身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


by levin-ae-111
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30

<   2014年 04月 ( 13 )   > この月の画像一覧

a0160407_10304111.jpg

 水晶製の髑髏(クリスタル・スカル)は、幾つか発見されているが中でもとりわけ有名なのがヘッジスの水晶髑髏である。それは映画『インディ・ジョーンズ』の題材にされた程に有名なものだ。

その由来は1927年にイギリス人探検家のフレデリック・アルバート・ミッチェル・ヘッジスとその養女のアンナにより、古代マヤ文明の遺跡から発見されたとされる。

アンナの17歳の誕生日に、彼女が古代遺跡の祭壇の下に何か光る物を見つけた。掘り返してみると極めて精巧に造られた水晶の髑髏(どくろ)だった。

更に数か月後、そこから数メートル離れた場所から、その髑髏の下顎が発見された。頭蓋骨も下顎も一つの水晶から造られており、しかも道具を使用した形跡は認められなかった。

 

 結果的にその髑髏はアトランティス文明(ヘッジスは元々アトランティスの痕跡を探していた)の未知のテクノロジーで造られたと推定され、オーパーツとされた。

さて、オーパーツとは時代にそぐわない場違いな品物といった意味だろうか。普通に考えてその時代に存在するはずが無いと思われる出土品の総称である。

他にはアステカの髑髏やアンデスの金製の飛行機、錆びない鉄柱など数々の不思議な工芸品が存在する。ヘッジスの水晶髑髏もまた、この仲間入りをしたのである。

 

ヘッジスの水晶髑髏には未来を予言する力が宿っているとか、実は世界には13個の水晶髑髏が存在していてそれが全部そろうと人類の英知の扉が開かれるなどという伝説がある。

だがヘッジスの水晶髑髏が本当にマヤ文明の遺跡から出土したものかどうか、非常に疑わしい。

養父のアルバートの共同研究者たちは各々に著書を出版しているが、どの本にも水晶髑髏という大発見が一行も触れられていない。しかもアルバートと共同研究者たちの写真は有るが、当時17歳の可愛い娘であったアンナの発掘現場での写真は一枚も存在しない。

加えて1927年当時、アルバートはイギリスに一時帰国しており、発掘現場には不在だった。

その点を指摘されたアンナは、髑髏を発見したのは24年だったなどと前言を翻している。

 

所有者だったアンナは、遂に髑髏の真実を語ることなく100才で亡くなった。しかし髑髏の真実を追求し続ける人々は、最新の光学機器を使用してとうとう真実に行きついた。

当時には存在しなかった高解像度の顕微鏡により、髑髏の表面に存在する工具の研削跡を発見したのである。結局、ヘッジスは古美術商から4000ポンドで水晶髑髏を購入していた事実が発覚した。その古美術商バーニィも、借金のかたとして髑髏を預かっていただけで、その本当の出所は分からないと言っている。

 

映画の公開に合わせて大規模で本格的な各地に残る髑髏の調査が実施された結果、大英博物館、スミソニアン博物館、パリの美術館などが所蔵する髑髏の全てが、19世紀あるいは1960年代にドイツあたりで製作された偽物であと断定された。

理由はその多くで近代に成って初めて使用された研磨剤や、工具の研削跡などが発見されたからである。

ミステリーフアンとしては少し残念な気がするが、恐らくは他にも多くの紛い物が本物として価値ある物とされているだろうと想像するに難くない。


[PR]
by levin-ae-111 | 2014-04-29 10:30 | Comments(0)

a0160407_22122200.jpg
a0160407_22113275.jpg

 これは最近の話しではありません。第二次世界大戦の最中、1942年のロサンゼルスでの出来事です。西海岸のロサンゼルス上空に、正体不明の飛行物体の編隊が出現しました。

1942225日の未明のことでした。ロサンゼルスの西方、約190キロの海上を飛行する正体不明機の変態を沿岸警備用のレーダーが捕捉しました。

高射砲部隊は直ちに迎撃態勢を整え、空襲警報が全市に発令されました。警報のサイレンに叩き起こされた市民は、当初こそ訓練だろうと思っていましたが、目標を探して夜空に交錯するサーチライトを見て漸く警報が本物だと悟りました。

 

 午前3時を過ぎて、高射砲の対空砲火が始まります。砲兵隊による未確認飛行物体への対空砲火は、一時間近くも続きました。この間に撃ちだされた砲弾の数は何と、1430発を数えたといいます。

灯火管制されて真っ暗な地上とは対照的にロサンゼルスの空は「まるで爆発した火山の様になった」と、表現されました。幸いにして未確認飛行物体からの攻撃や反撃は皆無だったが、ロサンゼルス・タイムスによれば、警報や砲声に驚いて心臓麻痺や交通事故で5名の市民が死亡したと発表されていす。

 

 本当に未確認飛行物体の編隊が存在したのでしょうか。気球か何かの見間違いだったかも知れません。実際には不明ですが、当時のアメリカは日本軍の空襲を恐れていました。

太平洋戦争の当初、アメリカは日本に対して劣勢に立たされていましたし、元々はハワイ島への日本軍の奇襲攻撃で始まった戦争だったからです。

ですから、アメリカ本土への攻撃も十分に考えられる状況であったのです。現在では戦時中の興奮状態が生んだ一種のパニック状態だったと解釈されています。

 

ところで、日本がアメリカ本土を実際に爆撃したのは事実です。19421月にイ25潜水艦に搭載されていた零式小型水上偵察機が、オレゴン州の山林を爆撃したというのがそれです。それ以外では日本機がアメリカ本土の上空を飛行した例はなく、沿岸から潜水艦の小さな大砲で砲撃するのが精々でした。

山林を爆撃して山火事を発生させる目的でしたが、アメリカ側の人的被害はゼロでした。

爆撃機のパイロットは藤田信雄飛曹長で、戦後に敵国の英雄としてアメリカから招待されて渡米し歓迎されています。また亡くなった時には、名誉市民の称号が送られています。

対してアメリカが日本本土を初空襲したのは、19425月のことで、航空母艦から発進した16機のB-25によるものでした。


[PR]
by levin-ae-111 | 2014-04-28 22:17 | Comments(2)

a0160407_20160934.jpg

 新聞によれば政府の『産業競争力会議』と『経済財政諮問会議』の合同会議で、一部の労働者の労働時間配分を個人の裁量に委ねる方針を示した。これは労働時間を自己裁量にする代わりに、残業代や深夜労働などの割り増し賃金が支払われない制度だ。

労働基準法は労働時間の原則を一日8時間、週40時間と定めており、それを超える場合は残業代などの支払を義務付けているが、この規制を外すとしている。

経済界は「事務職は労働時間の長さと、仕事の成果は比例しない」と導入を求め、労働組合は「サービス残業の合法化で、過労死の続発につながる」と反対している。

 

 ホワイトカラーが示す様に、導入が決定されたとしても事務職に限られるとされる。

もしもこの制度が導入され、8時間労働と40時間労働の規制を外すとなると、労働者全体にとっては由々しき事態である。

世間には残業が無いとマトモな金額に達しない給与所得者が居る。特に中小零細企業では基本給が低く、こんな制度がまかり通ればワーキングプアと呼ばれる人々が激増するだろう。加えて事務職と現場では給与が異なる(事務職の方が低い)場合もある。

事務職でなくとも事務職が個人的な裁量で早々に帰宅し不在なら、現場の人員が事務的な対応を迫られる場面も実際には多発するであろう。

もっと重大な問題は、個人の裁量と言いながら長時間労働を強いられるケースが多発しかねないことだ。ただ働きさせられた挙句に、過労死しても訴えることさえ出来なく成るかも知れないのだ。

また悪徳な経営者はこの制度を悪用する事を考えるかも知れない。例えば、登録上は全社員事務職で、実際には現場仕事に・・等という事も。

 

それにしても財界の人間たちと政治家、官僚というのは何と欲深な人種であろうか。

財界の要請が有れば政治が動き、官僚や御用学者たちが方法を考案し、一般国民の生活など無視して制度化をする。まずホワイトカラーから手を付けて、その内に事務職以外の職種にもなし崩し的に拡大し適応する可能性が考えられる。

戦国時代ではないが『百姓は生かさず、殺さず』というのが彼らの本音に違いない。金銭の苦労を知らないお坊ちゃま、お嬢さまが考える事は、常に現実と相容れない矛盾と誤謬に満ちている。

尤も初めから彼ら彼女らが国民の方を向いている筈もなく、彼ら彼女らにとって極めて合理的で論理的に矛盾の無いものなのであろう。

力の無い一般国民を締め上げ続ければ、何れは自分たちの首も締まるという簡単な理屈も分からないらしい。


[PR]
by levin-ae-111 | 2014-04-23 20:17 | Comments(0)

山菜


 春の楽しみといえば、コブシ、梅、桜など心を和ませてくれる花々を愛でることです。

しかし、それ以外にも春の味覚、山菜が有りますよね。

山菜のひとつ蕨はこんな感じで成長します。

a0160407_21371848.jpg
a0160407_21365135.jpg
a0160407_21363576.jpg


[PR]
by levin-ae-111 | 2014-04-22 21:37 | Comments(0)

a0160407_19463499.jpg

 今回は大正時代に庶民の間に普及した社交ダンスに懸ける青年たちの物語だ。

取材対象は自主的にダンスクラブを立ち上げた6人の男女が主役であった。6人は巷に普及し始めた社交ダンスに魅せられ、集まって踊っていた。

世間一般にはまだ西洋文化に懐疑的な人が多く、ダンスのごとき男女が身体を触れ合うものは忌み嫌われていた時代である。

日本の社交ダンスの始まりは、開国と共に明治政府が西洋人をもてなす目的で建てた『鹿鳴館』に端を発している。

 

 鹿鳴館は政府が推進した西洋化の一環として建設され、外国人向けの迎賓館としての役割を担っていた。鹿鳴館では連日の様に華族や元上級武士たちが集い、西洋風のパーティや舞踏会などが盛んに催されたという。

その鹿鳴館で踊られた社交ダンスが一般庶民に普及したのは大正時代で、多数のクラブが設立され若者たちを中心にブームとなっていた。

物語に登場する若者たち(みさを、花子、かほる(かおる)、朔太郎、武雄、正一)は、親には内緒で使われていない武雄の祖父の道場に集っていた。

若者たちが内緒にするのは、まだまだダンスは破廉恥なものという認識が世間一般に存在し、彼らの両親や身内も例外ではなかったからだ。

 

 楽しく踊る青年たちだったが、突然にみさをの上司と武雄の母親が怒りも露わにして現れる。みさをは教師だったが、結局は教師を辞めてしまった。

十日後・・・練習場所もなく青年たちの苦悩は続いていたが、どうにか身内を説得することに成功していた。問題は踊る場所の確保が出来ないことだった。

場所を探すが無料で借りられるホールが有る筈もなく、青年たちは途方に暮れる。

しかし思わぬ救いの手が差し伸べられた。武雄の古い知り合いの画家が、当分の間留守にするからアトリエを無料で使わせてくれるという。大喜びする青年たち、だが、その夢を打ち砕く関東大震災が数分後に迫っていた。澤嶋は止む無く、本部指示に従い帰還する。

タイムトラベラーとしては、間近に迫った大震災を青年たちに告げるわけには行かなかったからだ。

 

震災から3年後の時点へ青年たちの行方を捜して、リポーターの澤嶋が再び大正時代の東京へ跳ぶ。そこでダンス教室に集うみさを、朔太郎、花子、正一と再会できた。

しかし武雄とかほるの姿が無い。残念なことに武雄は震災で亡くなり、かほるは生死不明となっていた。

そこへかほるを大阪のダンスホールで見かけたとの情報が入る。そこはタクシーダンスホールと呼ばれるチケット制のホールで、客はチケットを購入してダンスホールの女性と踊るのだ。だがホールはダンスだけでなく、女性に男性客を接待させる店も多かった。

かほるが務める店もそんな店だ。

4人はすぐに大阪に行きどうにか、かほるを連れ出そうとする。踊りながらかほるに逃げようと告げる朔太郎だったが、借金があるかほるは行けないという。

無理にでも連れ出そうとする朔太郎とかほるが言い争い、店の従業員たちが集まって来た。

興奮する朔太郎、喧嘩の一歩手前まで行くが、そこへ警察官が現れ、全員を連行しようとする。折しも大正天皇が崩御され、それを口実にいかがわしいタクシーダンスホールを取り締まろうと警察の捜査が入ったのだ。

かほるを連れて逃げだした青年たちは、どうにか逃げ延びた。路地をまがった先には、みさをと花子が待っていた。

数日後、武雄は欠けたが再び東京で大好きなダンスを踊る青年たちの姿があった。震災後に頑張った彼らは、自分たちのダンス教習所を立ち上げていたのだ。社交ダンスは取締法案が議会に提出されるほど怪しいものという認識がまだ有ったが、その法案も審議日数が不足し廃案に成った。社交ダンスはその後に大ブームを迎え、青年たちの教習所も繁盛した。

かほるは教習所で講師として働き、借金を完済した。

 

いつの時代にも、何をするにしても先駆けとなる人々は無用とも思える苦労を強いられる。

世の人々の偏見と無知が、手かせ足かせに成るからだ。このダンス様に世間一般のことでなくとも、個人的な事柄にも偏見とか思い込みが入り込む。

私自身にしても、物事の見方に偏見が無いとは絶対に言い切れない。だが、それでも他人のする事や世の中の現象に対して、偏った見方をしていないか可能な限りチェックを怠らない様に心掛けている。

 

ウイキペディアより

計画を推進したのは外務卿(内閣制度以降は外務大臣井上馨である。当時の日本外交の課題は不平等条約改正交渉、特に外国人に対する治外法権の撤廃であったが、日本に住む外国人の多くは数年前まで行われていた磔刑打ち首を実際に目撃しており、外国政府は自国民が前近代的で残酷な刑罰に処せられることを危惧して治外法権撤廃に強硬に反対していた。そのため井上は欧化政策を推進し、欧米風の社交施設を建設して外国使節を接待し、日本が文明国であることをひろく諸外国に示す必要があると考えた。

それまでは国賓の迎賓館として準備された建物はなく、1870明治3年)、急遽改修した浜離宮の延遼館かあるいは港区三田蜂須賀侯爵邸などを借用していた。鹿鳴館の建設地は内山下町の旧薩摩藩装束屋敷跡(現在の千代田区内幸町、現帝国ホテル隣のNBF日比谷ビル(旧 大和生命ビル)の地)に決まり、1880(明治13年)に着手。途中規模変更(拡大)があり3年がかりで1883(明治16年)7月に落成。設計はお雇い外国人ジョサイア・コンドルで、施工は土木用達組が担当した(大倉喜八郎と堀川利尚との共同出資で設立した組織。大倉喜八郎が創立した大倉組商会の建設部門は大成建設株式会社の源流である)。

煉瓦造2階建てで1階に大食堂、談話室、書籍室など、2階が舞踏室で3室開け放つと100坪ほどの広間になった。バービリヤードも設備されていた。


[PR]
by levin-ae-111 | 2014-04-20 19:46 | Comments(0)


 別に特に困ったことでもないけれど、同僚と反りが合わず少しイライラしています。

物を片付けるにしても私は必要な道具が必要な場所に有って、そこで保管する方が良いのですが、同僚は使用する場所と無関係に道具類は道具類で纏めたがるのです。

 同僚は不要と思ったら使える物でも捨てますが、私は使える物は捨てません。しかし、これが狭い部署の部屋が片付かない原因でもあります。

 物事の解釈も180度とまでは言いませんが、95度くらいは違うかも知れません。従って書類の書き方も全く違い、同僚は今までに私の書いた物を次々と自分流に変えて行きます。

ISO関連の書類などは、形式が決められているのですが・・・。

まあ、若くて将来は会社を背負う人だと思いますので、彼の好きな様に変えて行けば良いと思います。

 

しかし、余りに勝手が過ぎて今日は少し困っている様でした。以前に返品された物を捨ててしまった後で、在庫数を知りたいと言って来たのです。

勿論その数は分かりますが、既に彼が捨てた分も含めて在庫数は上に報告してあります。それを告げると彼は信じられないという表情です。その品物については私も捨てたい思いはありましたが、返品を受け入れた時点で伝票があがり在庫にカウントされるので仕方ありません。

破棄処分しようにも社長が使い道を探っていて、その話しも立ち消え状態のいわくつきの製品です。

同僚は勝手に在庫数に入っていないと決めつけて、誰にも相談せずに捨てたのでしょう。品物の数量が知りたいと言いながら、私が提示しても何とか自分で考えると言うので放って置くことにしました。考えるとかいう問題ではないと思うのですがね”(-“”-)”

かく言う私も若い頃は似た様な事が何度もありました。これも良い経験ですから、頑張って成長して欲しいものです。


[PR]
by levin-ae-111 | 2014-04-14 20:58 | Comments(0)

a0160407_20264510.jpg

今も昔も虫歯や歯周病に苦しむ人は多い。かく言う私も、歯医者さんのお世話に成ってから久しい。今回は久々にタイムスクープハンターより、義歯(入れ歯)の話しだ。

入れ歯の歴史は古く、少し調べたたら何と紀元前にまで遡るらしい。入れ歯といっても総入れ歯と部分入れ歯があるが、今回の話題は総入れ歯の方だ。

日本での入れ歯の歴史は意外に古く、現存するもので1530年代に作られたとされる。

 

 物語は江戸時代(1824)にレポーターがタイムワープする場面から始まった。取材対象は『入れ歯師』の清志郎の店である。入れ歯作りは元々、仏師がその彫の技術を生かして始めたとされるが、江戸時代にはそれを専門とする『入れ歯師』が数多く存在した。

清志郎もそんな『入れ歯師』の一人である。助手の佐吉と共に、店を営んでいる。

江戸時代の入れ歯はかなり進化していて、歯の部分はろう石や象牙その他の動物の骨などが使われ、土台となる部分は全て木製で柘植が使われていた。

前歯には先述の様な素材で歯が形成されていたが、食物を噛む奥歯の部分には金属の鋲が何本も打ち込まれている。見た目と実用性に富んだ、世界的に見ても素晴らしい入れ歯だ。

 

客が来ると口の型を取る(蜜蝋を湯煎して柔らかくし、客に噛ませて取り出し、水で冷却する)。それを見ながら入れ歯の土台を木から切り出し、様々な道具を使って型どおりに削り出す。それを土台にして歯を糸で編む様にして据え付ける。

お客が受け取りに来たら口内に紅を塗り、入れ歯を装着して紅の付着する高い部分を削り、よりフィットする様に微調整を繰り返す。

一般的には注文してから一週間程度を要したものらしいが、現代の歯医者さんよりも早いかも知れない。

 

さて清志郎たちの入れ歯の出来はとても良く、お客たちは満足しているが、他の入れ歯師よりも値段が高いのが玉にキズである。

ある日、業界の元締めが店に来て、値段を他と合わせる様にと言う。元締めと清志郎の議論は平行線で、感情が高ぶった二人は互いに引かない。

そこへ新たな客が来店する。料理屋の老女将で、新しい入れ歯の注文に来たのだ。

しかも訳あって四日後には欲しいという。清志郎はそれを受ける。

清志郎の腕を以てすれば出来ない相談ではない。翌日から清志郎は手際よく作業に掛かった。その次の日、清志郎は佐吉を伴って何処かへ出掛けるという。

 

江戸の町外れの路地で清志郎はチラシを配り、居合抜きの大道芸を披露して人を集める。虫歯予防に関する啓もう活動を行っていたのだ。他の入れ歯師は寄せた客に歯磨き粉と歯ブラシを売っていたのだ。しかし清志郎は少し違った。

無料でそれらを配り、無料診療も行っていた。庶民の虫歯に対する認識は殆ど無く、歯が痛むと呪いや願掛けで治そうとする程度のものだった。

歯の治療に行けるのはお金持ちで、一般庶民には手が届かない者が多かった。清志郎はそんな庶民にも治療を施したかったのだ。清志郎の入れ歯代金が高いのは、その差額をこうした啓蒙の費用に充てていたからだった。

 

 翌日、元締めが怒りながら来店し、二人は言い争った末に清志郎は店を出て行くと宣言した。料亭の女将への納品期限が迫るなか、佐吉は必死に入れ歯を仕上げた。

しかし、白い歯を注文した女将に対し、佐吉が仕上げたのはお歯黒(既婚者の印)の入れ歯だった。女将が入れ歯を使いたい刻限まで後三時間余り、焦った佐吉は同道していた元締を清志郎のもとへ走らせる。客である女将は、この後に見合いを控えていたのだ。

清志郎と佐吉の必死の作業で、どうにか見合いの刻限に間に合わせることが出来た。元締めは謝罪して清志郎を慰留したが、清志郎の決意は変わらず彼は江戸を出て行った。

その後の清志郎は全国を旅しながら、歯の病気で困っている人々を助け続けたという。 

 

 虫歯は本当に辛いものだ、昔の人は本当に困ったに違いない。当時としては世界一精緻で実用性にも富んだ江戸の入れ歯は、世界に誇る日本人の技術の賜物だった。


[PR]
by levin-ae-111 | 2014-04-13 20:27 | Comments(0)

a0160407_21225688.jpg

a0160407_21225253.jpg
a0160407_21224839.jpg

清少納言の生家『清原家』は名にしおう和歌の名家で、百人一首の中に祖父元輔(もとすけ)と父深養父(ふかやぶ)、そして清少納言と三人もの歌が取り上げられています。

清少納言は少女時代を都から遠く離れた周防国(山口県防府市)で過ごしました。父親の転勤に連れて行かれたからです。

父は清少納言に英才教育を施し、和歌や漢詩といった文学の教養を身に着けさせました。

清少納言が宮廷デビューしたのは28歳の時で、これは十代から宮仕えをしている他の女房(女官)と比べて遅い宮廷デビューでした。

最初は仕事を与えてもらえず、いつに成ったら一人前に仕事が出来るのだろうと、納言は悩んだ様です。しかし、父に鍛えられた文章のセンスで主人に気に入られ、やがて女房たちの筆頭となります。

 

 当時天皇が複数の后を持つことは常識で、清少納言はその一人である藤原道隆の娘定子の女房として勤めていました。最初は目立たなかった清少納言でしたが、ある出来事をきっかけにして主の定子から注目されます。

その時は清少納言が小さい頃から父に施された和歌や漢詩に関する教育が、功を奏し文学好きの定子と意気投合しました。

更に天皇が定子の許へ行幸された時に、居並ぶ女房たちに何か和歌をと求められました。突然の事で皆が戸惑う中、清少納言は自らの年増を引き合いに出し天皇の輝くばかりの若さを歌いあげて見せました。

その事が評判になり、やがて貴族の貴公子たちが次々と彼女の許を訪れ、清少納言は恋を経験します。心弾む自らの恋に加え主の定子にも子供が生まれ、主従は幸せでした。

 

ところが朝廷の権力者だった定子の父、関白藤原道隆が病死すると、事態は一変します。変わって権力の座についた藤原道長が娘を天皇の后にし、定子への天皇の寵愛も陰り出したのです。一方で道長の娘彰子は、紫式部、和泉式部などの多彩な才能の持ち主たちを女房として抱えて勢いは増すばかりでした。

その後に定子の方は居所の火事で焼け出され、后の住処とも思えない屋敷を転々とすます。清少納言は一生懸命に主を支えますが、同僚の女房たちの間に広がった根も葉もない噂により心ならずも定子の許を去る事に成ってしまいました。

 

定子の許を去っても、清少納言は主の事が心配でなりませんでした。それは主の定子も同様でした。

ある日、定子から清少納言に贈り物が届きます。それは、当時としては貴重な真新しい紙の束でした。文章を書くのが好きな清少納言を励まそうと贈ったものです。

清少納言はその紙に定子を励まそうと、定子との楽しかった思い出を綴り、定子に送り返します。それを読んだ定子は非常に喜びます。それが現代にも伝わる名作『枕草子』です。

 

しかし定子の許にいた他の女房たちは櫛の歯が抜ける様に、一人また一人と去って行きました。遂に清少納言は再び定子の許へ帰ります。

三人目の子供を身ごもった定子の為に、清少納言は各地の寺社を巡り、定子の健康と安産を祈願して回ります。しかし祈りも虚しく定子は産後のひだちが悪く、亡くなってしまいます。

主人を亡くした清少納言は宮廷を去り、再び筆を執って宮廷での生活や定子との楽しい思い出を書き綴り作品として完成させます。

それが貴族の間で評判となり、多くの人々の知るところと成りました。しかし当時の宮廷の人々の反応は冷たく、自分の才能をひけらかし自慢ばかりしていると批判を受けました。

紫式部の残した文章にも、『枕草子』への同様の批判が見られます。

しかし後の世の評価は異なります。衰えていく定子の姿を描かず、華やかな主の姿を描いたのは、定子への忠義、気遣いであるとの評価です。

1000年もの時を経てなお読まれている名作『枕草子』は、ただ一人の姫君『定子』の為に書かれたのでした。


[PR]
by levin-ae-111 | 2014-04-10 21:23 | Comments(0)

a0160407_21162434.jpg
a0160407_21035911.jpg

清少納言といえば『枕草子』が余りにも有名です。その内容とは三分の一程が日記風に日々の出来事が書かれ、その他の部分にはファッションやスイーツ、それから旅行や恋の話しが記されているらしいのです。内容的には現代のブログかエッセーの様な内容だといいます。そう聞くと何だか軽い感じがしますが、そこには平安時代の宮廷女官という、当時の最先端を行く女性たちの生活や感覚が伺われる貴重な作品なのです。

女性たちが興味を持っていたのはファッションとスイーツ、そして恋に夢中だった様子が描かれていて、現代も1000年前も変わらない女心が見て取れます。

 

例えばファッションについて、十二単の色の組み合わせを季節に応じて変化させる、そういうことを(かさね)と言い、それがお洒落でした。それは十二単の上着でなく、襲がよく見える袖口や裾の部分の色合いを楽しむものでした。

十二単は単衣と呼ばれる肌着の上に、袿(うちき)と呼ばれる色物の着物を重ね着し、上着と唐衣を羽織って後ろに引き摺る裳()をつけて完成でした。

但し十二単といっても、納言の時代には着る枚数は決まっていなかったらしく、着る着物の枚数は自由だったようです。

当時の宮中の女性たちにとって、袿(うちき)の色を季節に合わせて変化さるのがお洒落だったのです。それらの色の組み合わせには、『さくら』『かいねり』『すおう』『あい』『しろ』などと呼ばれる季節ごとのバリエーションがあり、どれも綺麗だと納言は書いています。

例えば『春』は薄く透けた白い衣の下に紅花で数段階に染めたピンクのグラーションで桜を表現したりしていました。これが平安女性のときめくファッションでした。

 

さてスイーツは、何といってもかき氷でした。砕いた氷に甘葛(あまづら)を掛けて、食べていました。それはとても高級で、恐らくは庶民には縁が無かったに違いありません。

氷は氷室に保管してあった氷で、郊外の寒さ厳しい山間の村から宮中へと届けられていました。蜜となる甘葛(あまづら)ですが、甘い植物の樹液を集め煮詰めて作られていました。

植物の枝を短く切り、それを口にくわえて、強く吹いて樹液を採取する大変な作業が必要だった様です。

 また面白い出来事には、毎年115日に健康を祈ってお粥を食べる習慣がありました。

粥を焚く時に粥を掻きまわす棒(粥杖)で腰を叩くと、子宝に恵まれるという言い伝えがあり、独身だった宮中の女性たちは粥杖で腰を叩かれない様に用心しました。

しかし、その日は無礼講とされていたために、お姫様でも用心が必要でした。背後から忍び寄って腰を叩かれるという出来事が頻発しました。叩かれた本人は大慌てですが、周囲の人々には大うけでした。

 

この様に女性らしい話題が満載の『枕草子』ですが、これが書かれた背景には清少納言と主人の定子に起こった悲しい出来事があったのです。

つづく


[PR]
by levin-ae-111 | 2014-04-09 21:04 | Comments(0)

a0160407_13155739.jpg

 以前にもこの映画について、というか僅かばかりのご縁が有ったことを書きました。祖父母の家がロケ場所の候補に挙がっていたからであったが、残念ながら管理をしてくれている親戚の方が断ってしまったのでした。

母は幼い頃に地元の浜に英軍輸送機が不時着した事を覚えていましたし、映画に出て来る比嘉愛未さんが演じる千代子さんの実家の旅館でアルバイトをしたこともあるそうです。

そして一昨日、ネットで注文した母待望のDVDが届きました。

母はDVDのパッケージに書いてある細かな文字までルーペを使って読み、当時の事を語ります。

 

 佐渡に降りたダコタはイギリス軍の輸送機で、かつてはマウント・バッテン将軍も専用機として愛用したとか。ダコタというのは固有名詞ではなく、アメリカからイギリスへ供与された輸送機(C-47)のイギリスでの総称です。非常に優秀な飛行機で、後には民用旅客機(DC-3)として活躍しました。

終戦間もない昭和21年の冬、佐渡の人々は飛行機の爆音に怯え驚き、訝りました。それは上海から東京へ向かう途中、嵐に遭遇しエンジントラブルを起こした一機のダコタでした。

これは終戦から半年も経たない時の出来事ですから、浜に降りた飛行機とその乗員たちを敵視する島民も居たことでしょう。

 

 だが島の人々は村長を中心にダコタの乗員たちを労い、村人総出で浜に500メートルの滑走路を建設し、ダコタを送り出したのです。

40日間の乗員たちと村人の交流や、ダコタを焼こうとした兵学校出身者の未遂事件などを絡めつつ、物語はダコタが再び空に舞い上がるまでを描いたものでした。

戦争に行った息子の帰りを待ちわびる母は、息子の戦死を知り死のうとするのですが、ダコタの乗員に救われます。周囲の人に励まされながらこの母親の絶望の淵に立ちながらも、イギリス兵の無事帰還を祈る姿は、世界共通の母親の強さと優しさを表していると思います。

 

監督は戦争の悲劇を女性(母・妻・娘)の視点から訴えたかったといいます。撮影に当たっては、スクラップ同然に成って残されていた本物のDC-3を分解して、佐渡の浜まで運び組立直したのです。意外なことに、現在ではダコタの物語を知る人は佐渡にも殆ど居ないそうです。監督は千代子さんのモデルとなった女性や、当時のことを知る人に話しを聞くために何度も佐渡に通いました。

さて付録の画像で主演女優、比嘉愛未さんのインタヴューがありましたが、佐渡の人々が温かいというお話しがありました。厳しい寒さの中での撮影は、とても大変だった様です。

佐渡は昔から天皇や聖、そして罪人までも受け入れて来た流刑地でした。冬は大陸からの寒気が上空を覆い、積雪は少ないものの寒さは相当に厳しい地です。

そんな中で佐渡の人々は、来島した者を受け入れ慈しんで来たという歴史があります。

私の中にも佐渡人の血が半分流れているのですが、何十年振りに訪れても親戚の皆さんは大歓迎してくれます。13年前に祖母の葬儀で佐渡に行った時など、赤ん坊の頃しか会っていない叔母さんは、私たち兄弟を全て誰であるかを言い当てました。そのことには本当に驚いたのですが、それが佐渡の人の気質なのでしょう。

 

日本人とは、本当はそういう民族なのかも知れません。戦時中も身の危険を省みず、敵艦の乗員を救助した話しや、命令に反してまでビザを発給し続けた領事、その後のユダヤ人の避難を助けた船員、貧しい暮らし振りながらも遭難したトルコ戦艦の乗員を献身的に介護した漁村の人々、そういうエピソードが幾つもあります。

 そういう気質は、台湾や朝鮮などの占領地で発揮されました。西洋の植民地政策は、徹底的に植民地から搾取するだけでしたが、日本人の支配地域では違いました。

平等な民政が施行され、国内と同等の教育、インフラの整備、住民の権利保護や現地文化の復興などが積極的に行われました。

戦前は台湾からも甲子園大会にチームが出場していました。嘉儀農林がそのチームですが、甲子園大会では準優勝の栄誉に輝いています。本当に戦前までの日本人は、立派だったのです。慈しみ深く、思慮深い国民性は、私たちが受け継ぐべき良い民族的な資質なのです。


[PR]
by levin-ae-111 | 2014-04-05 13:16 | Comments(0)