身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


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気功治療体験

 もう随分以前ですが、私は肩凝りが酷く友人から聞いた気功治療を受けることにしました。治療を受けるには当然ですが、予約が必要です。
治療院のホームページから、電話番号を調べて予約を入れました。
その時に住所と電話番号を告げ「30分ほどで、行けると思います」と告げると、先生は絶対に無理だろうと言うのです。
当時、私はその治療院の近所に知り合いが住んでいて、その知人の家まで30分で着けました。それで「大丈夫です」と何度も告げますが、先生は「絶対に無理だろう」と譲りません。何故そんな会話に成ったかといえば、予約と予約の隙間に私が入るには、特定の時間帯しか空いていなかったからです。私が遅れると十分な治療が出来ないからです。
「大丈夫です」と更に告げて、何とか予約を完了しました。

そんな遣り取りがあって、私は愛車に乗り込み治療院へ向いました。近所には何度も来ていましたが、治療院は初めての場所なので少し迷いました。しかし、30分以内で無事に到着することができました。
「こんにちはー」と私。
「ありゃあまあ、本当に30分で来たよ!!」と驚く先生。
早速治療が始まりました。「実は私も気を感じるのです」と初めに告げて、椅子に座りました。2~3メートルくらい離れた場所に立った先生は、気を送り始めました。
治療中に「今、腕に来ています」とか「足裏が暖かいです」「肩に来ました」などと、自分が気を強く感じる部位を先生に告げます。

そして「今度は首の骨のズレをなおすから、そこに横になって」と、先生の指示に従って治療用の台に仰向けに寝ます。
先生が気を送ると、驚いたことに本当に私の首の骨がパキパキと音を立てます。無論、先生は離れた場所にいて、手は一切触れていません。
そんなこんなで治療も終わり、暫し先生と雑談をしました。
「なかなか良い気を持っていますね。手が圧搾空気を掴んでいる様な感じでした」と、先生は言いました。
「その感覚は私にもよく解ります」
「金粉が出る人もいるけど、大抵は精神的に病んでいる人だなぁ」などと話している内に、次の患者さんが来院し、私は料金を払ってその場を辞しました。

治療の効果は上々でしたが、肩凝りは生活習慣病みたいなもですから、一週間くらいで元に戻ってしまいました。まあ、それでも本物の気功治療を受けたという体験は貴重です。
本当は暫くして元に戻ることは容易に予測できましたが、これも良い経験でした。
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by levin-ae-111 | 2013-05-30 05:12 | Comments(2)

久々に・・・

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 私は何かのエネルギーを感じる事が出来る、それが一般に言われている『気』というものであるかどうかは不明だ。頭頂から尾骶骨まで、熱い渦が上下している。
身体の周囲には圧搾空気の幕が渦巻き、意識を向けると考えた様に動く。
肩甲骨の付近には、吹き上がるような対の感覚がある。意識すると翼のように広がり、目を閉じると大きな翼を広げて飛ぶイメージが降りて来る。

 何時もそんな感じだが、昨夜は久し振りに両手の間にエネルギーを通わせて、強い圧搾空気のような圧力を感じてみた。
右手から左手へエネルギーを移し、それをまた右手へと返す。手の間の空間を渡り、エネルギーが何処を通過しているか感覚でわかるのだが、60センチほどの空間を一周するのに1秒弱という感じで回転している。

 それから両手の平にエネルギーのボールをイメージし、それを合体させ大きな一つのボールにする。両手の平の間隔を次第に広げながら、ボールを拡大させ、それに外の空間からエネルギーが流れ込むイメージを加える。
神様にも自分が作ったボールにエネルギーを入れて下さいとお願いし、更にボールを拡大する。直径は1メートル程度に留めて、更に癒しとか平和という祈りを込めてボールの中を満たしてゆく。

 次に打ち上げ花火をイメージし、そのボールが私の住む地域の上空で弾け、安らぎとか神様の加護といったエネルギーが人々の上に降り注ぐ様を想像する。
と、こんな風にして遊んでみました。私の場合はエネルギー感覚が高まると、暑いのでこれからの季節は大変です。
瞑想をしていると、余計に暑さを感じて、長く座るとダラダラと汗が落ちる。
また以前に瞑想中に貰った刀を出して、眺めてみた。瞑想中に魔境的なイメージが出てくれば、この刀で切り裂いている。そして、これもまた瞑想中にイメージの中で渡された巻物を広げてみた。文字がギッシリと記してある事は分かるが、ぼやけていて読めない。
それでも何も見えなかった以前よりも進歩しているが、何時か読める日が来るのだろうか。

私に刀と巻物をくれた人物は、立山の神様であろう。手力男尊だろうと思っているが、時にはその人物が優雅に舞いを披露してくれたりする。一般に伝えられる手力男の粗野なイメージとはかけ離れた、雅な貴族か上流階級の武士のようなイメージがある。もしかしたら手力男神ではなく立山を開いたという佐伯有頼かも知れない。私は瞑想中によく物を貰う。鬱で落ち込んでいた時は、女性が飲み物や光のエネルギーをくれた。こんな私でも、見えない世界に存在する何者かがフォローしてくれている、有難いことだと思う。
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by levin-ae-111 | 2013-05-27 05:00 | Comments(4)
 テディベアというと、世界で最も有名な熊の縫いぐるみの総称である。ドイツのシュタイフ社やイギリスのメリーソート社などメーカー製のものと、テディベア作家が作成する作家物の両方がある。
名前の由来はアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトが休暇を取って狩に出掛けた事に由来する。その時は不猟で何も獲れず、同行者たちは予め用意していた熊を出して大統領に狩りをさせようとした。しかし大統領はこれを撃つことを拒んだ。
 このエピソードを政治漫画家が描き、ワシントンポスト紙に掲載され、それがきっかけとなり大統領と熊のイメージが結びついた。
つまりルーズベルト大統領のニックネーム『テディ』と熊(ベア)が結びつき、熊の縫いぐるみをテディベアと呼ぶように成った。

 1890年から1900年頃に掛けて作られていた熊は、よつんばいで実際の熊に近いものだった。1902年になるとドイツのシュタイフ社が、苦心の末に現在の原型に近い手足と首が動く縫いぐるみを作った。
手が長く、本物の熊よりも毛が長い男の子が抱いても壊れないように、丈夫につくられた。
テディベアは観るだけでなく、抱くことで安心感が生まれる。ペットと家族の中間のような存在である。

 日本ではテディベアといえば女の子の持ち物というイメージが強いし、実際に購買層の7割が女性であるらしい。ところが諸外国では事情が異なる。
ドイツでは生まれた時からテディベアを持たせ、木製の玩具と組み合わされた物が多くファンの5割が男性という。戦場に持って行く兵士も少なくなかったとか。
イギリスも同様で5割以上が男性ファンで、ボブ・ヘンダーソン陸軍大佐はノルマンディ上陸作戦の際にも幼少から大切にしていたテディベアを持って行ったという。
 またお国柄により様々にアレンジされているのも特徴で、中国では縁起の良い赤や黄色を基調にした物が多い。フランスは国旗を模したものや有名ブランドと組んだファッショナブルな物が主流で、アメリカではハックルベリーなどの物語やテレビのキャラクターと結びついた物が多く製作されているようだ。

映画『テッド』の主役もテディベアで、下品な大人のブラックジョークでテディベアのイメージを変える作品であろう。最近ではゆるキャラのクマモンが数量限定で、コラボして話題となった。
 私自身はテディベアを持ったことはないが、若い頃に提灯お化けや傘などの妖怪の縫いぐるみを幾つか持っていた覚えがある。
縫いぐるみではないが、誰かからブレゼントされた灰皿やフィギァなど、その当時の思い出と共に現在も手許に残っている。物を大切にすることは、その物それ自体を大切にする以上に思い出を大切にするからであろう。
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by levin-ae-111 | 2013-05-26 07:43 | Comments(0)

馬鹿?!

 私は某中小企業で、品質管理&製品開発&ライン作業&出荷作業と幾つもの仕事を掛け持ちしています。中でもクレーム対応が大変で、訳のわからない苦情も日常茶飯事です。
何時もは文句を言われるばかりですが、先週は逆に原材料メーカーへクレームを入れるという事態が発生しました。
原材料に異物が混入していて、作業がストップしたのです。たまたまですが私もその時にライン作業に入っていました。

「どうする?」現場の職長はそう言うばかりで、何の決断も下そうとはしません。自然に皆の視線は私に集まり、私は製造中の製品の納期など様々な条件を確認し、製造の中止を決断しました。直ちに異物の写真を撮影し、原料メーカーに連絡を入れ、上司や取引先にも事情を説明する為のメールを打ち、それだけで午前中は終わってしまいました。
頭に来たのは、現場の職長に対してです。製造中止を決定してからも手の空いた部下に何一つ指示を出さず、各々は自分の都合で他の仕事へと流れたようです。

 結局は納期に間に合わないと判明しました。メーカーへ原料の再加工を依頼し、原因究明と再発防止策の提出を求めました。相手からの提案で、テスト品と再加工品の両方を試すという事になり、それの発送を後輩に指示しました。
業務課へ話しを通し、工場長へも報告し、それはもう面倒という他ありませんでした。
翌日からは他の製品の生産に入り、現場を預かる職長は何事も無かったかの様です。
納期に間に合わないというのに、自らそれを業務課へも伝えません。
私は後輩に職長のケツ(失礼)を押させ、漸く渋々ながら業務課へ報告に行ったようです。

しかし、彼(職長)にはどうでも良いことらしく、付随するその他の事柄は一切報告せず、ある後輩の話しでは「間に合わないと言っておいたから、後は業務課と取引先で上手くやるだろう」と嘯いていたとか。
そして今週、部材のテスト品も再加工品もどうにか事なきを得て、納期遅れの製造に入りました。
もう部材が無いと職長は言っていたのですが、今日になって新たに納期の迫っている製品が他にもあると判明しました。

私は焦り現場を見回すと、無いと言っていた材料が有るのです。そこで確認すると今日、その納期の近い製品を作ったと言うのです。
何を考えているのか!!職長は信用するに足りないと、私は思いました。そういえば以前にもクレーム交渉をした後で、その部材を使用されてしまい私は恥をかかされました。
勝手に騒いで人を苦悩させ、自分は当事者にも関わらず知らん顔を決め込み、何の決断も指示もせず普通の作業員以下の人間が職長とは・・・。
私は怒り心頭に達しましたが、彼には何も言わず必要な質問だけをする事にしました。
しかし提出させた不具合部材の量は間違っているし、他の従業員の話しと食い違いも甚だしいものがあります。何より納期遅れが他にも出そうなのに、それを報告もしない事に怒りを覚えました。

幸いにも真面目な後輩たちが私の指示に従ってくれるので、私は情報を集め損害額の概算を算出し工場長へ提出しました。勿論、部材の原価など私は知りませんから、業務課の人にお願いしました。それから取引先との交渉で、不具合品を再加工する為に送る手配なども実施しました。
こうして品質管理の仕事とはいえ、私の忙しくもイライライが募る日々が過ぎて行きます。
それにしても、職長の態度は普通ではありません。
私は若年性痴呆症ではないのか?と少し疑っていますが、後輩は故意にややこしい問題に関わらないようにしている様に見えると言います。

 そして本日、無事に不具合部材を送り返したのですが、その件に関しても業務から「運賃が云々・・・」と異議が出て、そのことでもスッタモンダがありました。
誰しもが問題には関わりたくないのは解りますが、無責任に逃げを打つ事が出来る人は良いのですが、私の立場ではそれも不可能です。全く一体感も団結もなく、人に難題を押し付ける我が社の体質は最低です。

2年前くらいに富山県で発生した『現職警察官の放火殺人事件』の犯人は、精神鑑定の結果を受けて処分保留の決定を出した様です。警察官のくせに凶悪なことこの上ない犯を犯した訳ですが、それでも何かと言い訳をして県警は自分たちの立場を守ろうとしているかに見えます。それは無論のこと言語道断な姿勢ですが、今の我が社にこれだけのチームワークと団結力があればと、あらぬ事を思ってしまう私なのでした。
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by levin-ae-111 | 2013-05-23 19:34 | Comments(0)
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 本間雅晴元陸軍中将は戦後の法廷に於いて死刑を宣告され、弁護人であったスキーン少佐の助命運動にも関わらず銃殺刑に処された。
本間雅晴中将の率いる第14軍は開戦時からフィリピン方面の攻略を手掛け、昭和17年1月の段階でマニラ市を占領することに成功していた。
連合軍はバターン半島へと逃げ込み、そこを拠点として要塞を築き抵抗を続けていた。
この方面の緒戦では、日本軍の勢いが凄まじく負け知らずの破竹の進撃が続いた様な印象があるが実際にはそうではなかった様だ。

 本間の14軍はマニラを占領した時点で、大本営の命により主力だった第48師団と第5飛行軍を取上げられてしまった。これにより大幅に弱体化した14軍だったが、大本営からはバターン半島の攻略を急かす矢の催促を受けていた。
偵察部隊を出すが、どの部隊も帰って来ない。密林に阻まれてまごつく間に、敵に急襲され全滅してしまったからだ。
止む無く全兵力を以て前進したが、敵の強力な火力の前に小銃と軽機関銃しか無い14軍は前進できずに戦線は膠着したままだった。
半島を迂回して海からの上陸も試みられたが、これも全滅の憂き目に遭い14軍は敗退した。それを待っていたかの様に14軍の参謀たちは解任され、大本営から辻政信中佐が送り込まれた。

辻は曲者で現地司令官である本間から指揮権を奪い取り、本間はお飾りの司令官でしかなくなってしまう。辻が14軍の実質的な指揮権を握ると、大本営は直ちに戦車部隊や飛行部隊を送り込み本格的にバターン半島攻略に着手した。
強力な日本軍の登場でマッカーサーは側近と家族だけを連れてバターン半島から逃亡するの。その時に残したとされる有名な台詞が、"I shall return" (必ずや私は戻って来るだろうと言い残して魚雷艇でコレヒドール島の要塞から逃げ出したのだ。
一方でマッカーサーと司令部に見放された兵士たちは、日本の空爆や砲撃に晒されてさしもの要塞も陥落した。

この時に捕虜となった連合国軍は約10万人とされているが、輸送手段に事欠いた日本軍はこの捕虜を徒歩で60キロ離れた収容所へと移送した。長く要塞に篭城していた捕虜たちは補強を断たれて久しく、食事も満足に摂れていなかった。
病気と飢餓で著しく体力が低下していた彼らを、熱帯の強烈な日差しの下を延々と歩かせた事で多くの捕虜たちが死亡した。
本間はこの移送に関しての責任を問われた訳だが、彼自身は捕虜に対する数々の救済措置を指令したが、辻たちはそれを許さず結局は『バターン死の行進』として後に悪名高いエピソードとして有名に成る結果を残してしまった。この数日の行進で死亡した捕虜は3千とも1万とも言われている。

 戦後マニラ市内の刑務所に収監され、訴追を受けた本間雅晴元中将は一切の言い訳をせずに刑に服した。裁判では富士子夫人も証人として出廷し、夫を誇りに思っていることを堂々と主張されている。主人弁護人だったスキーン少佐は本間に実質的な指揮権限が無かったことを理由に裁判を闘ったが、弁護団にはろくに弁護もさせずに、軍事法廷は本間の死刑判決を下した。裁判は一審制であり、スキーンの運動も虚しく間もなく死刑が執行された。スキーンはそれを、マッカーサーの個人的な恨みによる、本間への復習であると感じたという。

マッカーサーの恨みは兎も角として、大本営が現地司令官の権限を奪う為に、余りにも姑息で利己的な手法を採っている事が解せない。結局は手柄を大本営に帰したい為に行われた工作であろうが、その代賞は余りに大きいと言わねばならない。だがこれを戦時下の異常な心理とは言えない。これと似た様なことが現代でも多く発生しているのではないかと私は感じる。

本社の課長が支社の所長の手柄を横取りする、口出ししておいて失敗すれば我関せずと部下に責任を押し付ける、そういう輩が現代にも実際に存在するのである。
得てしてそういう人物が出世街道を驀進し、多くの部下を持つ。そういう輩は他人のことなど考えず、己の出世や利益に貪欲だからライバルを蹴落とすのに手段を選ばない。戦時下の軍という重大な組織に於いてさえ、それは些かも変わらなかったのだから、平和ボケと言われる現代日本の各組織で、それが存在しないという事など絶対に考えられない。
組織に属する者は、悲しいかなこの点に十分な注意が必要である。幸いなことに私自身は病気を理由に、次第に無意味な争いに巻き込まれる可能性が低下している。

写真は開襟夏衣を着用した本間中将(ウイキペディア)
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by levin-ae-111 | 2013-05-19 16:42 | Comments(0)
 今年の正月休みに放送していた映画です。中味は、箱根駅伝への出場を目指す弱小陸上部のお話です。
ボロボロの学生寮へ無理に入居させられた新入生は、高校駅伝の花形選手だったが暴力事件を起した過去がある。
親に頼らず学校で野宿しようとしていたが、先輩が飯を奢ってやるからついて来いという。
そこで先輩は突然に店を出て走り出す、食い逃げと勘違いした新入生も慌てて走る。
後からは店の娘が自転車で追って来る。
だが、それは新入生の足を試し、陸上部の合宿所へ連れて行くための方便だった。

合宿所では9名の自称『陸上部員』が居たが、清瀬灰ニを除いてはやる気の無い幽霊部員ばかり。灰ニは皆の世話をしながら、箱根駅伝への出場を密かに夢見ていた。
そして紆余曲折の末、皆のやる気を引き出し、予選会への出場資格を得る。
予選会では各校の選手全員が一斉に走り、各校上位10名の合計タイムで争われる。
予選通過は上位10校であるが学連選抜も走るので、実質的には9校のみが駅伝への出場権を得られるという狭き門だ。
清瀬灰ニが率いる寛政大学は、10名の部員でこの予選会を9位で通過する。

灰ニは膝に故障を抱えており、これ以上走り続けると選手生命が絶たれてしまう。ハイレベルの出場校の中でトップレベルの実力を持つのは灰ニと1年生の二人だけ、補欠も居ない。
バックアップも監督は僚の大家さん、ボランティアで駆けつけて世話を焼く食堂の娘がマネージャーという他とは比較に成らない小さな所帯だ。
走り終えた選手や復路の選手が、バックアップに回るという涙ぐましいレース運営が続く。
スタートは最下位、二区では留学生が頑張り7人抜き、しかしそれから順位は上下を繰り返すばかり。
それでも復路では素晴しい走りが続き、遂にはシード権を狙える位置にまで順位を上げる。
アンカーは4年生の灰ニだったが、果たしてシード権の行方は・・・。
東京大手町から箱根の山までの往復の過酷なレース、1人のランナーが走る区間は20キロ以上という長さだ。大会は正月の2日と3日の二日間に渡り実施される。
学生たちの熱い想いが襷を繋いで行く、伝統の箱根駅伝。季節はずれではあるが、こういう映画は何度も観ても面白い。
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by levin-ae-111 | 2013-05-18 22:38 | Comments(0)
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 駆逐艦に於ける最大最強の武器は魚雷であったが、到達範囲が1万メートル程度と短いことが難点であった。これでは相手が巡洋艦以上であれば、魚雷の射程外から敵の砲撃を受けることになってしまう。
必然的に射程距離の長い魚雷が求められることになったが、魚雷の開発に力が入れられた理由は他にもあった。
軍縮条約では大砲の制限は設けられていたが、魚雷の制限は無かったからだ。

 日本は1935年(昭和10年)に、画期的な魚雷の開発に成功した。これが93式酸素魚雷であったが、その射程距離は2万メートル以上と格段に向上した。この射程距離の画期的な伸びにより、駆逐艦は20センチ砲搭載の巡洋艦とも互角以上にわたりあえることになった。
砲弾の場合は相手の装甲が厚ければ跳ね返される可能性があるが、魚雷ならば命中すれば確実にダメージを与えられる。
そのうえ酸素魚雷は航跡が目立たず、発見され難いので奇襲効果が期待できた。
その利点を生かして生まれたのが『統制魚雷戦』と呼ばれた戦術であった。これは魚雷の網で敵艦隊を包み込むというものであった。

この93式魚雷が新造時から搭載されたのが『陽炎型』からである。酸素魚雷は魚雷本体だけでなく、酸素発生器が必要で取り扱いには専門要員が必要であり、専用の艤装が必要であった。そうした事情からか『吹雪型』には93式魚雷は搭載されなかった。
陽炎型駆逐艦は同型艦が19隻建造されているが、その中には武運艦として有名な『雪風』も含まれている。他型の駆逐艦と同様に、その殆どは戦没しており唯一の生き残りが『雪風』であった。
【陽炎型】
排水量:2500トン/水線長:116.2メートル/水線幅:10.8メートル 
機関出力:25000馬力/速力:35ノット
兵装 12.7センチ連装砲×3 / 25ミリ連装機銃×2 / 61センチ四連装発射管×2
他には対潜用に爆雷を装備していた。
【同型艦】
陽炎・不知火・黒潮・親潮・早潮・夏潮・初風・雪風・天津風・時津風・浦風・磯風・浜風・谷風・野分・嵐・萩風・舞風・秋雲

ところで駆逐艦が敵の巡洋艦隊を相手に、大勝利した闘いがあった。日本側呼称で『ルンガ沖夜戦』と呼ばれる会戦である。田中頼三少将に率いられたわが駆逐艦隊が、米国の重巡艦隊を叩きのめした戦いである。
この勝利は恐らくガダルカナル海域での、否、日本艦隊が勝利した最後の戦いであったろうと思われる。
*写真は『雪風』
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by levin-ae-111 | 2013-05-17 21:31 | Comments(0)
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 条約下での建造となった『初春型』と『白露型』は、武装こそ強力であったが渡洋性能など多くの点で到底、満足できるものではなかった。また、この時点で設定されていた戦場は、日本近海であったから何とか対応できた。
しかし対米戦争となると話しは別で、設定される戦場は遠く南方の海上となる。つまり、マリアナやカロリン諸島での戦いが設定されるべきであった。

 この『朝潮型』は条約期間内の起工であるが、1937年(昭和12年)の条約失効を睨んで設計されており、起工は1934年である。
また航空機時代の到来を睨んで、空母との行動も要求され、航続距離の増大が必要であった。それらの諸点を鑑みて計画されたのが、本型である。
ネームシップ『朝潮』以下、10隻が建造され全ての艦が戦没している。

『朝潮型』
朝潮・大潮・満潮・荒潮・朝雲・山雲・夏雲・峰雲・霞(かすみ)・霰(あられ)
排水量:2370トン/水線長:115メートル/水線幅:10.35メートル
出 力:50000馬力/速 度:35ノット/乗 員:229名
武装 主砲:12.7センチ連装砲×3基 25ミリ連装機銃×2
61センチ4連装魚雷発射管×2 航続距離:4000浬
主なデーターは資料によって異なっているが、その点はどの時点での資料を基にしたのか、或いは詳しく書くべきところを略したかであろう。

この『朝潮型』では以前の『吹雪型』で14ノットだったものを、速力を18ノットに上げて尚且つ航続距離の伸延が図られている。魚雷を『白露型』と同等、兵装は『吹雪型』と同等と位置づけられていた。つまり『吹雪型』と『白露型』の特徴を併せたような設計となっている。
全体としては空母に随伴して遊撃機動作戦を行うという目的で、兵装、航続距離ともに『吹雪型』で確立された特型駆逐艦の再来を狙ったものであった。

因みに『朝潮型』と同様に条約の失効を見越して計画された艦には、空母『蒼龍』と『飛龍』の2隻も含まれている。また『大和型』戦艦も、似た様な手法で計画されたものらしいが、やはり軍縮条約は日本海軍の建艦計画に最後まで暗い影を落とし続けたのである。
それは艦船の運用計画や作戦計画にまで及ぶものであり、対米戦を考えた場合に不足感が否めなかったのだろう。それが真珠湾攻撃で「一隻の空母も失っては成らない」という名雲司令官への束縛となり、艦隊は更なる攻撃を加えることなく反転してしまったと言われている。戦力が不足しているという海軍上層部の認識は正しいものであったろうが、実戦部隊指揮官の戦力喪失への必要以上の萎縮を招き、実戦での思い切りを欠く要因と成ったのではあるまいか。


駆逐艦『朝潮』
砲塔は後部に2基、前方に1基の配置になっている。
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by levin-ae-111 | 2013-05-14 05:40 | Comments(0)

 日本が真珠湾を奇襲攻撃し太平洋戦争に突入したことから、アメリカ軍は日本語教育を本格化させ、学生たちの中から優秀な者を募った。
その呼びかけに応じた者の中に、後に日本文学の世界的な研究者として数々の業績を残したドナルド・キーン氏もいた。
キーン氏は海軍の募集に応募したのでカリフォルニア大学バークリー校で、厳しい学習を経て後に日本軍の文書を翻訳したり解読したりする仕事に就いた。

 講師は日系人で予習復習に、一日に4~5時間は掛かる猛特訓を受けたのである。休みは日曜だけだった。最初は全く話せなかった日本語だったが、十一ヶ月後にキーン氏は総代として日本語で告別の辞を述べ、ハワイ真珠湾へと配属された。
先の大戦でアメリカ軍の日系人に対する態度は、陸軍と海軍では大きく異なっていた。陸軍は日系人を信じて部隊をつくり、その部隊はイタリア戦線で大活躍している。しかし海軍は日系人を排除し、日系人ではない通訳を養成しようとしたのだった。

 キーン氏が初めて心を打たれたのは、ガダルカナル島から届けられた文書の中に有った日本兵の日記だった。中には血痕が残り異臭を放っている日記もあったという。
米軍は日記を禁じていたが(情報流出の防止)、日本軍は元旦に日記を配り、戦意高揚の為に勇ましい文章を書かせていた。
しかしガダルカナル島から届いた日記には、米軍の攻撃ばかりではなくマラリアや飢餓による死への恐怖、望郷の念、家族への想いが溢れていたという。
若きキーン氏は日本兵の日記に心を動かされた。その日記を書いた日本兵たちが、初めてキーン氏が心を通わせた(一方的にだが)日本人たちであったという。

 最後のページに英語で「戦争が終わったら家族に届けて欲しい」と書かれた日記があり、キーン氏はそれを隠して日記を届けようと考えた。しかし調べられて没収された。
キーン氏にとって痛恨の極みであったという。
そしてまた米軍にも差別があった。特に通訳士官に対しては、仕官(階級が准尉以上の者)であっても見下されていたという。銃を持って戦わず、敵国語を学んだ者への偏見もあったのである。
キーン氏は海軍に違和感を持っていたが、逆に日記を通じて日本兵の最後の言葉に感銘を受けた。それがキーン氏と日本文学とを結びつけた。
没収された件の日記は、今でも気に掛かっているという。

ドナルド・キーン氏といえば、あの悲惨な3.11の地震と津波、それに伴う原発事故で多くの外国人が日本から逃げ出したのに対し、逆に日本へ帰化した人物である。
世界が逃げ腰になる中でのキーン氏の帰化は、全世界に向けた最も雄弁なアピールであり、最も力強い精神的な日本人への応援と励ましになった。
ドナルド・キーン博士は身体こそアメリカ人だが、その心は私たち一般の日本人よりも日本的なのかも知れない。

ドナルド・キーン
キーン ドナルド(1922年6月18日 - )は、アメリカ合衆国出身の日本文学者・日本学者。日本文学と日本文化研究の第一人者であり、文芸評論家としても多くの著作がある。日本国籍取得後、米国籍での氏名「Donald Lawrence Keene」を改め、日本氏名は「キーン ドナルド」とカタカナで表記。通称(雅号)として漢字で鬼怒鳴門(きーん どなるど)を使う。コロンビア大学名誉教授。日本文化を欧米へ紹介して数多くの業績があり数多くの大学や研究施設から様々な受賞経歴を持つ。 (ウイキペディア)
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by levin-ae-111 | 2013-05-12 22:17 | Comments(0)
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 昭和5年(1930年)に締結されたロンドン軍縮条約は、その後の日本海軍の艦艇建造計画に大きな影を落とし続けていた。日本は建艦計画の大幅な修正を余技なくされ、多くのしわ寄せが駆逐艦という小型艦艇の性能向上を目指すという状況を生んでいった。
この『白露型』は条約内でより強力な駆逐艦の建造を目指した『初春型』が失敗に終わり、その設計を改めて建造されたものである。
『白露型』はネームシップである白露を一番艦に、時雨、村雨、夕立、春雨、五月雨、海風、山風、江風、涼風の計10隻が建造され、全艦が戦没している。

本型の場合は重量軽減を目的として、主砲はそれ以前の高角砲(仰角77度)から55度のものに改められ、対空能力は低下している。
『白露型』
排水量:1658トン/水線長:107.5メートル/水線幅:9.9メートル
出 力:42000馬力/速 度:34ノット/乗 員:226名
武装 主砲:12.7センチ連装砲×1基 12.7センチ単装砲×1基 40ミリ単装機銃×2
61センチ4連装魚雷発射管×2

白露が竣工したのは昭和11年8月20日であったが、『吹雪型』で全面的に採用された電気溶接も採用されていたが、吹雪型の初春と夕霧が荒天下で船体が断裂するという事態が発生した。この船体断裂という由々しき事態の原因を電気溶接に求めたため、白露型では要所には鋲を使用している。
しかし『初春型』と本型で小さな船体での実用的な駆逐艦の建造は、技術的にも限界があるという現実を見せ付けられたのである。

『初春型』では1400トンの船体に重武装を施したが、バランスが狂いトップヘビーの傾向が最初から存在し、結局は大改造が必要となった。同様にトップヘビーだった『千鳥型』の一隻は転覆事故を起している。
 条約の範囲内で出来るだけ強力な装備を施した艦を模索し続けていた訳だが、魚雷が主武器であった駆逐艦には戦場で活躍する機会は多くはなかった。
魚雷の走破距離は長くても10000メートル程度であり、距離を長くすれば速度が落ちるし、速度を上げれば走破距離が短くなる。
相手が巡洋艦以上のサイズになると、魚雷の射程外から敵の砲撃を浴びることになる。
そこで魚雷のサイズを大きくしたりしたのだが、それでも事態は変わらなかったようだ。

太平洋戦争に突入すると、駆逐艦は本来の水雷艇を駆逐するという任務よりも、艦隊や船団の護衛という任務に多用された。そして艦隊戦から航空機が主役となった太平洋戦争では、対空装備が絶対に必要であり本型をはじめとする日本の駆逐艦には、この能力が低いものが多いと感じさせられる。

写真は『時雨』
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by levin-ae-111 | 2013-05-11 07:19 | Comments(0)