身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


by levin-ae-111

<   2014年 01月 ( 19 )   > この月の画像一覧

【第3章】
霊は自由に行動することが出来る?
ここまでは霊界での学習や仕事、或は修業について書いて来ましたが、死んでからも仕事や勉強に追われるのか!と思われ方もいらっしゃるでしょう。
生きている時も勉強や仕事に追われる毎日なのに、それが死んでからも続くのかと思うとウンザリする人も居ることでしょう。そういう人に朗報です。
フランチェッツォの報告には『霊界では全てが自由です。空気の様に何処へでも、しかも自分の欲するところに、しかも自分の好みに応じて行くことが出来ます・・・』
あらゆる面で自由なのだそうで、働こうが怠けようが、善を成すことも悪を成すことも、人を祝福しようが逆に呪おうが自由です。しかも差し出された助言を拒否することも自由です。その姿がそのまま、その霊の居る環境に反映されているのです。
 
もしかしたら、その霊が望み、生きている間にそれに相応しい生活をしていれば、霊界で遊び暮らすことも可能かも知れません。
しかも生きている間に余程の悪を成さない限り、普通の生活をしていた人々はフランチェッツォの様に低い階層へ行くことも無さそうです。
ですがフランチェッツォは『日の国』行き、立派な家を与えられてからも『希望の同胞団』に所属して働き続けています。それは愛する人が地上での人生を終える前に、少しでも霊界の高い領域へ進み、彼女と一緒に居たいという希望があるからです。その為にフランチェッツォは彼女が亡くなる前にと焦りつつ、一生懸命に自分を高める修業を続けているのです。つまり意欲が有れば、働くことも学ぶことも自由なのです。

霊界での時の流れはどうなっている?
 私達は何をするにしても時間に縛られています。それこそ目覚めた直後から眠りに入るまで、常に時間を気にしながらの生活です。他にも、明日はこれをしないといけないとか、今週中にあれをしなければ等と、時計とカレンダーでガンジガラメです。
さて霊界では時間というものが存在するのでしょうか。
フランチェッツォによれば、地上と同様に時間が存在し、時間経過と共に進歩や変化がもたらされると言っています。
フランチェッツォが『悔い改めの国』へ向かう前に、指導霊のアーリンジマン師にどの位の期間が必要ですかと質問した時に、アーリンジマン師は地上の時間にして2~3週間で済むだろうと答え、更にその根拠も示しています。
アーリンジマン師は『悔い改めの国』から早く戻ってくるフランチェッツォのイメージが
見えると言い、それは二つの出来事が起こった時間の感覚が大きくはない事を示していると説明してくれました。

霊界では物事の経過が日や週、時間で計られることは無く、ある出来事が完結する長さで計られるのです。この様にしてアーリンジマン師はフランチェッツォが『悔い改めの国』に長く滞在する事が無いだろうと予測したのでした。
ここでアーリンジマン師は私たちに解り易いように、地上の時間にして2~3週間だろうと予測してくれています。
霊界では地上の時間に出来るだけ近い様に換算するのですが、霊界でも賢い霊人たちでさえもその換算を常に正しくは出来ないのだそうです。
そして、そのことが原因で地上の人間との交信で予知などを行う場合に、正確な日時を教えない様にする事と関係があるのだとも話しています。
要するに霊界ではビジョンとして物事が達成する様が見えて、それが地上の時間にすると『概ねこれくらい?』と予測するらしいのです。
これで予言や予知で示された出来事が、その通りに発生しないカラクリが見えた様な気がします。宇宙人からのチャネリング情報でも、何年何月とイベントが発生する日付が示されても全く的中しないのは似た様な事情があるのかも知れません。
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by levin-ae-111 | 2014-01-31 20:36 | Comments(0)
【第3章】
霊界にも学校はあるのか?
 天使でも悪霊でもない一般の霊たちは、どの様な日常を過ごしているのでしょうか。
フランチェッツォの場合は、学校で学んだり、仕事をしたり、家でのんびりと休んだりして過ごしている様です。フランチェッツォによれば、その霊人の知的発達度合や霊的発達度合に応じて学習し、それが終わったら次の高い段階の学習にステップアップするのです。
但し地上の私たちとは異なり、時間的な制約というものが一切なく、理解できるまで学習を続けることが出来るのです。加えて学も学ばないも自由で、全ては志願制であり決して強制されることは無いそうです。
学ぶ内容は自由で、フランチェッツォの守護霊のアーリンジマン師は地上で研究していたオカルトサイエンスを引き続き研究していましたし、その生徒のハセインは霊界における不思議現象を研究しているのだそうです。

 何だか私達と変わらない感じがします。ではそんな霊界で指導教官と成る霊人たちは、どんな霊たちなのでしょうか。フランチェッツォが最初に指導教官に対して抱いた感じは、自分と似ているということでした。指導教官となった霊人もまた、フランチェッツォと似た様な地上生活を送り、霊界に来てからは低い階層から上層界へと昇って行った人でした。
今は太陽が燦々と輝く明るい世界の住人であり、彼はそこからフランチェッツォたちを指導するために通って来てくれています。
似た様な傾向と経験をもった霊が、地上から来たばかりの霊が再び過ちを犯したり、間違った考えをしない様にアドバイスをするのです。
先生となる霊人は自分と似た傾向と経験を持ち、そこから学んだ先人の知恵を踏まえて未熟な霊たちを導いてくれるのです。

霊界での仕事って?
フランチェッツォの場合は『希望の同胞団』に入り、そこの仕事を通して自分の心をコントロールすることを学び、人を助けることを学んでいきました。
この『希望の同胞団』は霊界に無数に存在する集団の一つに過ぎず、この様な集団は地獄界から上は太陽系の次元にまで存在する霊界のあらゆる処で活躍しています。
具体的には『希望の同胞団』に救出の要請が成された時に彼らは出動します。救出に向かうのは、そのケースに最も適していると思われるメンバーたちです。
まるで消防隊の様に勇ましい仕事ですが、他にも教師や『昏睡の谷』で見られた様な介護あるいは治療の仕事、他には人助けでもヘルパーの様な穏やかで優しい仕事もあります。

フランチェッツォが『悔い改めの国』から戻る途中で出会った妖精の女性は、自分の大好きな美しい森に棲んで、旅人を癒す仕事をしていました。彼女はフランチェッツォに食べ物と飲み物を渡し、道を教えてくれました。
 ここではフランチェッツォの経験や目撃談のみですから、職種も少なくて偏ったものに成っています。私が想像するに恐らくは、この地上に存在するありとあらゆる職種が霊界にも存在しているのだと思います。
作曲や作詞、絵画などの芸術的な職種もあれば、発明や発見などの技術的な職業も存在しているに違いありません。一説では霊界の発明が地上の私たちの研究者にインスピレーションとして伝えられ、私たちの世界に新たな発明品としてもたらされると言います。
芸術的な分野などでも同様なのではないでしょうか。心を癒される様な素敵な楽曲や、思わず目を奪われる様な素晴らしい絵画もきっと霊界からの働き掛けにより創られたに違いないと思いませんか。
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by levin-ae-111 | 2014-01-26 09:43 | Comments(0)
【第3章】
天使は本当に存在するの?
 私たちの想像する天使とは、可愛い子供の姿で頭に光の輪があり、白い翼でパタパタと飛び回る感じです。または少女漫画に描かれる八頭身の美男子で、大きな翼の華麗な姿です。
では、霊界にその様な天使たちは存在しているのでしょうか。
残念ですが、フランチェッツォの語る霊界には、この様な天使は出て来ません。しかしもっとマッチョで大人な天使は登場します。そして、その天使の正体がフランチェッツォの守護霊であるアーリンジマン師によって明らかにされます。

フランチェッツォがアーリンジマン師に招かれて高次の世界から地球の霊界を見下ろす機会を与えられました。そして、ショッキングな光景を目撃しました。
それは雷雲の様な黒い雲が地上を覆い、いよいよ夜の様に真っ暗になりました。そうすると地獄の暗黒領域から打ち寄せる波の様に無数の黒い霊人たちが出現し、明るい霊人たちの群れに襲い掛かったのです。フランチェッツォはその光景に戦慄し、助けが来ないのかと憤りながら、その光景を見ていました。
すると一つの光が現れて明星の様に輝きながら、下へ下へと降りて行くのが見えました。その光は天界から降りて来た天使たちの巨大な軍勢でした。
この光の軍勢は地になだれ落ち、帯状に展開し黒い地獄の軍勢を取り囲むと、敵を突き落とし木端微塵にしてしまうのでした。

驚くべきは、この天使たちの正体です。アーリンジマン師が語るには、彼らも元々は人間であり、しかも地獄に落ちていた者たちだと言うのです。この力強い天使たちは遥か昔に『悔い改めの泉』で服の汚れを洗い清め、自らの努力で穢れを落とし、奴隷の灰の中から蘇り高次の天界へ昇った者たちであったのです。
「彼らは地球の霊領域に在る天界の天使たちで、一度は人間であったので罪深い人間の苦労や奮闘を理解し同情することが出来るのです」と、アーリンジマン師はフランチェッツォに告げたのです。天使は私たちの持っているイメージと異なっても、存在する様です。

【おまけ】
これは霊界にも戦争が有るという事でしょう。スピリチュアルな世界でいわれる事は、霊界の出来事がこの世に波及し、それに近い現象がこの世で発生するとする説があります。
以前にも拙ブログで、コンノケンイチさんの本を紹介したのですが、その本にも霊界でも戦いがあると書かれています。

拙ブログ『長い題名の本』より
http://blogs.yahoo.co.jp/brick_3410_hatena/3834646.html
http://blogs.yahoo.co.jp/brick_3410_hatena/3860802.html

これとは別に瞑想している時に見たイメージは、白い白鳥の様な翼を持った天使が一人で、多数の黒い蛇か龍と闘っている光景でした。遠くから見ると白い尾を引いた光と、赤黒い尾を引いた光が漆黒の闇の中で何度も衝突する様に交差しています。
天使はとても強く、次々と敵を切り伏せて行きます。しかし流石に疲労を覚えた時、ひときわ大きな敵の龍が向かって来ました。その敵も強く、天使もピンチに陥ります。
次々と集まる敵の只中に天使は一人です。その時、白い流れ星の様な光が3個現れました。
それは闘っている天使と同じ鎧を身に着けた他の天使たちでした。
他の天使たちが手下を引き受けてくれて、最初の天使は敵のボスと一騎打ちです。二つの光は何度も何度もぶつかり合い、遂に天使が勝利しました。天使の仲間たちは、雑魚を片付け各々に合図を送って帰って行きました。
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by levin-ae-111 | 2014-01-22 20:20 | Comments(0)
【第3章】
 ここからはフランチェッツォによってもたらされた霊界の仕組みについて、見ていこう
と思います。以前にも述べましたが、知らずに霊界へ行くよりも、ある程度の知識を持って
霊界へ行く方が良いからです。それは私たちの生き方にも直結する問題でもあります。
それでは再び霊界について、私たちが疑問に思う事柄について探っていきましょう。

先に亡くなった人に会えるか?
死期が近づいた人が先に死んだ家族や友人が枕元に現れると、お迎えが来たなどと言い
ますが、実際にはどうなのでしょうか。誰でもそうなのでしょうか?もしもそれが本当ならば、私たちは死に際してどれほど安心することでしょうか。フランチェッツォの場合はどうだったのでしょう。

 本当のところフランチェッツォは、死後ずっと孤独でした。彼の両親は既に亡くなっていましたが、彼を迎えには来なかったのです。それどころか、彼自身の守護霊の中心者であるアーリンジマン師にすら会えなかったのです。彼は愛しい人の近くをウロウロするしかなかったのです。
実は霊界には厳格な法則が存在し、自分より高い領域に住む人々は見る事が出来ないのだそうです。それは余りにも住む世界が異なると、低位の者からは高位の霊界を見る事が出来ないというのです。しかし、高位の領域に住む者は下の領域を見たり、訪れたりできます。
実はフランチェッツォの父は無論、守護霊のアーリンジマン師も彼の許へ来ていました。

フランチェッツォが『たそがれの国』から『あかつきの国』(第二領域)へ移ってから、初めて父に会う事ができたのです。それは彼女の許を訪れた霊人が、彼へのメッセージを彼女に伝えて来たことがきっかけでした。その霊人はフランチェッツォの父でした。
メッセージを受け取ったフランチェッツォは、自分の放蕩を恥じながらも父に会いたいと思いました。そして目を上げると、何とすぐ傍に父が立っていたのでした。
漸く父と会う事ができたフランチェッツォと父親は、ただ抱き合いました。
 実際に父はフランチェッツォが地上と霊界を放浪している時から、ずっと見守り続けてくれていたのです。しかし先の法則のために、会うことも感じることも出来なかったのでした。そしてフランチェッツォが第二領域で最高の場所『日の国』に到達し、大きな家を与えられた時に、先に亡くなっていた母や兄弟、友人たちと会う事ができたのでした。

この例を見れば情念の果てに「あの世で一緒に成ろう」とか誓い合って、心中しても果たしてあの世で一緒に過ごせるかは疑問です。人により人生が異なり、それ故に考えや経験も違うのです。そうであれば霊界で行く世界も異なり死後に一緒に生活することは、かなり確率が低くなりそうです。
もしもあの世で大切な人に会いたいのなら、会いたい人よりも高い領域へ行くか、少なくとも同じ領域に行く必要があるのです。
フランチェッツォの例では、彼が家族や友人たちの中で一番低い領域に行きました。ですから会いたい人たちを見ることが出来なかったのです。
何故に彼が一番低い領域へ行ったのか?明確には書かれていませんが、それは金持ち貴族の坊ちゃんで、生きている間は贅沢と女遊びに明け暮れていたからではないでしょうか。
結局、地上での人生の過ごし方が霊界での行き場所を決めるということです。
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by levin-ae-111 | 2014-01-21 05:42 | Comments(0)
【第2章】
寛容な心を持つほど、上の世界へ行ける。
 私たちの世界でも、寛容な心を持った人ほど他かの人から慕われます。つまり寛容な人は、相手の立場を思いやり、相手の事を第一に考えるからです。
この世でさえも寛容さは人間性を示す指標であるのですから、フランチェッツォが言う様に『想念の世界』であれば猶更というべきでしょう。

フランチェッツォは青空に浮かぶ雲を見るのが好きでしたから、彼の見上げる空には雲が有りました。しかし他の人々には雲の無い青空しか見えない場合もあります。
それは想念が創り出す世界であるからです。霊界では雲が嫌いな人には、雲が見えないのです。それは各々の想念が創り出す世界だからです。
ある時フランチェッツォは『朝の国』で、極めて美しい黄金に輝く門のイメージを見ます。
それは蜃気楼の様に地平線の上に浮かんでおり、しかしとてもハッキリとした美しい門で、何処かの素晴らしい国の入り口に在りそうな門でした。
暫くしてそのイメージは消えましたが、フランチェッツォはその門の招待に従って他の国へと旅立ちます。

 それまで居た『朝の国』や初めて与えられた小さな自分の家に愛着はありましたが、フランチェッツォはその気持ちを抑えて直ぐに旅立ちました。
それは長くその場所に居ると「居ついてしまう」からなのだそうです。それにフランチェッツォには恋人と同じ世界へ行ける様に、自分を高めるという大目的がありましたから、『朝の国』にいつまでも留まってはいられなかったのです。
こうして輝く門をくぐってフランチェッツォは、霊界の第二領域の最高の国である『日の国』へと到達したのでした。

フランチェッツォが『日の国』へと誘われたのは、彼が『日の国』に住むに相応しい精神的なレベルに達したからです。フランチェッツォが『日の国』に招待されるまでに成るには、彼にとって許し難い人物を赦す必要がありました。
フランチェッツォは、それまで地上でその相手と何度か会っていました。その度に相手に対する怒りが込み上げて「復讐したい」と考えた様です。そしてその気持ちは、どうにも消し難いものだったのです。
フランチェッツォは相手に何度も会う内に(尤も相手にフランチェッツォは見えていませんが)、徐々に相手を赦す気持ちが芽生え、遂には相手の幸運を祈るまでになりました。
そうしてフランチェッツォが相手を完全に赦した時に、『日の国』の門が開き、彼を新しい国へと誘ったのでした。
という事は私たちが死後フランチェッツォ以上の国へ行きたければ、許せないと思う相手が居た場合は、最低限その人を赦す気持ちを持つ事が条件に成りそうです。
幾ら過ぎ去った過去を恨んでも呪っても現実が変わらないばかりか、返って私たち自身の霊性を下げるだけです。
あの世ではフランチェッツォの例に見る様に、寛容の心が相手のみならず、自分自身を助けるのです。
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by levin-ae-111 | 2014-01-20 05:27 | Comments(2)
 このところフランチェッツォの記事ばかり書いていましたが、その中でフランチェッツォが努力して『朝の国』で初めて、粗末で小さいながらも家を与えられたお話しがありました。裕福な貴族の家で生まれ育ち、華やかな社交界で持て囃された彼が、その粗末な家に感謝し、本当に素晴らしいと感じ、それ以上の喜びと感動はかつても今も感じた事はないと述べています。
 それで私も今以上に貧しい若い時代の事を想い出しました。学生時代に苦しいフトコロを遣り繰りして、何とかヘアードライヤーを手に入れた時の喜びは、今も鮮明に覚えています。それから初めて電気シェーバーを買った時や初めて車を買った時、ワープロを買った時など、どれも今とは比較にならない喜びがありました。

 今になって考えてみると、それは必要な品物ばかりでしたから嬉しいのは当然でしたが、その陰には努力があったから入手できた時の喜びが大きかったのだと思います。
若く遊びたい盛りの年頃でしたから、アルバイトや会社務めが苦痛だったのですね。それを我慢して働いてお金を貯めて遣り繰りして、漸く買えたというところに喜びの源があったのです。
今は会社にも半分惰性で行っている様なものですが、安月給取りにしても若い頃よりも収入は確実に上がっていますし、数万円の物なら衝動買いなども出来てしまいます。
でもそれを買っても、若かりし頃の安物のドライヤーやらシェーバーを手に入れた時の喜びとは比べものに成らないのです。

フランチェッツォの喜びも、初めて自分で努力して勝ち得た家だからこそ、生きていた時の豪邸よりも、後に『日の国』で大きな邸宅を与えられた時よりも、小さな家を与えられた時の喜びの方が遥かに大きかったのだろうと思います。
フランチェッツォの話しと私の若かりし頃の思い出は比較に成りませんが、心理的には共感できます。やはり人間心理はフランチェッツォの時代(19世紀初め頃)も、今も余り変わらないのだと思います。
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by levin-ae-111 | 2014-01-18 09:05 | Comments(0)
【第2章】
死後の世界では利己主義の克服が大きなテーマ。
 
フランチェッツォが『たそがれの国』で意識不明とも思える程の深い眠りについて、目覚めるとそこは『あかつきの国』でした。地面は乾燥して固く枯れ木の一本も無い不毛の地からシダや牧草が青々と茂る草原に変わり、暗く光の無い空は薄い青を含んだ灰色の空に変わっていました。
フランチェッツォの居る部屋は、それほど大きくはありませんが気持ちが良さそうな部屋です。『たそがれの国』での部屋とは比べものになりません。
そこからフランチェッツォは歓迎の晩餐会に出席します。その晩餐会には千名くらいの霊人たちが参加しており、その人々は皆フランチェッツォと同様に新たにこの『あかつきの国』へやって来たのです。

暫くすると大きな扉が開いて、一団の霊人たちが入場して来ました。彼らは何れも威厳に満ちていました。中でも先頭に入って来た人物が最も威厳に満ちていて、荘厳な感じがしたとフランチェッツォは述べています。
その霊人が『希望の同胞団』のリーダーで、彼からスピーチの後で「利己主義と罪に対する闘いの勝利者」として一人一人に月桂冠が授与されました。その後に賞賛の歌が歌われ、食事が始まるのでした。
この国に来る資格を得るには『利己主義の克服』という課題をクリアしなければなりません。
フランチェッツォは『希望の同胞団』の一員として、他の霊を救う活動をすることによって獲得しました。
フランチェッツォは「私にとって他人を助けることは、自己否定と犠牲について学ぶ手掛かりになります」と述べています。その事はフランチェッツォが自らの意志で『希望の同胞団』に入り、他の霊を救出するという仕事に携わったのであり、決して強制や仕方なしに活動していたのではなかったのです。だからこそ、彼の活動は自分の利己主義を克服する力となり、『あかつきの国』へと彼を引き上げたのです。

霊界でも自分の家が持てる。
 『あかつきの国』から地獄の探索に出掛けて帰って暫くしてから、フランチェッツォは『悔い改めの国』へ旅立ちます。それは地上の恋人が死後に行であろう場所へ、彼も行きたいと強く願っているからです。彼女の境涯ならば恐らくは『朝の国』よりも高い領域である『日の国』か、それ以上の領域へ行くであろうと予想されたのでしょう。
フランチェッツォは『悔い改めの国』で、過酷な試練を乗り越えます。そして『あかつきの国』を離れ、次の領域である『朝の国』で霊界に来て初めて自分の家を与えられます。
それはたった二部屋しかない小さな小屋でしたが、緑の丘に囲まれた牧草地帯にあったのです。しかし樹木は見えず、花もありません。
ですが玄関に絡みついたスイカズラの甘い香りに包まれ、平和に満たされたその小屋は、フランチェッツォにとって大切な場所となりました。

今のフランチェッツォは更なる領域へと進み、七つもの部屋がある立派な邸宅に住んでいますが、それでも初めての家を与えられた時のあの幸福感は忘れ得ぬものとなった様です。
フランチェッツォが霊界で頑張れたのは、愛する女性が亡くなったら行くであろう高い領域の国へ自分も行く資格を得るためでした。
その為に一生懸命に仕事をし、その成果で少しずつステップアップし、遂には家を持てるまでに進歩しました。
これを見る限り、あの世もこの世も余り変わりが無いのでは?と思ってしまいます。ただ違う事は、あの世では成し遂げた仕事に見合う報酬が必ず得られるという事でしょうか。
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by levin-ae-111 | 2014-01-17 05:15 | Comments(0)
第2章】
利己主義や物欲が過ぎると魂の発達を妨げる。
 フランチェッツォが死後の混乱と暗闇を抜けて、最初に行った所が『たそがれの国』と呼ばれる場所でした。この場所は普通には地表の霊界の第一面であるといわれています。
フランチェッツォが語るには、この『たそがれの国』に来るのは人生を余りにも利己主義と物欲に囚われて過ごした為に、魂が発達しなかった霊が来る場所だそうです。
フランチェッツォの場合は、裕福な貴族の家に生まれ更には容姿端麗で社交界の貴公子でしたから、何の苦労もなく遊び暮らしていた事でしょう。それでは魂は成長しませんから、魂が未発達な霊の行く場所に行ったのです。
これからフランチェッツォの『たそがれの国』での生活を、覗いてみましょう。

『たそがれの国』では、昼も夜も無く、常に黄昏時の薄明かりの様な感じの明るさです。
明るい太陽と花の溢れるイタリアで生まれ育ったフランチェッツォには、この薄暗く頼りない明るさがどうにも憂鬱であった様です。
フランチェッツォたちも食事をしますが、それは空腹を感じた時だけです。食べ物は空腹を感じると、途端に出現するのですが、空腹を感じないと一週間でも食べずに済むのです。
フランチェッツォたちは建物の中や周囲の土地を、歩き回る時があります。散歩なのでしょうが、時には意志の力で空中を飛ぶ事もあります。しかし、より進歩した霊たちに比べれば上手く飛べないと言っています。

そして彼らは普段から暗い青色の服を着て、腰には黄色い帯を締めています。着た切りスズメなのですが、服は自然に新しくなり着古す事がないそうです。
生活は単調なもので、規則に従い正確に講義や勉強が進められているのです。正しく洗濯と賄い付きの寄宿舎生活の様です。
この質素で規則正しい生活は、地上の人生で物欲に囚われていた事への反省を促すものであるかも知れません。
そしてフランチェッツォたちが暮らす建物の周囲には、植物は一切存在せず、枯れ木の一本も無いのです。それはやはり利己主義が支配する乾いた不毛の土地、それがフランチェッツォたち『たそがれの国』に暮らす者たちの心を映した風景なのです。

ですがフランチェッツォには彼の精進を支える二つの宝物がありました。一つは愛する人の姿を映す鏡のような物、もうひとつは決して枯れない白いバラの蕾でした。
それは愛する彼女からの贈り物で、彼女が不断に彼を想ってくれている証であり、彼自身の進歩への努力の結果でもあると上級霊から告げられたそうです。
贅沢な生活をしていたフランチェッツォでしたが、『たそがれの国』で、その生活を懐かしむ気持ちは余り持っていなかった様です。
それどころか、暗い世界から戻る度に『たそがれの国』を懐かしい我が家と感じたそうです。
薄暗くて狭く粗末な彼の部屋でしたが、愛する人に貰った宝物と手紙がありました。そして友人も居て、時折は彼の部屋を訪ねてくれて親しく語り合った様です。それが嬉しく楽しいものであったと、フランチェッツォは述懐しています。

愛する人を偲ぶ物と花、それから友人が居れば、そこが我が家と感じられたフランチェッツォの心持ちが物欲を克服した事になり、より明るい『あかつきの国』へと招かれたのではないかと思います。
それにしてもフランチェッツォは、恵まれていたと思います。何よりも死んだ恋人を想い続けてくれた彼女の存在は、得難いものに違いありません。本には書かれていませんが、彼女はどうやってフランチェッツォに贈り物や手紙を届けたのでしょう。
私たちも霊界の人へ贈り物や手紙を届けないまでも、悪戯に悲しむことなく時々は故人を偲んでみるのも故人にとって良い贈り物に成るのかも知れません。
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by levin-ae-111 | 2014-01-16 05:31 | Comments(0)
【第2章】
地縛霊にならないためには?
フランチェッツォは死んで間もない頃に地表の霊界を彷徨っていました。寂しさに押し潰されそうになっていた時、彼に声を掛けて来た3人連れの霊と出会いました。
男が二人と女が一人のそのグループは、気軽にフランチェッツォに声を掛け、一緒に来ないかと言うのです。
彼らは見るのも嫌になるほど酷い風体をしていたが、寂しさの余りフランチェッツォは彼らと行動を共にしようと考えました。しかし恋人の警告が聞こえ、ついて行くのを止めたという経験がありました。
彼らの正体は地球の上層界の第一番目と下層界の第一番目の両方を行き来する浮遊霊で、
この領域は一般的には地に縛られた霊たちの存在場所と見なされています。『たそがれの国』でさえ、ここよりも上のクラスなのです。
彼らについて行けば、後に知り合ったラウルの様に下層の領域へと引き込まれていたことでしょう。

 フランチェッツォを誘ったのはいわゆる『地縛霊』たちですが、怪談に出て来る地縛霊は事故や殺人、戦争などで死んだ事を自覚できないでいる霊や、恨みを持つ霊のことです。
ですが死んだ事を自覚しており、特に恨みを持っていなくても、地上に未練や心配事を抱えていて、その場を離れられずに結局は浮遊霊になってしまう人々もいるのです。
その場合は生前に善人であったか悪人であったかには、余り関係が無いようなのです。
フランチェッツォが報告しているのは、息子を心配する余りに何年も息子を見守り続けて地表に縛り着けられている母親の例です。悪の道に染まった息子を助けたいと願う余りに、善人であるにも係らず上層の領域へ行けないのです。
一方で悪人が地上に留められている例も挙げています。他人の家と土地を権利書を偽造してだまし取った男の霊です。彼は自分が詐取した家と土地に縛られていました。
彼は霊媒をつかってでも、本物の権利書の在り処を告白しない限り、地上に留められ続けるのだと語っています。
その後、この男は罪を告白し、自由に成り償いの為に地上の霊界で働いているそうです。

 私達がこうした地縛霊に成らないためには、地上での生活に未練や執着、後悔や恨みを残さないことが肝要な様です。こうした考えは仏教的なスタンスですから、私たち日本人には馴染みやすいかも知れません。
つまり煩悩を無くす或は、極力これを削ぎ落すことで死後に地表の霊界を彷徨わずに済むという訳なのです。

行き過ぎた快楽は霊にとっては痛みになる。
フランチェッツォが死後に地表の霊界の次に行った場所は『希望の家』でしたが、彼はそこで身体の痛みを癒す治療を受けました。その治療の様子や治療が何故に必要になったのかを、語ってくれています。
医者や治療師になるような能力を持った進歩した霊人たちは、最も惨めで苦しんでいる者たちの介護をします。彼らは霊的磁気やその他の力を使って、苦痛を一時忘れさせることが出来るのだそうです。
痛み止めの効果は一時的なものですが、その間に患者の霊たちは力を取り戻し忍耐力をつけて、徐々に癒されていきます。そして遂には他の苦しんでいる霊たちの治療に当たる様になるのです。

 しかし死んでからも痛みを伴い、治療まで受けねばならない様な地上での行いとは一体どんな行為なのでしょうか。
それはどうやら【8】で挙げた質問の6『快楽は金で買っても構わない』に関連する事の様です。フランチェッツォは明言していませんが、どうやら彼の痛みの原因は強姦や買春行為の様です。この他にも飲酒や地上の人々に憑依して、快楽を貪る行為なども霊体を痛めつける様です。人間である以上は快楽を求めるのも仕方ないことですが、行き過ぎた快楽には十分に注意すべきです。
フランチェッツオは「例えば、男は皆そうするとか、男にはそうする権利があるとか言って、われわれ男がやってきたことが(希望の家の講義で)示され、次にそれを他の視点から見たらどうなるかを示されます。つまり幾らかでも我々の犠牲になった人々の視点から、あるいは我々を楽しませ、情欲を満足させるための社会機関の犠牲になった人々の視点から、という事です」と述べて、暗に痛みの原因が行き過ぎた快楽の故である事を示していいます。
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by levin-ae-111 | 2014-01-15 05:52 | Comments(0)
【第2章】
地獄行に当たる罪とは何か?
あらゆる宗教で昔から説かれている『地獄』は本当に存在するのでしょうか。そして本当に地獄が存在するとしたら、どの様な罪を犯した者がそこへ送られるのでしょうか。
フランチェッツォの語るところでは、どうやら『地獄』と呼ばれる領域が存在していることは確かな様です。それでは、そこの様子はどうなのか、或はどういう罪を犯せばそこへ送られるのかを、フランチェッツォの述べた内容から拾ってみましょう。

フランチェッツォが地獄への探検に連れて行かれた時、何と生きたまま焼かれている人々を目撃したと語っています。死んでいるのに生きたままとは少し変ですが、とにかく地獄の火炎に焼かれて苦しむ人々を目撃したのでした。
地獄の炎で焼かれていたのは、生前に多くの人々をそういう死に追いやった圧制者や侵略者の霊だったのです。しかも彼らを焼いている炎は、彼ら自身の残酷さや怒りから発生している炎だというのです。

 また他の場所では殺人者たちが、血塗られた部屋に集ってパーティをしているのを見ました。この中の多くは、身勝手な理由で殺人を犯した人々でしたが、変わった例では霊となって復讐の為に殺人を犯した人にも会ったと言っています。
更には支配欲の虜になり地獄の王国に君臨する者、戦争や略奪や流血を好んで果てしない争いを続けている者たちも居ました。
これらの人々についてフランチェッツォは「まことに地上での人生こそ、霊界での各人の存在場所を創り出しているのです。僧侶や司祭、貴婦人、兵士や商人、更に不幸な(圧制や侵略を受けた)人々でさえ、地上の人生の内容ゆえに・・・金に対する欲望と虐待に対する怨念や復讐心のために、地獄に落ちることになったのです」と語っています。

フランチェッツォが生きていた時代の影響もあるでしょうが、地獄で苦しんでいるのは宗教者や圧制者、海賊や盗賊など古いイメージの人々が多い様です。ですが現在においても紛争による戦闘やテロは絶えていませんし、日常でも殺人事件の報道の無い日は皆無といってもよい程です。故意でなくとも、交通事故などの死者、自殺死など考え様によってはフランチェッツォの時代よりも地獄行の要素が多いかも知れません。
 フランチェッツォは『希望の同胞団』に属し、霊界の低い領域で苦しむ人々の救出という大変な仕事をしています。そのリーダーが地獄について、概ね次の様に言っています。
1、我々が見た地獄は、広い領域の極ごく一部にしか過ぎない。
地球霊界における最低領域の地獄は、黒い質量からなる大いなる領域で、周囲何百マイルも広がり、人生を終えた大量の罪深い魂をその境界内に吸い込んでいる。
2、人間の思考力では考えられないほど多数の住居が存在しているが、それぞれの住居を造った霊の個人的な特質を備えていて、同じ物は二つとない。
リーダーは更に、フランチェッツォたちが地上に戻った際には、霊界の状況を伝え、人々に希望を持たせて欲しいと言っています。生きている内に生き方を正し、もっと注意深く人生を歩んでほしいとも語っています。
それは霊界で過ちを正すより、生きている内にそれを正す方がよほどやさしいからです。
この『希望の同胞団』のリーダーの言葉は、私たち生ある者への切なる願いが込められているという気がします。

永遠とも思える煉獄で苦しむ霊たちは、私達が思っているよりも多く、そして地獄での責め苦は想像もできない位に過酷なのです。
ここには出て来ませんが、日本でも昭和の時代に問題となった公害を垂れ流した企業の経営者なども地獄行の切符を手にしているかも知れません。
戦争を指揮した人々なども「あれは正しい選択だった」などと、幾ら正当化しても霊界では通用しないのです。原爆投下を命じた人も実行した人も、恐らくは地獄の炎の中で焼かれているに違いないのです。
地獄世界の様子は、この後にも語られていますので、また別のテーマで書くことにしますが、
何れにせよ地上での生き方が問われる事には変わりがないのです。
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by levin-ae-111 | 2014-01-14 05:22 | Comments(0)