身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


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<   2013年 03月 ( 15 )   > この月の画像一覧

 限りないニビルへの金輸送の任務は、ヤハゥエとサタンの指揮の下で順調に進んでいた。生体ロボットたちも必要にして十分な数を確保できている。
雌のアヌンナキたちは、ただ子供を産む任務に何の抵抗も示していないと思われた。
ヤハゥエたちが先祖の発祥の星に来て、既に2千年余りが経過していた。
順調に進む採掘で事業が軌道に乗ったことで、ヤハゥエを残してサタン以下の多くのニビル人は帰還の途についた。
「私たちの仕事で、ニビルは救われる。もう少しだけ頑張ってくれ」
サタンは自らの帰還に際して珍しくヤハゥエを励ました。
「私も、遠からず帰還できるだろう。貴官たちは本当にご苦労だった、後は任せてもらおう」ヤハゥエも上機嫌で答えている。
 二人はライバルと角を付き合わせる必要がなくなる事を、本心から喜んでいるらしい。
ニビルからの迎えの船には、ヤハゥエと10名程度の側近を残しただけで、探査隊の殆どが乗り込み母星へと帰還して行った。

 金の採掘は順調に見えたが、最近はやや採掘量に陰りが見え始めている。それにこの祖先の故郷は、自分にも命が有るのだと云わんばかりによく暴れる。
強烈な暴風雨や火山の噴火が度々に発生し、油断をしていると採掘施設に被害が出る。しかし悪い事ばかりでもなく、火山活動が幸いして新たな金鉱脈が発見されるという場合もあった。
「今度はシールドで鉱山を覆う必要があります」
新たに発見された鉱脈は比較的地表に近いが、マグマにも近く地熱が非常に高いという調査報告を部下が告げた。
「坑道の平均気温は・・80℃程度になります。この場合、生体ロボットたちは耐えられません。それにロボットに有害なガスも発生していますし、200℃にも及ぶ高温の熱水が噴出する場所もあります」
部下の報告は悪条件ばかりだったが、ただ一点、この鉱脈の推定埋蔵量は従来の鉱脈よりも遥かに多いという朗報もあった。

「では、出きる限りシールドして、採掘を急げ」
ヤハゥエは部下に指示を出すと、すぐに自室に向う。あの愛らしいイヴの顔を見れば、少しは気も休まるというものだ。ヤハゥエは自然と急ぎ足になった。
実はサタンたちが去った後で、ヤハゥエは一人のアヌンナキを自分の部屋に住まわせていた。美しいそのアヌンナキにヤハゥエは『イヴ』という名を与え、大切に扱っていたのである。彼女はヤハゥエと同類の祖先の特徴が顕著で、彼の眼にはとても魅力的に映っている。
彼の好意でイヴはヤハゥエの部屋で、自由に過ごしている。彼女は頭脳も明晰で、自分がヤハゥエたちによって創り出されたことも理解していた。
アヌンナキにとってヤハゥエたちニビル人は創造主であり神にも等しいが、イヴにとってのヤハゥエは神などではなく普通の男にしか思えなかった。

 イヴはヤハゥエが居ない間、ニビルの歴史や自分達アヌンナキが創造された経緯などを知ろうとした。特に強い動機でもなかったが、自身の種族に興味を持つのはごく自然なことであったろう。
イヴはニビル人たちがこの星で神により創造され、やがてニビル星へと移された歴史を学んだ。そして多くのアヌンナキの女性が生体ロボットたちの子供を産まされ、産まれた子供は容赦なく取上げられ苛酷な鉱山労働へと駆り出されている事実を知った。
 イヴは時々ヤハゥエの目を盗んで、アヌンナキの仲間たちの居住区へと度々に訪れるようになっていた。

 仲間の女性たちは、人口受精で生体ロボットたちの子供を産まされている。男性たちは危険な鉱山へ行き、生体ロボットの管理や監視の職務に就いている。
細長い廊下沿いに並ぶ小さな部屋には、妊娠した仲間たちが半ば監禁されたような状態で過ごしている。アヌンナキの女性の中で自分だけが自由を与えられており、生体ロボット製造機と化している仲間とは異なる待遇を受けていることにイヴは心を痛めた。
 ある日、ドアの小さな窓から部屋の中を覗くと、狭いベッドから起き出して来た仲間が居た。彼女は小窓越しにドアの外に居るイヴを、不思議そうな眼差しで見詰めている。
イヴが見る限り、その女性はイヴよりも少し若いように感じた。
「私はイヴよ、貴女の名前は」
イヴの問いかけに彼女は訝しげに首を振った。
「私に名前などないわ。貴女には有るのね。私は・・・それよ」
彼女は小窓の下付近、イヴの胸辺りの高さを指さした。

「えっ!!」驚いたイヴが、小窓の下を見る。
1020とだけ記されたプレートが貼り付けてあるだけだ。
「それが私の番号、貴女の言う名前だわ」
その番号は単に部屋の番号だろうと考えていたイヴは、酷い衝撃を受けた。一瞬眩暈がして、危うく倒れそうに成った彼女は、狭い廊下の壁に手をついて辛うじて身体を支えた。
 幅の狭い廊下沿いに延々と続く小さなドアに記してある番号は、仲間の女性たちの名前なのだ。彼女たちは自由も与えられず、一人一人が孤立していて閉じ込められ、ただひたすら子供を産まされているのだった。
「貴女、大丈夫人と話したのは子供の時以来だわ」
1020は嬉しそうに言った。それから産んだ子供と引き離される時の悲しみを、切々とイヴに語った。
生まれる子供は自分と余り似てはいないけれど、その小さな身体を一杯に使って大きな産声をあげ、肌はピンク色に近い赤色でとても愛らしいのだという。
その子供と引き離される時の心の痛みは、正に自らの身を裂かれるのも同じだとも1020は語った。

アヌンナキの女性たちは監禁されていたが、知能を維持するためにニビル人は最低限の教育を実施していたので会話も可能なのである。
全ての仲間の女性がそうなのだと知ると、イヴは悲しみとは異なる言い得ぬ感情が胸の奥から溢れ出すのを止められなかった。
それは自身の幸運を恥じる感情であり、ニビル人への憎しみでもあるのか、イヴは居たたまれなくなって、俯いたままよろめきながらヤハゥエの部屋へと戻って行った。
自分には優しいヤハゥエだが、それでも仲間を家畜のようにしか扱わないニビル人なのだ。イヴの心に、怒りと恨み、ヤハゥエへの想いがないまぜに成って渦巻いていた。
その感情は時と共に膨らみ、イヴの中で抑えがたい衝動を産むことになった。
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by levin-ae-111 | 2013-03-31 21:45 | Comments(0)

みをつくし料理帳

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 昨年ドラマ化され放映された物語を観てから、心に残っていた作品が高田郁さんの小説『みをつくし料理帳』である。是非とも原作を読みたいと思いながら、今年の春まで手着かずであった。
それが病気になる少し前に本屋で見つけ、1巻と2巻を買った。とそれから病みつきになった。ネット上で読書好きの人の記事も私の好奇心を刺激していたが、本当に面白い。

時代小説ということもあり、読み慣れない漢字も多いが、それも勉強になる。私は鬱で休暇を取っている間に、本屋にあったこのシリーズを買い漁った。
現在は8巻まで入手したが、6巻だけがいつもの本屋に無くまだ読んでいない。
災害で両親を失った二人の少女、澪と野江は各々の運命に翻弄されながらも力強く生き抜く物語である。二人を見守る周囲の人々の暖かさは、心に染み入る。

 しかしどういう人生経験を積めば、こういう物語を捻り出せるのであろうか。物語の中で展開される人の心の奥を描く、その洞察力と表現力は本当に魅力的だ。
という訳で、私は小説の世界の人々に魅了され、止まらなくなったのである。こういう事は別に今に始まったのではない。
小学生の頃にはE.EスミスのFS小説『レンズマンシリーズ』や江戸川乱歩の『少年探偵団シリーズ』に熱中した。ジュラシックパークの原作、『失われた世界』なども私を夢中にさせた一冊であった。私は元来の凝り性なのかも知れない。

 読書は自分の世界を広げてくれる。自分で文章を書く場合の表現を多彩にしてくれるし、思考の及ぶ範囲をも広げてくれる。
それは想像という名の心の翼を強く、逞しく、大きくしてくれる。それに何より物語の世界に入り込み、それに没入するのが何とも楽しい。
高田郁氏が描いてみせる女料理人『澪』と周囲の人々の心温まる物語も、そうした珠玉の作品のひとつである。
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by levin-ae-111 | 2013-03-31 08:57 | Comments(0)
 鬱を患って以来、酷い肩凝りと首凝り、背中の張りなどに悩んでいました。何時も行く接骨院の治療も受けていますが、一瞬だけ緩和されるだけで、すぐに戻ってしまいます。
テレビで放送していた肩凝り解消法を観て、それを実行しようと思いました。
その方法を実行するは、硬式テニスボールが必要でした。
「確か、何個か持っていた筈だ!」と思い当たり、探してみましたが必要な時には出て来ないものです。

代わりに発見したのが、ビニール袋に入った高校時代の記念ボールでした。それはもう25年も経っていて、当時のチームメイトたちのサインが入っています。
手の皮脂が酸化して、所々に茶色のシミが出ていましたが
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、懐かしい名前が好きな言葉と共に書き込まれているのです。
皆どうしているのだろう、などと暫し想いは高校時代を巡ります。
夏の大会の最後の場面や、チームメイトたちと汗を滴らせながら、真っ暗になるまでしごかれた日々が脳裏を過ります。

現在なら『体罰』として問題視される様なことも多々ありました。野球部名物『尻バット』も何度も喰らいました。
当時の部活では下級生は、本当に大変でした。登校するとすぐにトンボを持ってグランド整備に走り、授業中に早弁して昼休みもグランド整備をしました。

練習中は常に大声を出し、学校が休みの日には早朝から真っ暗になるまで練習でした。
休日にはOBが来襲して、練習中でも構わずにしごきが始まりました。来る人は決まっていて、彼らは後輩を強くしたいというよりも鬱憤晴らしに来ている様でした。
全員で手を繋いでのうさぎ跳びや、チーム分しての走塁競争、延々と続く腕立て伏せ、チームメイトを肩車しての徒競争、大型車のタイヤを引いての競争など数時間にも及ぶしごきでした。
その翌日は上級生が下級生をしごき、下級生は更に下級生をしごくという具合で、しごきの負の連鎖に苦しんだものです。
酒焼けして真っ赤な顔の監督は、気に入らないとビンタ、尻バットなど日常でした。
内野のノックでも、サードに居るのにファーストへ打球を打ち「取れ!」とか、遥か頭上を越えて外野へ打ち上げて「追え!」など無茶苦茶でした。

私の同級生たちは、それに反発を感じている連中が多く、私たちが最上級学年の時は無論、2年生の時もしごきは殆ど行いませんでした。
水を飲んでは駄目だという当時の誤った常識もあり、練習中には水分補給も許されませんでした。私たちは隠れて水を飲みましたが、それが発覚し酷くしごかれた事もありました。
サインミスをしたと言ってはビンタを喰らい、エラーをしたと言っては頭を叩かれました。そんな風で私たちは萎縮していましたし、疲れも溜まり野球を楽しめませんでした。
結果これらのしごきは決して選手の技術向上には繋がらず、私たちのチームは最後の夏の大会もコールド負けでした。

最後の夏に敗退した時は、悔しくて皆泣きましたが、それでも心の何処かで「もうしごかれなくて済む」という清々した想いが誰の胸にもあったと想います。
「退部すれば良かったのでは?」というご意見もあるでしょうが、こんなチームでしたから入部する生徒も少なく退部は許されませんでした。
軍隊の様な練習は、その時でも既に時代遅れでしたが、監督は「これだけ練習したのだから、お前たちは負けない」などと馬鹿なことを言っていたものです。
当時は戦中や終戦直後の古い観念のままで指導する監督も多かったのですが、それにしても余りに無知な指導だったと思います。

 多くのスポーツでも、そんな人たちの指導が現在に至るもまだ受け継がれているのでしょう。それからスポーツエリートとしての経験しか持たない指導者には、人としての思い遣りや気遣い、社会的な人生経験というものが不足しているのかも知れません。
増してや全日本クラスの指導者ともなれば、勝利至上主義に陥っても無理からぬことかも知れません。

女子サッカーの『なでしこジャパン』がなぜ強いのか、それは合理的な練習とのびのびとしたチームの雰囲気、選手のことを第一に考える指導者たちの故でしょう。
勝ちたいならば合理的な練習、指導者と選手という意識を競技の外に持ち出さない、競技を楽しむ、などの意識が必要だと思います。
如何に辛い練習を積んでも、選手が萎縮している様では実力も発揮できませんから、指導者はその点にも大いに留意すべきです。
ですから体罰など厳に慎むべきです。柔道女子チームで発覚した問題は、日本の伝統的なスポーツには常に付いて回る問題でもあると思います。

体罰は競技力の向上には繋がりませんし、寧ろマイナスでしかありません。
今行われている高校野球などは、教育の一環ですから「礼儀」や「努力の大切さ」「困難に立ち向かう勇気」などを学べば十分です。
プロスポーツ以外の競技では、各々が練習の成果を披露する場と考えるべきでしょう。勝負は二の次、それが本来の考え方であろうと考えます。選手も観客も競技を楽しめれば、競技の面白さも倍増して最高ではないでしょうか。
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by levin-ae-111 | 2013-03-30 11:06 | Comments(0)
 1999年アメリカ映画である。名優メリル・ストリープ主演のバイオリン教師の物語だ。
幼い頃からバイオリンを学び、プロの奏者を目指したロベルタだったが結婚生活に苦しんでいた。
海軍士官の夫は転勤が多く、子育てと引越しの連続で奏者としてのデビューは叶わなかった。ロベルタは教師免許を取得し、バイオリンの教室を始めるが上手く行かない。夫は浮気をして家にも帰らない。
友人に紹介されたイースト・ハーレムで公立小学校の面接を受ける。一旦は不採用となったが、必死の嘆願の甲斐あって遂に試しに教える事になった。
ロベルタは「どんな子でも必ずバイオリンを弾けるようになる」と豪語し、臨時職員として採用された。

 夫との離婚、子育てそして、学校ではハーレム育ちの子供たちとの格闘、恋人との別離と山あり谷ありの苦難を越えて行く。学校では子供たちの発表会を成功させ、ハーレムに来た白人という周囲の偏見や反発を乗り越えて行く。
そして10年の歳月が流れ、既にロベルタのバイオリンクラスは、受講希望者が殺到するまでになっていた。
 ところが、そんな折に予算削減でロベルタのバイオリンクラスは廃止と決定が下った。親を始め周囲の大人たちは立ち上がるが、これといった策はない。
ロベルタのクラスを取材して以来、友人となった雑誌記者は夫がバイオリン奏者だった。
彼女は夫を通じて有名なバイオリン奏者を集め、教室継続の為のチャリティコンサートを計画する。無論、主役はロベルタの教え子たちだ。

ロベルタの初めての教え子たちも駆けつけて、子供たちと一流のプロ奏者たちとの競演が決まった。しかし事故で公演を予定していたホールは使えず、一流の奏者たちのスケジュールも予定日以外は埋まってしまっている。
コンサートは中止か?しかし、またまた奇蹟が起こる。ある日、雑誌記者の友人が満面の笑みでロベルタの自宅へ走りこむ。
カーネギーホールでの演奏が決まったというのだ。カーネギーホールはプロの奏者を目指していたロベルタにとっても夢の舞台だった。
緊張の中、始まったコンサートは、上手く行き・・・とハッピーエンドのストーリーだ。

ありふれたストーリーであるが、ハーレムの子供たちの何人かは成長してもバイオリンを続けている。バイオリンは止めても、大学へ進学し優秀な成績を修めている。
さり気なく、そういう子供たちの後の姿がちらっと、風聞程度に挿入されている。希望の少ないハーレムの子供たちが、バイオリン演奏を通じて情操教育を施された結果である。
この映画の素晴しさは、そういう所にあるのだ。単に子供たちと女教師のサクセスストーリーではなく、誰からも可能性を信じられなかった子供たちが、バイオリン演奏を学び大きく可能性を広げるそれが良い。
後の子供たちの人生は映画の中で明確に描かれはしないが、その気配を十分に感じさせられる事だ。そういう余韻を、明るい希望の気配を感じさせられる映画だった。
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by levin-ae-111 | 2013-03-29 15:43 | Comments(2)

世界遺産を救った日本兵

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 フィリピン・ルソン島に存在する古い街並が世界遺産に登録されたのは、21世紀を目前にした1999年のことである。文化遺産として登録されたのは、首都マニラの北方400キロの街ビガンである。
16世紀からスペイン統治下にあったこの街は、スペイン風の石畳で舗装されたメイン通りを中心に古き良き時代の景観が守られている。

石畳のストリートには馬車以外の車は通行禁止で、街灯は一種類に統一され定期的に道路の清掃を行うなど、住民たちの協力で美しく保たれている。
南方の海の幻想的なサンセットに溶け込む様に、暮れて行く街の風景はとても美しい。
しかし太平洋戦争前にはビガンと同様の美しい街並が、フィリピンの普通の光景としてあらゆる都市で見られたものらしい。
太平洋戦争でビガン以外の街並は破壊され、スペイン統治時代の風景はビガンにしか残らなかった。

 ビガンが戦火を免れ、現代に残った経緯には街を愛する人々の決断が存在していた。街を愛した人々とは、現地住民たちだけではない。
進駐していた日本軍の軍人たちも、ビガンの街を心から愛していた。
1943年から憲兵隊長としてビガンに赴任していた高橋フジロウ大尉は、司令部から街を焼いて撤退し、山中にてゲリラ戦を展開せよとの命令を受けた。
米軍の砲撃が迫っていたからだが、高橋大尉とナリオカ・サカエ将校は、この命令を無視し街を破壊することなく撤退した。

高橋大尉はクレカンフ司教に家族を託し、兵を率いて撤退し、後に彼の部隊は全滅したという。高橋大尉とナリオカ将校は、各々に地元の女性と結婚しビガンで家庭生活を営んでいた。
高橋はアデラ・トレンティーノさんと、ナリオカはベレン・カスティーリョさんと結婚していた。高橋大尉はとても気さくな人で、よく隣の住人と一緒に体操などをしていたという。家族と愛する街の人々、美しい街並が傷つき破壊されることを彼らは望まなかった。
命令違反を犯してまでも守りたいという想いと、絶対的な司令部からの命令の板ばさみになり高橋大尉たちは悩んだに違いない。

しかし結局は軍の命令を無視し、街を破壊せずに撤退するという道を選択した。高橋たちは憲兵隊であったから、恐らくは十分な装備も無かったに違いない。
当時各所で日本軍は敗退しており、圧倒的な米軍の火力の前になす術も無いことを高橋たちは感じていたのであろう。
妻子と街の人々を戦火に晒したくない、そういう人間としての想いが高橋たちに街を破壊せずに撤退するという決意をさせたのだ。
高橋たちのこの賢明な決断がビガンの街を戦火から守り、人々の平和な日常生活を守った。
「ビガンの街は日本人に守られた」というこの事実は、現代にも老人たちによって伝えられている。

ある老人はビガンを高橋大尉の娘さんが訪れたと聞いて、慌ててホテルを訪ねたが既にチエックアウトをした後だったという。噂ではアデラ夫人と子供たちは暫く夫人の実家に身寄せていたらしい。残念なことにアデラ夫人は既に亡くなったという。
娘さんは子供時代に過ごした美しい街並を眺め、両親との楽しい思い出に浸っていたのかも知れない。

太平洋戦争の悲惨な戦火は、南洋の国々で多くの人々の平穏な生活と命を奪ったが、その悪夢の戦火の中でも人間性の煌きを残した日本人がここにも存在していた。
私たちは平和な国に住みながら、毎日の様に報じられる殺人事件や信じられない不正のニュースに否応なしに接している。
それは本来の日本人の国民性とは相容れない気もするが、日本人は変わってしまったのだろうか。戦争という異常な雰囲気の中で、それに流されず自分の良心に従う事を選んだ幾多の日本人の姿があった。私たちは、決してそれを忘れては成らない。
『心の時代』と言われて久しいが、現代日本人の心は一体何処を向いているのだろうか。
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by levin-ae-111 | 2013-03-27 09:59 | Comments(0)
 有名な冷凍ミイラ通称『アイスマン』は、殺人事件の被害者だった可能性があるという。
アイスマンとは、1991年にイタリアとオーストリアの国境付近にそびえるエッツタール・アルプスの山頂付近の氷河で発見された冷凍ミイラのことである。
アイスマンは、例年よりも気温が高かったこの年の9月19日の午後1時半頃、登山をしていた夫婦により偶然に発見された。
初めは遭難者の遺体と考えられた為に、救助隊や医師、警察により遺体の収容が成された。しかし手掛かりとなる物証がなく、しかも付近には見慣れない金属や木、皮で出来た遺物が発見されるばかりだった。

 念のために行われた考古学者による検証で、この遺体は現代人のものではないと判明した。骨の一部を切除して行った炭素14による年代測定の結果は、何と5300年前の古代人の遺体であった。
身長160センチ、体重50キロ、年齢46歳前後の男性の遺体は、アイスマンと命名された。
体内まで完全に凍り付いている遺体には、内臓や筋肉、血液までもが閉じ込められていた。しかし当時の技術では遺体を腐敗させてしまう可能性があり、ミイラは特別に作られた冷凍室に保管される事になった。それから20年以上も経過した今日、遂に解凍許可が下りた。

研究者たちは僅か9時間という短い時間で、アイスマンから遺体の損傷を最低限に留めながらサンプルを採取しなければならない。チームリーダーは2年も前から手順や段取りを考え、細心の注意を払ってサンプルの採取が実施されたのである。
努力の甲斐あって採取は無事に終了し、アイスマンは再び専用の冷凍室へと戻された。
 アイスマンからは皮膚、胃の内容物、腸の内容物、脳など140箇所以上のサンプルが採取された。このサンプルと持ち物だったと考えられる遺物から、5000年以上も前の人類の驚くべき生活水準が判明する事になった。

 まずアイスマンの胃からは、200グラム以上の食物が採取されたのだが、熊やウサギなど何種もの動物の肉とハーブなどの植物、小麦粉を水で練って焼いたと思われるパンなどを食していた事がわかった。
アイスマンの皮膚には何箇所にも平行線や×印などの刺青があった。これを見た医療の専門家は、驚いて卒倒しそうになったという。その訳は中国で大成されたとされる人体のツボの位置と完全に一致していたからだ。アイスマンの時代に、既に人体のツボを刺激する治療法が確立されていたという証拠だからだ。
そのツボから予想される事は、アイスマンは腰痛を患っていたということだった。これはレントゲン写真で明らかに成った背骨がずれている結果とも一致したという。

遺物の斧の刃は純度99パーセント以上の銅製で、熊の皮で作った靴に干草を詰めて防寒していた。衣服は獣の皮で出来ており、弓と矢を所持していた。
胃の内容物から判明した古代人の食生活や発見された遺物から、私たちの古代人へのイメージは完全に覆されたのである。
5300年前とはメソポタミア文明の黎明期であり、黄河文明などはまだ発祥すらしていないとされる時代である。日本では縄文時代である。
その時代のヨーロッパの人々は、文明とは程遠い狩猟採集生活を送っていたと考えられていたが、アイスマンの遺体を分析する事により、高い文明生活を送っていた事実が明らかに成った。

 また学者たちの分析により、アイスマンは殺人事件の被害者である可能性も高まった。腸の内容物に含まれていた花粉の分析から、アイスマンは高山地帯から麓へ降り、また高山地帯へと腰の痛みを抱えながら僅か55時間程度で移動していたと推測された。
この短時間の移動はアイスマンが何かから逃亡していたからだと、研究者は推察した。
そして遺体が片腕を下にしてうつ伏せという不自然な形である事についても、学者たちは合理的な仮説を立てた。

腰の痛みを抱えながら、アイスマンは高山地帯から一旦は麓へ降り、再び高山地帯へと追っ手から逃れて来た。山頂付近で屈んで何かを始めたアイスマンの後方から、スナイパーが弓を構えて狙っている。
スナイパーの放った矢は、アイスマンの背中、肩付近に刺さりアイスマンの動脈を傷つけた。突然の襲撃でアイスマンは成す術もなく大量に出血し、その場で後ろ向きに倒れこむ。
そしてスナスパーは残酷にも付近に有った石を拾い、力任せにアイスマンのこめかみ付近を殴打した。この時にアイスマンは大量の頭蓋内出血を起し、完全に息絶えたのであろう。
スナイパーは殺した後で、アイスマンの遺体をひっくり返して、自分の矢を遺体から抜き取り証拠隠滅を図って逃走した。というのが研究者たちの予想するアイスマン死亡の場面である。

 何時だったか、別の番組ではアイスマンのDNAから子孫を探すという企画を放送していたのを視聴したのを思い出した。その番組では、付近の町に大勢の子孫が現在でも住んでいるという結果だったと思う。
さて5300年も以前の人間社会にも争いがあり、果ては命をも奪うという悲惨な事件が発生していたという事だが、現代社会を見るにつけ人類はその頃から殆ど変わっていないのだと感じた。アイスマンの生きた時代を解明することは、果たしてロマンなのか?人間の進歩の無さを暴露するという残念な結果に成るのか分からなく成ってしまった気がする。
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by levin-ae-111 | 2013-03-25 21:38 | Comments(2)

気分転換

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 金曜日はポカポカと良い陽気でした。最高気温は15℃と思いの他低いものの、春の陽射しを感じるには十分な天候です。
そこで友人を誘って気分転換のドライブに出ました。目的地はヒスイ海岸の通称で有名な宮崎海岸(富山県朝日町)です。
ヒスイ海岸の俗称は、新潟県の姫川の上流から流された翡翠がこの海岸に打ち上げられており、運が良ければその翡翠の原石を拾えるからです。

 待ち合わせ場所で合流し、私の車で国道8号線を新潟方面に向けてGOしました。私の状態は肩凝りと首凝り、軽い頭痛と相変らずでしたが、家に閉じ篭ってばかりでは余計に悪化しそうです。
途中で新川牧場へ寄りましたが、まだ冬季閉鎖中で放牧もしておらず、売店も開いていませんでした。
しかし山上から見下ろした新川平野(滑川・魚津方面)の眺望は素晴しく、ゆったりと凪いだ日本海に僅かにかすみが掛かり爽やかな早春の空気が最高でした。

 牧場の事は少し残念でしたが、イザ宮崎海岸へとハンドルを切りました。とここでお昼ご飯の時間になり、ドライブインへ入り食事をしました。
友人は宮崎名物「たら汁」とおにぎり、私はカツ丼の大盛りを平らげてからいよいよ海岸へ向いました。
海岸には何人かの人々が波打ち際を歩いています。恐らく皆さんヒスイを探しているのでしょう。
私たちはヒスイの原石を見分けることなど出来ませんから、ただ海岸の石を眺めているだけです。私は最初からヒスイを探す気はなく、不思議な自然石の色や模様に注目しました。

 そこで私が発見したのは、波打ち際の小さな石にも、神秘的な輝きが存在しているという事でした。拳大の小石にも幾つもの窪みがあり、その中をよく観察するとキラキラとガラス質の石英か水晶のような透明の煌きが見えるのです。
更に観察すると直径が5ミリ程度の洞窟があり、その中には多角形の透明な結晶構造が見えるのです。
そして奇跡的とも思える芸術的な模様と色彩の鮮やかさ、自然の造詣の不思議を十分に堪能できました。帰りは国道ではなく、海沿いの県道を走りました。初めて走る道でしたが、国道とは違いのんびりと走れる道で、春のドライブには絶好のルートでした。
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by levin-ae-111 | 2013-03-23 20:22 | Comments(0)

架空戦記「震電」3

3.終戦
 最新鋭の迎撃機『振電』が最初の戦果を挙げてからも、彼らの出撃は相変らず許可されなかった。波状的に押寄せる敵の空襲で、厳重に隠蔽してあった震電も既に地上で半数が失われた。
笹井たちは護衛戦闘機を伴った敵が近づくと、空中退避を余技なくされた。木製の囮があちこちで破壊され無残な姿を晒している中、今日も笹井たちは残った震電に飛び乗り、空中退避する。
乗機を持たない搭乗員は、防空壕に入るしかない。杉野の機体も地上で敵の銃撃により失われた。彼は忌々し気に基地上空を乱舞するグラマンを、防空壕の入り口に身を潜めて眺めるしかなかった。

 しかし時には零戦や紫電改に乗り、迎撃戦を展開することもある。
震電以外の戦闘機があれば、彼らはそれに乗り戦ったが、今はもう他の機体も無い。
だが翌日、杉野に思いも掛けない機会が巡ってきた。
「敵襲、搭乗員は空中退避!」
その日は警報の直後にグラマンの編隊が来襲した。各搭乗員は固有の機体に近寄れず、手近な者が機体を避難させるしかなかった。
杉野は笹井の乗機に飛び乗り、すぐさまスターターのスイッチを入れた。乗機を失ってから10日、久々の震電だった。

 既に敵機の銃撃を掻い潜って、味方の何機かは空中に在る。杉野も急いで機の速度を上げながら滑走を始めた。
敵の撃つ曳光弾の火線が追って来る、杉田はフットバーを左右に蹴りながら、敵機の銃弾を逸らしながらスロットルを全開にした。
震電はたちまち速度を増し、あっさりと空中に浮き上がった。
高度は十分ではないが、追いすがるグラマンを右旋回でかわし、杉田の乗る震電は一気に上昇して行く。
辺りを見回すと、既に何機かのグラマンが煙を吹いている。
頭上では味方が迎撃しているのか、幾つもの雲の弧を描いて空中戦が展開されている。
 
小編隊を組んで一直線に突っかかる様に突進するグラマン、その先にはそれをあざ笑うかの様に鮮やかな捻りこみを決めて突進をかわす震電。
その震電は敵の一撃をやり過ごすと、そのまま敵編隊の後方に付き、小編隊のしんがり機を火玉に変えてしまった。
「誰だ?あの手際は・・・西沢さんか」
味方は5機程度しか空中に居ないが、その10倍もの敵を各所で翻弄している。杉野にも敵編隊が襲い掛かって来る。
戦闘空域は狭く、杉野は頭を常に動かし周囲の状況を把握しながら、不用意に目前に飛び出したF6Fに銃弾を浴びせて行く。

震電の装備する30ミリ砲弾が命中すると、F6Fのアイアンワークスと呼ばれる自慢の頑丈な機体も紙の様に簡単に千切れてしまう。
敵は一機撃墜されるたびに躍起になって日本機を追う。彼らの直線的な仕掛けは、動きの機敏な震電に軽くかわされ、慌てて引き起した頃には真後に震電が張り付いていた。
降下速度でも震電はF6Fを凌駕しており、旋回性能でも勝てないとなると打つ手は無い。
いつの間にか多くの仲間が撃ち減らされ、彼らはパニックに陥った。
「ゼロじゃあないぞ、ジークでもない、助けてくれー」味方のパイロットたちの悲鳴が交錯する無線を聞きながら、指揮官のワッツ少佐は必死で敵を追い回した。彼のキャリアを総動員して、敵を追い込むことに全力を尽くした。しかし撃墜のチャンスは訪れず、若い部下たちの犠牲は増すばかりだ。

「新型機だ、これでは我々は全滅する・・・」少佐は撤退を決意せざるを得なかった。
「全機、戦闘空域から離脱せよ!」
その指揮官からの命令を受けて、敵編隊は次々と戦場を離脱して行った。杉野たちは逃げて行く敵を追わなかった。
しかしワッツ少佐たちにとって不運だったのは、命からがら母艦へと戻る途中で、陸軍の疾風と五式戦闘機に出くわした事だった。この部隊も空中退避していたが、そこは戦闘機乗りたちであり、獲物を目前にして指をくわえては居なかった。
ワッツ少佐の部隊はこの日、多大な損害を出した。その日は日本がポツダム宣言を受諾する前日であった。

 杉野たちは爆撃で穴だらけになった基地には戻れず、各々に付近の飛行場に着陸せざるを得なかった。飛び上がった5機の震電のうち、3機は陸軍基地へ降りた。
2機は埼玉と群馬に降りた。
何れも僻地の飛行場に降りた震電搭乗員たちは、各々に何とかして基地へ戻ろうとした。だがそこで玉音放送を聴いた。
日本の降伏を告げる天皇陛下の勅を聞きながら、人々は涙したり放心状態になったりしている。中には徹底抗戦を叫ぶ人々も居り、小さな田舎基地の司令官は杉野に出撃命令を出した。これは陛下の大御心ではない、敵の策略であるとして、その基地で唯一の戦力であった杉野の震電を戦いに出そうとしたのである。

それに対し「燃料と弾薬の補給をお願いします」杉野は冷静に答えた。杉野の震電は先日の空戦で燃料・弾薬ともに底を突きかけていた。
それを聞いた途端に、威勢の良かった基地司令官の表情が曇った。既にその基地には弾薬も燃料も無かったのである。
陛下の勅が放送されると、陸海軍の最高責任者から飛行禁止が発令された。こうして最新鋭機『震電』の戦いは終わった。

後書き
圧倒的な高性能だったが、その登場は既に遅かった。実際の『震電』はこの物語の様に敵と戦うことはなかった。もし開発が間に合っていれば、現代のジェット戦闘機にも通じるこの画期的なスタイルの戦闘機はどんな戦いをしたであろうか。
想像の翼を広げて書き出してはみたものの、無知な私にとってはこの程度が限界であった。
実際の震電が戦いの空に上がったとしても、どの様な結果に成ったかは分からない。
唯一、言える事は、震電が如何に奮戦しようとも戦争の勝敗には影響が無かったろうという事だけである。
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by levin-ae-111 | 2013-03-21 12:28 | Comments(0)

療養の日々

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 鬱と診断されて会社に診断書を提出して休みに入ってから、まだ2日しか経過していない。土曜日から休みだから実質は4日目である。
診断受けたのはもう二週間も前で、薬の服用は今日で10日以上になる。

加藤諦三さん著の『心の休ませ方』という本を買った。この本は鬱になる人の心理を解説したものだが、いわく「子供の頃に愛情を十分に受けられなかった人が鬱や燃え尽き症候群などに陥り易い」「愛情不足故に、心が成長していない」的なことが延々と書いてある。
兎に角、認めたくない部分も多いが「貴方は休んでよいのだ」という一節だけが、少し納得できた。まだ肝心の結論までは読んでいない。
余りに自分に批判的に感じられる記述が続いているので、実際途中で嫌気が差したこともある。

 しかし「自分は今まで何か、やりたい事を持って生きて来ただろうか?」そう考えた時に、自分自身にそう問うた時に何も答えられない自分に気がついた。
加藤氏の本には、その答えが無いのが鬱に成る人だとも書いてある。確かに、その点は加藤氏の主張する通りであろう。
ただ目前に出現する題を必死でクリアして来た、夢を持っていなくともその時々で誠実に精一杯に生きてきた、少なくともそれだけは言えると思っている。

では「私は何をやりたいのか?」やってみたい職業はあるが、それは到底無理な事でしかない。まだ残雪が所何処に残る家の近くの公園を散歩しながら、私は漠然と考えた。
暖かく成りつつあるが山の中腹を切り開いて造られた公園は、まだ植物たちも冬の眠りから覚めていない。
冬枯れの公演は淋しいが、それでも日の光が降り注いでいる、その中を歩くのは気持ちが良い。

ゆっくりと歩きながら、先述した「自分は何がしたいのか?」について、自分の心の中を探ってみた。ふと、そう言えば高校生時代に自分の進路について「お前は、何処の大学を受ける積りだ」という担任教師の言葉に「文学部へ行きたい」と答えたのを思い出した。
「文学部へ行ってどうする?」
「新聞記者に成りたいのです」
この私の答えに担任教師は否定的だった。「それ以外では?」
「じゃあ、コンピューターの専門学校へ行きたいと思います」と、私。
「駄目だ、駄目だ、そんな所を出ても就職先など無いぞ!!」

結局私は、愚にもつかない経済学部へ入り、何ひとつ身に付けることなく卒業した。
そして私の若い時代に、コンピューターは大きく飛躍し、コンピューター関連の技術を持った人々は大いに繁栄した。
 そういう事々を思い出しながら、時には親や担任教師を恨んだ事もあった。そして、そういう恨みの気持ちが私の中に鬱々と積り、心理の底に張り付いている事に気付いた。
頭の中では「全ては自らが選んだ道だ」と分かってはいても、知らず知らずの内にそういう心底に降り積もり、凝り固まった後悔の念や恨みというものに振り回されていたのかも知れないと想った。

 昔懐かしい『みぞれ玉』という粗目の砂糖でコーティングされた大きな飴玉を口に含み、そのストレートな甘さと、暖かい日差しに癒されながら公演のベンチに座り、そんな事を考えたのだった。
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by levin-ae-111 | 2013-03-19 17:37 | Comments(3)

鬱になって

 専門医の診察を受けて、一週間の間は会社にどう切り出そうかと迷いました。最初にお願いしたにも関わらず、何故か初診の日には診断書を貰えませんでしたから、話しの仕様もなかったのです。
翌週に予約どおりに診察を受け、その時にようやく診断書が出ました。
私はその間もどう切り出すか、考え続けていましたが、翌日は事の他症状が酷く、胸の痛みや肩凝りと頭痛が酷く苦しい一日でした。

 もう迷っている訳には行きませんから、私は朝の内に診断書を持って上司に相談を持ちかけました。上司と二人で商談室に入り、相談が診断書を渡し現在の自分の状態を打ち明けました。
すると上司は察していた様で、一ヶ月間連続して休んでも果たして治るかどうか保障の限りではない。従って一週間単位で休み、様子を見て駄目ならまた休めば良いのではと、思ってもみない提案があった。
来週から一週間休み、それから一度出社してみて様子を見る。具合が悪ければまた一週間の届けを出して休む事にしました。勿論、沢山持っている有給休暇を活用して休みます。

 そういう話しをした後で、上司は手際よく総務の女性を呼び手配をしてくれました。それから各現場を巡回した時に、各々の職長に説明してくれた様です。
そうして精神的により楽な状況になったのですが、私の症状の方は一向に改善せず、身体的にとても厳しい一日でした。
有象無象の所用を片付け、留守の間の仕事の引継ぎを済ませて帰宅できたのは、午後7時30分ころでした。

 その日は食事の後で入浴しながら考えました。明日から何をしようか、体調が許せばドライブや散歩をしようとか、好きな本を読もうとか、整体に行こうなどなど・・・。
今日は胸の痛みは余り有りませんが、肩凝りと頭痛は相変らずです。両腕を使うと肩凝りが酷くなるようなので、パソコンのキーボードを打つだけでも肩凝りは悪化します。
まあそれでも、好きなことをしている分には気力も萎えませんから大丈夫です。
これからは、もっと楽しい話題で文章を書けたら良いなぁと思った本日でした。
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by levin-ae-111 | 2013-03-16 20:44 | Comments(7)