった。
その時に知伝えられた内容は信ずるに足りないものだと思っていたが、それから数年の内に多くの書籍やインターネットで伝えられていた事柄と、受け取ったメッセージの内容が似ていることに気がつき驚いた。

 私が受け取ったメッセージから感じていたことは、人類滅亡の危機という事柄は、発展途上の人類にとって必ず通り抜けねばならない関門ではないかということだった。
そして、その関門に差し掛かる時期は、原子力の発見と利用、宇宙開発と宇宙への進出が図られる時代への突入であろうと考えていた。
現在までの科学技術の急激な発展は、その根底に兵器開発という大きな影の部分を合わせ持っている。
イギリスの産業革命に始まり、現在に至るまで絶えざる科学技術の発達の裏には、常に自分たち以外の人々を屈服させたいという、大いなる野望が横たわっている。
現代では少し前にはSFでしかなかった技術が、一般化し誰もがその恩恵にあずかっている。
その技術の大半が元々は軍事利用目的で開発され、民需へと転用されたものである。

 産軍複合体が世界を支配し、利益優先が叫ばれ、人々は幸福とは経済的に裕福であること以外に考えられないと錯覚させられた。実際には世界の冨の大半はホンの一握りの人々に握られており、そのおこぼれを他の人々が血眼になって奪い合うとい現実があった。
産軍複合体は世界経済を牛耳り、利益の為に政治をも操り、巧みに世界情勢を創り出し世論さえも自在に操作してきた。彼らの準備は常に怠りなく、中東にイスラエルを無理やりに建国し、消えざる戦争や紛争の火種を用意したりしている。

 その結果、私たちの文明は精神性がなおざりにされ、唯物論的なものへと偏重したいびつな文明となってしまった。その良い例が原子力というコントロール不能な危険極まりないエネルギーの発見が、最悪の形(広島・長崎への原爆投下)で最初に具現化されたのである。
そして一見して平和利用とされる原子力発電も、チェルノブイリやスリーマイル島、そして福島第一原発での取り返しのつかない事故を呼んでいる。
このような現状では、科学技術と精神性のバランスが著しく崩れているとしか言い様がない。

以前に紹介しながら途中で止めた『アミ小さな宇宙人』の中でも述べられていたが、善良な宇宙人たちが地球人と公式に交流するには幾つかの条件があるらしい。
惑星が一つの国家としてまとまっていること、宇宙の法則を理解し、遵守していることなど地球人にとっては厳しい条件が述べられていた。
 そして精神性を欠いて科学技術だけが突出した文明は、その科学技術を必ず自滅する方向へと用いるとも語られていた。
アミに指摘されるまでもなく、私たちはより素晴しい進化発展を遂げる道と自滅する道との分岐点に立っているのだと私は感じている。
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by levin-ae-111 | 2012-04-25 19:49 | Comments(3)

春祭り

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 先日、お金をおろしに駅前のATMへ出かけた折、郵便局の前で獅子舞を観ました。太鼓と横笛のシンプルな伴奏に、若者たちの掛け声、久し振りに目にした光景だった。
しかし、往年の獅子舞を知る私にとっては、極めて淋しく映ったのも確かだった。
子供の頃に煌びやかだが、大きくな目と巨大な鼻、そしてガチカチと鳴らされる大きな口から剥き出しの歯が恐ろしかったものだ。
獅子が自分の方へ向かって来て、口を大きく開けた姿が恐ろしくて、祖母に抱きついて泣き出した幼児の頃を思い出した。
私には余り小さい頃の記憶がないが、不思議に祖母にすがって泣いていた記憶ばかり思い出す。
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by levin-ae-111 | 2012-04-23 05:44 | Comments(0)

 春は私にとって物入りで、通常よりもお金が出て行く季節でもある。暖かくなり花が咲き乱れ、華やいだ雰囲気を今ひとつ楽しめないのはこれが原因かもしれない。
生活に自動車が欠かせない私にとって、自家用車の維持は絶対的に必要なことである。
無論、私に限らず幾つかの大都市圏を除く全国の多くの地域に居住する人々にとって、同じであろう。

 それにしても、我が国では自動車を一台保有するのに、何重の経費が必要なのだろうか。
自動車を購入した場合、取得税、消費税、重量税、自賠責保険料、県税、ざっと思い浮ぶだけでこれだけの費用項目がある。
加えて実際に使用するとなれば、燃料にも俗に言うガソリン税と消費税が掛かってくる。更に、安心して自動車に乗るには『任意保険』と呼称される損害賠償保険に加入しなければ成らない。これは購入の際に加入が義務づけられている強制保険では、もしもの時に充分な補償ができないからである。

 この任意保険と呼ばれる損害賠償のための保険は、1年契約であり私の場合はこれが4月23日で期限切れとなるため、急いで新たに加入する必要がある。
当然、民間の保険会社のお世話になるが、私は20年来の友人が保険代理店を営んでいる関係から、彼を窓口にして保険契約を行っている。
先日、その友人から連絡があり、新たに今年の契約を結んだ。支払いは約6万円。
そして、また暫くしたら自動車税(県税)約4万円の支払いの時期がやって来るのだ。

 友人と待ち合わせ、支払いを済ませた後で、世間話しをする。友人からかつての同僚たちや他の友人の話しを聞く。皆、歳をとり各々に悪戦苦闘している様を聞いた。
友人自身もお母様が痴呆で、毎日デイサービスへの送り迎えを余技なくされており、彼も奥さんも介護に疲れ果てているという。
友人は先日も具合が悪くなり、医者へ行った。原因は病気ではなく、何と栄養失調だと診断されたという。無論、食事は摂っているが、ストレスで吸収が充分でないらしい。
これは私にとっても他人事ではない、これから少し先に確実に似た様な現実が起こってくるのである。
先日も他の友人と話しをした際に、私は両親を見送ったら、自分は野垂れ死にする覚悟だよ、と告げた。それに対して友人も同じように考えていると言った。

 私たちの世代の多くの人は、未来に希望など持てないでいるのだろう。会社では先が見えているし、経済的にも苦しい、自分の体力にも自信が持てなくなりつつあるなど、様々な問題が高い壁として立ちはだかっているのだ。
これ等に関して、国家はまったく当にできない。年金も手に出来ないかも知れず、支給されたとしても雀の涙に違いないからだ。
私たち庶民の未来は暗い。両親の世代までは何とか成っても、自分のことにまで手が届かない、そういう厳しい現実がある。
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by levin-ae-111 | 2012-04-22 11:07 | Comments(0)

通勤道路は花街道

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 ようやく春らしい気候になり、私の通勤するルートは桜や梅、木蓮がそこかしこに咲き乱れている。いつも挨拶する木蓮の木も、清楚だが眩しいほどに美しい純白の花を誇らし気に咲かせてくれている。それから桜も今が盛りとばかりに咲き競っている。
近所の工業団地の周回道路沿いには、木蓮、ハナミズキ、それから公園には桜と梅、そして鮮やかなレモンイエローの花は水仙か。

 それにしても、ここ数年は春の装いも変わってきたという感じがする。私が周囲の自然に気を留めるようになってから久しい。
春に花が咲き乱れるのは同じだが、少なくとも数年前には咲く順番にある程度の秩序が存在した。マンサクがこぼれる様な黄色の花を咲かせ、山野にはカタカゴがひっそりとピンク色の花弁を輝かせ、可憐で小さな白い雪割り草、それからスミレやオオイヌのフグリなどが愛らしいな姿を見せる。
花木では、やはり梅が紅白の花を咲かせ、早咲きの山桜が蕾を開き、そしてソメイヨシノ、その次に八重咲きの桜といった具合に花が咲く順序があったように思う。
それを愛でる私たちも、花の移ろいから、少しずつ温かくなる気温から、春が足早にやって来るのを感じて嬉しさが徐々に増していったものだ。

 それが最近では天候異常によるものか、あらゆる花々が一斉に咲くのである。今年も例外ではなく、木蓮と桜、梅が同時に咲いている。花桃はまだ蕾だが、私が目にするのは日陰の木々なので明確には分からない。
どうも自然がおかしい、変だと感じだしたのは、ホンの数年前だ。植物は気温に反応して花を咲かせるので、気温に異変があるのだろう。
今年も春先から寒暖の差が激しく、桜の開花は足踏みを余技なくされた。
私の住む地方では、春を目前にしながら一転して雪が降るという事が何度かあった。
 
チャネリング情報などで、人間は自然を管理する責任の一翼を担っているという。それが確かならば、この気候変動は私たち人間の意識の狂いがもたらしたものであるのかも知れない。あらゆる預言や予言で人類社会の異変が伝えられている2012年という年の春、果たして如何なる運命が私たちを待ち受けているのだろうか。
いずれにしても、美しい花々の艶姿の競演を楽しみながら、日々通勤できることは幸せなことであるに違いない。
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by levin-ae-111 | 2012-04-19 05:33 | Comments(0)

山菜の季節です

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 我が家の食卓に、アサツキがのぼる季節になりました。これから他にも沢山の山の幸が採れる季節となりました。ウド、タラの芽、コシアブラ、フキのとう、こごみ、ゼンマイ、ワラビ、竹の子など、一斉に芽吹きます。
私がこれ等の中で最も好きなのが、アサツキです。子葱のようなものですが、その味と香りは全く違います。
 早春の田や土手に生えてくるアサツキは、やはり他の山菜と同様に若い内が柔らかくて美味しいものです。今年も何とか、有りつけました。
我が家では庭で数株、アサツキやウドを育てていますが、余り多くは採れませんから、一度か二度食卓に供せば終いです。 

今日は父が山奥の工事現場での仕事でしたので、休憩時間を利用してアサツキを採って来てくれました。我が家では、主におひたしと、アサツキ味噌にしてこれを食します。
何とも言えないあの味を思い出すだけで、口の中に春が来る、そんな感じがして幸福になれるのです。
 さて、私は山奥で幼少時代を過ごしましたが、そのせいか山菜が大嫌いでした。30歳代の終わりころまでは、山菜に限らず野菜類が嫌いでした。
ところが、何の因果か気が付くと、セリが大好物になっていて、バリバリ食べるようになっていました。それからキャベツの千切り、セロリやパセリも何の抵抗も無く美味しく食べられるようになりました。

何処かの時点で、身体が要求するものが変化したのでしょうか。よくよく考えてみれば、単なる不思議現象への興味から精神的な事柄へと興味が移行した時期と一致しているかも知れません。
 いえ、それは考え過ぎというもので、単に歳を取って好みが変わって来ただけやも知れない、などと色々と考えてみますが、結論は出ません。
兎に角、明日の食卓が楽しみです。母が湯がき過ぎなければ良いのですが(笑)
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by levin-ae-111 | 2012-04-17 05:25 | Comments(0)

布教する人々

 時々だが、この田舎の家にもパンフレットを持って、布教に回っている人々が尋ねて来ることがある。一昨日も、呼び鈴に応じて玄関に出ると、二人のご婦人がパンフレットを手に話しを聞いて欲しいという。
その修派は何度も来ているので、何を言うのか分かっていた。
差し出されたパンフレットには、十項目程度の質問が記してある。それは以前にも見せられたものだったので、お断りした。

 「神は人間に対して感心を持っていると思われますか?」と、以前の人と同じ質問をして来たので丁寧に自分の意見を伝えさせてもらった。
それから、幾つかの問いかけにも答えながら、更に自分の意見を述べさせてもらった。相手の方は聖書?を開きつつ、一々に確認されている様子。
「よくお勉強されておいでで・・・」と、温和な表情で言いながら、相手の方は更に冊子を渡そうとされたので、それも丁寧にお断りした。
その理由は、どうせ読まないのだから無駄になるし、もしかしたらそれらのパンフレットや冊子は、訪問された方が教団から買取っておられるかも知れないからだ。
だとすれば、非常に申し訳ないことでもあるからだ。

 いつもは相手をしないのだが、この時は休日で暇を持て余していたし、週の初め頃から感じていた疲労感がようやく緩和しつつあったので少し相手をしたのだ。
実は私自身も若い頃には仏教系の新興教団の信仰をしており、休日の度に目ぼしい友人や知人に布教のために会いに行った経験がある。
教団の新聞を持ち、訪れた先で機会を見つけては教団の教議を語り、布教をするのだ。教団の支部では、今日は何人に話しをしたとか、次の会合に何人の人を勧誘したとか、まるで何処かの会社の営業部のような雰囲気だった。成果が無いと、叱責を受けたりする。

 今でこそ、多くの友人知人にご迷惑をお掛けしたと、深く反省しているが、当時は本気で教団の教えに導くことが相手の為になるのだと思い込んでいた。
教団の機関紙を自ら費用を負担して、友人知人に読んで貰ったことも再々だった。
だが仕事の関係で、暫く教団の活動を離れてみると、少し冷静になることができた。そして自分の言動を振り返り、教団の教えは結局、自分の疑問に何ひとつも答えてくれていないこと、それから押しかけられた人々の迷惑に気付がいた。
 
そういう経緯もあり、土曜日に訪問した人々の背景が少しだけ理解できる様な気がした。春とはいえ、今年は天候不順で土曜日も肌寒い日であった。
仕事をしていれば、休みたいであろう休日に、勇気を振り絞って見知らぬ人の家を訪問して、普通であれば顔をしかめられる様な話しをする。
これはそれを専門にする飛び込みの営業マンでも辛いに違いないし、仕事でもない人たちにとっては尚更であろう。そういう意味で、私は話しだけでも聞こうと思った訳である。
しかし、自分が信じる教義を流布するという喜びはあるだろう。そういう点でも、私は体験から理解も出来る。
他人の信仰にどうこう言える立場ではないし、また言うべきではないと思っている。それは日本では法的に保護されている事でもあり、常識でもある。

 この点についてコメントする積りはない、しかし自らの若かりし頃の事を訪問して来た人々との会話から、思い起こされたのだ。尤も、その教義に興味は無いし、信仰する気など更にない。しかし、この人たちの今の行いは、自らも通って来た道でもあった。
ただ「ご苦労様です」と、心からのそういう想いがあるだけだった。
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by levin-ae-111 | 2012-04-16 05:26 | Comments(3)

変わった職業

 各時代の庶民の生活を中心に、リアルに時代を描いてみせる番組タイムスクープハンターは、歴史好きの私としてはとても興味深い。
毎回、楽しみに観ているが、今回は江戸時代に存在したという『屁負い比丘尼』だった。

江戸時代の消防には「いろは48組」と言われるように、幾つかの文字を除いて組名に使われていたが、「へ」組は存在しなかった。その理由は番組によると、へは屁に通じ、格好が悪いからだという。それ位に、当時、人前で放屁をすることは恥とされていたものらしい。現代でも同じだが、特に若い女性にとって、それは我々が予想するよりも遥かに屈辱的な粗相であったようだ。

 物語りは一人の屁負い比丘尼と呼ばれる職業の中年女性「妙晴」が、依頼主の商家を訪れる場面から始まる。妙晴の姿は頭巾被っている、つまり僧衣は着用していないが、尼そのものの格好をしている。
以来主の商家では、娘が引き篭もりになってしまい困っていた。引き篭もりの訳は、三ヶ月ほど前の見合いの席で、緊張の余りに放屁してしまったことだった。
見合いの時に放屁した娘「とし」は、その場から恥じ入りながら逃げ出してしまい、見合いはそのまま流れてしまっていた。困った両親が、何とかしようと人の恥を自らの粗相として請合う妙晴を雇ったのだった。

 としの部屋へ入った妙晴は、としが読んでいる本について訊ねる。としは往来物と答えた。これは現代風に言えば「手紙とか文書の書き方」といった類の内容の書物だ。
それは、良い本ですねと言った妙晴の言葉は、としの心を開き後日、としの要望で妙晴が再び呼ばれた。としは妙晴に本にあるような素晴しい手紙を書けたらと言い、妙晴は女筆指南(女性専用の書道教室)へと連れて行く。
緊張の授業も終わり、師範の終わりの挨拶が始まった。その時に師範は話しを中断して鼻をかんだ。その時の紙片が師範の鼻の下に付いていて、師範はそれに気がつかない。
笑いを堪える生徒たち、としも必死に堪えているが、ついここでも放屁してしまう。
驚いて周囲を見回す一同に、妙晴はすかさず「只今の粗相は自分です、誠に申し訳ありません」と誤る。しかし、師範の鼻の下の紙片を指摘して、一同は再び大きな笑いに包まれて事なきを得る。

 これに気を良くしたとしは、明るさを取り戻し、妙晴を梅が咲き始めたと聞いていた場所へと誘う。途中の道は悪くドロドロにぬかるんでいて、としの下駄にビッシリと土が付着した。橋の上でそれを除こうとして、立ち止まり下駄を脱いで欄干に置いた。
それがいけなかった。
下駄は橋の下へ落ち、折悪しく下に居たごろつきの頭に当たったのだ。直ぐに上がって来たごろつきに必死に謝る二人だったが、許してくれる筈もない。
妙晴は必死に悪いのは自分だと言うが、金を要求され罵られて、遂に切れて口論になる。
隙を見て逃げ出した二人だったが、執拗に追いかけられて、茶屋や小屋へ逃げ込む。

 逃げ込んだ小屋にもごろつきが踏み込み、二人は絶体絶命のピンチ。そして遂に見つかった!と思ったが、顔を見せたのは意外な人物だった。
二人の前に現れた人物は、蔵之介だと名乗り、あの時の見合いの相手だと告げた。蔵之介は見合いの席でとしが放屁したことを知っていたが、その時のとしの恥らう様子が気に入り、ずっと気に留めていたと言う。としの方でも、見合いの時の件でお詫びの手紙を蔵之介に出すつもりで手習いを始めた初日だった。
蔵之助は、一緒に暮らせば放屁など、恥でも何でもなくなると、実質のプロポーズをしてくれた。そして自分の船を待たせてあるから、それで逃げなさいと、逃がしてくれた。

無事に帰宅したとしだったが、家では母親が激しく妙晴を責めた。父親は娘が3カ月ぶりに外出した祝いも準備しているから、一緒にとそれをとりなし一件落着。
一月後に、としと蔵之介の祝言が行われた。

若い女性の苦悩を描いた物語だったが、いつの時代も人間心理は余り変わらないものであるのは確かなようだ。
しかし、人間は変わるものだ。この物語のとしさんも、放屁ひとつで部屋に引き篭もってしまう乙女だったが、歳を重ねるころには蔵之介を尻に敷いているかも知れない。
 面白いのは、妙晴が屁負い比丘尼である事は、誰の目にも明らかであろうが、誰もそれを疑わないのかという疑問に対する妙晴の答えであった。
或いは感づいている人も居るでしょうが、それを口にするのは、人前で放屁する以上の無粋であろうという意味のことを語ったこと。言わぬが花といったところであろうか。
 
 過去の時代には私達の知らない様々な職業が存在したようだが、それは常に人々のニーズに上手く応えたものであったのは確かである。
無論現代でもその基本は同じであるが、現代では逆に顧客のニーズを創造する方向へとビジネスが進化している。それが良いのか悪いのか分からないが、人々から優しさや思いやりが消えつつある嫌な時代に成っているのは確かな気がする。
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by levin-ae-111 | 2012-04-15 05:40 | Comments(0)
 これは、友人Fのアイディアを文章化したものであり、ブログ筆者が代筆を担当した。

ウイキペディアで調べたところに依ると『パンドラ』とはギリシャ神話に登場し、神々により創られて人類の災いとして地上に送り込まれたと伝わっている。
一説には人類最初の女性であり、聖書に登場するイヴに相当する存在らしい。
イヴとの共通点も多く、神々によって創られたという点は勿論、人類の苦難が始まるスタートとなった点も同じだ(イヴは禁じられた知恵の実を食べエデンを追放された)。
イヴの物語については前回の『生命の樹と不思議の国・日本』で既に書いた。
ギリシャ神話のストーリーではプロメテウスが天界から『火』を盗み、人間に与えたことに激怒した最高神ゼウスが、人類に災いをもたらす為に創造を命じたのがパンドラだった。
彼女は泥から造られたとされ、この点も土から人間が造られたとする聖書と極めて類似している。

その様な存在でありながらもパンドラは、アフロディティからは美を、アポロンからは音楽と治療の才能をというように神々から様々な贈り物を受け取っている。パンドラとは贈り物という意味あいであり、彼女はまさに名の如くの存在であった。
神々はパンドラにこれらの贈り物に加えて、箱(または壷)と好奇心を与え、「絶対に開けてはならない」と言い含めて人間界へと送りだした。
プロメテウスからも止められたにも係わらず、ゼウスの思惑どおり誘惑に負けてパンドラは箱を開いてしまう。

箱からはあらゆる災いが飛び出し、慌てて蓋を閉めたが時既に遅く箱に残っていたのは僅かに希望だけだった。この最後に残ったもの『希望』のために、人類は災厄に見舞われながらも生きていくことを運命づけられた。だがこの希望は実のところ『兆し・予兆』であったとも言われている。世界中に広まった災いと、それがもたらす災厄を見通せたならば人間は絶望して死んでしまうだろうが、この兆しのために災い多い人生を希望があると思い込んで生きて行くことから、兆しが希望にすり替わったものらしい。
どちらにしても、人間は苦難の人生を生きることがこの時に定まり、パンドラの箱の目的は達せられたのである。
 
この話しからはパンドラなる女性が、神々から現代に通じる科学・技術・知識を与えられたというだけでなく、遺伝子操作を含めた様々な操作を受けて誕生した存在であろうことが伺える。また泥から造られたとは、パンドラが作られた素材、原型となった生物が地球由来の存在であろうことを思わせる。
それからもうひとつ重要なことは、パンドラが与えられた様々な贈り物とプロメテウスが天界から盗んだとされる火のことである。
パンドラが神々から贈られたものとは、先述したように科学・技術・知識の比喩的な表現であろうと思われる。ではプロメテウスが天界から盗んで、人間に与えた『火』とは何を指すのであろうか。
最高神ゼウスが怒り、人間に呪いを掛ける程に重要な何かであろう。
であるならプロメテウスが天界から盗んだ『火』とは、パンドラが与えられたものと同様に文明・文化であったろうことは想像に難くない。
神々が人間に与えたくない高度の文明・文化だったのではないのか?それは生命の秘密に繋がる程の重要な何かであったのかも知れない。
パンドラ由来のものは災いをもたらすことを前提とし、プロメテウスの火はこれとは反対のものだった可能性もある。

パンドラの災いとは聖書で述べるところの『知恵の実』と同様の役割を持っており、『知恵の実』は正確には善悪知る木の実と書かれていて、これは科学や技術というよりも自分に都合良い身勝手な二元論的な考え方、価値観を指すのであろう。
この考えが人類を生命の樹から遠ざけ、人類が災い多い苦難の人生を歩む始まりとなった。どう考えても永遠の繁栄を約束する英知とは、やはり別物である。

そして、問題の『兆し・予兆』とはどういう意味であるのか、もう少し考えてみる必要がある。
この『兆し・予兆』とは予知、洞察、直感力など先が見通せる能力のことであると考える。
これが人間界に放たれずに箱に残ったということは、時間が人間界に於いて固定されてしまったこと(過去から現在を通過して未来へ向かう、一定の流れになった)を意味しているのではないだろうか。つまり、世界が強固に物質化してしまったことを意味している。
これは日本神話でいうところの千引の岩戸で、黄泉の国と現界(あの世とこの世)の境界が閉じられたことにも通じるだろうし、その結果として『予兆・兆し』が封印されてしまったことの表現ではないだろうか。
これが、世にいう岩戸閉めを指したものであり、波動が著しく低下して物質化がどんどん進行してしまったという意味でもあろう。
また聖書でいう『生命の樹』が人間と引き離され、人間の生命エネルギーが細く小さく成っていったことにも通じるであろう。

日本の昔話『浦島太郎』にも、このパンドラの箱に似た箱『たま手箱』が登場する。
この御伽話は幾ばくかの月日を竜宮城で過ごした浦島太郎に、帰り際に乙姫が決して開けてはいけないと念を押して箱を渡す。
開けないことを約束し戻った世界は風景が変り、知り合いも誰一人として居ない別世界だった。これはアインシュタインの説く、相対性理論を連想させることから、浦島太郎は亀(宇宙船)に乗せられ竜宮城(宇宙人の星)へと連れて行かれたと推理する人もいる。
孤独に耐えかねた浦島太郎は遂に約束を破り、たま手箱を開けてしまう。
その途端に白い煙が噴出して、若者だった浦島太郎は一瞬にして老人へと変身してしまうという物語だ。
乙姫のいる竜宮城はある意味で神界であり、そこでの一日は人間界の何年分にも相当する。
未来を予測する『予兆・兆し』と一瞬で時間が進んでしまう『たま手箱』は、どちらも時間を封じ込めてあるようで、不思議な共通点を感じる。

 時間を封じ込めてあると言ったが、これは霊的な意味での真実が私達から隠されているという意味である。人間は生命の永遠性を忘れ、限定された時間の内に人生を過ごす。
永遠性を知らず、信じられず、限定された時間でしか自己の存在を捉えられない。
その結果、物質的な世界のみが実質的に私達の世界の全てになってしまったのである。
 プロメテウスが盗み出して人間に与えた火とは、生命の永遠性と物質的な時間に縛られない人間の霊性に関する知識や技術であったのだろう。
隠された真実の知識のひとつに、鬼門の神として忌み嫌われている丑寅金神(うしとらのこんじん)の例が挙げられよう。
本来は地球の守り神であるこの丑寅金神は、悪神の企みによりバラバラにされてきた半球の北東に封印され。この丑寅金神を祟り神として封印する行事が『節分の豆まき』であると、大本教の神喩で示されているという。

これによれば節分の「福は内、鬼は外」と叫びながら煎り豆を撒く行事は、知らない間に地球の守り神を呪詛している行為とされる。
鬼は地球の守り神(丑寅金神)のことであり、守り神を追い出し、副守護神(守護霊)にのみに傍に居て守って下さいということである。
炒った豆を撒くのは、炒り豆に花が咲くまで(つまり永遠に)出て来るなとの呪いである。
一般に言われる鬼の金棒の金の属性を封じ、克するために、成長力のある豆を煎るのだとの説が流布しているが、真実は親神様(丑寅の金神)を封じる為の略式の呪詛である。
煎り豆に花が咲くとは、通常の時間概念では決して在り得ないことである。

 ところが、炒った豆から芽を出すことが出来る能力者が出現したのだ。
中国人の女性だが、彼女は豆に質問し芽発芽したいと言えば、発芽させられるという。
それは炒り豆、煮豆と何でも可能なのだという。
人間の霊でさえその存在を疑われているのに、豆の魂などとは、しかも発芽させる行為をするのに、必ず豆自身の意志を確認する意志を確認するとは甚だ奇妙である。
が、中には「放っておいて欲しい」という意志表示をする豆もあるらしく、更に興味深い。
実はこれとは別の話なのだが、キルリアン写真で豆と豆から少しブレて芽を出しかけた状態の豆の魂?が重なり合うように写っているのを見たことがある。
私はその能力者の話しを知った時に、能力が本物であるか否かより先に「ああっ、時が来たな」と想った。
私達の時間は物質界の時間であり、それは永遠に過去から現在、そして未来へと流れ続け、決して後戻りはしない時間である。それが、逆転再生なのか、パラレルワールドへと繋がっているのかは分からないが、あたかも逆転する時間を思わせる能力を持つ人の出現が生命の永遠性を忘れた私達に何かを知らしめようとしている、と感じたからだった。
 それから、この話しに関連して納得したこのひとつに、小説や漫画で使われる禁呪・反魂の法が失敗する理由である。失敗するパターンの多くは肉体が息をして動くようになるのだが、蘇らせたい人の魂が入らず、別の魂や悪霊が乗り移って蘇生してしまうというものだ。

本当ならばその身体の持ち主である魂(霊)の同意に加え、その人物を守護する霊、神々たちの承認が必要である。何らかの方法を用いて蘇生させても、より高い次元へ移行している魂にとっては迷惑であろう。波動が高く軽やかな世界から、波動が低く重いこの物質世界へと呼び戻されることは牢獄へ入れられるようなものかも知れない。
それよりも、物質界に執着し、復活のチャンスを伺っている不浄の霊が、蘇生される身体を狙っていることは予想に難くない。
だいぶ横道に逸れてしまったが、例え相手が豆、それも炒り豆であろうとも相手の意思を尊重する態度は霊的に素晴らしいと言える。尤も、それよりも承諾しない豆からは発芽させられないという事情の方がリアルであるのかも知れないが。

 話しを戻そう。精神世界では、神話で閉ざされたはずの岩戸は既に開いたと言われている。
その意味では、最初に蓋が取られた時に箱の中に残されていた『予兆・兆し』も、既に外に出たと考えられはしないか。
この災いに溢れた外の世界と遮断されたパンドラの箱の中は、数々の秘密がひっそりと隠されていると想われる日本を連想させる。
聖書が述べるエデンの東に、太陽の炎と剣に守られて隠されたとされる生命の樹の記述と重なるのである。

この鉄と石油と電気の現代文明は、中東やヨーロッパが歴史舞台の中心と成るべく承認されていたが故にこれまで文明の中心たりえたのだ。
有史以来連綿と続く現在の文明的流れが、その役割を終えるまで、それ以前に栄えた平和と調和を重んじる古代文明の英知と種は、それが再び歴史舞台に上る時までひっそりと、しかし確実に保存され舞台の袖に置かれていた。
その保管場所が日本であり、日本人であったのだ。
古代の世界いわゆる神代では、人は現在ほどに質に固定されておらず比較的自由に神界(あの世)とこの世の交流が可能だったようだ。
映画『アバター』の世界観は実にインスピレーションに溢れているが、少なくとも現代の世界観よりは遥かに古代社会の世界観に近いものに感じられる。
現代はパンドラの箱に残された『予兆・兆し=希望』も外に放たれ、新しい時代を創造するために先の時代の弊害や誤りを浮き出させ、一掃される時なのである。
金銭的なこと柄や欲望等も同様で、それに変わる価値観へと置き換わろうとしているのである。
日本文化の特徴である大晦日の大掃除もまた、文明交代期に起こる現象や法則を生活の中に取り入れたものだとされている。この習慣はシュメールに始まり、ユダヤから日本へ受け継がれている。
即ち汚れを一掃し気持ちも新たに正月を迎えるというのは、文明・文化の交代に於いても重要なファクターの一つであり、これもまた日本に保存されている古代文明の知恵の一端であろう。

文明の交代期を象徴すると思われるものに、神々が繰り広げる生死の物語がある。 
『死と再生』にまつわる神話は数多いが、これは木々が落葉して越冬し春には再び芽吹くという自然のサイクルが、人間の営みである文明にも作用していることを知っていた古代の英知が神話化されたのだろう。
現在に存在する様々な困難は、産みの苦しみであり新たな文明・文化が誕生し成長するための大掃除であるといえるだろう。
準備が成されているが故に2012年以降も滅亡することなく、人類の営みは続いて行くだろう。
必要以上に先々を憂うることなく自身の手放すべき葛藤を手放し、心を研ぎ澄ますことこそが次代への移行を円滑にする方法であり、私達が成すべきことだといえるだろう。

 『パンドラの箱』それが開け放たれた瞬間に、人間界に災いが拡がったとされる忌むべき伝説である。しかし、考えてみれば神々が災いを箱に入れたのであり、それが人間界に蔓延するように仕組んだのも神々である。
この狭量で陰湿で、残酷で身勝手な連中は何者なのであろうか。尤も本来の意味で『神』とはその様なものらしく、恐れそのものと解釈されてもいたようだ。
ギリシャ神話ではパンドラの箱以前に、ゼウスとクロノスの戦いが述べられ、神々の世代交代が語られている。それはオリンポスの神々とティターンズ(巨神族)、の闘いである。
巨神族とは大きいという意味ではなく、偉大な存在であることを指しているといわれる。
だがこれは、古代に繁栄した巨大な生物群の生命体系全般を表現したものであるともいう。
恐竜時代には何もかも大きく、トンボでさえ一メートル以上もの体長を有していた。
アトランティスの人々は、現代人より大柄で身長は2メートルから2メートル50センチもあったらしい。この末裔といわれている人々は、現在でも長身の人が多く190センチ台の身長の人が多いという。
近年では南米などで2メートルを越える遺骨が発見された例があるが、それとは反対に1メートル程度の身長しかない小人族らしき骨も発見されている。古代には現代とは異なりバリエーション豊かな様々な人々が生活していたものらしい。
そして神々のリーダーが雷を扱うゼウスとなったことも、電機を主体とする時代の到来を暗示していたと思わせる。

古代ギリシャの詩人ヘシオドスの話しでは、人類の時代を黄金の時代・銀の時代・青銅の時代・英雄の時代、そして鉄の時代の五つに分けられている。
黄金の時代は病気や争いもなく、人間も長寿であり、それこそエデンの園のような状況であったらしい。現にクレタ島などのでは、城壁や防塁の痕跡が無く、武具の類も全く発見されていない遺跡がある。その頃は黄金の装飾など、多種多用の品物に黄金が使用されていた。

そして黄金から鉄へ時代は移り変り、私達の生きるこの時代は鉄の時代である。ヘシオドスによれば、この時代の人々は最も不幸で、昼夜を問わず労役に苛まれるとしている。
この人類史の移り変わりを金属に例えて考える思考は、オリエントに起源を発しているという。聖書をはじめとする世界の神話の多くが、その源流をオリエントに求められるそうである。

 現代は電気が主体の文明であると同時に、鉄の時代でもあるという点について異議を唱える人は居ないだろう。これ等の逸話は多分に予言的であり、また史実の特徴を端的に言い表している。
どうして、その様なことが古代には可能だったのだろうか。
原因と結果はあの世(神界・霊界)では表裏一体であり、私達の世界のように物理的時間・空間の壁で隔てられてはいない。従って何かがあれば、一瞬にしてそれが実現する世界だ。
この物質世界では時間と空間が固定されたことに因り、原因と結果の間に過程・経過という間が発生してしまった。

 この物質世界の歴史はあの世では存在しない原因と結果の隙間、過程・や経過の変化を体験するという極めて特異な世界なのであり、それ故に魂の成長にとって貴重な場なのだ。
あの世の写し、或いは影の世界だといわれるこの世。
サイコロを振ればあの世では瞬時に目が出るが、この世では転がり続けるサイコロの目を追う影の世界だ。つまり最初から出目は決まっているが、私達の世界では何度も変化した(過程・経過)末に結果が現れるのである。

大本教の神喩では創造神・大神でさえも時節に抗えないとあるが、それ程に強固に固定された物質世界に私達は生活しているのだ。
しかし、これ程に影の濃い期間は暫しの時であり、あの世で出たサイコロの目に影の世界が追いついたならば、それは実在を伴った真実になる。
この写し世の影を縛るものは、自身の想い・信念・もしくは時代の残像や錯覚である。

 パンドラの箱の伝説とは、写し世といわれる影の世界での歴史の意味や特色を表現し、時間・空間が固定される以前に予定された出来事をこれから体験し、乗り越えて往かねば成らない人類への憐憫の情とメッセージであるような気がする。
終わり。
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by levin-ae-111 | 2012-04-11 19:42 | Comments(0)