身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


by levin-ae-111

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上高地

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by levin-ae-111 | 2014-05-31 18:51 | Comments(0)

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 過酷な戦国時代を生き延び、一時は大大名に領地を奪われながらも家を再興し、大大名にまでにした女性の領主がいた。遠江(とうとうみ)の井伊谷(いいのや)現在の浜松市引佐町の国人領主であった井伊直虎その人である。

彼女の女性としての名は分かっておらず、ただ国人領主であった父、井伊直盛の一人娘として生まれたが故に次郎法師と名付けられていた。従妹の井伊直親を婿養子に迎え、井伊家を継がせる予定だった。

ところが家臣の中に不満を持つ者がおり、直親の命を狙ったので直親は逃亡して姿を消した。許嫁の彼女にも直親が生きていることが秘密にされたため、幼い彼女は何と剃髪して出家してしまう。

 後に直親の暗殺を企てた家臣が病死したため、直親は井伊谷に帰り別の女性を娶り、一子を設けた。しかし直親が死亡したために、地元の龍潭寺(りょうたんじ)で出家していた次郎法師に跡目の座が回って来た。家に戻り領主となった彼女は、名を直虎と改め女性領主とは他国に気取られない様に細心の注意を払いながら領主としての手腕を発揮する。

ある時など今川家の借金棒引きの徳政令を出せとの命令を、1年半も引き伸ばし続け混乱なく徳政令の発布に成功している。

しかし、井伊家の領地を狙っていた今川家に攻め込まれ、領地を失い一家は離散してしまう。

直虎は直親の忘れ形見の直政を連れ、龍潭寺へと身を寄せる。

時は戦国時代、東海道一の弓取と名を馳せた今川義元が織田信長に討たれ、今川家は滅亡した。付近には武田と松平(徳川)が対峙しており、遠江の領主たちの去就は二派に分かれていた。直虎はこの機を逃さず家の再興を志向し、15歳になっていた直政を松平に仕官させる為に一計を案ずる。目論みは当たり、家康への仕官に成功した直政は、敵味方の耳目を集める程の活躍を見せる。それに加え、本能寺の変で信長が落命すると、家康の伊賀越えに同行し、家康を見事に帰城させている。

最終的に直政は15万石の大名になり、その子孫は30万石の大大名となった。井伊家で最も有名な人物は、15代当主で幕末の大老井伊直弼である。

静岡の地から彦根へ移り、30万石の大大名となった井伊家であったが、元をただせば直虎の懸命な政治手腕が有ったればこそ。勿論、他にも女性ながら見事に戦の指揮を執った人物もいる。『のぼうの城』で有名な成田家の姫、甲斐姫もその一人だ。

直虎は闘わなかったが、男性顔負けの政治手腕を発揮した。今川家の支配下に有りながらも、男では考えられない粘りとバランス感覚で、領地を奪おうとする今川の陰謀を防いでいた。

そして武田信玄を選ばず、まだ織田の同盟国でしかなかった三河の松平に付くという先見の明も見事である。何よりも一度は滅びた家を再興する、そういう偉業は他には余り見られない。
写真は井伊直政の肖像と龍潭寺の碑


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by levin-ae-111 | 2014-05-29 21:15 | Comments(0)

明治時代の駆逐艦


 1870年代にイギリス・ホワイトヘッド社で魚雷が実用化され、小型艦でも大型艦を沈められる様になった。そこで水雷艇なる艦種が登場した。

特に大型艦艇でイギリスに後れを取っていたフランスは、イギリスに対抗すべく水雷艇の建造に力を入れた。多数の水雷艇の攻撃により、イギリス艦隊を圧倒しようと考えたからだ。

これに対抗する為に1894年イギリスは世界初の『水雷艇駆逐艦』ハボックを就役させ、その後も次々と水雷艇駆逐艦を建造していった。目的は名前が示す通り、水雷艇を駆逐して戦艦部隊を守ることだ。

このハボックは排水量275トン、速力26ノット、武装は5.7サンチ単装砲3門でその上に魚雷発射管も装備していた。これが1900年代に入ると、水雷艇駆逐艦は航洋性能も上がり完全に水雷艇を圧倒するに至る。

 日本海軍でも明治29年、30年の第一期拡張計画でヤーロー社に『雷』型をソーニクロフト社に『東雲』型を6隻ずつ発注する。二系統12隻の駆逐艦は両方ともイギリス製で、イギリスで建造されて日本へ回航されていることから、航洋性の高さがうかがえる。

日本海軍での『雷』型と『東雲』型は当初は水雷艇として扱われたが、1900年に類別としての『駆逐艦』が設けられて1905年に軍艦から独立した艦種となった。

『雷』型と『東雲』型の兵装はほぼ同じで、8サンチ単装砲1基、5.7サンチ単装砲5基、45サンチ単装魚雷発射管2基と強力なものだった。

1900(明治33)からの第二期拡張計画では、『暁』型2隻、『白雲』型2隻が発注された。この4隻は『雷』『東雲』型よりも艦型も拡大され、燃料(石炭)の搭載量も増えた。

注目すべきはこの第二期拡張計画では、横須賀と呉で国産の駆逐艦『春雨』型7隻が生産されたことである。これらの艦は輸入された艦型を模したものだったが、艦型は拡大されていた為に速力は29ノットに減じている。

日本の駆逐艦の黎明期も、他の戦艦や巡洋艦などと同様に輸入した外国製の艦を模倣したものだった。

第二次大戦が開戦した時点での駆逐艦の保有数は、大小合わせて111隻に達していた。

現在も日本の周辺はきな臭い空気があるが、明治の当時はもっと露骨な周辺からの脅威に晒されていたのである。ロシアや清、西欧列強が国際デビューしたばかりの我が国を虎視眈々と狙っていたのである。そういう危機感が我が国を必死の富国強兵へと駆り立てていたのであろう。

そういう背景が存在したにせよ、明治期の駆逐艦の黎明期から僅かな間に国産の駆逐艦を建造し、更に発達させた日本人の技術力と情熱は本当に素晴らしいと思う。

写真は暁(上)と雷(下)


      

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by levin-ae-111 | 2014-05-26 21:26 | Comments(0)

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 なでしこジャパンは、今日アジア大会の初優勝を懸けてオーストラリアと対戦する。予選リーグの初戦で一度対戦している両チームは決勝トーナメントを勝ち上がり、再び雌雄を決する闘いに臨むのだ。

我がなでしこジャパンは既にワールドカップの賜杯を手にしているが、まだアジア大会での優勝はない。日本で世界初のサッカー女子プロリーグが誕生したきっかけは、アジア競技大会に女子サッカーが種目として加えられたからだ。そういう意味ではなでしこジャパンにとって、ワールドカップに劣らず欲しいタイトルであろう。

今回のタイムスクープハンターでは、大正時代に存在していた女子サッカー選手の物語である。1917年に発足した東京蹴球団は日本初のサッカークラブチームだ。そこに2名の女子選手がいた。リポーター沢嶋は何時もの様に『特殊な交渉術』で二人にインタビューを試みるが、拒否される。だが沢嶋は二人の出身地を知り、更に年月を遡り香川県丸亀へと向かう。丸亀では女子高等学校で女子生徒たちがサッカーを盛ん行っていた。

東京蹴球団の上村トシと南沢あき子は、丸亀の出身だったからだ。二人ともかなり上手で球団に入った当初から上手かった。沢嶋は二人が最初からサッカーが上手であった謎を解く為に、まだ故郷に居る当時の二人を当たってみる積りだ。

 丸亀高等女学校にでは、恐らくは日本初と思われる光景が繰り広げられていた。グランド狭しと袴姿の女子生徒がサッカーに興じている。だが幾ら調べても上村トシと南沢あき子の名前は無い。二人は女学校の生徒ではなかった。当時は高等女学校へ進学できる女性はそう多くは無かった。二人がサッカーを上手な理由は、当時としては口外しに難いものであった。過去の二人も沢嶋に理由を言いたがらない。そして軍隊に没収されたサッカーボールを取り戻しに行くという。

陸軍宿舎では兵士たちがサッカーをして遊んでいる。二人は兵士たちに試合を挑み、試合中にもう一人の友人が待つ茂みへボールを蹴りこみ、ボールを取り戻す作戦だ。

作戦は成功し、無事にボールを取り戻したトシとあき子は、ボールを本来の持ち主に返すという。

向かった先は丸亀俘虜収容所だった。柵の向こうでサッカーをするドイツ人俘虜たちがいた。第一次大戦で日本は連合国側であり、敗戦国ドイツは青島を日本に取られている。

丸亀には1914(大正3)324名のドイツ人俘虜が収容されていた。当時の俘虜に対する扱いは比較的緩く、俘虜たちはクラッシックの演奏会を開いたり、手に職のある者はそれを生かして仕事をすることも許されていた。

二人がボールを返す相手とは、ドイツ人俘虜だった。そこでドイツ人たちはサッカーをトシとあき子に教えたのだ。確かに大っぴらに言える事ではないが、サッカーは言葉の壁を越えて俘虜たちと現地の人々の友情を育んでいた。丸亀高等女子学園でサッカーが盛んに行われていたのも、そういった俘虜収容所の俘虜たちとの関係からだった。

有名なベートーベンの第九交響曲が日本で最初に演奏されたのも、俘虜たちによるものだったと伝わっている。

今夜のアジア大会決勝が楽しみである。女子サッカーの統括組織が発足したのは1979年であり、丸亀で女子生徒がサッカーをしていた頃から随分と後のことである。1990年の女子プロサッカーリーグ(Lリーグ)は先述したようにアジア大会の種目に女子サッカーが加えられたからであった。勢いがあった時代にはチーム数も多かったが、バブルの崩壊と共に協賛企業も減りプロ・アマ混合のリーグとなってどうにか窮地を凌いだ。

ワールドカップ優勝までは注目もされなかった日本の女子サッカーだが、その歴史に思いを馳せながら今夜の中継を観戦するのは如何であろうか。


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by levin-ae-111 | 2014-05-25 16:49 | Comments(0)

UFO対戦闘機


 現代ではUFO=地球外知的生命体の宇宙船、と考えている人々も多いことだろう。そうだとすれば、そこで問題になるのは彼らの地球来訪の目的であろう。

友好関係を結ぶため或は適切な進化へと地球人を導くため、などという目的だけではないのかも知れないという疑いを持っている人々も存在する。

UFOが宇宙船だとすれば、その乗組員たちが属する社会の科学技術は、地球人類のそれを遥かに凌ぐ先進的なものである。

地球外知的生命体がUFOに乗ってやって来るのは、友好的な目的に違いないと私たちが考える根拠は、実にこの点にあるのだろう。

彼らにとって文明の遅れた地球人を攻め滅ぼす、或は奴隷として支配するなど彼らの科学技術を以てすれば容易なことと思われる。それが侵略をして来ないという事は、すなわち友好的な目的に違いないという思いがあるからだ。

だが安物のSF映画のように、UFOが光線を出して人間を殺した、戦闘機を撃墜したというショッキングな事例が幾つか存在している。

  1. 19452月に発生した事件は、西大西洋にてアメリカの戦艦ニューヨークと護衛の駆逐艦が二階建ての家ほどのUFOに対して砲撃を敢行した。UFOは無傷で、この時は何の反撃も受けなかった。

  2. 19477月、アメリカ空軍のウイリアム・L・デビットソン大尉はUFOの追跡を命じられ追跡したが、逆に撃墜され死亡している。

  3. 194817日、トーマス・F・マンテル大尉は、突如として現れた金属製の巨大UFOの撃墜命令を受けた。スクランブル発進したマンテル大尉のF-86戦闘機は爆発して墜落し、マンテル大尉は死亡した。

    目撃者の話しでは、マンテル大尉機はUFOからの光線を受けて爆発したという。

  4. 19547月、ニューヨーク州上空でロケット弾を装備したF-104戦闘機に、UFO撃墜命令が下った。接近する二機のF-104に対してUFOから光線が発射され、一機は炎上して爆発、墜落した。乗員は脱出して無事だった。

  5. 19746月、日本でも同様の事件が発生していた。百里基地の中村俊男二等空佐のF-4EJファントム戦闘機は、夜間に東京上空に出現した銀色の飛行物体の撃墜を命じられて出動した。中村二佐は、20mmキャノン砲を準備して獲物を狙った。

    UFOは急降下して攻撃を回避しようとしたのか、急激な機動をした。次の瞬間、中村機はコントロールを失い錐もみ状態に陥った。どうら中村機はUFOと衝突したらしい。

    中村二佐とナビゲーターは脱出に成功したが、不運にも中村二佐のパラシュートは燃えてしまい、地上に激突して死亡した。ナビゲーターは無事に生還した。

尤もこれらの事例は戦闘機側に攻撃の意志が有ったからだ、と言えるかも知れないが武器を持たない生身の人間も被害に遭っている事例も存在している。

ブラジル・サンパウロで農業を営んでいたイグナチオ・デ・サラサさんは、着陸した円盤から出て来た三体の生物に打たれたという(詳細は不明)。その瞬間にサラサさんは身体が痺れ、動けなくなった。その後に2日間に渡り吐き気をもよおし、入院したが2カ月後に白血病で死亡したという。

またコロンビアのアンセシオ・バミューデスさんは自分の農場の上空に滞空しているUFO

を見つけた。彼は懐中電灯を点滅させて会話を試みた。

それに対してUFOはフラッシュで応えたが、その二日後にバミューデスさんは重体に陥り入院した。しかしバミューデスさんは、放射線障害に似た症状で死亡した。

どうだろう、これらの事例は必ずしもUFOとその乗員が私たちに好意的とは限らないという見本ではないだろうか。もしかしたら科学技術に圧倒的な差があったとしても、地球外知的生命体にとって私たちの持つ何かが脅威と感じられるのかも知れない。

それが何かは分からないが、少なくとも私たちの常識では計り知れない何かであろう。無論、友好的な地球外知的生命体も存在するであろうが、彼らの考え方が私たちとは全く異なる場合も想定しておく必要があるだろう。


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by levin-ae-111 | 2014-05-24 22:51 | Comments(0)

未知との遭遇


 この題名の作品を映画館で観たのはいつの頃だったろうか。調べてみたら1977年公開の映画であった。その頃は私も青春真っただ中で、真面目に宇宙人を扱った画期的なエンターテーメントに胸を躍らせたものだ。

ところで、実際に未知との遭遇は発生しているのだろうか。幾つかの例を挙げてみよう。

1954218日、イギリス人のセドリック・オーリンガムは、スコットランドのローシーマウス市内でUFOを目撃した。ところがこのUFO50メートルほど離れた場所に着陸し、中から身長が180センチくらいの人間にそっくりな乗員が出てきた。

彼らは地球人にそっくりで、違いといえば呼吸器具の様な金属を鼻に装着している程度だった。

二人は互いに挨拶の代わりに片手を挙げ、微笑み合った。オーリンガムは身振りや手振り、スケッチブックに絵を描くなどして話しをしようと試みた。様々な質問をしたが、相手には意味が通じず、結局ETはオーリンガムから記念の万年筆を貰い、手を振りながら宇宙船に戻って行った。

たまたま近くでその様子を目撃していた老漁夫が居て、オーリンガムはその漁夫に目撃の証明とサインを貰った。しかし後に世間からオーリンガムが避難されると、漁夫は目撃したことを否定し、オーリンガムは嘘つきにされてしまった。

1968年アメリカのマクマレン夫人は、自宅近くで地上3メートルに浮遊しているUFOを目撃。UFOは半透明の半球形で、中には地球人と同じ位と思われる二人の男性が見えた。

UFOは数分で上空に消えたが、マクマレン夫人はその後ですぐにUFOの様子をスケッチに描いた。それを専門家に見せたところ、それはスカンジナビアで発見された古代人の彫刻によく似ているとされた。

 先述のセドリック・オーリンガムは可哀想だったが、もっと悲惨な人がいる。イタリア人技師のジャン・ピニリである。1952UFOを目撃したピニリは、宇宙人がUFOの周囲を歩いている写真まで撮ったのに、それを嘘だと決めつけられ務めていた会社を解雇された。

 この様にUFOや宇宙人を目撃したと言っただけで馬鹿にされ、白眼視されるばかりか

最悪の場合は職まで失う。それがUFOに乗せてもらった、宇宙人と話しをした等と主張しても今の世の中では空想扱いされるだけだろう。

私も数十メートルはありそうな紡錘形で銀色のUFOを目撃し、更に直径にして数メートル位の小型の透明なUFOも目撃した。内部には椅子が二つと、簡単な操作盤らしき装置が見えたが無人だった。

また青空の高い所に銀色に光りながら浮かんでいるUFOや、45個くらいのオレンジ色のライトを強烈に光らせながらゆっくりと飛び去るUFOも目撃した。

ここで挙げた目撃者たちの例は比較的古い時代のものばかりだが、現在でも世間の人々の反応は似た様なものだろう。

UFOや宇宙人への私たちの認識が変わらない限り、宇宙人たちも自分たちの存在を明確に示すことはないのかも知れない。


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by levin-ae-111 | 2014-05-22 05:15 | Comments(0)

天柱石(てんちゅうせき)

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富山県南砺市の山中に聳え立つ巨大な岩石がある。地元ではその巨石を『天柱石』と呼び、信仰の対象となっている様です。

私が天柱石を知ったのは、友人に誘われてその場所を訪れてからである。場所が分からず地元の商店に入り、買い物がてらに天柱石のことを尋ねてみます。

親切に教えてくれた商店の人は、子供の頃に学校の遠足で天柱石へ行ったという。その人の話しでは、今ではかなり傾いていて崩れる危険性があると言います。

何はともあれ、私は厳しい上り坂とキツイカーブと狭い道幅と闘いながら、愛車をはしらせる。道は更に狭くなり、登りも強くなる一方です。更に落石も所々にあります。

そうして辿り着いた場所は、ドン詰まりでした。しかし、どうにか方向変換できそうな広場がありました。

天柱石は?と探すと、草深い細道が有りました。広場でマムシを見かけた私たちは、傘を杖代わりにして草をかき分けて進みました。そして遂に天に聳える巨石というか、小山が目に入りました。巨大な岩には何本もの樹木が茂っています。

周囲をつぶさに見ると、お供えの跡があり、賽銭なのか岩の割れ目には何枚ものコインが挟み込まれています。

少し離れた場所で見上げると、圧倒的な迫力で天柱石が圧し掛かる様に見えました。当時は特に調べてはみなかったのですが、最近になって発見したブログによれば竹内巨麿の子孫の方がお参りに来られたようです。竹内巨麿はあの『竹内文書』を公表した人物です。

富山は皇祖皇太神宮が有った場所であり、何か古代史に関わる場所である様です。


天柱石について

http://www.gainendesign.com/taizan/tenchu/tenchu.html

竹内文書と竹内巨麿について

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%86%85%E6%96%87%E6%9B%B8


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by levin-ae-111 | 2014-05-21 04:57 | Comments(0)

日本のマスコミって

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 ASKAが逮捕されてからというもの、テレビは多くの時間をその話題に費やしている。

いや実際にはそうでもないかも知れないのだが、私がテレビを点けると必ずと言って過言

でないほどに報道されている。

確かに実績からみてもASKAは偉大なアーティストだが、でもだからと言ってここまで加熱気味の報道が必要なものだろうか。

芸能人が薬物を所持または使用していた!!何てニュースは、昔から沢山あった。正直、今更という感がして、冷めた目で見ている。そんなことで騒いでどうする、ASKAの事件を騒ぎ立てて、重要な問題から国民の目を逸らす作戦か。

 

そんな事より、もっと報道すべき大切な問題が山ほどある。ベトナムと中国の状況、集団的自衛権の問題、TPP交渉の行方など数えたら切がない。

消費税の税率アップだけではなく、税制に関しても国民にとって看過できない税の導入を検討しているらしいし、グリーン税制って何?ガソリンは相変わらず値下がりしない。

年金も支払ばかり増えて、自分が果して受け取れるか否かも分からない。60歳で定年になって、65歳までどうやってシノゲと言うのでしょうかね。

政府はその内に70歳とか75歳とかに支給年齢を上げ、皆さん支払損で一銭も受け取れずに亡くなる、そうすると年金の赤字も少しは埋まる、何てことを考えているのかも知れない。

などと、バカな事を疑りたくなる。と思っていたら、死亡消費税など訳の分からない税金まで考え出しているらしい。

 

 こういう大切で切実な問題を上っ面だけ撫でて、報道した積りなのだろうか。タレントが問題を起こした、そんなのはどうでも良い下らないことだ。もしそれが冤罪であれば、これは徹底的に追及して報道する価値はあるが、それ以外は無用だ。

尤も最早マスコミは反骨精神を無くし、権力者側のPR機関と化しているから、質の高い真っ当な報道を期待する方がそもそも無理なのだろう。


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by levin-ae-111 | 2014-05-20 05:24 | Comments(0)

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各地の民族の伝承には、自分たちの祖先は地球外からやって来たというものがある。マオリ族やインカ人、それだけではなくアイヌ人も似た様な伝承を持っている。

アイヌの人々は、神聖なる先祖が空からシンタという乗り物に乗ってやって来たと信じている。アイヌの最初の神オキクルミ・カムイはシンタに乗って蝦夷のハイオピラに到着した、という話が伝わっている。

オーストラリアのキンバリー山系の原住民たちの間には、天地創造の頃に天から神聖な種族が降りて来て岩石に不思議な絵を残したと伝わる。その伝承を裏付けるかの様に、岩石に描かれた奇妙な絵が発見されている。

またエスキモーにも先祖が巨大な船に乗って、北極圏へ移動してきたと伝わっている。

アフリカのドゴン族には自分たちの先祖が宇宙から飛来したとする伝承があり、知るはずのないシリウスが連星であるという事実を遥か昔から知っていた。

 

これら一見して馬鹿げた伝承も、その裏付けと思われる証拠が出るケースもあり、非常に興味深いものである。

更には隣接する人々の言葉とは異なるにも関わらず、遠く離れた地域の人々のそれが似ているなどの不思議な現実も確認されている。それはまるで異民族が、何処か遠くからその土地に連れて来られたように見える。

それは現在に限らずネアンデルタール人やクロマニヨン人など、古代の人々にも言える。両方の人種とも、その時点まで発展するのに積み上げた進化の道程が見当たらないらしい。

つまり最初から進歩した状態で、そこに忽然と出現したとしか思われないという。

更にネアンデルタール人においては、逆に退化していった痕跡さえ示しているというのだ。

 

 この様に私たちの地球人類の祖先に関しては、現在の学問的な研究では如何ともし難い不思議な伝承や研究結果が世界各地に存在するのである。

私たちの祖先は空からやって来た!!という共通のキーワードは、馬鹿げている様で軽視できないものである。

ここで思い浮かぶのは、宇宙には人間の種を植える人々が存在しているらしい、というスピ系の情報である。遥かな太古の時代もしかしたら、地球は種蒔く人々に選ばれ、人類の種を植えられた惑星なのかも知れない。


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by levin-ae-111 | 2014-05-19 05:31 | Comments(0)

人類のルーツ


 人類は何処から来て何処へ行こうとしているのだろうか?この様な疑問は、私たちの中に常に存在してきたし、これからも存在し続けるであろう。

 近代までは人類の出現を『ダーウィンの進化論』に求めてきたが、今や絶対的指示を受けていた『進化論』も既にその威光を消失しつつある。

『進化論』では人類のルーツはアメーバーであり、それが気の遠く成るほどの長い年月を経て徐々に高等な生物となり、遂には猿になった。その猿が更に進化して、とうとう人間が出現するに至ったとしている。

 

1859年チャールズ・ダーウィンの進化論は『種の起源』という著書を出版した。これが進化論のデビューであった。当時は神による人間の創造というキリスト教の教義が深く社会に浸透しており教会は反発したが、一方で大衆には急速に受け入れられて『進化論』は瞬く間に学問の主流となった。

ダーウィンはアメーバーから最も進化した哺乳類までの系統樹を考案し、様々な種は自然淘汰により進化し生き残ったとした。進化論の基本は、自然による選択であり、弱肉強食の原理である。

確かに肉食獣を頂点にした食物連鎖のピラミッドを見る限り、それは的を射ている様に見える。しかし肝心の人類にとって、果たしてそれが当てはまるものだろうか。

 

よくは知らないが、ダーウィンが人間のルーツを求めて進化論に辿り着いたのかは疑問である。元来は地質学者であり生物学者でもあったダーウィンは、現存する多様な動植物に関する研究を志していたからだ。それがビーグル号による航海で立ち寄ったガラパゴス諸島で、その島々に生息する多数の変わった生物たちに接し、やがては進化論として結実する理論のヒントとなった。

しかし人類が他の動物と決定的に異なるのは、犠牲的行為を行えることであり、そのこと自体が弱肉強食の原理を基本とする進化論とは相いれない気がする。更に人類は文明を構築し、音楽や絵画を楽しみ、道徳的な感覚やより良い自分に成ろうとする向上心を持っている。これらの人類独特の他の生物には見られない際立った特性が、進化論では説明できない様である。

 

進化論が学問として主流となると、当然のことながら証拠探しの化石発掘調査が行われる様になる。そうして膨大な化石が発掘されたが、そこから見えてきたのは進化論を証明するどころか逆に否定せざるを得ないという実状だった。

ダーウィンの系統樹で基は一つとされている人類の祖先だが、不思議なことに人類の進化を系統づける化石記録は存在していない。

悪いことに人類の進化の系統が見つからないだけでなく、脳容量が100万年に渡って一定であるという事実も化石記録から判明した。結局のところ新人類(ホモ・サピエンス)35千年前に登場したのではなく、少なくとも数十万年以前から現在と同じ体形と頭脳だったという結論に至った。

 

20世紀の初めにA・オパーリンがダーウィンに「進化論の証拠は絶対に見つからない」という手紙を出した。それに対してダーウィンは「確かに正確に種の進化を証明することは難しいようです。しかし、理論の前提ではそうするしかなかったのです」と答えているとか。

1980年にシカゴで開催された進化論を討議するための会合に参加した世界中の研究者たちは、会合の終わり頃には誰もが進化論に疑念を呈する様になった。

では何故に進化論が大きく指示され、これまで学問の主流として絶対的な論のひとつとして受け入れられて来たのだろうか。

その疑問に対する答えとして、ケンブリッジ大学のD・ブロートは「人類史を見ると、時代の流れに合っているというだけで、不可解な理論が信じ込まれることがよくある。自然科学の世界でさえも、日常生活に都合が良いかどうかで理論が左右されるところか非常に高い」と述べている。

 

つまり厳正であるはずの科学的な学説でさえ、その時の世間の雰囲気により受け入れられたり、そうでなかったりするということだ。

間違いであろうと断定されつつある進化論だが、今も続けられている研究によりいつかは再び復活する可能性も存在する。研究者の中には今も進化論を指示している人も存在するし、変化の結果としての進化という考え方は完全に捨てられてはいない。

現在では多くの化石記録と幾つもの仮説が提示されている。これもまた現代の多種多様な価値観に立脚した『時代的な流れ』によるのだろうか。

 

自らのルーツを知りたいという人類の好奇心は、先に挙げた人類の際立った特徴の中でも最たるものかも知れない。

というのも、ペットを飼っている人は感じているかも知れないが、動物にも他に愛情を示す行為や以前に上手く行った方法を記憶しているなどの事例はいくらも存在するからだ。が、自らのルーツを求めたという例は知らない。

人間がこの好奇心を持っている限り、人類の起源が明白に示される日が来ると信じたいものだ。


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by levin-ae-111 | 2014-05-18 11:53 | Comments(0)