身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


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<   2013年 07月 ( 20 )   > この月の画像一覧

陸軍最後の名将


 昭和40年8月30日、宮崎繁三郎氏は病院のベッドで最後の時を迎えていた。最後まで部隊の部下たちを気遣って亡くなったという。
宮崎繁三郎元陸軍中将は、地獄の作戦と呼ばれたインパール作戦で、最後まで部隊をよく率いて戦った名将である。
第15軍司令官の無茶な命令は、僅か3週間でアラカン山脈を越えてインドのインパールを占拠せよというものだった。

作戦には三個師団(5万名弱)の兵力が投入された。第15、31、33師団である。第15師団と33師団はインパール占領を目指し、31師団はコヒマの占領を下命されていた。
宮崎繁三郎(この頃は少将)は第31師団の支隊を率いて、峻厳な峰を超えてコヒマへの前進を試みる。宮崎自ら先頭に立って荷物を背負ったと伝わる。
作戦期間が短く、更には補給を無視した狂気の作戦であり、当然ながら目標とする期間内にインパールを陥落させることなど出来なかった。

 敵の強硬な抵抗と反撃に会い、戦線は膠着し各師団の進撃は止められている。敵は砲撃と戦車で防衛に当たり、強力な火器を持たない日本軍が太刀打ち出来る相手ではなかった。
師団長佐藤幸徳は熟慮の末に撤退を決断し、折しも宮崎の率いる600名程の歩兵部隊が殿(しんがり)(最後尾の部隊)となった。
師団は補給を受けられず、物資不足に窮しながらの撤退となった。食料不足も甚だしく、撤退した31師団本部はウルルクまで辿り着いたが、先に撤退した第15師団(牟田口中将)の部隊がすべての物資を持って行った為に状況は少しも変わらなかった。


一方で英軍の進撃を阻み一人奮戦していたのが、宮崎率いる600名弱の歩兵たちである。インパールとコヒマを結ぶインパール街道を遮断し、英軍4個師団と戦車1個師団、更には航空機部隊を有する大兵力を向うに回して戦い続けていた。
撤退した各師団は食料不足に悩み、何れも酷い飢餓状態に落ちていたが、意外にも最前線の宮崎隊に飢餓は存在しなかった。
宮崎は様々な奇策を用いて敵から食料を奪い、戦い続けていたからだ。
 
 最早インパール占領は不可能となり、宮崎は自分たちが寡兵(小兵力)である事を知られない様に注意しながら、ジリジリと後退していた。
しかしやがて宮崎の率いる部隊が寡兵だと知れると、英軍は戦車を先頭に大兵力で一気に宮崎たちの戦線を突破した。
事ここに至り、宮崎たちは作戦が完全に失敗したことを悟った。
敵の突破を許した時に、宮崎は最後の夜襲を敢行する積りでいた。無論、自らが先頭に立ち指揮する積りである。

幸運にもその日の夜中に伝令が撤退命令を持って支隊本部を訪れ、宮崎隊は夜襲を実行することなく撤退したのである。命令書には撤退命令と同時に、宮崎の中将への昇進が記してあった。
宮崎支隊は後退を始めたが、途中には累々たる味方将兵の死体が転がっていた。宮崎は自軍の人員掌握に心を砕き、一人の漏れも無く撤退する様にと下令していた。
途中では他部隊でも命有る者は動けぬ者でも収容しつつ、最優先で負傷者を後退させて行った。
このインパール攻略戦に参加した4万8900名の人員の損耗率は、実に74パーセントに及んだという。戦死者・戦病者1万人、行方不明者・負傷者1万7千人と伝わる。

この最悪の状況下で、撤退となれば息が有っても動けない者は置いて行かれた。そうして置き去りにされた者の中には、自決した人も多かったろう。この作戦に参加した師団は各々に似た様な問題を抱えていたから、どの部隊も悲惨なものだった。
過酷なジャングルで敵に追われながらも、動けなく成った味方の兵士を、宮崎支隊は見捨てずに収容しながら撤退して行った。
このような状況下で必死の指揮を執った事が、臨終の間際まで宮崎繁三郎氏の心に焼き付いていたのだろう。敵中突破で分離した部隊を間違いなく掌握したかと、宮崎は最後まで気に掛けていたという。
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by levin-ae-111 | 2013-07-31 21:55 | Comments(0)

もうすぐ8月


一般的には8月15日が終戦の日と思う人も多いだろうが、実際には日本は以下の手順で終戦を迎えている。
・1945年(昭和20年)8月14 ポツダム宣言の受諾を連合国に通知。
・同年  8月15日     玉音放送。
・1952年(昭和27年)9月2日 サンフランシスコ平和条約が発効し、戦争状態の終結。
このどの時点を終戦とするのかは各国によって異なっている。例えばアメリカ・カナダ・フランスは9月2日とし、ロシア・中国は9月3日としている。対して日本・韓国は8月15日を終戦記念日または解放記念日としている。

 さて太平洋戦争については、侵略戦争であったとか自衛戦争であったとかの議論が現在でも存在するが、私は両方の側面が存在したのだと思う。
何れにしても多くの人々が傷つき、尊いその生命を失った事実だけは忘れるべきではない。
折しも8月15日はお盆であり、先祖の御霊が里帰りをされるとされている日である。この日が終戦記念日とされているのは、何も偶然ではあるまいと考えるのは穿ち過ぎというものか。
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by levin-ae-111 | 2013-07-30 22:16 | Comments(0)
鎌倉・室町時代を経て戦国時代に入ると、それ以前の荘園制や守護・地頭制度が崩れ各地で力のある武将が出現し始め自領の拡大を巡って争いが頻発する。戦の勝敗で領主がコロコロ変わる状況下で、町や村は次第に自治へと変わりつつあった。
その様な状況下で力を持ったのが織田信長であったが、今回の番組は山城国・宇治付近の大幡村と織田配下の侍との戦いを描いている。

 この時代の村は重い年貢と使役、更には武士たちによる略奪行為に苦しんでいたが、大幡村もそんな村のひとつだ。
何時織田軍が年貢の徴収にやって来るかも知れず、人々は村の守り神に祈りを捧げている。ご神体は石である。その昔のこと山賊に襲われた村を、大きな岩が転がり落ちて山賊の頭目を殺した。山神の怒りと恐れた山賊たちは、一目散に逃げて行き村は救われたという伝説があった。その大岩の欠片をご神体として祭り、村の守り神としているのである。

 だが神様にばかり頼ってもおられず、村では笹を引くことにした。『笹を引く』とは村の入り口の道に、笹を紐で繋げて作った柵を設けることを指す。
それは柵から先は神域であり、侵す者には神罰が下るという素朴な信仰心または神に対する恐れを利用した封印の様なものだ。
笹を引いて入口を監視する村人、そこへ荷車を引いた怪しい人物が柵の前まで来て、何やら大声で叫んでいる。その様子から侍ではないと見た村人が話しを聞き、柵を解いて村へ入れた。男は僧侶で、荷車には負傷した同僚の僧が乗っていた。二人の寺は織田軍に迫害され、逃げて来たのだという。

暫くして気を失っていた一人の僧が気づき、大幡村に関して織田軍の兵士が話していた事を村人に告げた。織田軍はもうすぐ大幡村に来る、隣村は既に織田軍が入り、村人は山へ逃げたという。
それを聞いた村人たちは闘う決意をする。闘うといっても武器も無いが、村人たちは石を集めて各所に配置していく。実は戦国時代には投石も戦術のひとつで、弓隊や槍隊と並んで投石隊も存在していた。投石の威力は意外に凄まじく、弓による戦果と肩を並べる程のものだったという。

 その後で、遂に織田兵が村人へ使役と物資の提供を命令する書状を持って村へ来た。入口には笹を引いてあったが、そこは神仏を恐れない信長の部下である。笹の柵を恐れもなく除くと、村に入って来た。そして応対に出た村人に、安土城を造営する為の人足と物資の提供を命じる書状を示す。折悪しく、僧侶の荷車に積んであった仏像が落ち、二人の侍はいぶかしがり僧侶を匿う家屋の捜索を始める。
僧侶が見つかりそうに成った時、村人たちが侍に襲い掛かり事なきを得たが、それからが大変である。

村人の一人が山に逃げた隣村の住人と連絡を取り、鐘の合図で隣村の人々も加勢に駆けつける事になっていた。
屈強な若者二人が偵察に出る。その二人は荷車を引いた3人の織田兵を見つける。織田兵は神社で略奪し、地蔵を踏み倒すという狼藉を働いている。
村の若者は我慢がならず、これに襲い掛かり3人を倒す。ところが、その後ろからは大勢の織田兵が迫って来た。慌てた若者と澤嶋(タイムスクープ社のリポーター)は逃走を図るが、澤嶋はカメラを落としてしまう。

 若者と澤嶋は村に逃げ込み、村人たちは織田兵を待ち受ける。村長は鐘を鳴らしに村の小高い丘にある鐘楼へ走るが、回り込んで侵入していた織田兵に斬殺されてしまう。
一方、織田兵の本隊は村人たちの必死の投石で、なかなか前進出来ないでいる。
若者の一人が鐘を鳴らしに走るが、不意に兵士に襲われる。屈強な若者はこれを撃退し、更に前進するが、今度は丘から矢を射かけられる。
若者は投石で応戦しながら、石で鐘を鳴らそうとする。何度も失敗しながら、遂に連続して鐘を鳴らす事に成功するが、腕に矢を受けて負傷する。

織田兵の本隊はジリジリと前進し、村人の抵抗はじり貧になりつつあった。その時、山を駆け下りて来る隣村の住人たち。前後から投石を受け織田兵は混乱し、やがて撤退して行った。
村は守られたが、気が付くと村の守り石が盗まれていた。
追撃しようとする村人を止めたのは、一緒に闘った二人の僧侶だった。「守り神が命をくれたと思いなされ。死んだ村人の分も生きなさい」と諭し、二人は更に山奥へと逃げて行った。
 
 物語はここまでだが、実際に戦国大名の中には盗賊紛いの略奪行為をする者も多かったのである。例えば上杉謙信は現在の長野県の一部、小県(ちいさがた)を支配下に収めたが直接統治しようとはしなかった。また関東管領という役職にありながら、その東国をも支配する事はしていない。その代わりに農閑期に成ると兵を率いてそれらの地域へ進撃し、物資を略奪して越後へ戻っていたのだという。自分の領地から略奪する事は出来ないので、敢えてこれらの土地を自領にしなかったのだと考えられる。
それも領国経営の一つの手法かも知れないが、定期的にやって来て物資を奪っていく謙信は現地の人々にとって、名将などではなく盗賊の頭目でしかなかったであろう。
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by levin-ae-111 | 2013-07-28 21:55 | Comments(0)
日本女性は貞淑であるという伝統的なイメージは、江戸時代になり儒教などの影響により作り出されたものだった。いわゆる『三従の教え』(少女期には親に、嫁いでからは夫や姑に、老いては子に従う)という女性に対する縛りは、戦国時代には存在していなかった。
戦国時代の女性たちは自由闊達に生きていたらしい。夫が無能となれば、サッサと別れて別の有能な男を探したというのだ。
戦国時代の離婚は、別れたい方から男女問わずに別れ話を切り出す事が出来たようだ。

 宣教師のルイス・フロイスの記録によれば、「日本の女性は処女の純潔を少しも重んじていない。それを欠いても名誉を失わなければ結婚もできる。また夫婦はいつでも離婚できるし、妻は離婚後、自由に結婚できる」と著書の中で書いているらしい。
ヨーロッパではフリーセックスは禁止(特にキリスト教圏で)されていたのに対し、日本では夜這いが日常的に行われていた。

 江戸時代以前の日本では美女ともなれば、不甲斐ない夫を捨てて頼り甲斐のある男性に乗り換え、よりよい生活へとステップアップして行ったようだ。男性の方でも美女が離婚したと知ると、放っておかず積極的に動いて正妻や愛妾に迎えたという。
この時代、領主ともなれば正妻とは政略結婚が多く、側室には自分が本当に好きな女性を置いていたとされる。
有名なのは柴田勝家と信長の妹「お市の方」の結婚であろう。勝家は市に惚れていたが、市は政略結婚で浅井長政に嫁いでしまった。しかし長政が滅ぼされると、勝家はすぐさま市を貰い受けた。無論、戦国一の美女と謳われた市の美貌もあったろうが、主君である信長の妹(異説では愛妾とも)であった事も大きな理由の一つであったに違いない。

 他にも主君の愛妾を貰い受けた斎藤道三の例もあるという。戦国時代の武将は見栄っ張りで功名心が強かったので、位や官位の高いバツイチの女性に異常な憧れを抱いたようだ。
甚だしい場合には、女性を巡っての武将の争いもあったらしい。
それにしても、戦国時代の男女関係は、私達が思っていたよりも自由で情熱的だった様だ。
否それは自由とか情熱的というより、現代人よりも本能的であったという方が正解かも知れない。
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by levin-ae-111 | 2013-07-27 23:05 | Comments(0)

飛ぶ夢

 私は子供の頃から何度も空を飛ぶ夢をみます。その時々で夢の状況は違います。
その①
気合を入れて身体をスーツと前に倒し、ふわりと浮かぶパターンです。しかしフワフワと浮遊する感じで、心で気合をいれないと前進しませんしスピードもノロノロです。気を緩めると、落ちます(笑) 以前など何処かのダム湖の上を飛んでいて、落ちそうになり慌てました。

その②
誰かに抱えられて飛ぶ夢もみました。突然に両脇を抱えられて(抱えた者は見えない)ロケットの様に一直線に上昇し、数百メートルの上空で水平飛行に移りました。
下には緑の大地が広がり、正確に道路で仕切られた町が見えました。スピードはジェット機の様に速いのですが、風切音も聞こえず風圧もありませんでしたから、透明なカバーで守られていたのかも知れません。

その③
背中の翼を広げて、自分で羽ばたいて飛ぶこともあります。これは夢というよりも、瞑想中
のイメージです。翼をイメージすると、肩甲骨の付近に気で出来た翼か現れます(飽くまでもイメージと身体の感覚です)。イメージの中では白い翼を羽ばたかせて、天使の様に人体に翼がある場合と、鳥そのものの場合があります。
イメージの中で、その翼は宇宙空間でも異次元空間でも、何処でも飛行可能な翼です。時には太陽の中に突入したりして、遊んだりします。

その④
寝入り端に感じることが多いのですが、身体が沈む感覚があり、次第に身体感覚が無くなります。そして浮かびあがる感覚があり、天井や壁をすり抜けて家の外へ出たりします。
そうして出た屋外は、現実の世界ではない事がほとんどです。
太陽が燦々と輝く外国の町であったり、見知らぬ夜の町であったりします。この場合は色彩が美しい時と、何となく見える風景がくすんでいる時があります。
人には滅多に出会わないのですが、一度だけ河原でキャンプをしている人たちと出会い、手を振ったら相手も手を振って応えてくれた事がありました。

その⑤
これは飛ぶというより、暗闇で振り回される夢です。これも寝入り端に感じるのですが、身体が浮かび暗闇の中を飛びます。そして真っ暗な空間で上や下、左右などあらゆる方向へ凄いスピードで振り回されるのです。しかも、動き出しと停止する時には凄い衝撃を感じますし、移動している時にも圧力を感じます。
ですが慣れて来ると自らの意志で前進も後退も可能になり、ホバーリングも出来るようになりました。しかしある時、リアルな戦闘機パイロットの夢を見て、あの衝撃が戦闘中のGフォースではないかと気づいてから、この感覚は無くなりました。
飛行機は零戦で、機体には銃撃を受けた穴が2、3個開いていて、燃料も銃弾も残り少なくという悲惨な状況でした。
忘れていましたが、変わったところではUFOに乗り、スクリーンから美しい山脈や空を映して碧く光るカルデラ湖や山肌を縫うように走る車を見下ろしている夢も見ました。

一口に飛ぶといっても、本当に様々でしょうが、私の場合は主にこの5つのパターンがあります。①のパターンは子供の頃にチョクチョクありましたが、今はありせん。そうそう子供頃は、正体不明の何かに追われて、高い崖の上を飛び移りながら逃げる夢を何度もみました。飛ぶ夢やイメージの多くは楽しいものですが、一体どういう心理の現れなのでしょうね。
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by levin-ae-111 | 2013-07-24 22:44 | Comments(0)

意外な展開

 先々週あたりから朝の全体朝礼をすると発表しながら、2度も中止となっていた。社員の間では何があるのか?と騒然となっていた。
どの社員も「どうせ、良い話しではないだろう」と思っていた。しかし遂にとうとう、今朝その全体朝礼が実施された。
工場長は全員が揃うのを待って、話し始める。
「創業60周年という事で・・・」
結局は会社が始まってから60年の記念に、従業員に記念品を配る、そういう事だった。

 配られた記念品は、会社の歴史を綴ったアルバムと腕時計だった。アルバムは最初の数ページは日中のお偉いさんの祝辞が並び、各工場や営業所の写真が載っていた。
その後が笑えた、製品の写真がズラリと並び、まるで超豪華版カタログの様だ。腕時計はスイス製の自動巻だった。
MARVINのモデルで117-12と刻印してある。ネットで検索すると、売値は10万弱だ。合併したN工場でも何があるのか?と、戦々恐々としていたらしい。

思うにどんぶり勘定的ないい加減な経営で、よくも60年も会社を維持できたものだ。しかし、これからはそうは行かない。今までより以上の荒波が待っているに違いない。
経営環境もより厳しさを増しているし、製品に関する顧客の要望も昔とは比較に成らない程にシビアである。
何とか無事に乗り切った会社の60年の内、私は19年近くを会社と共に生きて来た。兎に角、60周年を祝う事が出来る今に感謝しようと思う。
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by levin-ae-111 | 2013-07-23 05:35 | Comments(0)

投票に行って来ました

 昨日は朝8時ころから、母と弟を連れて投票に行ってきました。日頃は幼稚園の投票所には駐車場がなく、皆さん路肩に縦列駐車しています。
狭い道沿いなので、私は近くの警察署の駐車場に停め、3人で投票所まで歩きました。
それにしても、毎度のことながら選択の余地がない候補者ばかりです。

これは私が愚考することですが、地方の代表を選出する事は大切かも知れませんが、私達の選挙区のように選び様のない地域もあります。もっと他にやり様もあるはずです。私達の選挙区では結局のところ利益団体の支援を受けた候補が、開票前から早々と当確を出しています。何度も言いますが、開票前からですよ!!
余計なことですが、我が県では民主党は候補者すら出せませんでした。

 それにしても自民が余りに強すぎる、それほどに信頼の置ける人々と政党なのでしょうか。私にはとてもそうとは思えません。国民生活を顧みない人々が政治の実権を握れば、これからの私達の生活は苦しくなる一方です。アベノミクスなどは国民生活に悪影響こそあれ、良いことなど全く無いと思います。
全ては庶民からより多くを搾取する方向に進んでいます、将来は所得を150万円増やすなどとても覚束ないことです。職の無い人の給料をどうやって増やす積りでしょうか。

 雇用対策の以前に、このままでは多くの人々の仕事場となる中小企業が持ちませんよ。全ての原材料が値上がりし、それを価格に反映できない中小企業の現状を無視しています。
このままでは外国から侵略されずとも日本は滅亡してしまいます。国とは国民です、それを苦しめて国家が成り立つはずはありません。
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by levin-ae-111 | 2013-07-22 05:26 | Comments(0)

女たちの闘い


 1868年、新政府軍は江戸城を開城させると、一気に北上し最後の抵抗勢力である東北へと迫った。会津藩を中心にした東北各藩の連合軍は必至の抵抗を試みるが、圧倒的な新政府軍の勢いに次々と敗走し、母成(ぼなり)峠(とうげ)の突破を許すと敵軍は会津城下へと迫った。 
会津城下では男性たちは出陣して不在であり、女性たちは鶴ヶ城へと避難していた。

その鶴ヶ城では次々と負傷兵が運びこまれ、女性たちが献身的に看護に当たっていた。
しかし新政府軍が間近に迫り、射程の長いアームストロング砲から打ち出された砲弾が次々と着弾し城のそこ此処で炸裂する。
騒然とする城内で、女性たちは勇敢にも布団を濡らし砲弾に被せ必死に爆発を防ぐ、消火するといった決死の闘いが続けられた。
中には新島八重の様に、鉄砲を持って戦う女性も存在した。だが長らく続く籠城で食料が不足し、体力の尽きた負傷者は少しの怪我でも死亡するという事態に陥っていた。
そこで女性たちは有志を募り城下へ食料の調達に出ていた。戦火を掻い潜り、無事に食料を持ち帰ったという記録も存在するという。

さて女性の戦いは幕末の会津に限ったことではない。実は古くから兵卒としてではなく指揮官として戦の陣頭に立った女性は幾人も存在する。
古くは三韓征伐で有名な神功皇后がいるが、戦国時代にも多くの女性たちが夫や城主が不在の場合に陣頭指揮を執っている。
大友宗麟の家臣の妻で妙林という女性は、夫が島津との戦で戦死した後に、居城である鶴崎城へ押し寄せた敵軍を撃退している。落飾(髪を切り)して尼姿になって、陣羽織を着て敵陣へ切り込んだというから凄まじい。更に工事をして城の防備を徹底的に固め、挫けそうな男共を叱咤し城を守り切り、遂に島津軍を敗走させた。更には敗走する島津軍を追撃し、首印まで上げたというから、もう並の男以上の猛将ぶりであった。

また立花宗成の妻で誾千代は夫の出陣の際には同道し、天下分け目の関ヶ原の戦の時には黒田官兵衛と加藤清正に抗って見せた。
西軍に付いた夫の留守に侵攻した黒田と加藤の軍に対し、彼女は鎧を着て奮戦したという。ただ、名将の誉れ高い黒田と加藤に勝てる筈もなく、最終的には城を明け渡しているが、女性の細腕で猛将二人に抗っただけでも大したものである。男性であれば闘わずして城を明け渡す、という事も十分に考えられたであろう。

最も有名な闘う女性は『のぼうの城』という小説が映画化され話題となった忍(おし)城(じょう)主の娘、甲斐(かい)姫(ひめ)であろう。従妹である成田長親の助けがあったとはいえ、父不在の折に押し寄せた27000の石田三成の軍に僅か800の城兵で対峙した。
豊臣政権にとって最後の抵抗勢力は小田原の北条氏であったが、忍城は小田原方の支城のひとつである。幾つもの支城が落城する中で、甲斐姫に率いられた忍城は最後まで抵抗を続け遂には落城することは無かった。
甲斐姫は当時19歳といい、武芸に秀でているばかりでなく、その美貌は東国随一といわれていたと伝わる。自ら甲冑をまとい戦いに出て石田軍を翻弄し、悩ませたという。
結局は本城である小田原が落ち、忍城の戦いは終息したのだが、最後まで戦い続けた城兵たちは豊臣方の尊敬をも勝ち取った。
甲斐姫の活躍で父の成田氏長は、2万石の大名に出世した。甲斐姫自身は女好きの秀吉の側室となり、大阪夏の陣の際には秀頼の娘の脱出を成功させたと伝わる。

 さて現代でこそ女性が・・・と感じるが、戦国などの乱世では女性が戦いに出る事も珍しくはなかったのであろう。男たちが不在の場合でも、敵が押し寄せれば城主の妻や娘が指揮官となり、これを撃退すべく戦いに出たのである。
恐らくは今の女性たちも男性が余りに不甲斐ないと見れば、同じ様に前線に出て戦うかも知れない。考えてみれば本来人類は母系社会であり、女性が先頭に立って物事を進めても当然なのかも知れない。少なくとも、女性たちにはその能力が備わっているのだ。
かかあ天下は上州だけに限らない。日本では古くから妻のことを『山の神』と呼んで恐れる。女性が持っている底力と執念は、とうてい男共の及ぶものではないのである。
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by levin-ae-111 | 2013-07-21 10:27 | Comments(0)
 江戸時代には貨幣の流通も進み、それに伴い金銭トラブルも多くなっていた。借りた金を踏み倒すなど、お金にまつわる犯罪も増加していたのである。
江戸の裁判には吟味物筋(ぎんみものすじ)(刑事裁判)と公事(くじ)出入筋(でいりすじ)(民事裁判)の二種類があり、民事に関する裁判などの手続きを訴訟人に代わって代行する公事師(くじし)と呼ばれる職業の人々が存在していた。現代の職業にすれば、弁護士または司法書士といったところであろうか。
訴訟には手続きその他を含めて多くの時間が必要で、公事師は地方から訴訟の為に江戸に出て来た人々の宿泊施設も経営している者もいた。
それが公事(くじ)宿(やど)という訴訟人専用の宿であり、人々は長い間その宿に宿泊して裁可を待たねばならなかった。物語はその公事師に密着している。

 公事宿『田丸屋』を経営する勘(かん)三郎(ざぶろう)は公事師である。トラブルが多発していた江戸時代のこと、勘三郎の田丸屋は大忙しである。しかし右腕と頼むもう一人の公事師が病気に倒れ、新しい公事師を雇うことにした。そこへ新しい公事師正吉が着任した。
正吉は若く正義感が強い。正吉は子供の頃に鮮やかに境界争いを解決した公事師の活躍を目の当たりにし、あこがれて公事師と成ったのである。
正吉が最初に助手として裁判にかかわったのは、常陸の国から出て来て半年もの長きにわたり田丸屋に滞在している長次とぬいの夫婦の一件であった。江戸の商人にお金を貸して、踏み倒されたのである。貸金(かしきん)返還(へんかん)請求(せいきゅう)訴訟(そしょう)である。同種の訴えは3万件以上にも及んだというが、如何に多くのトラブルが発生していたかが分かる。
しかしようやく奉行所から呼び出しがあり、判決が下る日がやって来た。
夫婦はお白洲に行かず、勘三郎は正吉とともに判決を聞いた。全面勝訴!夫婦が貸した50両は全額返還を命じられ、公事師の二人は近くの飲食店で相手から50両の返還を受けた。

 ところが勘三郎は奉行所からの書類を書き写し、金額を50両から5両へ書き換えると原本を破り捨ててしまった。驚く正吉に「これは人助けではなく、商いだ」と悪びれもせずに言い放つ。尚も食い下がる正吉に、これが業界の常識だと突き放す師勘三郎だった。
僅か5両しか戻らないと夫婦に告げ、これでも上々の結果だと夫婦を無理に納得させた。
見かねた正吉は勘三郎の留守に帳簿を調べ、夫婦に真実を告げてお金を全額返すと宣言する。
その方法とはお金を盗むのではなく、駕籠訴(かごそ)と呼ばれる非常手段に出るというものだ。
駕籠訴とは偉い人に直訴することで、合法とは言えず下手をすれば捕えられてしまう、本当に命がけの訴えなのである。

 その正吉たちの思惑が勘三郎に露見し、三人はピンチに陥る。田丸屋の部屋で言い争い、勘三郎は強欲でいけ高々な正体を露わにして強面で手代と共に三人に迫る。
そこへ乱入して来たのは他の宿泊者たち。
「道理でおかしいと思った。逗留を長引かせようとするのが見え見えだったからなぁ」と怒り心頭の面持ちで部屋に乱入してきたのだ。
部屋はたちまち騒乱状態になり、その隙に正吉たちは脱出に成功する。
通常であれば駕籠訴は取り上げられないのだが、公事師の犯罪となれば勘定奉行も看過できなかったのであろう。正吉の訴えは受理され、裁判への道が開かれたのである。
宿の無い3人は訴訟手続きから裁可が下る数日間を野宿して待つことになった。
数日後、奉行所の白洲に勘三郎と正吉、長次とぬいの姿があった。

裁可(判決)が読み上げられる。判決文で勘三郎の所業は不届き千万と断罪され、長次夫妻への全額返還が命じられた。全面勝訴である。
翌日、満面の笑みで故郷へと帰る長次とぬいを見送った正吉は、江戸に残るという。正吉の行為は公事師の業界から睨まれ、容易には公事師としての活動が出来ないだろう。
だが正吉は頑張り、後には公事宿の経営者となり、困った人々を助け続けたという。

 法律の知識を利用しての悪徳行為をする弁護士は現在も存在するが、それは弁護士だけに限らない。各業界で密かに結ばれる各種の協定、特殊な慣習などは他者に不利益をもたらそうとも意に介さない。自分さえ、自分たちさえ良ければという考えは、一体感を損ね人類全体の存亡に関わる問題にまで成っている。
現代では国家間対立の問題がイデオロギーの対立ですらなくなり、資源確保やその独占あるいは富の搾取へと変化している(より露骨になっただけかも知れないが)。
この傾向は人間が進歩するどころか退化しているのではないか?と思わせる。
ここに古くからなんら変わらない人間の性が見えるが、私達はいつに成ったらこの忌まわしく醜い性質から解放されるのであろうか。
少なくともこの忌まわしく醜い獣性が消滅に近い程度まで薄められるまで、本当の意味での人類の進化発達など不可能であろう。
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by levin-ae-111 | 2013-07-20 10:13 | Comments(0)

可笑しな送別会


 先日、長年勤められた先輩が会社を辞められた。実はその方、十数年前に一度退職されて3年程前にカムバックされた。しかし2年で再び退職を希望され、現在は嘱託として気楽に勤務されていた。私の上司を務めておられたのだが、度重なるプレッシャーと面倒臭さに辟易されたのであろう。
記憶力の衰えが著しいという理由で、退職の意志を示されたが、遠い昔に恩を受けていた社長の提案で嘱託として気楽な勤務に就いていた。
だが気楽は良いが今度は体力の衰えを感じられて、この度の三度目の退職となった。

 勤務最終日に挨拶に来られ、その挨拶が終わった後で「明後日は何時頃に迎えに行こうか?」と言う。
「えっ、それって変じゃあないですか?」と私。
送られる人が迎えに来るって、どう考えても変な話しだ。
確かにその方、酒はダメ、糖尿病で高カロリーもダメだから車を出してくれたら助かるが、そうも行かない。だが他の皆も乗せて行くからと言われ、仕方なく約束した。
場所は駅から徒歩で20分程度のANAホテルのビアガーデン。
私は汽車(最寄り駅はまだ電化されていない・・・否、永遠に電化されない)に乗り、後は歩くか面倒ならタクシーと考えていたのだが・・・。

 そういう訳で私はチャッカリと送られる立場の人の車で行くことに成った。ビアガーデンは5時開店なのだが、最初にピックアップされる私は3時に近所のコンビニで待つ。
その時に付近の介護施設の看護師さんがおばあちゃんと買い物に来ており、その看護師さんが私をがん見している。まあハンサムだから無理もないが、とか気取っている場合ではない。社会の窓が開いているとか、ファッションが思いっきりダサイとか・・・。
結局原因は分からず仕舞だが、良い男と思われたとしておこう(爆)

そして所々でメンバーをピックアップしながら、ANAホテルへ無事に到着。実はこの方、運転がかなり危なく、横に乗っていてもヒヤヒヤものだ。それなので都市部に入る前に、ピックアップしたメンバーの一人が運転手を交替(笑)
何だかんだと言いつつも、着席し乾杯の後で皆で用意したプレゼントを渡し、後は飲み食いに集中した。だってプレゼント費用も含めて5000円也の出費だから、しっかり元を取らないといけない。
だが日頃から小食の私は、結局ビールを6杯と何品かの料理を少しずつ平らげただけ。
う~ん、完全に損してると思いつつ、再び送られる方の車に乗せてもらって、無事に帰宅しましたとさ。ホントウに変な送別会でした(^ⓦ^)
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by levin-ae-111 | 2013-07-16 20:18 | Comments(0)