身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


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『人は死なない』2

 先週、気まぐれで購入した矢作直樹氏の著書『人は死なない』をようやく今朝はやく読了しました。結論としては医学的知識に関する部分以外では、多くは既知のことばかりでした。
しかし研究室に充てられている自室で、寝泊りしながら救急外来に対応する中で、この本の原稿を書き上げたとは驚きです。
指導的立場の医師として第一線に立ち続ける矢作氏の人間としてのポテンシャルの高さは相当のものだと思います。
その彼が現在に至りたどり着いた結論は、私と同じでした。ですから、本の内容にはいちいちに共感できるので、大変に面白く読めた一冊でした。

矢作氏が『あとがき』で記しているのは、本のモチーフは極めてシンプルだということです。
①人間の知識は微々たるものであること。
②摂理と霊魂は存在するのではないかということ。
③人間は摂理によって生かされ霊魂は永遠である、その様に考えれば生活思想や社会のとらえ方も変わるのではないかということ。
それから事物のメカニズムを解明しても、その事物が何故に存在するのかという部分に関しては謎のままだという事も矢作氏は十分に分かっていました。

それからスピリチュアルな事柄と科学的な事柄は、次元が異なるのであり全ての現象を科学的に解明する必要など無いことも述べています。その一方で量子物理学での発見は、従来は別物と考えられ、古い時代には対立さえしていた宗教と自然科学の歩み寄りの可能性にも気づいておられます。
 そして臨床医師らしく「死ぬことに対して我々人間はもっとしっかり見つめる事が必要ではないでしょうか。我々は死を想い、生きることの意味、人間の存在意義を理解することによって、豊かな生と死ということについての手掛かりをつかむことが出来るのではないか」と述べています。
それにより微々たる力しかない医療に頼り、自分の人生を人に任せ切りにせず、自ら労わって欲しいというささやかな願いが、著述の動機だと書いています。

私は他の人の幸せを願うことは、自らの幸せを願うことでもあるのだと思っています。その点でも矢作氏は常に苦しむ人を目前にしている日常の中で、医師として人間として患者さんの回復を願うのは自然なことです。矢作氏は『創造主』とも呼べるかも知れない宇宙の摂理が宿るのは、人々の良心であろうとも述べています。
現役の医師がスピリチュアリズムの歴史やその内容の変遷にも触れつつ、生命について考察し、謙虚さを忘れずに積極的に実践しようとする姿には感動させられました。
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by levin-ae-111 | 2013-09-29 19:53 | Comments(0)

『人は死なない』


 東大教授の医師、矢作直樹氏が書いた『人は死なない』を購入しました。友人と会った帰りに、フト書店へ寄ってみる気になって、立ち寄った店で見つけました。
矢作医師のことはテレビ放映で事前に知っていたので、本を見つけた時に思わず手に取っていました。
本の内容は患者さんの急変による死や奇跡的な回復などにはじまり、宗教と科学、そして自身の両親の死に関するお話や、自らの山での2度に渡る滑落体験などについてです。

 医師には珍しく霊的な体験に目を向けて、様々に考察されています。一気に半分以上は読みましたが、勿体なくて後にとっておきます。
霊的な部分では私も知っている事ばかりだったのですが、東大勤務の現役医師が語ると重みが違います。
医師であり大学教授という立場上『人は死なない』などと、世間に向かって叫ぶのには相当の勇気が必要だったことでしょう。

 それにしても矢作氏は、子供の頃から人間は何故存在するのか、宇宙はどうして存在する必要があるのか?などと考えたそうです。この事実を知って、私は矢作氏に非常な親近感を覚えました。実は私もハナを垂らしながら、山奥の村で似た様なことを考えていた経験があるからです。自分の存在の意味、強いては地球の存在意義など子供ながらに考えたものでした。当時はSF物のマグマ大使や、宇宙少年ソランなどの子供向番組で、宇宙や地球という言葉やイメージを既に持っていたのです。矢作氏も私と同年代ですから、テレビ番組から刺激を受けて似た様なことを考えたのかも知れません。
そうは言っても矢作氏は東大医学部の教授であり、私はしがない会社員ですから、彼の様な立場の人が大切な知識を伝えてくれるのは非常に有意義だと思います。
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by levin-ae-111 | 2013-09-24 05:30 | Comments(0)

古代にもあった脱税

『魏志倭人伝』には、卑弥呼が祭祀を行っていた邪馬台国にも既に税制が存在していたと記されているらしい。
5世紀に入ると天皇や貴族は各々に『部民』と呼ばれる農民や漁民、手工業者たちを私有して生活必需品や職務に必要なものを徴収していた。他にも宮殿や邸宅、古墳の築造や田畑の耕作、召使や従者として労力を提供させたりしていた。

『大化の改新』以降には国家が主体の税制に変化し、租・庸・調などの税制が施行された。ただこの税制の改正により、人々の負担は更に大きく重くなった。農民たちは稲を税として納めると、自分たちの食べる分が無くなった。更に布や絹、その他の特産品なども納税させられ、男性には60日の雑用(公共事業など)にも駆り出されたので、庶民にとっては非常に過酷な税制であった。それで、庶民の間では脱税が行われた。

 その方法は徴税の台帳である戸籍を誤魔化すことだった。その手口は男性を女性と偽り登録するとか、若者なのに老人として登録する、生きているのに死んだことにする、というものだった。更に京都と畿内は税制面で優遇されていたので、地方の農民の中には役人に袖の下を渡し、京都や畿内へ戸籍を移してもらう者もいたという。

 いつの時代にも税金を免れたいと願う庶民は知恵をだし、少しでも生活を楽にしようと努力した様である。例えば古い町並みでは、間口が狭く奥に長い『ウナギの寝床』と称される民家が目立つ。私の町でも古い地域では、同様の家が多い。
この不思議な家の造りも実は、税金対策であったと伝わる。その昔に、家の間口に対して課税されていた名残なのだと聞いた。

もうすぐ消費税が8パーセントに引き上げられるが、私達に何らかの節税が出来るであろうか。国家が財政危機とあれば、多少の負担はやむを得ないが、苦しい中で健気に頑張る庶民に負担を強いるよりもまずは支出をチェックし、無駄遣いを無くして欲しいものだ。
意味の無い支出が多すぎる様に見える。
3.11の復興資金さえ正しく使われないこの国は、本当に先進国なのであろうか。何やら私には政治家の先生方のスーツ姿が、庶民から搾り取っていた世間知らずの貴族と重なって見えるのだが。
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by levin-ae-111 | 2013-09-23 09:54 | Comments(0)

縄文時代の漁

 縄文時代には様々なものが食べられていたが、魚類も無論のこと貴重な食材のひとつであった。遺跡からは鯛やヒラメ、アナゴ、メバル、カツオ、マグロ、フグ、サバ、アジなどの海魚に加えて、鯉や鮎などの川魚も食されていた。これは現代と同じ魚種を食材にしていた事実を示しており、意外に豊かな縄文人の食生活が見えてくる。では動きも素早く、水の中に居る魚をどうやって捕えていたのだろうか。
最初の頃は手づかみ、後には神話にもある様に、やはり釣りによる漁獲だった。

では、釣り針はどうやって作ったのだろうか。初期には動物の骨が使われたらしいが、釣針の様に細く削っていくと強度が足りず折れてしまう。そこで鹿の角が用いられていた。
鹿の角は日本に生息する動物の角の中では最も硬く、強靭な素材である事を縄文の人々は知悉していたのだ。
加工方法は角を水で濡らし、石器で削って形を整えていったと考えられている。以前には煮沸したり、何かに浸して角を柔らかくして加工していたと考えられていたが、現在では水で濡らすだけで思いの外簡単に加工できることが判明しているらしい。

釣り糸はフジツルや桑などの樹木の繊維を縒り合わせて作り、重りには石や焼いた土を使用していたと見られている。
人の生きようとする知恵は素晴らしく、食料確保の為に知恵を絞り続けて私達の祖先は生き抜いて来たのだ。現代では古代より人類が抱える問題は複雑に見えるが、先人たち同様に必死の知恵を絞って問題に対処する必要があるだろう。
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by levin-ae-111 | 2013-09-22 19:13 | Comments(2)

古代にもあった贋金造り

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 貨幣が現代の様に芸術的なまでに複雑になり、その為に高度な印刷技術が投入される様になったのは当然の成り行きである。何しろ日本では貨幣が流通すると、たちまちにして贋金が造られる様になったからだ。最初の内は以外に気楽に贋金造りが行われたのかも知れない。ただ当時の贋金造りも現代と同様に、高度な技術と知識が必要だった事は間違いなかったことだろう。

和同開珎が発行されると、税の徴収を銭で納めさせることもあった。これは貨幣の流通を促進する目的もあったのだろう。政府の狙いは的中し、貨幣の流通は盛んになった。
しかし同時に、贋金造りも横行するようになるのである。
当然ながらこれは古代でも犯罪で、刑罰も懲役3年と決められていたが、その程度では効果が薄かったようで間もなく量刑は厳しくなった。

711(和銅4)年には主犯は斬首、共犯は私財の没収、家族は流刑と格段に厳しく改定されている。当時の政府が贋金をどうやって見分けていたかは不明らしいが、恐らくは税を徴収する役所が調べていたのだろう。
その後に量刑は軽減され主犯でも流刑とされている。またそれら罪人に贋金造りの技術を発揮させようとしたのか、遠国の鋳銭所で働かせたりもしている。
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by levin-ae-111 | 2013-09-22 00:19 | Comments(0)
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 日本が潜水艦を装備したのは日露戦争のあたりからで、旅順などの泊地攻撃のためであった。しかし当時の技術は未熟で、遠く外海を航海する大型潜水艦の建造には至らなかった。
それが後のイー400に見られるような大型潜水艦の建造につながるには、第一次世界大戦の終結まで待たねばならなかった。
第一次大戦でドイツ海軍のUボートが大活躍し注目を集めた事に加え、軍縮条約で主力の洋上艦艇の建造が制限され、更に米国艦隊の動向を知る必要から大型潜水艦の建造に力が入れられた。

 折よくドイツ潜水艦の図面が入手でき、合わせて技術者の招へいにも成功した。ドイツでは第一次大戦時、既に大型潜水艦を建造していた。日本が手にしたのは『U142』の図面であった。U142はドイツの敗戦で破棄されたが、その血統を受け継いだ潜水艦が日本で建造され始めた。
それが巡潜1型で(イー1~イー5)で、この5隻は大砲の口径と魚雷のサイズを僅かに変更しただけで、ほぼU142のコピーであった。イー5潜では、初めて水上偵察機の搭載が試みられたが、カタパルトも無く水上偵察機の使用には多くの不便があった。
後にカタパルトが開発されると、イー5潜にも装備された。

巡潜1型の改造経験を生かして開発されたのが巡潜2型(イー6)で、速度の向上が図られて一応の成功は見たが新たな問題も発生した。それは無線通信の問題で、これを打開すべく強力な通信設備を備えたのが巡潜3型(イー7・イー8)である。
太平洋戦争が始まる頃は、これら巡潜型の各艦は既に老齢であったが、前線に投入され全て戦没している。有名なのはイー8の最後で、1945年3月31日に沖縄南方海域で、米駆逐艦と浮上砲撃戦の末に沈没している。

要目:巡潜3型(イー7) 1937年  昭和12年当時
常備排水量2525t
潜航時排水量3583t
全   長109.3m
最 大 幅9.10m
機 関 出 力水上11200/水中2800馬力
速   力水上23.0/水中8.0Kt

兵  装14㎝単装砲×1
13mm単装機銃×2
53.3㎝魚雷発射管×6
その他 偵察機1
よく指摘されることだが、日本海軍は潜水艦の使用方法を間違ったというものがある。潜水艦の先進国ドイツが、潜水艦を徹底して通商破壊工作に使用して、大いなる戦果を挙げた。潜水艦は水中速度が遅く、足の速い軍艦を相手にするのは不利であったからだろうが、軍艦を沈めるより商船を沈めた方が敵国にもダメージが大きいからであった。
実際にイギリスはUボートの攻撃に悩まされていたし、太平洋戦争の日本商船も潜水艦には本当に困らされていた。

 対して日本の潜水艦に対する考えは、飽くまでも補助艦艇であって主役ではなかった。太平洋を渡って来る敵艦隊に対し、潜水艦による攻撃で迎え撃つという考えはあったが、それは敵の戦力を少しでも弱めるといった趣旨でしかなかったのだ。
潜水艦は通商破壊に使用すべきであったが、日本はその用兵の常識を無視したのである。
ハードウェアをドイツに習ったように、戦術面でもドイツに習うべきだったのである。
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by levin-ae-111 | 2013-09-18 22:40 | Comments(0)

天の岩戸神話の意味は?

この神話はアマテラスの弟とされるスサノオが高天原で乱暴狼藉を繰り返し、そのせいで遂に死人が出てしまった事に怒ったアマテラスが洞窟に閉じこもってしまった。
その結果、世界は暗くなり人々は大変に困った。神々は相談して、洞窟の前で愉しげに儀式を行い、何事かとアマテラスが岩戸を少し開けて外を覗いた。
この瞬間に待ち構えていたタヂカラオが、岩戸を力任せに開き、アマテラスを洞窟から引っ張り出した。そして、世界は再び明るさを取り戻した、というストーリーの神話である。

 この物語の意味は一般的には日食を神話化したものとか、冬至を過ぎて弱まった太陽が力を取り戻す様を表したものと解釈されている。スサノオの乱暴狼藉は、農耕に関する暴風雨の被害を表現したものであるという説もある。
さて儀式を行う際に多くの神々が、祝詞をあげたり祭具を作ったりして活躍する。その時に活躍した神々は、後の世で豪族たちの祖とされた。
例えば八咫鏡を造ったイシコリトメは鏡作氏の祖であり、勾玉を作ったタマノオヤは玉作氏の祖、祝詞をあげたアメノコヤネは中臣氏の祖、捧げものを持つフトダマは忌部氏の祖、アメノウズメは猿女氏の祖とされた。いずれも後の豪族たちが朝廷で司った役目そのものであった。つまり、豪族たちが自らの出自の謂われを示した神話ともいえるのである。

高天原の神々と自分たちの出自を結びつける事は、古代の日本に於いては豪族たちの支配の正当性を示すのが目的であったろう。アマテラスが天皇家の祖とされることから、この神話が示す意味は世が下るにつれて次第に変化してきたのであろうと、容易に想像がつく。
素朴な農耕に関する物語が、そこに登場する神々の威光と結びついた豪族たちの支配の正当性を示し、強固な権力基盤を築く一翼を担うパワーとして利用された、というのが本当のところかも知れない。
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by levin-ae-111 | 2013-09-17 22:25 | Comments(0)

三連休だったのに・・・

 折角の三連休だったが、折悪しく台風の上陸もあり何も出来ずに(正確にはせずに)終わってしまった。やった事といえば久々に書店へ出かけ、時代劇小説の文庫本を買い読了した事くらいである。
だが台風で被害を受けられた方々を思うと、心が痛む。それに引き換え雨風が少々強かっただけで事なきを得て、幸福な休日であったと思う。近くの川に掛かる橋が壊れたが、私の通勤や生活に余り影響は無さそうだ。

 ところで買った文庫本は『忍びの国』和田竜(和田亮)著。忍びの国とは伊賀の里で、そこを攻略する織田信雄とその家臣、そしてされに抗う忍者たちの物語である。忍者は家族が死んでも悲しまない、傷ついた味方は平気で見捨てる、金銭が第一という設定。
織田信雄の伊賀攻めを織田方と伊賀方の両方から描いているが、史料を随所に散りばめて全くの架空の物語ではない事を示している。
しかし戦闘の場面では思い切り派手な描写で、武将が5人引きの弓から放つ矢は、一撃で人の胴体を引き千切ってしまったり、矢を受けた者は衝撃で弾き飛ばされたりする。
忍者の方は加速装置を使ったサイボーグ009のジョー宜しく、一瞬で何人もの武士たちを仕留めるなど、正直に言って漫画チックな場面も多かった。

 この著者は映画化され大ヒットした『のぼうの城』の作者でもある。漫画チックと先述したが、しかし参考文献として挙げられている史料の多さには驚いた。時代小説を書くには、これほどの史料を読み込む必要があるのかと読み終えて嘆息した。
戦の場面では殺伐としたシーンが続く。
ただその中で残酷な凄腕の忍者がさらって来た武士の娘に、約束が違うと問い詰められ、それが恐ろしくて家に帰らない。稼ぎが悪いと叱られ、彼女の前では碌に抗弁も出来ないなど意外な一面も持たせたりしている。彼女の小言を想像しただけで委縮する場面などは、微笑ましくて可笑しい。
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by levin-ae-111 | 2013-09-16 18:57 | Comments(0)
 奈良時代の人々の名を知るには『万葉集』が手っ取り早い。身分の上下を超えて様々な人々の和歌が、名前入りで纏められているからだ。その代表格の歌人となれば、当時は最高の文化人だったと言えるだろう。従って収入もさぞかしと思いきや、意外にもそうとは限らなかった。
実際には奈良時代の人々の収入は、役職により決められており、その上下で著しい差があったのである。

 編者とされる大伴家持は官位も高く、最終的には中納言で従三位の地位にまで上り詰めていた。彼の場合の収入は、現代の金額にして7000万円程度とされる。同じく万葉集の歌人である山上憶良の官位は従五位下で、その年収は1500万円程度だった。
万葉歌人の中でも有名な柿本人麻呂は、家持や憶良に比べてグッと低かった。正確な官位は分かっていないが、350万円程度だったと推測されている。仮に最低ランクの官位だとすれば、200万円くらいの収入しか無かったと思われる。
二位の貴族ならば1億を超え、一位の貴族ともなると軽く4億は超えていたといわれる。

 さて官位の上の人々(五位以上)は仕事をしてもしなくても収入は保障されていたが、それより下の役人は現代のサラリーマン同様に日々出勤する必要があった。
下級役人(六位以下)は3600名程度いたが、そのうち常勤職員が600名程度、後は非常勤の職員で形成されていたらしい。常勤(長上官)ならば年間240日以上、非常勤(番上官)ならば140日の出勤で評価の対象となって給与が与えられた。
奈良時代の役人たちの朝は早く、6時半には出勤していなければならなかった。大方は午前中で仕事を終えて帰宅できたが、低い役職の者は午後からも仕事を続けていた。

 下っ端役人は残業を命じられ、夕方まで働いたし、時には泊まり込みもあった様だ。勿論現代同様に上司から勤務評価されていて、常勤者なら9段階非常勤者なら3段階の評価の評価を受けた。常勤者は6年間、非常勤は8年間の評価期間があり、その間の評価が中以上であれば官位が1ランク上がった。しかし下級役人の給与は余り上昇せず、仮に正七位まで出世したとしても500万円程度であった。それにしても奈良時代の役人たちの勤務は現代と余り変わらない厳しいものだった様だ。

(古代史の舞台裏より)
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by levin-ae-111 | 2013-09-15 20:18 | Comments(0)

これも修業か・・・

 過日書いた『困ったことは起こらない』の成果なのか、他県の工場へ出向いて製品の性能試験をする必要が発生しましたが、私はその出張を回避できました。
今日から出かけて、明日(休日返上)で試験をする予定でした。同僚は丹念に準備を整えて上司と共に出かけて行きました。私は同僚の身の上に良き出来事が・・・と祈りました。
ハッキリ言って、この仕事には余り意味が有りません。それから上司も私の体調が良くないのを配慮してくれたのだと思っています。

 さて、そういう訳で出張と休日の返上は回避できましたが、こちらの仕事はキッチリとこなさねば成りません。ある部門への応援なのですが、5人のラインを一人不足の4人で動かします。私ともう一人の作業量は通常の2倍に成ります。更にコンビを組む人はベテランにも関わらず、私から見れば技量不足で、こちらの作業は更に辛くなります。
正確に表現すれば、技量不足というよりも意識の無さが問題です。彼は材料をただ規定回数だけ、何の工夫も無しに機械を通すだけです。
工夫しようという意識の欠如が目に付きますし、本来は私が入っているポジションが彼の定位置なのですが、私が応援に行くと彼は自分のポジションを放棄して、楽なポジションへと移動してしまうのです。

それから別の人は原料が漏れているにも関わらず、材料の加工を続け300kgもの加工を済ませた後で報告し、その原料は使用禁止になりました。それで破棄するのかといえば、品質保証と相談して使用する様にとの指示が出ているとか。
別な部門でも不適切な材料と知りながら、「まっ、いいかー」で製品を作り、「上がったら、テストしてみて下さい」とバカな事を平気で言ってきました。
「それは駄目だ!テストする以前の問題だ」と、話しを聞いた通りすがりの同僚が一喝しましたが、作ってしまったものは仕方が無いのでテストだけは請け合いました。

「どうして、不具合に気付いた時点で作業を止めて、報告しないのだろうか?」私は不思議で仕方がなく、つい一喝した同僚につぶやきました。
「仕事に対する意識が、無いからだ。罰金でも取らない限り意識しないかもなぁ」と、同僚は呆れ顔で言って去って行きました。
『悪いことは起こらない』筈なのですが、これはいったいどうした事でしょうか。
否、私にとってまだ悪いことは発生していません。どちらも製品への悪影響を未然に防ぐ事が出来るからです。これがクレームに繋がってしまえば・・・考えただけでゾッとします。
どうにか皆の意識が向上する様に願います。怒るのは簡単ですが、これも修業と思って『同僚たちの身の上に良いことが・・・』と祈りました。
あー疲れた、ようやく週末です。3連休です!!有難いなぁ(^^)
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by levin-ae-111 | 2013-09-13 22:50 | Comments(0)