身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


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何だかなぁ~(;゚Д゚)

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 今日のタケシさんの番組で、集団的自衛権と中国や北朝鮮の脅威について議論していた。
首相は集団的自衛権行使容認を発表したが、北方領土近くでロシアが演習を行い、尖閣を巡っては中国の挑発的行為が続いている。
護衛艦へのレーダー照射(火器管制レーダーで、照準を合わせた所謂ロックオンの状態)や、戦闘機の異常接近など、もう少しで不測の事態が発生しかねない現状があるようだ。
過去には米軍機が接触され中国国内に不時着し、パイロットが拘束されたという事件も発生している。
 
 フィリッピンやベトナムとの衝突では、他国の島を力づくで支配下に入れ、他国の船を故意の衝突により沈めている。何れも中国から観て非力な国々であるが、中国はまるでガキ大将の様に振舞っている。
こういう事態が日本に対して行われないという保障はなく、我が国も対応可能な法整備を急ぐ必要があるのは事実であろう。
その以前に外交努力が必要という意見には一理あるが、彼の国は自分の利益に反すること柄には聞く耳を持たない。仮に約束しても反故にすることなど何とも思わない、そういう相手であるという認識が必要である。

交渉するにも相手が縮み上がる程の、或は冷や汗をかく位のパワーが必要だ。今のままでは重機関銃を持った相手に、豆鉄砲で交渉する様なものだ。
更に日本の自衛隊は完全なシビリアンコントロールの下にあるが、パワーを持ったとしても政治が的確な指示・命令を下せるかどかが私としては心配である。不測の事態では判断の遅れが致命的な結果を招くからだ。

 こんな事を書き連ねると、こいつは戦争をしたいのか?と思われる方もいるだろう。そうではなく、備えあれば憂いなしということだ。戦えば必ず勝つ力を以て、その決意を以て、しかし戦わず何処までも粘り強く交渉して行くことが大切なのだ。
つまり降りかかる火の粉は払わねばならず、その準備もまた怠ってはならないのだ。

だが本音を言えば、領土・領海・領空など馬鹿げた概念であると思う。この地球は誰のものでもない。従って土地も海も空も本来は人間の創った如何なる法律や規則に従うものではなく、人間が勝手に線引きして争いを繰り広げているだけである。
資源が必要ならば分け合えば良い、困った問題が発生すれば皆で考えれば良いのだ。簡単なことではないか、万物の霊長を自負する人類が何たる醜態であろう。嘆かわしい限りである。

ある方によれば、私は152回も生まれ変わりを繰り返しているらしい。その中には酷い極悪を行った時もあるだろう、戦争の様な殺し合いにも加わったこともあるだろう。
殺したり殺されたりしたに違いない。
また何十億の人々の記憶を合わせれば、人類としての争いの記憶は無数のはずだ。
自己保身と自己利益のために国家を指導して、幾多の自国民を悲惨な状況に追い込む指導者たちは下劣と愚の頂点を極めた者たちである。
こんな連中の口車に乗っていけない。中国も日本もアメリカも争いが勃発すれば死ぬのは国民であり、指導者たちは決して傷つかないという事を肝に銘じて、この問題を考えて行かねばならない。

*写真は諏訪町通り、坂の上からの光景
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by levin-ae-111 | 2014-08-31 17:54 | Comments(0)

越中八尾風の盆

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 毎年のことだが、この時期になると静かな山間の町が途端にザワザワつき始める。普段は人気の失せた町も、この時ばかりは大勢の観光客が押し寄せるからだ。
二百十日の風を鎮める祈りを込めて、町中の人々が3日間踊り明かすこの祭り、踊りの優雅さだけが魅力ではない様だ。

舞踊家による振付は流石に優雅だが、昔懐かしい風情を漂わせる町全体の雰囲気が人を引き付けるのだろう。しかし実際にはこれといって特段に古い町並みでもないが、坂道の狭いメインストリートに沿って隙間なく民家が立ち並ぶ光景はやはり前時代的な雰囲気がある。

いつも友人と話し込む喫茶店も、今日は人の出入りが多い。聞くとはなしに聞こえて来る人々の話しでは、どうやら此処で知り合ったらしいことが分かる。
圧倒されそうな女性たちの話し声に、私たちは注文したコーヒーをソソクサと飲み干すと店を後にしたのだった。

越中八尾風の盆
開催日 9月1日~3日
前夜祭として20日から30日まで各町内が持ち回りで踊ります。
午前8時~午後10時
詳しくは以下をご覧ください
http://www.yatsuo.net/kazenobon/guide/downroad/zenyasai_pamphlet.pdf
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by levin-ae-111 | 2014-08-30 17:30 | Comments(0)

夢の中の大切な女性

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 もう二十年以上も前から、夢の中に出て来る不思議な人物(女性)の存在に気づいていました。ある夢では二人で車に乗り、ある時は和服姿で、また時にビシッとしたスーツ姿です。
最も印象的だったのは、完璧な山ガールの姿だった時と斎王によく似た衣装だった時です。

その女性は夢のシチュエーションに合わせて様々な姿で現れます。今よりも年老いた私としっとりとした和服姿の彼女で、紅葉を眺めながらホテルの庭を散歩もしました。
宮殿の庭で何か深刻な問題について相談していたり、山奥の滝の横の小さな祠に案内したり、強い風雨の中を登山したりしました。

姿形は夢の度に違いますが、共通しているのは非常に親しい間柄で、互いに深い理解と信頼で結ばれていることです。ですから夢の中で出会った時は、まるで空気みたいに自然です。
現実にそういう存在が居るわけではありませんが、夢という言わば異次元に心を許せる人が居て暮れるのは幸せなことだと感じています。

*写真は斎王の衣装。
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by levin-ae-111 | 2014-08-27 20:09 | Comments(0)

瞑想?それとも妄想?

 私はもう何年も断続的にではありますが、瞑想の真似事を続けています。時々ですが不思議なイメージを見ます。時としてそのイメージの中に登場する人物から、何かを貰うことがあります。
ある時は刀、ある時は巻物、ある時は小さな箱、お茶や酒の場合もあります。うつ病で伏せっていた頃には、虹の様な光線を浴びせられたりした時もあります。

そして昨夜は○リ○のカフェオーレの様な円錐形の容器に入った飲み物でした。しかもご丁寧にストローまでさしてあります。
飲もうとして手を伸ばすと、その容器は徐々に捻じれていき、普通の円筒形の容器に変わりました。私はイメージでそれを飲んだのですが、味はしませんでした。

私はいつもの単なるイメージだと思い、瞑想を終えて床に就きました。しかしそれからが大変でした。夜中になると身の置き所かぜ無い感覚がして、様々な姿勢で寝返りを打ちますがどうにも同じ姿勢で長くは居られません。身体の何処かが痛むとか、疼くとかいうのではなく、何とも表現し様のない感覚で包まれているのです。
どうにか明け方には少し眠りましたが、朝は眠くて仕方がありませんでした。

朝、出社するまでの間に、私は自分自身の内なる声にこの現象について問いました。
内なる声は、私には女性からのパワーが不足しているので、それが補充されたのだと告げました。
確かに男性は女性と一緒に成ることでパワーが出ますが、私の場合は甲斐性が無いので女性には無縁の生活です。
従って男性が女性から得るパワーが皆無なので、見かねたどなたかがパワーを下さったのでしょう。
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by levin-ae-111 | 2014-08-26 21:15 | Comments(0)

今日感じたこと

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 今日はまたまた面倒なISO審査の日でした。例年なら酷く苦痛なのですが、今年は何と私は出席する必要もなくやり過ごす事ができました。
『困った事は起こらない』と昨年の今頃から思い込んで来たのですが、有難いことに今も変わらず困った事は起こっていません。

さて、そんな訳で同僚たちがISO審査に臨んでいる間、私は通常の仕事に勤しんでいました。そして様々な事について考えました。
しかし人間、気楽だとろくでもない事を考えるものです。例えば『人生に目的などない、ただ生まれて死ぬまで生きるだけだ』とか、『人間はただ宇宙の欲する経験を集めるだけの道具で、宇宙は人間の苦しみや悲しみを考慮しない』とか、まあそういった事です。

これらの事柄は、考えても結論の出る事ではありません。ですが人間は昔から、そういう事柄について考えてきたのです。多くの哲学者や宗教家が、自分なりに結論を出して他の人々に伝えようとしたのも事実でしょう。
しかしそれが正確に人々に伝わるとは限らず、誤解や曲解による捏造なども行われ、返って人々を惑わせる事態になったりしました。

私にとって目標とする人生は出来る範囲内で、より良い生き方を心掛ける、それだけです。
それでも、つい考えてしまう人生の意味や人間存在の意義とは、本当に存在するものか否かも私程度の頭では分かりません。
ですが、そんな事を考えてしまうのも、人間の性なのかもしれませんね。
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by levin-ae-111 | 2014-08-25 20:15 | Comments(0)

日本商船の悲劇(2)

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 太平洋戦争が激化する最中、危険な海域を必死の思いで物資を内地へ運び、兵士を戦地へ運んだ日本の商船は稀に見る夥しい人員と物資の亡失を厭わず終戦まで働き続けた。
終戦後も生き残った船員と船には、復員者の輸送という任務が課せられ、戦闘行為が終結してからも働き続けねば成らなかった。

商船乗員の損耗率は、軍人たちのそれを上回り、その中でも19歳以下の少年たちの占める割合が30%にも達するという異常なものである。
陸海軍軍人の闘いの様子は多くを語り継がれているが、その陰で商船の悲劇と犠牲は余り語られることがなかった。
今、多くの仲間たちの死を目前にしながらも過酷な現実を生き残った方々は、仲間たちの冥福を祈りつつ、自らが生き残ってしまったという重苦しい想いに苦しんで居られる。

その方たちの中には忘れられている仲間のことを知って欲しい、犠牲者の声を聞いて欲しいとの想いから活動されている元商船乗組員の方々がいらっしゃる。
海洋船舶画家の方は、自らも商船の高射砲担当として出征された。この方は北はアリューシャン列島のキスカ島、南はラングーンやジャワ、ソロモン諸島まで転戦したという。最後にはマニラ湾で負傷し、内地へ送還されて生き残ったそうです。
後に画家となり輸送船や軍艦のプラモデルの箱絵などを描いてこられた。

また或る方は、現在でも国内外で戦没船の調査を続けていらっしゃる。船の沈没場所は概ね掴んだが、その航海の目的や乗船していた人々のなど不明な点が多いのだという。
埋もれた資料を探しまわる地道な調査も、当時の船や軍の動きが判明するかも知れないという想いに突き動かされてのことであろう。

最近、拙ブログを訪問して下さった菊池金雄氏も、商船乗組員としての体験を著書『硝煙の海』として発表されている。
http://www.excite.co.jp/relocate3/?co=jp/top_2010/top_mylink/url/591735;http://www.geocities.jp/kaneojp/04/0401.html

知られざる日本商船の悲劇を、後の世の我々が少しでも知ることで、輸送船と供に沈んだ方々の無念の想いが僅かでも癒される様にとの願いを込めて・・・合掌。

*写真は戦時標準船(3か月程度で建造された)
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by levin-ae-111 | 2014-08-17 10:45 | Comments(0)

日本商船の悲劇

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以前にアップした文章ではありますが、太平洋戦争で犠牲になられた幾多の方々のご冥福を祈って再度アップしました。

 太平洋戦争では多くの戦闘艦が沈没しているが、それ以上に多大な犠牲を出したのが輸送船であった。北陸中日新聞が本日掲載した資料では、戦前に保有していた100トン以上の船は2742隻(646万4700t)、これに加えて戦時中に建造された1366隻を合わせると、4108隻にも上った。
 それが終戦時には1486隻に激減していた。戦時中に失った船舶は2622隻(約860万トン相当)を喪失してしまっていた(明らかになっているものだけ)。

 戦時中には予想以上に高い船舶喪失率に、軍部は戦時標準船なる造りが簡素で、工期が短い船を盛んに建造した。その総数は1000隻にも達したが、それ以上に被害は大きく失った輸送船を補うことは出来なかった。
これらの輸送船には戦争勃発とともに、船を所有する民間会社から軍部が船舶とその乗員を徴用し支配下に入れたものが多い。
横浜山下埠頭に係留されている「氷川丸」も、元は日本郵船が所有する貨客船であった。日本とシアトルを結ぶ航路に就航していた。日本郵船では「氷川丸」をはじめ、その殆どの所有船舶を軍部に徴用された。
結果的に185隻(113万t)を失い、人的被害は5312名と記録されている。その内5157名が船員である。

 「氷川丸」の場合は病院船として使用された為に生き残った可能性が高い。それでも3回も被雷しているが、丈夫な造りの船であった為に沈没を免れたものらしい。「氷川丸」は戦後も復員船として活躍し、元のシアトル航路に復帰した後、現在の場所に係留されて横浜港のシンボルとなった。戦時に動員された貨客船としては、非常に幸運だったといえる船であろう。
 日本の輸送船は、殆どがアメリカ潜水艦の犠牲になっているが、その割合は56.5パーセントとなっている。次に多いのは航空攻撃による犠牲で(30.8パーセント)、次は触雷による沈没で6.7パーセント、海難事故と思われるものが4.9パーセント、その他が1.1パーセントとなっている。
これで、如何に潜水艦による被害が膨大であったかが覗われる。

 以前に読んだ小説では、軍事標準船のクルーが苦労を重ねながら、東南アジアから物資を運ぶ様子がリアルに描かれていた。護衛艦として駆潜艇がついていたが、彼らは全く護衛の任に堪えず、何等あてにならなかった。迫り来るアメリカ潜水艦と海賊を誤魔化すために、航路を選び様々な工夫をして何とか日本に辿り着くという物語だった。
日本軍は最終的に輸送船ばかりでなく、軍艦にも物資を積んで輸送を試みているが、高速で武装した軍艦ですら日本まで辿り着くことは困難を極めた。
軍艦でさえそうなのだから、船足が遅く潜水艦から見ると洋上にポッカリと浮んで発見し易い輸送船は格好の餌食であった。

日本は石油や各種鉱石、ゴムなどを運ぼうと必死だったが、航路は限られており同一の海域で200隻から300隻以上もの犠牲が出ている海域が数多くある。
大海原で突然に雷撃され、何も分からずに、或いは阿鼻叫喚のうちに亡くなった大勢の同胞のご冥福を心から祈りたい。
 今も国益という大義名分の下、中国はきな臭い動きを強めているが、これまでの戦争で亡くなった人々はどう思っておられるだろうか。
彼ら彼女らの尊い犠牲の上に築かれた平和や国際ルールを、現在の私たちの身勝手な解釈で蔑ろにすることは許されない。
私たちは何の為に「歴史」を学ぶのか、もう一度、考えてみるべきである。常に目前の都合にばかり振り回されるのではなく、大局的な視点を政府や有識者の方々に持って欲しいと期待するのは無理なのであろうか。

写真は、病院船当時の氷川丸
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by levin-ae-111 | 2014-08-16 09:03 | Comments(0)
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 パラオ共和国の小島ペリリューは、約70年前にその後の米軍の作戦に大きな影響を与える激闘が繰り広げられた場所です。
ペリリューは日本から約3200キロの南方、レイテ島の東に浮かぶ、南北約9キロ、東西約3キロのサンゴ礁の小島です。この小島が悲惨な殺し合いの舞台になったのは、米軍のレイテ進行作戦の拠点として位置づけられたからです。
当時ペリリューには1600メートルの滑走路を持つ飛行場が建設されており、そこからレイテ島への航空攻撃が可能だったからです。その飛行場を手中にするための作戦が、ペリリュー上陸作戦でした。

米軍の意図を察知した日本軍は、満州から関東軍の精鋭部隊をいち早くペリリューに送り込んでいました。中川州男(になかがわくにお)大佐の率いる約1万の陸軍歩兵第2連隊がそれでした。
この時、日本軍は敵陣に突撃して華々しく散るという玉砕を禁じ、徹底抗戦して相手に損害を与え続ける作戦に転じていました。中川大佐たちはその方針に基づき、サンゴ礁の島のあちこちにトンネルを掘り、戦いに備えていたのです。
そこへやって来たのが米海兵隊第一師団、17000名の将兵でした。師団長はウイリアム・ルパータス少将で、当時の第一師団は海兵隊で最も優れた部隊として名を馳せていました。
ルパータス少将と師団は当初、3日で島を占領すると自信満々でしたが、その彼らも日本軍の徹底した持久戦により手酷い出血を強いられることになりました。

海兵隊史上最悪の闘い、それがペリリユー島での歩兵第2連隊との死闘でした。60パーセントもの将兵の死傷率は酷い損害ですが、対する日本軍の生き残りは僅かに50数名とも30数名とも言われますから、戦いの激しさ悲惨さが伺えます。
日本軍の主な兵力は戦車でしたが、これが米軍のシャーマン戦車には通用せず、緒戦で全滅しました。その後は洞窟に立てこもってのゲリラ戦へと闘いは移行しますが、最後は島の全域を米軍に支配され、部隊本部の壕で中川大佐は自決しました。

 当時この闘いに参加した日米の将兵たちは、何れも90歳を越えもうご存命の方々も極めて少なくなりました。その方々の証言は、非常な重さを以て戦闘の悲惨さを伝えています。
華々しい兵士の活躍を撮影するために、米軍は18名のカメラマンを第一師団に配属していました。しかし彼らのカメラが捉えたのは、双方の兵士たちの死体でした。
茂みに潜み狙撃する日本兵により次々と倒れる米兵、救出に向かった者もまた撃たれる、そんな場面や仲間の死体を回収する場面、戦意を失って無抵抗の日本兵を打ち殺す場面などカメラは正に地獄の様相を記録しています。
米軍がこの闘いで初めて投入したのが火炎放射器で、その炎の射程は130メートルにも及びました。そして1000℃にも達する高熱を放つ爆弾『ナパーム弾』の使用も、この島が最初だったそうです。この両方とも後の硫黄島や沖縄戦に使用され、ナパーム弾は本土空襲の為の焼夷弾へと繋がっていきます。

 睡眠も儘ならない戦場では、精神に異常をきたす兵士も続出し、日米双方とも仲間の手で処分された人もいました。元米兵の証言では、たこつぼを掘り二人一組で入り、一人が見張り一人が休むという体制でした。しかし疲労が激しい戦場のこと、二人とも眠ってしまうことも度々でした。二人とも眠ってしまった壕に、日本兵が侵入し一人は死亡、一人は重傷ということがあったと言います。その壕は証言者の壕から3メートルも離れていませんでした。狭い島で戦線は入り乱れ、もはや前線が何処なのかも不明という状態でした。
40℃にも達する気温で、放置された死体は直ぐに腐敗し、倍に膨らみそれに無数のハエがたかり島は腐敗臭とハエの大群に満ちていました。
極限の状況で日米双方の兵士たちは、闘い続けました。もう闘いの意味も分からず、互いに憎悪だけの殺し合いが続いたのです。

生き残った日本軍の兵士は「サソリとサソリを瓶の中に入れて、蓋をした様なものだった。相手を殺すしかない、そういう状況だった」という意味のことを語っておられます。
そういう島での兵士たちの地獄を他所に、米軍はペリリュー島を無視して直接レイテ島への上陸を開始します。マッカーサー将軍が上陸し、レイテは米軍の支配下に入りましたが、何故かペリリュー島の作戦は続行されました。正確には続行というより、無視されたのです。
日本軍を追い詰め、失っていた人間性が回復し始めると、米軍兵士たちは別の敵と闘わねば成りませんでした。
ある兵士は襲い掛かって来た日本兵を殺しました。その死体から見つけたのは、両親と幼い妹、そして自分が殺した兵士が写った家族写真でした。
それを見た米兵は、自分のしたことの罪深さに衝撃を受け、頭を抱えて暫くはその場を動けなかったのでした。「俺は何てことをしてしまったのだ・・・」そういう後悔の念や悲惨な闘いの様子は、生き残った兵士たちの胸に今も刻まれています。
第一師団のカメラマンの内で唯一の存命者は、悲惨な戦場の様子を今でも夢に見るそうです。彼にとって時間は止まったままで、あのペリリュー島に居た頃のままです。

 人生で最も良い若い時期を戦争で狂わされた人々、地獄の前線に駆り出された青年たちにとって勝者は存在しません。存在するとすれば、殺戮を好む精神的異常者だけです。
平和な南の楽園であるサンゴ礁の島で戦われた一つの攻防戦は日米双方に大きな傷を残して終結しました。
また緑が豊だった南海の小島は、丸裸になり真っ黒に炭化した木々と、むき出しの岩だけになってしまいました。
 
今日、太平洋戦争や支那事変を不当な侵略戦争だとか、正統な防衛戦争だとか様々な議論があります。そういった議論は大切ではあるでしょうが、まずは戦争の悲惨さを認識する必要があるでしょう。
同じNHKスペシャルで、陸上自衛隊幹部候補生学校の若者たちの生活も取り上げられています。集団的自衛権の閣議決定に関連しての取材でしたが、軍事教練に励む現代の若者たちも恐らくは想像できないであろう惨劇が先の大戦では至る所で繰り広げられたのです。
ヨーロッパ、アフリカ、ペリリュー、レイテ、ガダルカナル、インドシナ、中国大陸、アリューシャン列島、硫黄島、沖縄などあらゆる場所で戦闘が行われ、全世界では何千万単位の犠牲者が出たのです。
また一方的な虐殺は広島、長崎の原子爆弾の投下を筆頭に、東京大空襲、名古屋、大阪、富山や福井といった中小都市への無差別爆撃などがさしたる意味も無く行われました。

陸上自衛隊幹部候補生学校の校長は、入校式において次の言葉を新入生たちに送っています。それは『大いなる精神は静かに忍耐する』という、自衛隊発足以来の先輩たちが拠り所にしたこの言葉です。
また元佐世保地方総監は自分たちの任務に関して、「究極的にはこの国を二度と戦禍に置かないという強い意志を以てやっていく事だと思う。やれば必ず勝つ、力を持っていざと成れば戦う覚悟を以て、でも戦わない。そういうことが自衛隊が今後も達成すべきことだと思っています」とコメントしています。
中国が挑発的な態度を強めていますが、軽々に先の大戦で無数の人々が、若者たちがその身を捧げて築いた現在の平和を損なってはなりません。
それには、大いなる精神で静かに忍耐し、やれば絶対に勝利する力を持って、でも戦わない。
それが今日の事態に対する適切な心構えであり、現実的な対応であると私も考えます。
戦争で泣くのは敵も味方も庶民ばかりです。戦禍に苦しむのも力の無い庶民です。私たちの曽祖父や祖父、曾祖母や祖母の時代、戦争という恐ろしい殺し合いが有ったのだという事実を決して忘れてはなりません。
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by levin-ae-111 | 2014-08-14 12:23 | Comments(0)
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 港祭は毎年、この時期に行われます。場所は高岡市伏木に在る、伏木港です。
今朝、新聞記事で開催を知りました。様々なイベントが行われるのですが、私の目当ては護衛艦『しらね』DDH143です。
『しらね』は昭和55年3月に就役していらい、今日まで日本の防衛に災害派遣にと活躍して来ましたが、本年で退役が決まっているそうです。
DDH143-しらね-
排水量 5200t     高 さ 47m     最大速力 32Kt(約60Km/h)
全 長 159.0m    喫 水 5.3m     乗 員  350名
全 幅 17.5m     機 関 70000馬力
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by levin-ae-111 | 2014-08-03 20:28 | Comments(0)

宮下文書の謎-6-

 冨士高天原は私がイメージする様な国ではなかった様だ。というのも、どうやら当時の人々は火山噴火で出来た溶岩流の跡、溶岩トンネルに居住していたらしいからだ。
その根拠は富士山麓に到着した人々が、縦32キロ、横12キロの原野を三つに区分して大室、中室、小室と名付けそこで集落生活を営んだとあるからだ。
この室をムレ(朝鮮語の邑または村)と解釈することも可能だが、しかし富士山麓の地形を考慮に入れると室はやはり穴居住宅とみるべきだろう。
冨士山麓には古代から幾度もの噴火により、溶岩流が冷却されて多数の洞穴が形成されている。その辺りは現代も同様だが、岩や木の根がゴロゴロしている地表よりも、溶岩トンネルに住む方が自然に思える。

 他にもイザナギとイザナミの時代は平和で、一洞一沢にそれぞれ頭(長)を置き、洞頭、沢頭の制度を設けたとある。洞は字義どおり洞穴であり、溶岩トンネルに違いない。
だとすれば大室とは大規模な洞穴、中室は中くらいの洞穴であり、小規模な洞穴は小室と解釈できる。または、大中小は人々の集団を、つまり大集団、小集団、個人などを表したのかも知れない。
この室を古代に一般的だと思われる竪穴式住居と考えられなくもないが、洞となると竪穴式住居とは思えない。
高天原で元始神を祭ったとされる『小室沢穴居の里の穴宮』も、溶岩トンネルに設けられた聖域と考えられるのである。
更に山麓(高天原)には合計二十一ヵ所もの『穴宮』が造営され、歴代の神皇をはじめ諸神(高位の人々)が住まわれたとする記録もあるという。

この様に宮下文書の『室』や『穴』や『洞』を読んでいけば、記紀に出てくる賊兵が集合した忍坂の大室屋や、神武の子の手研耳の命(タギシミミ)が殺されたという片丘の大室のように、天然の溶岩トンネルに人手を加えたものだったことが予想される。
この時代には多くの地下集落から成る地底王国が富士山麓に存在しただろうが、それらは後の時代にも繰り返された富士の噴火で全て埋もれてしまったのだろう。
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by levin-ae-111 | 2014-08-01 05:44 | Comments(0)