身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


by levin-ae-111
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30

<   2014年 07月 ( 11 )   > この月の画像一覧

議会の野次に思う

 最近、都議会や国会で女性議員の発言中の野次が問題となりマスコミを賑わせた。
マスコミや女性たちが騒ぎ、野次を飛ばした男性たちが謝罪する事態となったことは記憶に新しい。
野次の内容がセクハラとして取り沙汰された為だが、私としては男性議員たちの考えの浅さに呆れる。時流に無頓着なこと、甚だしいと思うからだ。
野次を飛ばした連中は、事態がこんな大事に発展するとは思ってもみなかったに違いない。
だがそれを多くの男性たちに『男尊女卑』という観念が強く意識の底にあるからだ、等と考えて貰っては困る。
実際に男たちは女性を見下げてなどいないし、女性なくしては日々の生活にも困る男が多いのである。

例えば奥様が不在だと、生活のことは何も出来ない。そのくせ会社では、部下に偉そうに振舞っている人だって居るに違いない。野次を飛ばしたオジサン議員たちの中にも、そういう人が居るかも知れない。オジサン議員たちの本音は、ホンノ冗談、軽口の積りだったのに「困ったことに成ってしまった」程度のものだろう。
確かに「女は口を出すな」と露骨に言った時代も存在したが、それは出来事の領域が男性の対処すべき事柄に限られていた場合かも知れない。

織田信長や豊臣秀吉など屈強で残酷な戦国武将たちとて、様々な意味合いで母や妻の支え無くしては決して歴史に名を留めることは無かっただろう。
例えば秀吉の浮気を止めさせたい寧々が信長に手紙を書いて訴えたのに対し、信長はきちんと応えている。これなどは、信長が女性の力を認めていた証拠だろう。
その信長自身は母の愛を求めて得られずに苦しんでいたし、秀吉も妻の寧々には弱かった。
豊臣家が滅亡の瀬戸際に寧々は動かなかったが、もしも亡き夫に愛想をつかしていなければ、彼女の工作により事態は違ったかも知れない。尤も妾とその息子を助ける義理は寧々にはないが、政治的な意味合いでは寧々も迷ったことだろう。

大昔から男は外に出て獲物を狩り、女は家に居て男たちの留守を預かり、一家の屋台骨を支えて来た。時代が移っても男は紙ベラ一枚で戦場へ駆り出され、残された女たちは夫や息子の無事を祈りつつ精一杯の準備をして戦場へ送り出した。そこには差別意識など存在しなかった。
男たちもまた、その身を犠牲にしても妻子や親を守る為に戦に臨んだのである。そうした男女の役割の違いが、昨今は差別として勘違いされている様に思う。
 
話しは違うが、新聞に掲載された高校野球の記事で、女子マネージャーが選手たちの為に大量のお結びを用意して食べさせているというものがあった。飯を残すと、マネージャーに叱られるので、選手たちは残さず食べる。お蔭で選手たちは体重が増え、逞しくなりパワーが付き、試合では逆転勝ちした。女子マネージャーは裏方として選手を立派に支え、選手たちは勝利を手にした。それはまた誰よりも、女子マネージャーの勝利でもある。
『内助の功』と言ってしまえばそれまでだが、結局は男女の役割を端的に表す言葉はこれしか無いと感じる。

昔の人はそれを認識していて、男たちは妻のことを『山の神』と呼んで恐れていた。女性たちも大抵のことには鷹揚で、男たちを手のひらで転がし夫や息子を成功させる為に知恵を絞った。成功の陰に女在りである。
役割の違いは差別ではない、それを差別と感じさせる教育が誤っているのだと思う。男女の各々の特性を生かして、各々にしか出来ない事柄がある。それが役割の違いであり、決して不平等というものではない。
現代社会にあっては女性の社会進出が目覚ましいが、女性がその特性を十分に発揮できる様に社会制度的に考慮する必要があり、男性たちも自らを省みることが必要に成って来た時代が現代なのだと私は思う。
[PR]
by levin-ae-111 | 2014-07-28 05:19 | Comments(0)

宮下文書の謎-5-

a0160407_17373775.jpg
a0160407_1737218.jpg
 後発の農佐比古(クニサヅチ)の一行が先に蓬莱山へ到着してから三年後、先発した農立比古(クニトコタチ)たちも合流し、二つの集団は再会を喜び合った。
蓬莱国の新王朝(高天原王朝)の初代の神皇は兄である農立比古が務め、二代目を弟の農佐比古が務めた。ただし二人の納めた高天原王朝は、少し変則的な統治になった。政庁は富士山麓に置き、各々の領地は日本を東西に分けて統治することになったのだ。
農佐比古(クニサヅチ)は高天原に在って、同時に東日本を統治し、農立比古(クニトコタチ)は丹波の桑田宮にて西日本を統治した。
重要な問題は高天原にて協議する、そういう約束であった。ここに二つの日本の原型が見いだせると研究者は指摘している。

この『二つの日本』は言語的に、つまり方言の大きな流れにも対応するし、古代の行政区分に重要な役割を示す『三関』伊勢の鈴鹿の関、美濃の不破の関、越前の愛発の関の位置もまたこの説の信憑性を示唆している。
農立比古の居た桑田宮とは、現在の京都府亀ヶ岡市の桑田神社がそうだという。
後の神皇は三代、四代、五第と農佐比古の子孫が就任し、高天原王朝においては東日本系がより強力だったことが伺える。
漸く第六代になって農立比古系の王が就任しているので、西日本tたんか側の巻き返しが成功したのであろう。但し高天原王朝の最後の神皇は、またまた農佐比古の五男田仁知比古(イザナギ)が就任している。しかし田仁知比古は農立比古の娘である白山比女(イザナミ)と結婚し、この二人が豊芦原瑞穂の国の始祖として知られていることからすれば、この時点で統一が成ったと言える。そして、ここにおいて高天原世はピリオドを打つのである。

一見して統一成った東西の日本だが、実際には様々な暗闘が存在しのだろう。その埋めきれぬ東西日本の溝が、伊勢神宮の祭祀にも表れている様に思う。
高天原王朝初代の神皇クニトコタチは、日本書紀では元始神とされているし、古事記ではアメノミナカヌシと同一視されている。
しかし宮下文書では豊受大神とされていて、現在は天照大神に食物を捧げる保食の神 (ウケモチ)として格下の存在として下宮に祭られている。
この以前には丹波にて祭られていたが、雄略天皇の時に「尊い神であるから、皇祖アマテラスと共に祭り厚く敬うため」という理由から伊勢に移されたものだ。
表向きの理由はともかく、真実の狙いは依然として強力な出雲系の勢力を弱める為だったと思われる。
しかし中世ころまでは多くの人々がその真実を知っていたと思われる。中世では内宮よりも外宮の方がより厚く尊崇されていた。室町時代に復活した式年遷宮も、まずは外宮から勧進されたのである。参拝の奉幣も外宮が多く、内宮の神官が外宮近くまで出て客引きも行っていた様だ。

高天原王朝の時代から始まった東西日本の暗闘は、実に長きに渡り繰り広げられてきたが、今年に入り、皇族のお嬢様と出雲大社の神官を務める男性の婚約が発表された。
これはまた、古代のイザナギとイザナミの結婚にも似て、東西日本の溝を埋め、つなぎ合わせる架け橋として期待されている。
[PR]
by levin-ae-111 | 2014-07-27 17:38 | Comments(0)

宮下文書の謎-4-

a0160407_215751.jpg
 さて農作比古の命を受けて、蓬莱国を目指して出発したのは農立比古(ノダチヒコ)という農作比古の第五皇子であったとされる。農立比古=国常立尊をリーダーとする集団は、父神の神勅に従い陸路で蓬莱国を目指した。
陸路であれば、後にシルクロードと呼ばれるルートを通った可能性が高い。恐らくは天山山脈の北側、つまり天山北路だったのではないか、と佐治芳彦氏は述べている。
更に具体的にはサマルカンドから砕葉、楼蘭、敦煌と進み黄河上流に達し、中原を迂回してモンゴルから満州に至り、朝鮮半島に辿り着いたのだろうと予測している。
佐治氏が中原を迂回したと考える理由は、そこには強大な周帝国が存在していたからだ。

農立比古の一群は相当に艱難辛苦の旅をしたらしく、文書には出発から17500日が経過しても阿間都州で待つ父のもとに何の連絡も無かったとある。
これは48年間に当たるが、具体的な期間ではなく非常に長い間待っていたが、音信不通だったという意味だろう。
無論、農立比古も連絡係を出しただろうが、誰も阿間都州へ辿り着けなかったのだろう。
どうにか朝鮮半島に辿り着いた農立比古たちは、船で朝鮮海峡を乗り切り蓬莱国を目指したのだろう。蓬莱国の象徴は蓬莱山だが、瀬戸内海へ入り淡路島を拠点にした一行には蓬莱山は見えなかった。この時点で、更なる航海を続けて駿河湾にまで到達する自信が持てなかったのかも知れないが、一行の大部分を淡路島に留め少数精鋭で新たな探索の航海に出る。

一方で農立比古からの連絡が途絶えて久しい阿間都州では、農作比古の第七皇子である農佐比古(国狭槌尊)をリーダーに、1万3千5百人が今度は海路で蓬莱山を目指して出発した。一行はインド洋からマラッカ海峡を経て、フィリッピン沖で黒潮に乗り、沖縄で対馬海流に乗り換えて蓬莱山を目指した。
無論ここで書いた程に楽なルートではなく、途中で何度も補給と休養を兼ねてルート上の寄港地に立ち寄ったことだろう。日本が近づくと、付近の事情に詳しい海人族に水崎案内を頼んだに違いない。
農佐比古たちは九州沖を通り、津島や壱岐を横目に見て、遂には佐渡島に到着し、対岸の本州へと渡った。現在の新潟県か富山県の海岸に上陸したものと思われる。
更に一行は能都を経て西進したが、途中で食料が切れた為、偵察隊を出した。その偵察隊が草木の実や鳥獣が多く存在する場所を発見し、そこで休息した。その地が加賀(石川県)とされる。

その後は案内人を得て、若狭、但馬、播磨と巡り、今度は東進して高い山の頂へと出た。その戴きから遥か遠くに蓬莱山が見えたので、農佐比古はあちらへ飛びたい(飛太伊)と言ったので、その地の地名を飛太(ヒダ)とした。高い山は乗鞍岳とおもわれる。
ただ『飛騨』の地名の由来については異説があり、大昔の人々は水に映る日を囲んで座り瞑想をしていた。その行為を「日抱き」と称していたのが元で、その地の名が『飛騨』となったという説である。この説を唱えていたのは山本建造氏で、氏は『飛騨福来研究所』を主催されて、精神統一による病気治療や能力の伝授などをされていた。
ご自身も超能力者であられた山本氏は、日本における超能力研究の先駆者で、郷土の先達であった福来友吉博士の研究を継承せんと志しておられた。

さて、山を下りた一行は木曽路を辿り、やがて平野部へ出る。そこには三本の大河が在ったので、その地を三河野と名付け、遂には蓬莱山の麓へと辿りつく。
そして蓬莱山(富士山)から少し離れた、草木が繁茂し木の実も多く、温泉の湧く小高い場所に居住することにした。
間近に観る蓬莱山は二つとない秀麗な山容を持っていたので、この山を『不二山』と名付けた。また高い地に炎が燃え、且つ日に向かっていることから『日向高地火の峰(ヒムカタカチホ)』とも呼ぶことにした。
先発した農立比古よりも後発の農佐比古の方が速く蓬莱山に到着したのだが、後には農立比古たちも合流できた。二つのグループは、合流して漸く巡りあった。それは息子、農立比古の安否を気遣いながら農作比古が亡くなった3年後のことだったという。
[PR]
by levin-ae-111 | 2014-07-24 21:05 | Comments(0)

宮下文書の謎-3-

a0160407_4493599.jpg
 宮下文書には竹内文書や九鬼文書に見られる様な壮大で、果てしない宇宙創成の記述が見られない。天之世七代の神の名が記されているだけだ。
天之峯火夫神(アメノホホオ)・天の高火男神(アメノタカホオ)・天之高地火神(アメノタカチホ)・天之高木比古神(アメノタカギヒコ)・天之草男神(アメノクサオ)・天之高原男神(アメノタカハラオ)・天之御柱比古神(アメノミハシラヒコ)がそれである。
これらの神の名には三代目まで『火』の字が入っているが、火を『ヒ』と呼ぶか『ホ』と呼ぶかは別にして、この文書が書き記す王朝の祖神は火の神というべきかも知れない。
人類が火の使用を始めたことが、他の動物との決定的な違いであるから、ある意味で火への信仰は太陽信仰よりも古い。
太陽信仰の以前に月への信仰が存在したと一般的に謂われているから、火への信仰はそれ以上に古いと見て間違いがない様に思う。

人類が他の動物と同様に火を知らなかった頃、太陽や月への信仰心が芽生える筈もない。
日月崇拝は、後に農耕を始め、農耕が生きる主な手段と成ってからのことであろう。人々の想いが自分たちの存在そのものに向かうのも、心理的に考えれば安定して生きる手段を得てからのことだろう。そういう意味では竹内文書や九鬼文書の宇宙創造神たちよりも、火の神の方が古いだろうと私は思う。
火への信仰といえばイランに興ったゾロアスター教が有名だ。ゾロアスターはBC700年頃の人だが、彼は古代から伝わる拝火信仰を集大成した人物であった。火に対する信仰は中央アジアに多いことから、冨士高天原王朝の祖先たちが元々はジアに居たとする文書の記述と矛盾しない。
また第二神朝(天之御中世)が火高見神十五第とあり、火神を崇拝する伝統なり風習が大陸時代を通して保持されていた。或は支配者にとって無視できない事情があったのだろうか。

 さて第二神朝の生活は、恐らくは石器時代の生活と思われる。文書の記述では当時の阿間(あま)都州(つこく)の人口は10万8千人とあるが、狩猟採集生活でこれだけの人口を養うのは大変である。
これが第二神朝になると、いっきに増えて35万人となる。これは自然増というよりも、気候の寒冷化による人口流入によるものらしい。
阿間都州の人々は国の領地拡大を目指したであろうが、占領した地域の住民を皆殺しにすることも出来ず、人口は増えた。更により寒い北方からの流入も有ったことだろう。
当然、阿間都州を形成していた民族よりも強い連中も侵入して来たであろう。食料事情は寒冷化により悪化しているし、侵入してきた異民族も食料を求めているのだから、社会的には不安定この上ないものに成っただろう。
そこで阿間都州の民族が考えたことは、民族の危機を打破するための大規模な移動だったのではあるまいか。
阿間都州の人々が目指したのは、蓬莱国であった。当時の神皇は第二神朝15第、農作比古神(高皇産霊神)であり、民族の大移動は二回に渡り行われた。
[PR]
by levin-ae-111 | 2014-07-22 04:49 | Comments(0)

宮下文書の謎-2-

a0160407_7361611.jpg
 
                徐福の石像

 徐福が始皇帝の命を受け、不老不死の妙薬を求めて85隻もの大船団を仕立て、童男・童女500人と往復30年間の諸経費に金・銀・銅・鉄・珠玉や衣食住の専門家集団を乗せて秦を出たのは司馬遷の『史記』などに記してあるので恐らくは確かなことだろう。
徐福の一行が山東省を出発したのは始皇帝三年六月というから、遅くてもその年の秋には日本に到着していたと予測される。宮下文書では同年十月に熊野に着いたとしている。
その年は紀元前244年、日本では弥生時代の前期に当たると思われる。
そうだといれば、徐福一行がもたらした財宝や革新的な(当時としては)技術や技能が、弥生文化に何某かの影響を与えた可能性もある。

『宮下文書』の研究者である鈴木貞一氏、文書の時代区分の「天之世七代」を第一神朝、「天之御中世五一代」を第二神朝と呼んでいる。この一~二神朝が日本列島ではなくユーラシア大陸の中央部に存在していたとする主張は、宮下文書が他の古史古伝と異なる点である。
その時代はいつであり、具体的な場所はどこであったのか。
文書では第一神朝は紀元前4400年に始まり、820年間続いた。第二神朝は約1850年間に渡って続いたのだという。神々はこの合計2670年の間、阿間都州(アマツクニ)に在った。
この阿間州は中央アジアのアラル海に注ぐアムダリア、シルダリアの2大河川の上流の高原のことを指すらしい。つまりパミール高原の北西部あたりだろうか。

しかしながら、この年代記を信じる訳にはいかない。何故ならばこの年代記にはウガヤ朝(七十六代2741年)もの年月が付け加えられているからだ。仮にこれを一代限りとしてみても、第一神朝の始まりが紀元前1700年となるのは良いとしても、第二神朝が1850年続いたというのだから紀元後900年代に渡来して冨士高天原王朝が成立した事になり、お話しに成らない。つまりBC1700に第一神朝が始まり820年続いた、この神朝の終わりがBC880年となり、それに第二神朝の存続期間1850年を足すと、冨士高天原王朝が成立した時代はAC970年となり平安時代に成ってしまうので明らかに間違いである。
現実的に人の寿命を考慮して、神朝(第一、第二)の二十二代の神皇を一代40年とすれば、この時代は880年となり、紀元前900年前後に冨士高天原王朝が成立したことになる。
そうであれば豊阿始原朝が約500年、ウガヤ朝を一代限り(約40年)と計算すれば、第二神朝の終わりから約540年となり紀元前360年前後となる。そしてウガヤ朝の成立はおおよそ弥生時代の始まり(約2300~2400年前とされている)に一致する。
という具合に宮下文書の年代記を強引に現実的と思しき年代に改ざんしてみても、結局のところ、この文書の年代記をデタラメとは断じ切れない。
ただ一つだけ確かなことは、記述してある他の内容はさて置き、古史古伝の年代記を鵜呑みには出来ないという事実だけである。

a0160407_7363460.jpg

                 始皇帝の肖像
[PR]
by levin-ae-111 | 2014-07-21 07:40 | Comments(0)

宮下文書の謎-1-

宮下文書とは、別名を『富士文書』とも『徐福文書』とも言われる古文書で、やはり我が国の成り立ちを伝えている。
富士文書と呼ばれる所以は、高天原にも比定される富士山麓に存在したとされる王朝の歴史を伝えているからだ。更に徐福文書とも呼ばれる理由は、始皇帝の命を受けて来日した徐福により神代文字から漢字へと変換されたからだと伝わる。
徐福は始皇帝の命令で、東海の果てに在るという蓬莱山の不死の秘薬を求めて大船団を率いて出帆した。

伝説によればその時に徐福が率いたのは大勢の若い男女と、機織りその他の技術者たちであったとされる。しかもそれだけでなく、膨大な財宝をも所持していたといわれる。
その船団の数は85隻と伝わり、紀州熊野に到着したのが73年という。そこから秘薬を求めて蓬莱山(富士山)麓へと進んだが、結局は秦に帰らずそこに定住して養蚕や機織りの技術を教えて平和に生活していた。
ある時に阿祖山太神宮の神官から神代文字で記された古代の記録を見せられて驚き、その散逸を恐れた徐福は漢字で筆録したものが宮下文書の元になったとされる。

徐福が熊野に漂着したか否かは確かめる術もないが、徐福の墓とされる祠は新宮市と冨士山麓に存在している。先述したように、その真偽を確かめる術はない。だが宮下文書の伝える日本人の足跡は、他の古文書に比べてよりリアルに感じられる。
もしかしたら徐福その人でなくとも、徐福に比定される程に教養と技術を持った中国系の一団が実際に存在し、冨士山麓に伝わる神代文字で記された伝承を漢字に翻訳した可能性がある。
神代文字で記されていた伝承は『富士高天原王朝』の盛衰を記録したもので、やはり天之世七代、天之御中世十五代、高天原世天神七代、豊阿始原世地神五代、不合朝五十一代、神武朝の各代の神統譜と皇統譜、更に富士山の噴火記録などから成っているのだという。
最も注目される記述は、日本民族の原郷を古代ユーラシア大陸の中央部としていて、その原日本人が陸路と海路(陸・海のシルクロード)とに分かれて日本列島へ辿り着き、豊阿始原を開いたという記述であろう。

ずっと以前に何かの本で読んだと記憶しているが、日本の古称ヤマトとはそのユーラシア大陸の中央付近に存在した地名であるとあった。
陸と海のシルクロードを経て日本に到着した原日本人は、豊阿始原を開き、幾度もの内乱や外国からの侵略など王朝の交替を経て、神武朝が成立することに成ったのだろう。
話しは逸れるが、ある研究者の指摘では『秦』の歴史とは、ひとつの国を指しているのではない。有体に言えば真実の『秦』とは、アケメネス朝ペルシャを指すものであるという。
中国は古代には大帝国ペルシャの植民地であり、ペルシャを圧倒したアレクサンダーの殖民地でもあったとする研究も存在するらしい。
そういえば、以前に読んだペルシャ系アメリカ人の著作でも日本とペルシャの不思議な共通点に感激し、信じていなかった著者の父親の話しを実感したとあった。やはり、秦はペルシャの植民地であったのだろうか。
そして始皇帝の建てた『秦』とはアレクサンダー大王のグレゴ・バクトリアの植民地であった『シナ』のことであるらしい。
そうであれば、始皇帝とはグレゴ・バクトリアの将軍か植民地の総督といった立場にあった人物かも知れない。ならば、ユダヤ系の人物であったとしても不思議ではなく、そこから来た徐福一行が富士山麓に国を開いたとすれば、またまた古代ユダヤやペルシャなどと日本の不思議な関わりが浮かびあがる。

a0160407_23585216.jpg
 
[PR]
by levin-ae-111 | 2014-07-19 23:59 | Comments(0)
a0160407_20131650.jpg


私は若い頃から眼鏡のお世話になっている。これが無いと不便なこと、この上ない。

日本に眼鏡が持ち込まれたのは1551年、フランシスコ・ザビエルによってだと伝わっています。その後は輸入物の眼鏡が江戸時代まで流通していました。

しかし、とても高額で庶民には手の届く代物ではなく、明治時代に入り眼鏡が国産化されるまで庶民には高値の花でした。


 さて、物語は江戸時代の眼鏡売り甚平
(じんべえ)が主人公。甚平は庶民にも手が届く様に、中古眼鏡を売り、こまめにメンテナンスも請け負っている。いつもの様に町を歩いていると、一人の若い浪人が声を掛けてきた。

浪人は眼鏡を持っていたが、レンズが壊れてしまっていて使えず、何とか修理して欲しいという。しかも大切な用があるので、明日までにどうしても眼鏡が必要だという。

しかし甚平が商っているのは老眼鏡だけで、この浪人が必要とする近眼用は扱っていない。

結局は断るしかない甚平だった。当時の眼鏡は老眼鏡が主で、近視用は珍しかったのだ。


ガックリと肩を落として帰ろうとする浪人だったが、何歩も行かない内に物に躓いて転んでしまう。甚平はその姿を見て、以前から心に決めていたことに挑む決意をした。

それは甚平の夢でもあったが、相手があることであり彼一人ではどうにも出来ないことだった。国産の眼鏡を造り、庶民にも容易に手に入れられる値段で売る、自分がその魁に成りたい、それが彼の夢だ。

「近目用の玉が無ければ、造れば良いですよ」と、浪人を助け起こしながら、甚平は自分にいい聞かせる様に言った。

浪人を連れてレンズを造れる技術を持っている職人の所へ行く。行く先は玉細工師の権八の所だ。玉細工師は水晶や琥珀などを磨き上げて、装飾品や数珠などの仏具を造っていた。


しかし権八は眼鏡の玉など造れるか、と何度も甚平の依頼を断っていたのだった。甚平の必死の説得に権八は、水晶が無い、それを買う金も無いと言う。

その時、浪人が腰の刀を取り出し、これでお金を作って欲しいと申し出た。浪人は窪田惣十郎と名乗り、甚平に刀を差し出した。それを持って水晶の手配に走った甚平は、水晶を持って無事に帰って来た。

早速に権八が惣十郎の残った一方の眼鏡を玉参考に、水晶を削って行く・・・。

そして一昼夜、遂に眼鏡の玉は完成し、甚平がフレームにはめ込んで惣十郎の眼鏡の修理が終わった。フレームも甚平が考案した新型だ。


ところが・・・職人の家を出て幾らも行かない内に、惣十郎はやくざ者とぶつかり、大切な眼鏡を落としてしまう。それをやくざ者たちに奪われ、甚平が取戻しに賭場へ乗り込む。

眼鏡はツボ振りの男が必要としていて、それでやくざ者たちが眼鏡に興味を持ったのだ。

客として賭場に入り、ツボ振りの横に座った甚平は、チャンスを観て眼鏡を奪回することに成功する。だが追って来たやくざ者に囲まれ、窮に陥る。

混乱の中、どうにか眼鏡を装着した惣十郎は、別人のような身のこなしで、あっさりとやくざ者たちを撃退してしまう。彼は剣術の達人だった。


惣十郎の大切な用とは、剣術の試合だった。浪人の惣十郎にとって、勝利すれば仕官
(就職)に結びつく重要な試合だった。

甚平が見守る中、惣十郎は見事に勝利した。甚平と惣十郎の交流は、終生続いたという。

また甚平は眼鏡レンズを造る甚八とコンビを組み、国産の安価な眼鏡を売り出し、店を出すまでに成ったという。

目出たし、目出たしのストーリーだった。


[PR]
by levin-ae-111 | 2014-07-15 05:20 | Comments(0)

ニャンコ帰る


 我が家には3匹の猫がいる。雄猫2匹に雌が1匹だが、3匹は血縁で同じ年の春に生まれた。その内の一匹が4日ほど前から帰宅していなかった。

一番大柄だが性格は優しい。が、しかし3匹の中では最も野性的な面を持っている。

もう歳で牙が1本しかない。そいつが帰ってこなかったのだ。

まる3日が経過して、家族も諦め気味だった。

そいつが、今朝、玄関の前で誰かが戸を開けるのを待っていた。鍵は開いていたのだが、私以外の家族は畑に出掛けていたり、不在だったり、眠っていたりしていたので誰も気づかない。私も今日は休みなので思いっ切り寝坊する積りだったが、目覚めたのは5時過ぎ。

手洗いへ行こうと玄関前を通ると、「ニャー」と少し情けない声がした。

見ると4日ぶりに見るニャンコのシルエットが、ガラスに映っていた。すぐに戸を開けると、スタスタと家に入って餌場へ直行する。

それにしても4日間も外を彷徨っていたにしては、毛艶も良く身体も汚れていないのが不思議だ。もしかしたら、何処かの誰かがエサを与えて世話をしてくださったのかも知れない。


[PR]
by levin-ae-111 | 2014-07-12 23:48 | Comments(0)

謎の九鬼文-9-

 さて軍学・兵法については、私たちには馴染みがないが、華道や茶道となると現代人にも身近なものになる。

華道には現代も様々な流派が存在し、花嫁修業のたしなみとして茶道と両輪を成すと言っても良い位に隆盛を極めている。この華道も九鬼文書の『天津蹈鞴九鬼宗門静閑論』(アマツタタラクカミシュウモンセイカンロン)第七巻『華道遍』によれば、九鬼家が華道の家元として最古であるとしているらしい。

九鬼家伝来の流派を美毛呂流(ミモロリュウ)という。

活花奥儀伝榊の巻によれば、日本の華道の源は遠く神代より発しているという。つまり天照大御神が岩戸に籠もったとき、天香久山(アメノカグヤマ)の真坂樹(マサガキ)を奉供した古事が九鬼家華道の起源だというのだ。

また生花とは名の通り根のある花を神籬(ヒモロギ)の周囲に並べて植え、その華を賞したことに由来するともいう。

更には榊の枝に木綿を付けたものを神に奉る、いわゆる玉串が献花の始まりであるともされる。


熊野にある花の窟神社
(イワヤ)では春に花や幡を付けた縄を編み、それを飾って歌い舞いながら祭る。これも献花であり、花饗応の祝礼とされ、その起源も古い。

つまり九鬼華道の起源は古く、平安時代の前期には既に美毛呂流として完成されていたらしい。更に『美毛呂流奧伝巻』には、次の様な記述があるという。

「つらつら花の根元を考ふるに、天児屋根命は、宇宙根元八百万神、宇志採羅金神大神を祭り奉り、松と梅との二瓶を生けて、陰陽、大自然を象り、和合の理を示されたり。これらの基根なること明らかなり」と。


九鬼茶道の始まりは華道よりはずっと新しく、九鬼家中興の祖といわれる藤原湛海
(フジワラタンカイ)が庭先で武道の鍛錬の際に点茶の用意をし、心気を落ち着かせたのが起源と伝わる。点茶の点とは、茶を飲めるように仕上げることをいう。

また茶を飲めるように仕上げるとは、武道の修業時や戦場にあって、一戦交えた後に心を落ち着かせ、喝を入れることである。その為の修業の一環として、茶をたてることが湛海の『茶道』であったとは、九鬼文書の『天真宗門総秘編』にある茶道の基原である。

この説によれば茶は元々から、武的なものであったということになる。

更にこの説に従えば、九鬼家の茶道は千利休よりも四世紀ほど以前に遡ることになり、これはこれで古い。


利休は秀吉と対立し切腹を命じられた時に、武士に劣らぬ立派な作法で切腹したという。

そして常に臨戦態勢であった戦国大名たちが、多く利休に師事したのも頷ける気がする。

戦国武将たちが茶道を嗜んだ理由については、彼らの教養の無さの裏返しという見方もあろうが、九鬼茶道の由来を知れば乱世の大名たちが茶を嗜んだ意味も理解できる様に思われる。

常在戦場の戦国時代の武士にとって、点茶というものの効用が実感されたのかも知れない。

冷静さを取り戻し、高ぶった気持ちを静める茶の効用は、現代でも同じなのだろう。政界や実業界に身を置く男性たちに茶道というものが好まれる理由もまた、湛海や戦国武将のそれと同じなのであろう。


[PR]
by levin-ae-111 | 2014-07-06 08:05 | Comments(1)

謎の九鬼文-8-


 他の古史古伝に比べて九鬼文書は多く特徴を持っているが、その最たるものは歴史だけでなく軍学・兵法や神道や修験道の秘呪、更には神医法や華道や茶道までも含む文化体形を有していることである。

熊野水軍の棟梁格であった九鬼家に伝わる古文書なので、兵法や軍学に触れているのは納得がいくが茶道や華道とはいかなる所以だろうか。

神道は勿論『中臣神道』であり、修験道は吉野から熊野にかけてはメッカである。

その神道や修験道から太占(ふとまに)や神医法が関連付けられる。軍学・兵法は後の時代(平安時代あたりから)付け加えられたのであろう。

それが神道や修験道の修業カリキュラムの一環として位置づけられ、重視されて来たのである。茶道・華道もまた神道の祭式に起源があり、乱世の自己修養に求められる。


まずは軍学・兵法であるが中臣鎌足の父、小徳冠者が記したとされる『天真兵法心剣活機論』の中に次の様にある。「神文二曰ク、ソレ神理トハ、武門二行ウ時ハ弓矢ノ大事、即チ神ノ所在方ノ御威徳ヲ伝エルナリ」。

また「神ノ御威光ハ勇猛ニシテ、文即チ徳ヲ備ウルナリ。タトエテ云エバ、何程ノ剛敵、大軍タリト云エドモ、向カウ者ヲタチドコロニ挫キ、即チ即時二退散セシムベシ。コレ神理ナリ」と記している。

つまりこの九鬼兵法は天孫降臨に付き従った祖先たちの文武両道に起源を持っている。

以降は歴代の秘法が工夫され、近代初期に伝わる武芸十六般へと発展する。またその本質は『天津蹈鞴秘文九鬼柔体術』(あまつたたらひぶん)の近代的な発展した姿が『合気道』の精神とされる。


因みに『九鬼神伝八法秘剣術』とは、①槍術②棒術・双術・半棒術③薙刀術④騎射術⑤手裏剣・鎖鎌術⑥銃砲火術⑦水泳・舟術⑧天門地門・築城・陣営・兵法がある。

これに⑨として十手術と小太刀があるという。

また九鬼文書では秘想剣として、以下の各種の剣法が記されている。

夢想剣、浦浪、竹割、一文字、天狗飛、燕返し、無音剣、投剣(刀を投げる技)が有り、他にも火術、陰三法、草隠れ三法、陰火三法など忍術に使用された術もある。

この様に現代に伝わる武芸のルーツの殆どをこの『九鬼文書』に求めることが出来るが、現代でも重視される武道精神は『九鬼文書』の神理に相通ずるものなのであろう。


[PR]
by levin-ae-111 | 2014-07-05 10:58 | Comments(2)