身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


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月は金属で出来ていた?!


 月の裏側は恐らく表側と変わらないだろうと予測されていたが、探査が進むにつれて表側と裏側の様相はかなり違うことが判明した。探査の結果、裏側の方が僅かに膨らんでいて山脈やクレーターは有るものの、表側の様な『海』と呼ばれる比較的に平坦な地形が見られないことが判明した。

それはつまり、月全体が同じ過程で出来たものではなかったということだ。また『海』と呼ばれる部分では、突然に重力が強くなりアポロ宇宙船の高度が僅かに落ちたという。

原因としては『海』に非常に高質量の物質が存在し、しかもそれが『海』の表面にまとまって存在しているからだ。NASAはそれを『マスコン』と名付けた。

 

 月の重力は地球の6分の1なので、その岩石も軽石の様なものだと考えられていたが、分析によれば月の岩石は重金属が多く含まれていることが判明した。

アポロ11号が持ち帰った『静かの海』の岩石には、多量のチタニュウムを含んでいた。

その含有量は地球上で最も多くチタニニュウムを含む岩石より多く、約10倍にも達したという。他にも、地球上でレアメタルと呼ばれる貴重な重金属が多く含まれていた。

イットリュウム、ジルコニュウム、ペリリュウムなど耐熱性の高い高価な金属であり、それはステルス戦闘機にも使われるものである。

 

 アポロの飛行士が月の表面の掘削を試みたが、10センチから1メートル程度しか掘れなかったそうだ。使用したドリルは最も硬い部類のドリル刃であったという。

月の岩石の分析が詳細に成されるにつけ、自然に形成されたとは考えられない純粋な鉄分子や、自然界には存在しないネブチニュウム273やウラニュウム236など融点が非常に高い物質が発見された。

そしてほぼ純粋なチタニュウムが含有されており、これらの事実は如何に推測しても矛盾なく説明することは不可能だという。

 

 それにしても月ほど私たちに身近で馴染み深い天体も存在しませんが、謎の多さは他の天体と変わらない。むしろ、身近だからこそ月への興味をそそられるのだ。

月に関してはスピリチュアルな世界でも、宇宙人の基地が設けられているという情報が多数存在する。また空洞説なども存在するし、諸説の中には月は巨大な宇宙船だとするものもある。お伽噺のかぐや姫の物語にもある様に、何者かが本当に住んでいる可能性も決して否定できないのである。


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by levin-ae-111 | 2014-03-31 05:31 | Comments(0)


 

 日本という国は不思議な国である。江戸の泰平を黒船来航により破られ、開国するや否やいきなり世界の荒波に揉まれる。必死で西洋化を進め、膨大な借金をして軍備(特に海軍力)の強化を進め、清やロシアとの戦争では圧倒的な敵に勝利してみせた。

第二次大戦では国土を焦土とされながら、戦後は奇跡的な復興を果たし世界第2位(現在は3位)の経済大国と成った。

 

日清・日露戦争では膨大な借金をした。日本の借財の申し入れに対して、何処の国も応じる事はなかった。敗戦が濃厚な小国にお金を貸す国も個人も無かったが、唯一それに応じてくれたのがロスチャイルド家だけだった。その借財と国民の身を削ったお金で軍艦を購入し、

どうにか勝利に漕ぎつけたのであった。

軍人たちは「国(家族・友)の為に死することは、最大の愛である」という、真の日本精神で闘い朋友の屍を乗り越えて前進し勝利を掴んだのであった。

要塞に籠もり乱射される機関銃の弾丸になぎ倒されながらも、波の様に絶え間なく押し寄せる日本軍にロシア人たちは恐怖したとう。

 

 さてロスチャイルドが日本の借財要請に応じたのは訳がある。それがダビデから続く王統に由来するものであり、ロスチャイルドはその王統の臣下であるからだ。

ユダヤの王統はソロモン王の代にピークを迎えた。力と財力は世界一であり、ダビデ王の使ったあらゆる器は全て純金であり、その中に銀は一つも含まれていなかったという。

何故ならば当時、銀には価値が無いと見なされていたからだ。今から約3000年前のことである。

 

ソロモン王が死去するとイスラエルは内部闘争から南北に分裂してしまう。その南北の国々もアッシリアやバビロンの圧迫を受けて滅亡し、以来ユダヤ人は20世紀にイスラエルが現在の地に強引に建国されるまで世界を彷徨うことに成ったのである。

栄華を誇ったソロモン王の膨大な金は何処に行ったのか?実は、これが行方不明となっている。しかし宇野正美氏の説によれば、その秘宝は現代も守られ、管理者の手により秘蔵されているというのだ。

では、ダビデから始まるイスラエルの王統(血統)は何処へ行ったのか。最終的には日本へ辿り着いたと思われる。

 

古来より世界中の冒険家がソロモン王の秘宝を求めて広大な海へ漕ぎ出したのだ。マルコポーロが『黄金の国=ジパング』と呼んだ訳は、恐らくはダビデの王統とソロモン王の秘宝に由来するのであろう。マルコポーロの時代の日本人が、インカ帝国の王の様に金製品に囲まれた生活を送っていたとは考えられない。

マルコポーロが日本を『ジパング』と呼んだのは、この辺りの事情を知っていたからと考えて差支えはないだろう。

 

 ダビデの王統(血統)を受け継ぐしかるべき人物と、その臣下たちは四国の剣山に拠点を置き、彼らが保持し守って来たアーク(契約の箱)を保管したのであろう。

アーク(契約の箱)のイメージは、お祭りで担がれる神輿とうり二つである。箱に木の棒を通し、担いで運ぶのである。箱の両端には金色のケルビムの象が飾られ、他にも様々な飾りが施されているといわれる。

アークの中には三種の神器『モーセの石版』『マナの壺』『アロンの杖』が納められていた。

不思議な日本とユダヤの関係は、このダビデ王の王統(血統)がアークと共に四国に辿り着いた、その時から始まったのである。

ロスチャイルドはダビデ王の王統に仕える臣下であり、その正統な血筋を保持する日本の要請に応えるのは当然の事であった。

日本とは隠されたユダヤ人の国であった。日本の真の支配層は、ダビデの王統を守り続け、その財力の基盤は隠されたソロモン王の膨大な秘宝であるという。

 

しかしながら、宇野氏の主張とは異なりアークはゴルゴダの丘の地下で既に発見されているという情報も存在し宇野氏の話しも大いに眉に唾をつけて聞く必要がある。だが、過去の歴史から見えるユダヤ人たちの日本人に寄せる好意にどういう意味があるのか、またユダヤと日本に共通する多くの慣習の背景には何が有るのか興味は尽きない。


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by levin-ae-111 | 2014-03-30 09:33 | Comments(0)

ただ感謝


 昨日、もう少しで右手を無くすところでした。私が本来の部署とは異なる製造ラインに応援に入るのは何時もことですが、その部署で退職者が出たので、週に一度か二度だった応援が毎日に成ってしまいました。

そこはローラーでゴムを練り込む工程の一部で、私は冷えて硬くなっているゴムシートを柔らかくし分量を調整して次のロール工程に渡すのです。

ローラーとローラーの幅は、この時は約10mmでした。今は緊急停止などの安全策を講じてありますが、それでもローラーが動いている限り事故の可能性は消えません。過去にもローラーに挟まれて手を怪我した人や失った人は何かいます。

 

 作業開始から2時間近く経った時、小さなゴム片が硬くローラーに入らず、私は少し押し込もうと右手でゴムを押しました。その時、ローラーの熱で柔らかく成っていたのか突然にゴムがローラーに入り、あろうことかそのゴムが私の余っていた手袋の指先を巻き込んだのです。

咄嗟の事で、何か起こったのか判断できませんでしたが、私は自分でも信じられないスピードで右手を引いていました。

手袋の小指は切れて、私は手をローラーに挟まれることを免れました。最初は手袋が千切れたことに気づかず、作業を続けようとしました。

ところが、ゴムシートに異常な膨らみがあり、そこをナイフで除去しょうとすると、手袋の切れ端が入っていたのです。そこで、初めて自分の手袋が千切れていたことに気づきました。

 

 手袋は比較的厚手で、人間の力では引っ張っても一瞬で千切れるとは考え難いものです。しかし自分の手を見ると、小指の部分が真っ直ぐに何かで切り取った様に千切れています。

私は即座にこう考えました。これは、何者かが手袋を切ってくれたに違いないと。

そして日頃から、ただ漫然と祈っていた事が自分の身に返って来たのだと感じ、改めてちっぽけな自分も無限の宇宙と繋がっているのだと実感しました。

私の毎朝晩の祈りとは、実に簡単なものです。それは次の様なものです。

「偉大にして慈悲深き天地(あめつち)と、その天地が育む全ての命あるものたちの身の上に、良き出来事が雪崩のごとくに起こります様に。有難うございます」と言うものです。

 

私はこの祈りを朝は通勤途上の車の中で口に出して唱え、夜は瞑想の時に心で二度ずつ唱えています。そしてすれ違う見ず知らずの人々の身の上にも良い出来事が有ります様にと、祈るのです。これはいつごろから始めたのかもう忘れてしまいました。まだ半年にも成らない筈ですが習慣に成ってしまっています。

兎に角、私が無事だったのは見えない世界の存在の関与が在ったに違いありません。その存在が神様なのか守護霊なのか宇宙人なのか、私自身も意識しない反射神経とパワーなのかは不明です。

しかし上記の漫然とした祈りが、こういう形で私の身に返って来たことだけは確かだと確信しています。勿論、この時に気づいてから就寝前の瞑想の時まで、私の感謝は続きました。

それから慣れによる気の緩みが自身に在ったことを反省し、その後の作業を続けました。

慣れというのは本当に恐ろしいもので、危険な作業でも続けていく内に恐怖心や警戒心が薄れてしまいます。危険な作業に携わっている皆様には、この点に十分に留意して欲しいと思います。自分自身と周囲の人々のためにも、危険作業をする人は十分に気をつけるべきなのです。


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by levin-ae-111 | 2014-03-29 09:29 | Comments(4)

頭が良いって?


 ある本によれば『頭が良い』とは、飽くまでも人によりイメージがバラバラであるようです。私が持っている『頭が良い人』のイメージは、①計算が速い②語学が出来る③記憶力が良い④文章力が高い⑤機転が利く⑥理解力が高いなど、少し考えただけでこれだけの項目が浮かびます。

もっと大雑把には3つのタイプに分けられると思います。

  1. 記憶力と知識量に長けている人。

    記憶力があり、知識の多い人は一般的に誰でも『頭が良い』と感じるでしょう。記憶力が高いというのは、運動でいえば基礎体力が有る様なものです。物事の仕組みを理解して頭の中で整理整頓できる人は、万人が認める頭の良い人でしょう。

  2. 頭の回転が速い人。

    物事に関して瞬時に思考し素早く答えを出す、いわゆる頭の切れる人です。他人を圧倒する思考の速度で、次々とアイディアを繰り出せる人は頭が良い人に違いありません。

  3. じっくりと思考できる人。

    こういう人は回転の速い人と対照的ですが、物事をしっかりと整理し、混乱した議論などをまとめてしまう様な人です。

 

 どれも憧れてしまいますが、頭の良い人には他にも特徴があるかも知れません。例えば、失敗をしても決して他人のせいにしない人です。失敗の原因を人に押し付けていては、決してその失敗から何も学べないからです。

私は仕事で何度も痛い目に遭っています。原因の多くは上司からの不明瞭な指示でした。

何もかも丸投げで、詳しく訪ねても上司も丸投げされているので詳細は分からない。

こんなバカな事例が幾つもあります。失敗すれば、責められるのは私でした。

しかし私自身も他の人に仕事をお願いする時に、説明不足から思った結果が得られない事が幾度もありました。

 

そんな経験から、私は人に仕事をお願いする時は、出来る限り簡潔に仕事の目的と手法を伝える様にしています。それでも相手の捉え方によっては、違った結果に成ってしまう事もありますが、私の説明が下手だったと考える様に心掛けています。

上記の13までのどれにも当てはまらない私は、自分の器なりの『頭の良さ』を目指して奮闘中です(笑)


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by levin-ae-111 | 2014-03-24 22:33 | Comments(0)

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 このところ『永遠のゼロ』という映画と、その原作本が大ヒットしていますね。

今更ゼロ戦?そこで私は何故に今『ゼロ』なのかと、様々に愚考してみました。

やはり最近の反韓・反中の雰囲気が日本人のナショナリズムを掻き立てているのではないかと思います。

尖閣列島や竹島の周辺のきな臭い中韓の行動と、我が国に対する誹謗中傷で揺さぶりを掛けて来ています。今まではそれで通用したのですが、最近は彼の国々が意図した方向とは違う反応と成って表れている気がします。

彼らの意図とは逆に日本の人々は、ナショナリズムに目覚め始めたのかも知れません。

数年前ならば、ゼロ戦では売れなかったと思いますが、現状のタイミングを見計らってリリースされた感が否めません。

 

アクセスが少ない私のブログの中でも、零戦や特攻隊、第二次大戦のエースパイロット関連の記事は常にトップ3に入っています。自国の歴史に興味の無かった人々が関心を持ってくれるのは嬉しいのですが、相手に乗せられて同じ土俵に上がってはいけません。

とは言っても何故に彼の国々は、多額の援助を我が国から受けながら、ここまで恩知らずな言動が出来るのか私には分かりません。

現実的には周辺各国(チベット・フィリピン・ベトナム・インドネシア・マーシア・タイ・インド・台湾)などとガッチリとスクラムを組み、中韓の身勝手な横暴に対処する必要があると思います。周辺国も日本同様に身勝手な中国に困らされているからです。

中韓には周辺諸国に脅威や不快感を与える言動は厳に慎んで欲しいものです。何と言っても平和が一番ですし、仲良くお互いが繁栄するのが理想の姿なのですから。


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by levin-ae-111 | 2014-03-23 23:04 | Comments(0)

春近し

昨日は小雪もチラつく寒さでした。ですが今日は春らしいポカポカ陽気になりました。

その陽気に誘われて、小さな春を探してみました。

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家のニャンズ/キー君(左)とチッチ

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キジさんものんびり
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by levin-ae-111 | 2014-03-23 14:14 | Comments(0)

キスカ島の救出劇

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 昭和18年、日本は北太平洋に築いた拠点アッツ島を米軍に強襲され失います。陸軍はアッツ島の守備隊を救おうとましたが、戦況が厳しく救出は不可能でした。アッツ島守備隊は全滅、太平洋戦争で初の玉砕でした。
次に狙われるのはその隣のキスカ島です。ですが制空権、制海権を失った状況下でのキスカ島守備隊の救出は非常に困難でした。
潜水艦による救出も考えられましたが、潜水艦では収容人数も少ないうえに、速度も遅く米軍の警戒網を突破するのは無理でした。
結局は高速の水上艦艇で救出するしかなく、木村正福(きむらまさとみ)少将の第一水雷戦隊に出動命令が下りました。高速の駆逐艦隊に白羽の矢がたてられたのです。

キスカ守備隊5千名の将兵を救うべく、木村は北の海に時々発生する濃霧を突いて守備隊を収容する作戦を立てます。濃霧は敵艦隊からも敵機からも木村の艦隊を隠してくれますし、基本的には敵も出て来る公算が低いからです。
濃霧が発生する日を、気象観測班は細心の注意を払って予測しました。キスカの守備隊と綿密な連絡を取りつつ、遂に7月11日に一度目の突入が敢行されました。
ところが、突入以前に霧が晴れはじめます。
キスカでは守備隊が収容予定地点に集合し、今か今かと木村の艦隊の到着を待ち焦がれています。
艦隊の参謀たちは突入を強行に主張しましたが、木村は「帰ろう。帰ればまた来ることができる」と言い、艦隊は拠点の幌筵(パラムシル)に引き返しました。

幌筵(パラムシル)では、救出を断念して帰還した木村に対する非難の声が上がります。しかし周囲の非難を他所に、木村は次の機会を待って悠々と釣りに興じていたといいます。
その間にも木村とキスカ守備隊との連携は続いていて、キスカの気象観測データーを入手し続けていました。
木村少将の撤退を決意した言葉は、必ずキスカの将兵を収容するという固い決意の表れでした。11日に無理をして突入していれば、敵との交戦は必至で、そうなれば救出作戦は失敗するのです。木村は当初の目的を完遂することに重きを置いていました。

 二度目の作戦実行は7月22日でした。19日に幌筵(パラムシル)からキスカ島のあるアリューシャン列島にかけて濃霧が発生したのです。気象班の予測では、後5日間は霧が発生しているとのことです。22日木村は艦隊に出動を命じました。
しかしキスカまで500カイリという所で、またしても霧が晴れます。この時、艦隊の参謀たちは前回とは逆に、敵艦隊を心配します。一方で、キスカからは29日には確実に濃霧が発生するとの予報が入っていました。
木村はこの時、前とは逆の決断を下しました。キスカの予報を信じて、救出の為に突入を命じます。
敵が来たら・・・と言う部下に「敵艦隊が出てきたら、撃ち合って追い払えば良い」と告げます。
果して、前進を始めた木村の艦隊を前後不覚になるほどの濃霧が包み込みます。艦隊は濃霧に乗じてキスカ島の湾に潜入し、敵に知られることなく5千名の守備隊を僅か1時間足らずで収容し、無事に危険水域を脱出しました。

 木村少将は守備隊の救出という目的に対し、感情に流されることなく向き合いました。最初の作戦決行の時、凡庸な指揮官ならば突入を敢行し敵と交戦に成ったかも知れません。
当時の海軍では司令官といえども、部下の感情や意見に配慮し、本当の自らの考えを披歴しない人も多かったといいます。
南雲忠一中将がミッドウェー海戦で何度も兵装転換を指示したのも、雷撃隊の部下たちに雷撃の機会を与えたいという思いが根底にあり、それが兵装転換をさせたのだと分析する人もいます。これが真実であると仮定すれば、南雲の決断は感情に左右されたものです。
同じミッドウェーの指揮官で南雲と反対にドライな決断を下したのは、山口多門少将でした。
たった一隻残った飛龍の攻撃隊は、繰り返し出撃を命じられました。敵の空母を沈めるという目的にまい進し、感情を廃除した結果の命令だったのです。

 さて木村の場合は山口とは逆の味方を救出するという任務ですから、艦隊が敵と戦っては都合が悪いのです。飽くまで敵に気づかれずに守備隊を収容し、撤退するのが作戦の骨子です。最初に引き返すことを決めた時、非難が自分に集中することは木村には分かっていました。目標達成の為に枝葉のことに固執しない木村の態度には、絶対に味方を救出するという熱い決意が伺えます。熱い心と冷静な判断が、この奇跡的な救出を成功させたのでした。
ここに戦時の作戦指揮に限らない普遍的なリーダーの姿を見ることが出来ます。周囲の雰囲気に流されない確固たる目的意識を持ち、綿密な分析と的確で冷静な判断力は、全ての分野のリーダーに求められるものだからです。
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by levin-ae-111 | 2014-03-20 22:50 | Comments(0)
 1930年に締結されたロンドン軍縮条約では、補助艦も条約の対象とされ駆逐艦にも制限が掛けられた。補助艦艇の保有量が決められ、駆逐艦は上限が1800tに加え1500t以上の艦は全体の16パーセントとされた。
しかし我が海軍はその条約の枠は『吹雪型』で使い果たしていた。軍縮条約のターゲットは我が海軍であり、目的は我が海軍の戦力を抑え込む為であった。実際に軍縮計画の多くは、我が海軍の台頭を抑止する内容が多かったのである。

 この『初春型』はその条約の制限を潜り抜ける為に設計された。当初は『吹雪型』の排水量を280t減量し、1400tの船体とし『吹雪型』から砲塔を一基減らす安易なものだった。
更に砲塔を減らした分だけ魚雷発射管に新開発の次発装填装置を追加して、戦力の増強を図っている。
だが同時に建造された『千鳥型』同様に、トップヘビーとなり安定性を向上させる為にバルジを増設した。手間が掛かる為に、『初春型』は6隻の建造に止まり、後には『白露型』へと移行して行くことになった。

しかし『千鳥型』の一隻『友鶴』が転覆事故を起こすと、同様の設計思想の『初春型』にも大規模な改修工事が行われた。バルジの撤去、船体側面の水防区画の撤去、第三魚雷発射管と次発装填装置の撤去、前部二番砲塔の後部への移設、艦橋構造物の小型化、煙突の短小化、残る兵装の位置を可能な限り下げ、艦艇にバラストタンクを設ける等の改造であった。殆ど新造する様なものなので、艦の概観は大きく変わり、重量も増加した。
その結果、魚雷は9射線から6射線へ減じ、速力も3ノット低下し軍部は落胆した。5番艦『有明』と6番艦『夕暮』は建造中にこの改修が施されている。

『初春型』
初春・子日(ねのひ)・若葉・初霜・有明・夕暮
排水量:2061トン/水線長:105.5メートル/水線幅:10.00メートル
出 力:42000馬力/速 度:34.0ノット/乗 員:208名
武装 主砲:12.7センチ連装砲×2基 12.7センチ単装砲×1
40ミリ単装機銃×2
61センチ3連装魚雷発射管×2 航続距離:4000浬(14ノット)
主なデーターは資料によって異なっているが、その点はどの時点での資料を基にしたのか、或いは詳しく書くべきところを略したかであろう。

この『初春型』の同型艦は昭和8年に建造が始まり、6番艦は昭和10年に竣工している。全艦が戦没している。


*写真は2番艦『子日』/大改造後の姿。
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by levin-ae-111 | 2014-03-19 21:15 | Comments(0)

零戦は名機だったか?

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 中国大陸で苦戦を続けていた中攻(96式陸攻)の護衛機として、空母に搭載される以前にデビューした零戦は敵機を圧倒してみせた。当時、日本海軍の主力戦闘機は96式艦上戦闘機で、爆撃機の護衛には足が短く(航続距離が短く)十分に護衛の任務を果たせなかった。
日本海軍最初の全金属製の96式陸攻も、中国軍戦闘機の迎撃に苦戦し、犠牲が多かった。
性能的には96式艦上戦闘機も敵機に劣らなかったが、爆撃行に同行できないのでは如何ともし難い。

 そこで海軍が三菱に出した新戦闘機のガイドラインは第一義に航続距離が長く、援護戦闘機として敵戦闘機よりも優秀な空戦性能を備えている事だった。そんな要求に応えた結果として、1000馬力に満たない非力なエンジンを積み、翼面積が広く軽量化された戦闘機が出来上がった。
目論み通りに旋回性能は素晴らしく、20mm機関砲2門、7.7mm機関砲2門は当時では重武装であったし、スピードもまずまずであった。それが後に一般に零戦と呼ばれる機体である。試作機の性能に満足した海軍は、正式採用以前に大陸へこれを送り込んだ。
それでも大陸でのデビューは華々しいものだった。零戦の部隊は連戦連勝を記録し、おおよそだが1機で敵を4~5機撃墜するという素晴らしいスコアを収めたのである。

太平洋戦争に突入してからも、抜群の旋回性能で敵を翻弄した。しかし、それもミッドウェー海戦までのことだった。ミッドウェー作戦と同時に敢行されたアリューシャン列島攻略作戦で、敵弾を受けた一機がアクタン島への不時着を試みた。
仲間たちの見守る中、その機は草原と思しき場所へと不時着した。だが不運にもそこは草原ではなく湿地帯だった。零戦は脚を取られてひっくり返ってしまう。
乗員は死亡、機体はほぼ無傷であった。その機体が後にアメリカ軍の手に入り、徹底的に分析された。結果、零戦は丸裸にされ、その長所も短所もアメリカ軍に知られてしまう。

 零戦は高度3000メートル以上では、性能が低下する。防弾装備がされていない。急降下に弱いなどなどの欠点が明らかにされてしまった。
アメリカ軍の対零戦対策は万全で、追われたら急降下して逃げる。絶対に格闘戦はせず、ヒット&アウェーで戦うなどがそれである。更に零戦に対抗すべく零戦より速く、零戦より頑丈で重武装で防御力も高い新型戦闘機をリリース(グラマンF6F)する。
ミッドウェーではCAP(母艦護衛戦闘機)が、低空で来襲する雷撃機に引き摺られ高度を落とした所で急降下爆撃機に痛撃を蒙った。

その時、肝心の護衛戦闘機(零戦)は低高度にあり、4000メートル上空から突っ込んで来る爆撃機に対処できなかった。また知らせ様にも雑音が多く、モールスを受信するのがやっとの脆弱な無線では、零戦パイロットたちには伝わらない。
しかし例え伝わったとしても、上昇力の弱い零戦では間に合わなかっただろう。
実際には投弾を終えて離脱体制に入った敵機を追撃するのが精いっぱいだ。
更に坂井三郎氏の証言では、20mmは命中率が悪く、坂井氏は7.7mm機銃で敵機のパイロットを狙って撃っていたという。また別のパイロットの証言には、零戦の飛行時間は4時間程度だったが、燃料よりも20mm機銃弾の弾数が少なく、CAPはその補給で度々着艦せねば成らなかったらしい。

太平洋戦争の後半で、零戦は非力なエンジンによるパワーとスピードの不足、命中率の悪い機関銃、高々度での著しい性能低下、搭乗員の技量不足(ベテランの多くが戦死したから)などの何重もの問題を抱えて苦戦が続いた。
アメリカ戦闘機のスピードとパワー、強力な重武装に圧倒され続け、多くの青年たちが零戦に乗って闘い死んで逝った。ミッドウェー海戦より後には、さしもの零戦も次第に時代遅れの飛行機に成っていった。
最後は特攻機としての悲しい運命を辿った。重い爆弾を抱え、未熟なパイロットが操縦する零戦はスピードも機動も鈍く、アメリカ軍の戦闘機にとっては恰好の獲物だった。

ただ確かに戦争の初め頃には、素晴らしい戦闘機だったことは確かだ。戦争初期は確かに名機だった。だが反面で大陸での圧倒的なスコアが零戦の改善を遅らせ、次世代戦闘機の開発を遅らせたのである。
次期艦上戦闘機の開発を任されたのは、96式艦上戦闘機、12試艦上戦闘機(零戦)を手掛けた堀越二郎であった。しかしその堀越も度重なる零戦の改善と、軍部の身勝手で無理な要求に悩まされ続けた。結局は後継機の開発は間に合わず、老朽化した零戦は最後まで闘い続けねば成らなかった悲しい運命を背負わされた名機であった。
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by levin-ae-111 | 2014-03-18 21:42 | Comments(0)

戦艦長門最後の闘い

 昭和20(1945)年11月30日、海軍省が解体された。4年間に渡る激戦の末に辛うじて生き残った連合艦隊の艦艇は僅かであったが、その残存艦艇には終戦後も闘いが待っていた。
闘いといっても敵と戦火を交えることはない。しかし、それでも厳しいものであった。
残存艦艇の主な任務は二つあり、一つは太平洋各地に散らばっている軍人や軍属、一般国民などの引き揚げである。いま一つは戦争中に連合国によってばら撒かれた機雷の廃除で、掃海と呼ばれる作業である。危険な機雷の除去作業では、事故が発生し死者も出ている。

 連合艦隊の艦艇の多くは解体処分、あるいは戦利品として連合国に引き渡された。以下の表によれば135隻が連合国に引き渡されている。
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 さて戦艦の中で唯一行動可能な状態で残った長門には、更に過酷な運命が待ち構えていた。長門は大正9(1920)年に竣工して以来、世界最強の戦艦として国民に親しまれていた。
それも当然のことで長門は、大和が登場するまで長く連合艦隊総旗艦を務めていた。
長門が最後に実戦出撃したのは昭和19年10月22日のことで、大和、武蔵と共に戦艦部隊の中心としての出撃だった。
レイテ湾への殴り込みを企図した作戦『捷一号作戦』への参加の為だったが、その折に米海軍軽空母部隊と遭遇し、砲撃を行った。これが竣工して25年目の長門にとって、初の実戦であった。しかし連合艦隊は多大な犠牲を払いながら、結局はレイテ湾への突入を断念して引き返している。

虚しく横須賀へ帰港した長門だったが、燃料不足から動けず岸壁に係留されて虚しく防空砲台として使われるのが精々だった。
終戦後、アメリカ兵の手によってマーシャル諸島のビキニ環礁へと運ばれた。目的は原爆実験の的とする為である。
長門はアメリカやドイツ・日本から集められた70隻ほどの艦艇の一隻として、その時を迎えた。アメリカ軍には、空母機動部隊への原爆攻撃の効果を検証する目的があった。
空母には艦載機も載せ、周囲には戦艦や巡洋艦、駆逐艦、潜水艦その他の小艦艇まで揃えられていた。

最初の実験は7月1日だった。B29による原爆投下で、空中で炸裂した原爆の艦隊に与えるダメージを知る為だった。長門は爆心から1000メートルほどの位置にあったが、この時の爆発では長門は殆ど無傷だったと伝わっている。
2度目は7月25日に行われ、今度は水中で爆発させる実験だった。爆心から400メートルの位置に在った米軍の潜水艦は瞬時に沈没した。また水中に吊るされていた(潜航状態を再現していた)潜水艦群は、外郭が全てめくれ上がり無残な姿になった。
またしても1000メートルの距離にあった長門は、僅かに左に傾斜しただけで健在だった。
長門は左舷艦尾に僅かな亀裂が入った程度の損傷だった。それも乗員がいれば直ちに応急修理できる程度の損傷だったが、しかしその僅かな浸水は止まらなかった。
米軍は資料として残す為に長門を補修しようとしたが、放射能汚染の為に作業は進まなかった。7月29日には浮いているのを目撃されたが、30日の夜明けにその姿は消えていた。
戦艦長門は二度の核兵器の衝撃に耐え、そして最後は誰からも看取られること無く静かにその生涯を閉じたのである。

戦艦『長門』
公試排水量:4万3580t      速 力  :25.0kt
水線長  :221.07m       水線幅  :32.46m
機関出力 :8万2000馬力    乗員数  :1368名
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by levin-ae-111 | 2014-03-15 21:41 | Comments(0)