身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


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私の愛車列伝1

a0160407_7292352.jpga0160407_7293586.jpg 私は田舎に住んでいるので、車なしでは決して生活が成り立ちません。仕事に行くにもプライベートでも車は必需品なのです。
現在はカローラ・フィルダーという車に乗っています。ATが主流の現代に、いまだに私は敢えてMT(マニュアル・トランスミッション)の車を選びました。

さて免許を取得したのが21歳頃だったと思います。そして最初の愛車が日産サニーGXクーペでした。流麗なスタイルと、ツインキャブ仕様のエンジン、1200CCという小排気量ながら力強く走りました。
そのスタイルも去ることながら、内装も5連メーターでスポーツ感覚が漂っていました。
私が乗っていた車は手に入れた時点で既に8年くらい経過したもので、オイル上がりはするしブレーキの利きは甘いし、アイドリングは夏は高く、冬は低いという厄介なものでした。

エンジンはA12型で、ツインキャブ仕様でしたが、キャブ調整が難しく修理に出してもアイドリングが不安定な状態は遂に直りませんでした。夏場になるとアイドリングは1300r.p.m(普通は700くらい)もありました。でもまあそれは燃費意外に特に問題ではなかったのです。問題は気温が下がる冬でした。
アイドリングが低下し、信号などで停車する場合はアクセルを踏み込んでいないとエンストしました。
でっ、初心者だった私はギリギリまでブレーキを我慢して、最後はサイドレバーを引いて停止し、ギャはニュートラルにしてアクセルを踏み込んでエンストを防止するというバカみたいに複雑なことを停車する度に行っていました。

 もっとショックだったのは、冬に高速を走ると、何とオーバーヒートならぬオーバークールに成ってしまうことでした。走れば走るほど、スピードを上げれば上げるほど、水温計が下がります。
無理もありません、小さなエンジンルームに、でかいラジエーターがフロントにドンとあり、小さなエンジンがチョコンと据えられているだけですから、冷えるはずです(笑)。

ある夏休みの日、実家から下宿先に帰るために国道を走っていました。キュッ、キュツトという異音が耳に入りました。目的地も近かったのですが、一応オイルをチェックしました。
そうしたらゲッ、ゲージにオイルが・・・・、全く一滴も付いていませんでした。
近くのスタンドに駆け込んだ私は「オイルを入れてください」と告げましたが、相手は当然、交換と思っています。ドレンを緩めると、ポタポタ・・・と数滴がたれただけでした。
原因はオイル上がりだ、と今ならば判りますが、当時は全く不思議でした。

 私はこの車でドライバーとして、様々な経験を積ませてもらいました。軽い追突や脱輪といった事故といったドライブの危険性や、自由に好きな場所へ行ける喜びや楽しさなどです。
老朽化で止む無く手放しましたが、私が次ぎの車に再びサニーを選んだことは当然でした。
排気量も1300CCで走りを期待したのですが、折からの排ガス規制で力がなく新車でしたが2年で手放しました。
これらの愛車はクーラーなど当然なく、若い私は暑い日には窓を全開にして走っていました。次はもっと馬力のある車をと考えた私が、次に選んだのは4AGエンジンを搭載したカローラのスポーティー車種でした。
つづく
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by levin-ae-111 | 2012-09-30 07:30 | Comments(0)

家のにゃんこ

 我が家には3匹の猫が家族として暮らしている。2匹のオス猫と1匹のメス猫だが、この彼らが個性的でとても面白い。
サイズは大中小と揃っており、それぞれに特徴がある。大きい子はキーくん、子供の頃に鼻が尖がっており狐に似ていたから、この名がついた。
今では体重が10キロ近くの堂々たる体格で、キジ猫なのでまるでミニチュアのトラのようだ。

 中くらいの子はムーちゃん、唯一の女の子で、歩き方も優雅で身のこなしも素早い。人間には蚊の鳴くような可愛い声でおねだりするが、同居している男の子たちには極めてキツイ。例えばキーくんが近くを通っただけで、突然に猫パンチを喰らわせたりする。
そして水は蛇口から直接しか飲まず、手が掛かる。

小サイズはチッチという名で、一見して子猫のように見える。顔も幼くて、病院に連れて行くとアイドル扱いらしい。甘えん坊で、食事の時は身体を撫でられていないと落ち着かない。水は蛇口から飲む、洗面器の水を手でかき回して遊び、手についた水を舐めたりmする。水が流れているのを見るのが好で、シンクや風呂場で流水を観るのが趣味らしい。

 こんな3匹は家の中でも住み分けていて、ムーちゃんは2階、チッチは座敷、キーくんは両親の部屋と弟の部屋である。3匹は同時期に生まれたので、年齢も同じでもう人間なら60歳を越える年齢だ。男の子たちは最近、体力の衰えが目につく。
女の子は、元気。恐らく3匹の内で最も元気だ。

 この子たちは不思議に泥棒はしない。テーブルの上に猫の好物のおかずが有っても、殆ど盗み食いはしない。しかし時にはカエルやヤモリ、昆虫などが部屋に居たりするが、これは主に猫たちの仕業だ。私たちは、それが生きていればそっと逃がしてやる。
夜中に何度も起こされる、水、エサなど母は寝不足気味だ。チッチなど両親が眠ると、私の部屋まで来て、して欲しいことを要求する。

この猫たちのリーダーは、意外にも最も身体の小さなチッチだ。ムーとキーは時々だが喧嘩をするとチッチが仲裁に出動する。実態はキーがムーに一方的にやられているが、小走りして逃げる姿は「女には手を出せないぜ」とでも言っているようだ。
「男は辛いよなぁ、キー」などと言いながら、撫でてやるとゴロゴロと嬉しそうにするが
本当は3匹の中で最も野生的でよその猫と喧嘩する。
3匹とも外で家族を見かけると、嬉しそうに走って来るし、キーくんは人の後をついて来る。
猫って、面白いなぁ(^^)
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by levin-ae-111 | 2012-09-27 05:33 | Comments(0)

 つい昨日のことですが、精神世界の用語で『マカバ』なる言葉をネットの書き込みで初めて知った。早速ネットで調べてみたが、どうもよく分からない。
ネットには沢山の人が『マカバ』についてアップしているが、知識の無い私にはそれを呼んでもサッパリ理解できない。

言っている事が各々の人で異なるし、一体どれが本当なのか、それとも各人がその一部だけを捉えて論じているから話の全体像が把握できないのか。
結局のところ分からないながらに私がおぼろ気に把握した内容は、どうやら他の説とは少し違うらしいという印象を持った。ただ私の理解が間違っているかも知れない。
何方か簡単に、誰でも理解できるように解説して下さらないものだろうか。

間違いかも知れないけども、私の稚拙な理解は以下の通りだ。
①マカバとは生命体の持つエネルギーフィールドの事らしく、一定の形が有るという意見と生命の進化度合いに従って形が変化するという説があるらしい。
②どうやら回転しているものらしく、上昇の回転(右回転)と下降の回転(左回転)があるらしい。
③フィールドの広がりは、数メートル程度らしいが、もっと拡大する可能性もある。
④マカバの色は赤、青、緑、紫など虹の色に加えて、ゴールや白もある。

と、この程度しか把握できていないが、待てよ・・・と私は思う。何故ならば、これは私
が日常的に感じている自分のエネルギー感覚にとても似ているからだ。
渦巻いて回転しているし、下から上へと移動したり、逆に上から下へ下がったりする。
瞑想をして目を閉じれば、七色の光が飛び交い、時には金色の光や白い光も見える。私の感じる自分のエネルギーフィールドは恐らく、通常だと4メートルくらいだと思っている。
もしかしたら、これがマカバなのであろうか。

この『マカバ』に限らず精神世界の用語はとても難しく、私のような無知な者には解説を読んでも理解出来ない。
真実その世界観を広めたいならば、もっと万人に理解出来る表現をしようと努めるべきであろう。そうでなければ、折角のチャネリングメッセージも意味は無いと感じる昨今である。
まっ、私が不勉強なだけでしょうが、敢えて言ってみました。
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by levin-ae-111 | 2012-09-25 05:29 | Comments(0)

藤原の陰謀


 藤原不比等が朝廷での権力を奪取し、更にそれを固めようとした時に反発を強めた人物がいた。天武天皇の孫である長屋王である。その父は天武の長子である高市皇子であるとされる。
不比等が死亡した時の地位は右大臣であり、最高の地位にあったが長屋王はそれに次ぐ地位にあり、不比等の死で自動的に最高位に上った。神亀元年(724年)に聖武天皇が即位した。
この天皇は藤原から嫁いだ藤原宮子の産んだ子で、藤原氏としては悲願の藤原の血を引く天皇であった。

 長屋王はこの時、左大臣の地位にあり、朝廷内での藤原と長屋王の力関係は微妙なものとなった。更に長屋王の台頭は、不比等の遺児である藤原四兄弟を奮いたたせた。
彼らは共同して長屋王の失脚、或いは殺害へと動き出す。
中でも次男の房前(ふささき)は、左大臣よりも上の位を強引に捏造し、それに自分が就任してしまうという暴挙に出た。
「内臣」(うちつおみ)という捏造された位は、天皇と同等の権力を持つとされ、この地位に在る者は律令の適応外のとされた。

 事件が起きたのは聖武天皇が即位した直後だった。聖武天皇の母、藤原宮子を「大夫人」と称するとの勅(みことのり)が出され、これに長屋王一派が反発した。
律令にないその称号は、明らかに律令に違反しているから、天皇の勅と律令のどちらに従えば良いのかと、クレームをつけたのである。
藤原にすれば聖武天皇の妃の一人である光明子を、皇后の地位にまで押し上げたいと考えていたのだろう。しかし「不文律」では皇后は皇族からとされていたから、藤原の血筋が天皇に即位する可能性を高めたいと考えた。そして悪賢い不比等は律令作成にあたって、故意にこの部分を明記しなかったのだろう。

 無論、藤原氏は皇族ではないので、光明子が皇后に成れる筈はないのであるが、この規定が「不文律」という処に藤原は目を付けた。それで将来を見越して聖武天皇の生母である宮子を「大夫人」として、前例を作っておきたかったのだろうと関裕二氏は推測する。
長屋王側もそれを承知していたので、宮子に特別な称号を与えることに強く反発したのだ。
そして長屋王の反撃が実り、結果的に宮子への「大夫人」という称号の授与は無くなった。
恥をかかされた藤原は、長屋王の殺害を図る。そして「左道(良くないこと)を学び、国家を傾けようとした」という謀反の罪で長屋王一族を殺害した。
この時代、謀反を企んだ一族は根絶やしにされるのが常識だが、不思議なことに(当然か)藤原から嫁していた女子は助かっている。

この事件について「続日本紀」には、無実の罪であったと明記されている。要するに一族による国家の完全支配を企む藤原氏が、邪魔者を強引に消したという事件であった。
後に密告者が「長屋王の謀反は嘘だった」と証言しているし、それが記録に残されているのも不思議である。
この藤原氏の暗部を認める記述が何故に残されたのであろうか。恐らくは長屋王一族を始末した後に、藤原四兄弟が相次いで不審な死(当時としては)を遂げたからであろう。
祟りという現象が固く信じられていた当時、都を襲った天然痘で藤原四兄弟が死亡した事実が長屋王の祟りとして捉えられたからであろうと思う。

 それにしても日本の古代世界では、頻繁に祟りとか怨霊とかいう化け物が跳梁跋扈していた。天皇が祟りを恐れて遷都したり、祟りで多くの貴族が亡くなったとされている。
古代日本では罪無くして処断された人々は、たちまちに怨霊となり、彼らを陥れた人々に復讐するのである。祟られた側は寺社を建て、お抱え坊主どもに供養させて怨念を鎮める、或いは封じ込めるという手に出るのである。
現代では学問の神様として有名な菅原道真もまた、罪なくして大宰府に左遷され死後は雷神となって宮廷を襲ったという。
果たして怨霊と成った人々が本当に祟ったかは疑問だが、陰謀を巡らせ人を陥れた側の人々がピュアな感性を持っていたことが意外である。

 参考文献
 古代史「封印された謎を解く」
関 裕二 著
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by levin-ae-111 | 2012-09-24 05:24 | Comments(0)

夢か幻か

 昨夜の寝入り端に、久し振りに身体が沈み込む感覚があった。その少し前には、子供の頃に感じていた揺りかごで揺られる感覚もあった。
ゆっくりと揺れるその感覚を、私は神様が揺らしてくれていると思っていたものだ。今から思えば、自らの生体エネルギーの揺らぎを知覚していたのだろう。

 スーッと闇の中に吸い込まれる感覚があり、沈みこむと私は夜の田舎町の風景の中に居た。その世界は夜で点在する家々は、完全に寝静まっている。
私は見える家の中でも新しい目の家を選んで入ってみた。玄関からではなく、壁を抜けて入る。家の人がベッドで眠っているのを見て、私はそのまま再び壁を抜けて外へ出た。
空には星が光っていたが、どうにも淋しい風景だ。

そこで、地球の裏側へ行ってみようと考えた。次の瞬間に、ヨーロッパ風の白い建物が軒を連ねる風景を見ていた。空は青く輝くように澄み渡って、真昼の太陽が強い日差しを投げかけている。とはいってもそこは決して都会ではなく、豊かな緑が溢れる田舎町だ。
ゆったりと下る坂道の通りを、幾人かの人々が歩いている。髪の毛がブロンドやブラウンの人々がのんびりと歩く様は、ヨーロッパの色合いが濃いが、南米の風景かも知れない。
そういう光景を見ながら、暫く佇んでいたが知らぬ間に眠りに落ちていた。

 ところで、こういう具合にして何処かを訪れて、そこの人々に会った時には二通りのケースがある。一つは相手の人々も私を認識していて、手を振ってくれたりする場合。
もうひとつは相手が私を全く認識できない場合だ。
認識してくれた場合、大抵の人々は友好的で挨拶を交わしたりする。私も余り深入りはしないし、滞在時間も非常に短いので見た世界を十分に観察することは出来ない。

意識は非常に明確なので、夢とも幻覚ともつかない場合が多いが、時には親しげに話し掛けられることもあった。それは夢だと思うが、夕暮れの街でキャリーケースを引いて、あるビルで働く友人を訪ねた。生憎、友人は不在で私は通りへ出た。
背後のビルは夕日を受けて輝き、周囲は夕暮れの色に染まっていた。多くの人々と信号が変わるのを待っていたら、背後から声を掛けられた。
若い女性だった。「ブリック、久し振りね。どうしていたの、元気だった?」と彼女は親しげに言った。「元気だよ、また来るよ」と私。
その時に呼ばれた「ブリック」という名前は、自分のブログのハンドルネームにした。
それにしても、意識の世界は面白い。
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by levin-ae-111 | 2012-09-23 07:41 | Comments(4)

維新について

 先日友人と会って、何時ものごとくヨタ話しをすることにした。何時もの場所で何時もの時間にと思ったが、肝心の何時もの場所が改装中で閉店していた。
私たちは近くの別の店へと行ってみたが、禁煙席しかなく友人は躊躇なくキャンセルした。
また別の店へ行くが、そこも禁煙席しかなかったが、仕方なくそこに入った。
私たちが入ったのはファミレスだったが、暫くすると瞬く間に多くのお客で混雑しだした。

店のレジ前は、入店待ちの人々が長い列を作っている。外は9月とは思えない35℃の猛暑日だ。私たちは暫くそこに居たが、店を出て私の町の喫茶店へと向うことにした。
富山の田舎町では喫茶店が休日に開店しているかどうか定かではない。それで不安も有ったが、兎に角そこへ行ってみた。
幸い開店しており、結局はそこで数時間も話しこむことになったが、貸しきり状態で快適だった。

 さて何時も様々な話しをするが、今回は維新の話しになった。始まりは友人が切り出した「宣教師」について、言葉も分からずにどうして布教できると考えたのかという疑問だった。私は、彼らには長年に渡り蓄積されたノウハウがあるのだろうと思うと告げた。
第一段階としての宣教師の派遣は、当時のヨーロッパが世界支配のためにとる常套手段だったと考えるからだ。
宣教師の説くキリスト教を素直に信じ、深く心酔する人々が存在した一方で、強かな戦国大名たちはそれを逆に利用した。

 信長、秀吉、家康という天下を治めた3名の武将たちは、宣教師たちを通して西洋の文物を巧みに取り込んだ。無論キリシタン大名たちも味方に付けるために、一時はキリシタンを認めるという戦略的視点も持っていた。
たが天下を手中にすると、宣教師たちとその背後のヨーロッパ諸国の思惑を見抜いていた彼らはキリスト教を禁じ、従わない者には容赦ない弾圧を加えるのである。
そういう強かな人々の造り上げた世の中も、遂には明治維新という革命により瓦解してしまったのだが、ここに維新について変わった見解を持つ人もいる。

 維新の推進者は、薩摩、長州、土佐という西南の諸藩の主に身分の低い士族の出身である。明治新政府も、無論これらの藩の出身者が枢軸を占めるのである。
もしノンビリとした気風を持つこれらの藩が維新を主導せず、厳しい北国の藩が維新を成し遂げていたとしたら今の日本は・・・・というものである。
そうであれば恐らくは、現代日本も日本人の気質も異なったものに成っていただろう。もっと凜とした気風の国家と国民に成っていたかも知れないと言う人もいる。
果たしてどうなのか分からないが、出身地方の違いによる僅かな気質の違いが大きな差となって現れる可能性も否定できない。

 会社の上司が曰く、富山とN県の気質の違いに驚いたと。友人もまた隣県の人々と富山人は全く異なるという事実に直面して戸惑ったという。
隣県同士でも、違いを感じさせるのだから、上記の説も単なる思いつきとも言えないかも知れない。
私たちの国は南北に長く、気候風土も大きく異なるが、それが人々に与える影響もまた大きいはずだ。
良いも悪いもないが、もしも北の勢力が近代日本の礎を築いていたなら、恐らくは異なる日本人と日本国が出来上がったことだろうと私も思う。
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by levin-ae-111 | 2012-09-22 12:53 | Comments(0)
 初めて知った究極の山岳レースのお話しです。このレース、富山湾から出発して、北アルプス、中央アルプス、南アルプスを経て駿河湾までを7日間で踏破するというものです。
出発地点は富山県の早月川河口で、参加者はスタートと同時に北アルプスを目指して走り出すのです。

 そのルートは立山登山の基地である番場島から山へと入り、剣など3千メートル級の尾根を進み、上高地から中央アルプス経て、南アルプスを進み静岡県へ入り駿河湾の大浜海岸でゴールとなります。全行程415kmという超過酷なレースです。
 途中には多くの鎖場を通過しますし、足を踏み外せば滑落し命に係わるといった場所を昼夜を分かたず、荒天下でもひたすら前進します。
高山病や睡眠不足、疲労と戦いながらの命懸けのレース。

途中で5つの関門があり、定時までに辿り着かないと失格となります。レースは2年に一度開催され、選手たちは日々トレーニングに励みます。
15キロの通勤距離を走る人、高層ビルの階段を一日に何往復もする人、山岳救助に携わる人など、各々が自分の環境に合わせてトレーニングをしています。
 驚いたことに、選手たちの中で一番多い年代が、40代ということです。中には50代の女性も含まれていました。
トップの選手は5日と6時間少しでゴールしましたが、最後の完走者はタイムリミット30分前でした。勿論、リタイアした選手たちも大勢いました。

さてルートは違いますが、このアルプス越えを真冬に成し遂げた武将がいました。戦国時代の終わり、豊臣秀吉に攻められて駿府の徳川家康へ援護を請いに出掛けた佐々成政の一行です。その一行の一人が滑落した場所には、八郎落しという地名が現在に残されています。厳冬のアルプスを越え駿府へ辿り着きましたが、結局のところ家康は動かず、成政は失意の内にまた山を越えて越中へ帰ります。

 最後の敵である佐々成政を攻めるために、秀吉は越中へと出陣します。そして現在の富山県射水市太閤山(とやまけん・いみずし・たいこうやま)に布陣し、富山市婦中町(ふちゅうまち)に安田城を築いて富山城にたてこもる成政を攻めました。
成政は降伏し、ここに豊臣が天下を平定しました。
そういう歴史と関係が有るのか無いのか、分かりませんが、こういう凄いレースが存在し挑戦する人々がいることに感動しました。
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by levin-ae-111 | 2012-09-21 22:06 | Comments(0)

一鹹味(いっ・かん・み)

 不思議な言葉で意味が不明ですが、知人の旦那寺に掛かっている額の言葉だと言います。
さて、最近の私は仕事で悩み、私生活で悩みと全くパッとしない日々です。
暑いし、お金は無いし、友人も少ないし・・・と、面白くない事ばかりです。
人と比べても仕方がないし、意味もないと思いつつ、どうして自分はこんな人生なのかと考えこんでしまうこともしばしばです。

芸能界や人やスポーツ界などの華やかな世界で活躍するとまで行かなくても、何気ない事をしても周囲から持て囃される人がいます。
その反面で、私のように何をしても目立たず誰も一瞥もくれないという人もいます。
私は自分の人生を振り返った時に、楽しい思い出が余りに少ないと感じています。子供の頃に何処かへ出掛けたという記憶も殆どありませんし、大人になってからも良い思いではありません。

 ですから、いわゆる「華のある人」が羨ましくて仕方がありませんでした。だって、大した事もしないのに誉めそやされるのですから、不公平も甚だしいと思っていました。
野球界では長嶋さんと野村さんの違いですが、野村さんは実力で現在の人気者の地位を勝ち取りました。私の場合は、実力も無く努力もしないのですから何事も無いのは当たり前です。
ですが、人生の幸不幸は等量だとも言います。果たして本当でしょうか。
人により運の総量が違うかも知れませんが、プラスとマイナスの量が等しいということかも知れません。

 先日、友人が私と同じ様に嘆いていました。しかし友人の人生は私には、なかなかの人生に見えます。
ビジネス界では、私など比較に成らない程の大活躍をした人ですが、人間は何の為に生まれて来るのかと考えた時に人生について疑問が生まれたようです。
私は思わず、「良く見えても、人には必ず相応の悩みがあると思う。悩みのレベルが違うだけで、悩みの無い人は居ないのではないか・・・」という様なことを言いました。

 そうすると友人は、題名の言葉「一鹹味(いっ・かん・み)」を教えてくれました。友人はその読みと意味を住職に尋ねてみたそうです。
意味は様々な川の流れがあり、水の色や香り味も様々であるけれど、海の水はただ一つの味であるということだそうです。
川の水を人生に例えると、甘い水(安楽な人生)や苦い水(辛い人生)など十人十色でしょう。しかし誰にも死という最期が待っている、各々の川(人生)を流れた末に海へと辿り着くのです。
海水の味はただ一つ、塩味です。そういう意味では、人生は公平なものなのかも知れません。
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by levin-ae-111 | 2012-09-19 21:46 | Comments(4)

架空戦記「震電」2


昭和20年に入ると、アメリカの超重爆B-29による本土爆撃が本格化し始めた。
B-29は連日来襲して、日本各地の工業地帯を本格的に爆撃していた。
震電はまだ量産されておらず、日本の防空隊は雷電や飛燕、月光や屠竜などで必死の迎撃を試みるが敵機は悠々と高高度で来襲して爆弾を振り撒き去って行く。
一方で震電は、工場が爆撃で損害を受け、量産が困難になっていた。三菱と中島の両社とも、大きな被害を出していたからだ。
それでも何とか生産された10機余りの震電は、分解され牛の引く荷車に載せられて次々と厚木基地へと運搬されてきた。
 
時速700キロ以上で飛行する最新の迎撃戦闘機が、歩みの遅い牛の引く荷車で納品されるとは皮肉なものだ。ここ厚木基地に集められたのは、各戦線から召集された腕に覚えのある猛者ばかりだ。
笹井醇一を隊長に、坂井や岩本、杉田、西沢などのエースが集められ、試作機を使用しての猛訓練に明け暮れていた。
彼らにとっても震電での離着陸は難しく難物と言われていたが、その代わりに空中での性能はすこぶる評判が良かった。

「紫電改よりもずっと速い、武装も強力だしね。何よりも高高度性能が凄い」と、猛者たちは口々に震電の性能の良さを讃えた。
実用上昇限度が12000メートルを越える機体は、日本には震電しか存在しない。しかもその速度は750キロを軽く越える。
機首に取り付けた30ミリ砲は、量産型では4門に増強されていた。この震電の性能を以ってすれば、B-29に十分に対抗できる。
「流石のBこうも、これを一発くったら持たないだろうなぁ」
基地内で組み上げられた震電の機首に突き出た30ミリの砲身を見ながら、岩本は呟いた。
訓練は十分だった。今では乗り慣れた零戦に近い感覚で、この新鋭機を操れる。岩本は厳しい訓練のことや初めて震電を見た日のことを思い出していた。

岩本徹三の震電を見た最初の感想は「でかい!」だった。背も高く零戦と比べたらズングリした感じの機体、異様に長い脚はとても細く見えてボディに比して頼りなく見えた。
訓練機となった試作機と一緒にやって来た鶴田少佐から、笹井以下の搭乗員たちは震電の特徴や操縦要領などを学んだ。
暫くの間は鶴田の講義と地上での操作訓練だったが、1カ月後には飛行訓練が実施された。
それから3カ月、笹井たちは2機の試作機を使い交替で連日訓練を続けた。
震電の離着陸の困難さと裏腹に、空に飛び上がった時の異次元の高性能に搭乗員たちは瞬く間に魅せられていった。
上昇力、速度、操縦者の操作に対する反応の機敏さなどは全く素晴しいものがある。
これならムスタングとも互角以上に渡り合える、F6Fなど手も無くひと捻りに出来るだろう。だが震電の相手はB-29なのだ。それに関して搭乗員の中には不満に感じている者もいる。

 戦況は逼迫しており、B-29は連日大編隊で日本の空を大手を振って飛びまわっている。
隊員たちは自分たち以外にこれを阻止できないと思っている。
自分たちの訓練も十分だ、今この新鋭機を実戦参加させないのは解せない。ベテランのエースパイロットの集団は、夜間戦闘も何とか可能だ。それに先日には納品された最後の一機が組み上がり、杉田がテストを実施して不具合は調整済みとなっている。中隊の臨戦態勢は整っている。
この基地の司令官は小園安名大佐で、出撃の許可を請う搭乗員たちをなだめるのに苦心していた。
小園とて早く彼らと震電を実戦の空に送り出したい気持ちはあるが、如何にも震電の数が不足している。貴重な震電をここで無闇に失う訳には行かないのだ。

ただ現在のところB-29による爆撃は、夜間に限られているから、それを出撃不許可の口実にしている。
それがある時点で一変する。空母艦載機に守られたB-29が、名古屋を昼間爆撃したのだ。
それを皮切りに昼間爆撃が主流となり、いよいよ震電の活躍の舞台が幕を開けた。
20年8月、訓練中の坂井小隊が空中にあった。
坂井、杉田、杉野の第二小隊の3機が高度1万メートルを飛行する一機のB-29を発見した。それは護衛機も付けず、単機で飛行機雲を引きながら悠々と飛行している。
「2時の方向、くじら!!」杉田が報告する。
「あれは恐らく、レイブンと呼ばれる電波妨害用の偵察機だ」坂井はそう思った。その証拠にさっきから千葉のレーダーからの誘導信号が乱れている。

「小隊長、やらせてください」杉田が血気にはやった声を上げた。交戦はまだ禁じられていたが、坂井たちの血が騒ぎ最早それを止める術はなかった。
「分かった、責任は俺が取る。杉田、撃墜しろ。焦ってへまするなよ」
「分かりました、小隊長殿」
返事が早いか杉田は機体を翻して編隊から離れると、目標に向って一直線に上昇して行く。
「下方攻撃するつもりか、それとも一旦は敵の上に出て急降下で殺るつもりか」
坂井と杉野も機体を2時方向へ旋回させながら、杉田の手並みを見物する積りだ。

 杉田はスロットルを全開にし、B-29の腹の下へ一直線に向っている。真っ青な空を背景にして、最初は白く小さな点に見えていた敵機は、次第にそれが銀色の巨大な爆撃機の輪郭として見えてくる。
照準機の輪の中で、敵機はみるみる大きく成る。
杉田は機銃の安全装置を外し、既に人差し指をトリガーに置いている。
「まだだ、焦るな。こいつ(30ミリ)は初速が遅い。もっと近づくんだ・・・」
照準機の枠が敵機で埋まるまで近づくと、杉田は発砲した。
ドン、ドンと腹に響くごつい衝撃を残して、4門の30ミリ砲が火を吹いた。
次の瞬間、杉田は機を捻り込みながら、ギリギリでB-29の巨体をかわす。そして視界の隅にエンジンや翼の付け根に、閃光が走るのを捕らえた。

哀れな敵機は空中でガクンとバランスを崩し、片方の翼が大きく上に跳ね上がった。次いでエンジンの一基が千切れて飛んだ。銀色の巨大な機体は、燃料やら金属片やらを撒き散らしながら機首を下にしてゆっくりと回転しながら落ちて行く。
その様は、まるでスローモーションを見るようだ。
B-29をかわした勢いのままに、杉田の機は上昇しながら大きな弧を描いている。
これが震電の戦果第一号であった。
帰還した坂井たちは小園指令から、タップリとお灸を据えられた。指令室に呼び出した3名を小園はギロリと睨みつけて、叱りとばした。長々と続く小園の小言に辟易しながら、坂井たちは姿勢を正して聞いている。小言を続けてはいても、その時の小園の目が笑っているように坂井には見えた。
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by levin-ae-111 | 2012-09-18 05:23 | Comments(0)

仮想戦記「震電」1

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 昭和19年6月、新型迎撃戦闘機の開発を進めていた海軍は、遂に試作機を完成させた。
その機体は従来とは異なり、推進力を生み出すエンジンとプロペラが機体の後方にあった。
エンテ型と呼ばれるそのスタイルは、推進効率も良く武装もより多くを望める画期的なスタイルである。
しかし欠点も多く、特に離着陸の際には神経を使う。前輪の主軸はそのスタイル故に長くなり破損する可能性が高いし、機体後部が重いために下手をすると地面にプロペラが接触してしまう。だから引き起こし角度や、接地の角度に十分に注意しなければならない。

 鶴田正敬(つるたまさよし)は、仕上がったたばかりの試作機第1号の操縦席に座り、ふーっとひとつ大きく息を吐いた。鶴田はこれを設計し、これから自らの手で試験飛行を行おうとしている。
整備員たちの手で格納庫から出された試作機は、滑走路の隅へと押されていく。自重3.5トンの機体は、あっさりと動き出し間もなく滑走路の端に位置した。
鶴田は、スターターのボタンを右手の親指で力を込めて押し込んだ。軽い振動の後、エンジンは唸りを上げて始動した。
「よし、行くぞ」
鶴田はゆっくりとスロットルを開けていく。エンジンの唸りが高まり、機体は動き始めた。

「離陸の速度に留意、引き上げを焦るな。機体が十分に浮いてからでも遅くない」
鶴田は速度計を睨みながら、徐々にフラップを下げていく。機体の振動とふらつきは少々多いようだ、フットバーを機体の向く方向と反対に蹴りながらし進行方向を修正する。
「振動、少し多い。但し、滑走に支障なし」無線で報告しながら、機体を操る。
スピードが上がると鶴田は意を決し、スロットルをグイッと開けた。
機体は滑走速度を速め、振動はより大きくなる。しかし暫くするとガタガタと激しかった振動が、フッと消えた。機体が浮いたのだ。少し右に流れたが、すぐに修正する。

「まだ・・・、もう少し我慢だ」
鶴田は自分に言い聞かせながら、目視で高度を確認する。デザインの関係で十八試戦の主翼は操縦席からは視認できない。その代わり、機首付近にある小さなカナード翼を目印にして地上の目標物から機体の体勢を確認する。
そのカナード翼の先端が、滑走路脇に設置してある吹流しを越えた。脚を格納する。
軽い機械音がして脚が格納され、脚が出ている事を示す赤ランプが消えた。
鶴田はそれと同時に操縦桿を手前に引いた。スロットルは全開だ。

すると十八試戦は思いも掛けない急角度で、空へと駆け上って行く。零戦などとは異次元の上昇角度と速度だ。高度計の長針が勢い良く回転し、みるみる高度が上がって行くのが確認できる。Gもキツイ。
十八試戦は急角度で上昇し、何と翼端から飛行機雲を引いた。
飛行予定高度の3千メートルに達するのに、離陸から僅かに2分足らずを要しただけだ。
鶴田はそこで水平飛行、緩降下、左右の旋回、巡航速度での直線飛行など様々なテストを実施して、30分ほどで基地上空に戻った。

 今度は着陸だが、これが離陸以上に難しい。機首を上げ過ぎるとプロペラが地面を叩いてしまう。しかも機体の後方が重い分、どうしても機首は上がり気味になる。
零戦よりも着陸速度は速いが前輪の脚は長く一本しかないから、従来の機体よりも衝撃に対して脆弱だ。
鶴田は慎重に高度を落として行く。イメージとしては機体を地面と平行に下ろす感じ。
同じ三点着陸でも、他の機体とは全く違うデリケートな操作が必要だった。
鶴田は手順の全てをイメージと供に頭に叩き込んでいたが、しかし実際の着陸は少し違ったものになった。
接地の瞬間に思いのほか機首が上がり、地上で見守っていた人々は肝を冷やした。思わず顔を手や帽子で覆った人々もいた。
鶴田のイメージと異なり、現実の着陸ではプロペラが地面を叩く寸前の状態で主脚が接地し、機首が大きく持ち上がった。
その次にはドンと機首を地面に叩きつける様にして、機首の脚が接地した。
幸いにも機首部の脚はその衝撃に耐え、どうにか鶴田は無事に帰還できた。

「肝が冷えましたよ、ご無事で何よりでした」
整備班長の長沼中尉が、乗ってきた自転車を放り出すようにしてやって来て、安堵の溜息をついている鶴田に話し掛けた。
「ありがとう。しかしこれでは、使い物にならんなぁ」
鶴田の言葉に長沼は黙って頷いた。
「次は機首に機関砲を積みましょう。30ミリ砲を二門ほど積めば、重量バランスも取れるかと思います」

 長沼の提案を入れて、翌日には30ミリ機関砲を二門機首に取り付ける事になった。それから垂直尾翼の代わりに主翼に取り付けてある2枚の翼の下に、小さな車輪を設置した。
改造が終わると鶴田は連日の様に飛行テストを繰り返した。
離着陸の難しさは相変らずだったが、空中での性能は申し分なかった。速度、上昇力、運動性能どれも良好な結果を示した十八試戦闘機は、二号機と供に厳しいテストが繰り返し実施された。その結果、昭和20年5月には正式に量産の許可が下りた。
海軍局地戦闘機「震電」の誕生であった。
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by levin-ae-111 | 2012-09-17 07:57 | Comments(0)