身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


by levin-ae-111
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時知らず

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 今日は少し暖かく、曇り空ではあったが、近所の公園へ出掛けてみた。
公園は無人かと思いきや、奥のコートでテニスを楽しむ人々がいた。私はその手前の東屋の方へ歩いて行った。

自販機で買った缶コーヒーとカメラを持って、公園の大きな石の上に腰を下ろした。先日まで赤や黄色に紅葉していた木々の多くは裸になってしまっている。
飛行機の爆音を聞いて空を見上げた時、何か小さな黒い影がスーッと視界を過った。

「赤トンボ‼」この時期に、少し驚いた。一匹の赤トンボが元気よく飛び回っている。そのトンボはとても素早く、生きている事を楽しむ様に私の上を行ったり来たりしていた。
「お前は、孤独だなぁ」と、哀れに思う一方で「勝虫の中の勝虫だな、トンボの王者か」とも思う。
だがよく見ると、もう一匹別の赤トンボが、これまた元気一杯に風を捕えて飛んでいる。
「良かった・・・、あいつは孤独ではなかった」安堵の気持ちで、その場を離れた。

そう思いつつ帰り道で、これまた意外な物が目に入った。枯れた草の間に我が目を疑いたくなる様な、白い清楚な一輪の花が咲いている。
何と白百合だった。
平素ならば「気候変動が、地球が変だ・・・」などと考えるのだが、トンボといい百合といい感動を禁じ得なかった。

「時知らず」遅れて来たトンボと白百合は、珍しく真面目に日々の瞑想をし、人の健康と幸福を祈る私への神様からのご褒美なのか。
否、それは無いだろうが、そう思うことにした(^^)
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by levin-ae-111 | 2014-11-30 18:56 | Comments(0)

昔のこと

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 テレビドラマを観ていて、昔のことを思い出した。キャバクラの黒服の話しなのだが、店が放火され焼失した。オーナーに再建を願い出た主人公は、失った店には他とは異なる何かが有った(それはオーナーの想い)と訴えて、厳しい条件ながら再建を許可された。
そういうストーリーだったが、他の店にはない何かという台詞が私の琴線に触れた。

私はDIYの店に15年ほど勤めていた。当時はDIYの店が各地で乱立し、競争も激化していた。私の勤務する会社はそこそこの業界では中堅だったが、近くには大手資本の旗艦店があった。その店は小奇麗で整然として明るく、市内の中心地からも近く何時も繁盛していた。対して我が方は郊外で薄暗く、小汚い。
しかしお客様は多く、特に年末年始などはライバル店に負けない程の集客があった。

 だが焦った会社の上層部は、バカ気た事にライバル店の真似を始めた。店を改装し小奇麗にして、ライバル店と同じ様な物を陳列したのだ。そして売り方も真似た・・・。
その結果、客足は徐々に遠のき、私が辞めて10年もしない内に撤退を余技なくされた。
当時、私たちは上層部に対して自らの店舗の良さを主張したが、聞き入れては貰えなかった。

 汚くて暗くて雑然とした店には、何が有るか分からないという一種のワクワクとした不思議な雰囲気があった。お客様は、そういうワクワクを求めて来店しているのを、第一線で接客する私たちには分かっていた。
だから「○○はないですよね」と言って来店するお客様が多かった。
その○○とは普通に考えれば、売っている可能性は低い。私たちはそれを埃にまみれて、探した。時として有り得ない商品が店の片隅に埋まっていたりして、それを目にした時のお客様の喜び驚く様子は、店員の私たちも嬉しくなったものだ。

 そういう可笑しな品々はバイヤーたちが遊び心で仕入れた物や、何時から店に有ったのか?不明な品々だ。そんなとんでもない物が、薄暗い店の棚の奥に眠っている、お客様と一緒に見つけた時の喜びはまるで宝物を探し当てたトレジャーハンターの気分だった。
そういう得難い遊びの要素を捨てた時、私が勤務していた店は業界大手には逆立ちしても敵わない、ただの店に成り下がった。

 少し大げさに言えば、今の日本も同じに思える。グローバル化の波に乗り遅れまいとして、自らの長所を省みるどころか卑下までして、外国の真似をして来た。
このままでは私の勤務した店と同様に、ただのアジアの小国に成り下がってしまいそうだ。
今こそ、日本独特の文化文明をこそ全面に押し出すべきだと思うのだが。
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by levin-ae-111 | 2014-11-29 14:07 | Comments(0)

空母運用の現実-5-

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 さて整備員たちが苦労して仕上げた攻撃機に搭乗して、敵地へ赴く飛行士たちはどういった手順で攻撃に出て行ったのだろうか。
例えば真珠湾攻撃の様な未明の出撃の場合『搭乗員起こし』で起床し、飛行甲板近くの『搭乗員待機所』へ移動する。
因みに搭乗員たちの寝床はハンモックではなく、寝台が用意されていた。これは他兵科だと大尉の待遇であるという。

 待機所は艦橋の根本にあり、そこで搭乗員たちは主計から弁当を貰う。甲板待機している時、艦橋から飛行長が当直将校を通じて『予定搭乗員整列』を掛け、搭乗員全員が艦橋前の飛行甲板に集合し整列する。
そこで艦長が、一言のごく短い命令を下す。続いて司令官が激励の訓示を述べ、時には参謀が訓示電報を読み上げたりした。

ここからは、飛行前の打合せを行う。
初めに各艦の飛行長(ミッドウェーの時は4隻とも中佐)が黒板で、目標位置、敵情、空母の予定進路と未来位置を伝達する。次に各空中指揮官(少佐もしくは中佐)が、所要の注意事項を与えた後「かかれ」の号令で、搭乗員たちは自分の飛行機へと走る。
ただし艦攻や艦爆の偵察員は、黒板に記された彼我の位置などの情報を自分の海図に書き写してしまうまではその場を動けない。
飛び上がってしまえば位置情報を把握し、正確に進路を割り出せるのは偵察員だけである。
特に隊長機の偵察員は、この点で非常な重責を背負っていた。
空母から飛び立って編隊を組めば、全機が隊長機に従う。これの進路指示をするのは隊長機の偵察員であるからだ。

各機においても操縦員や電信員は、偵察員程には位置情報を把握していないから、彼ら偵察員の役目は重要である。仲間とはぐれてしまったら、その飛行機の運命は偵察員の肩に掛かってくるからだ。
尤も太平洋戦争も後半に成ると、こちらの位置は敵に知られているものと見なしていたので、黒板に彼我の位置関係だけを記して見せて発進させ、詳細は無線で伝えていた様だ。

 暖機していた整備員は操縦員が来ると、スロットルをスローにして操縦席を明け渡す。乗り込んだ搭乗員は基本的なチェックを行う。艦攻の場合、このとき整備員の一人は魚雷の爆発尖の安全針を抜き「安全針」と声に出して機長にそれを示す。もう一人は魚雷の推進器止を脱し、同様に「推進器止」と叫び機長に示す。

こうして準備が整うと操縦員は片手を挙げて合図し、エンジンを絞りブレーキを踏む。発着甲板指揮官が全機の発進準備を確認し、艦橋に居る発着指揮官に報告する。
各飛行隊の発進準備が完了すると、各空母は昼間ならば整備旗を掲揚し、夜間なら発光信号で司令官へ報告する(真珠湾もミッドウェーも赤城に居る南雲忠一中将が機動部隊の司令官だった)。

 この時までに各空母は風に立ち、増速を終えている。大型空母の『赤木』や『加賀』でも800キロ航空魚雷を抱いた艦攻の発進は難しい。向かい風が必要だが、強すぎても駄目で真珠湾の時6隻の空母は艦速24ノットで攻撃隊を発進させている。
機体の軽い零戦や99艦爆は難なく離艦できるが、機体の重い97艦攻の発進はこの時も危ぶまれたという。
何故か艦攻のエンジンが最も非力で、自重も重く、荷物も重い。これでは発進が危ぶまれたのも無理はない。

また『加賀』の様に速度の遅い空母にとって、魚雷を抱いた艦攻を発進させるのは中々に困難な作業だった。更に改造空母や小型空母では、雷装した艦攻の発進は無理だった。
小型空母『神鷹』(しんよう-貨客船から改造)などは、先頭の零戦の滑走距離は50メートルしかなく、風速が20m/秒なければ零戦でも危なかったらしい。
艦攻については、60キロ爆弾2発を搭載した場合の発進は可能だったという。

*写真は『神鷹』
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by levin-ae-111 | 2014-11-25 22:46 | Comments(0)

地震

先ほど地震がありましたが、皆様ご無事でしょうか? 被害が無いと良いのですがm( 。 。)m
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by levin-ae-111 | 2014-11-22 22:42 | Comments(2)

運転しながら・・・

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 昨日の帰宅中のことです。いつもの様に出会う車や歩行者に、「皆様に良き出来事が起こります様に」と心の中で呟いていました。
しかし昼間に事務の女性から「変な電話があったよ。製品のことで訊きたいと言うのだけど○○さんって知ってる?」と訊かれました。
「いや、そんな人は知らない」と答えると、「やっぱり、何だか変な感じだったのよ。きっと、押し売りか何かなのね」と言いました。

そんな事を不意に思い出し、私は考えました。見ず知らずの人に、しかも人を騙し、迷惑を掛けても気にもしない人にも祈っているかも知れない。そんな人間のために祈っても、意味など無いではないか。
果してそんな事で良いのだろうか・・・と疑問が浮上して来たのでした。

しかし私内なる声は、直ぐにその疑問に対する答えをくれました。それは、出会う人やすれ違う人のパーソナリティーに対して祈っているのではないという答えでした。
一人ひとりの現在の人格に対する祈りではなく、その人の魂に対して祈るという事なのでしょう。
なるほど・・・時として、私の内なる声は思ってもいない答えをくれます。
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by levin-ae-111 | 2014-11-22 22:08 | Comments(0)
 もし人生にやり直しが利くのなら、あの分岐点で違う道を選んでいたなら、という気持ちは誰にでもあるだろう。
最近始まったドラマ『素敵な選TAXI』という番組、時を遡れるタクシーに乗って、過去を悔いる人々が何度でもしくじったと思う場面に戻り再度チャレンジするという内容だ。
毎回ゲストが主役で物語が一話完結で展開されるが、タクシーの運転手は竹野内豊さん。

 さて私にも「あの時、こうしていれば・・・」と思う分岐点が幾つもある。もしも、あの時に戻れたらと思ったりするが、やはり結局は似た様な人生なのだろうとも思う。
冷静に考えれば何度やり直しても、自分が変わらない限りは大した変化もないだろう。しかし、ただ楽しめば良いだけのドラマを観て、こんな事を考えてしまう自分とは(;゚Д゚)
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by levin-ae-111 | 2014-11-19 20:13 | Comments(0)

生命エネルギー波及療法

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 という本を久しぶりに取り出しました。随分と前に購入したものですが、著者は山本建造先生と奥様の貴美子さんです。
お二人は『飛騨福来研究所』を開設され、精神統一を通しての祈りによる病気治療を提唱されています。

私はこれを知り、直接に飛騨古川の研究所を訪問し、この本を購入しました。山本先生は突然に訪問した私に、驚きながらも優しく接してくださいました。先生はその時、庭の椅子に腰かけて鉛筆を舐めなめ、本の原稿を書いていらっしゃいました。
もうお亡くなりになってしまいましたが、当時先生は91歳くらいだったと思います。
そんな事を思い出しながら私が数年ぶりにこの本を取り出したのは、母親の体調がすぐれず食欲も著しく低下したからです。

 生命波及療法は精神統一と内観が前提として必要なのですが、幸いにも私は正式ではなくとも日々瞑想を重ねています。従って本に載っている瞑想中に見える光や紫色や虹色の雲など、日頃から観ています。
もしかしたら母の食欲不振や体調不良も、どうにか成るかもと考えたからです。

早速、何時もの瞑想の後で『生命波及療法』の真似事をしてみました。名前は大そうですが、その内容は実に簡単です。
私の場合、母の訴える症状がどんな病気か判断が付ませんから、ただ単純に念じる言葉を考えました。それは「母の細胞よ、健康に成れ。元気に成れ、若返れ」というものです。

座って瞑目し、ひたすら自分の考えた言葉を念じました。大体40分位でしょうか。
食卓に座っても料理に殆ど手を付けない母が、その夜は「今日は口が不味くない」と食べ物を口に運んでいます。そしてふら付いていた足取りも、何時もよりもしっかりしています。
暗かった表情も明るく成り、よく笑う様にも成りました。母は私が祈っていることなど知りません。

たった一回の祈りでこれですから、続けたらとう成るのか!!私は余りにも劇的な効果に自分で驚きました。それ以来、私の祈りは父や他の家族にも向けられました。
今では日々の日課に加えましたが、正直いって一時間近くも座って念じるのは大変です。
しかし何としても続けようと思います。
疲れた時は、この祈りを自分に向けます。自分の時は10分程度ですが、確かに疲れの取れ方が違う様に感じます。
やはり人間の想念にはパワーが宿っているのだと、改めて思いました。
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by levin-ae-111 | 2014-11-16 19:33 | Comments(2)

空母運用の現実-4-

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 これまで空母運用と謳いながら、実際には記録されている搭載機の話しをしてきた。だが空母の戦闘能力の全てと言ってよい搭載機に触れない訳にはいかなかった。さて、ここでも搭載機の発艦(空母からの発進)について考えてみたい。

 飛行甲板の全長が300メートルに満たない空母からの発進は、現実的に非常に困難な作業だった。今日ならば子供たちが模型飛行機を飛ばす時の様に、蒸気を動力に用いたカタパルトで、エンジンを吹かした飛行機を空中に放り投げる(乱暴にいえば)。
しかし当時の空母にはそんな設備はない。従って通常の離陸と同じ様に滑走して飛び立つ形式の発進となる。

資料によれば大型空母の『赤城』『加賀』でも飛行甲板の全長は250メートルに満たず、中型の『飛龍』『蒼龍』ではもっと短く、220メートル以下だった。
更に甲板には飛行機が並べられているので、先頭の零戦の滑走距離は大型空母でも実質80メートル程度しかなかった。
幾ら零戦が身軽でも、この距離での発進は難しい。そこで搭載機の発進に際しては、空母は風上に向けて全速で走り、飛行機の発進を助けていた。

この時の空母の速度は概ね26ノット程度が必要(風速が0m/秒と仮定して)で、この場合の合成風速は13~14m/秒となり搭載機の発進が可能となった。記録ではパールハーバーでの『赤城』は15m/秒の合成風速で艦攻を発進させたとある。
『赤木』の最大速度は31ノットであったが、一口に26ノットと言っても当時の船にはすぐに出せる速度ではなかった。恐らくは規定の速度に達するまで20分以上の時間が必要であり、逆にその時間を利用して飛行作業に関する仕事が行われていた。

 空母が攻撃隊を出す場合、飛行甲板には艦首から艦戦(零戦)、艦爆(99式)と並べ最後に艦攻(97式)が並べられた。飛行甲板には3基ないし2基のエレベーターがあり、前部エレベーターからは零戦を、中央(エレベーターが3基なら)からは艦爆を上げ、最後方のエレベーターから艦攻を上げた。
空母の格納庫は『赤木』などの様に三層のものと、『飛龍』の様に二層のものがあったが、その戦闘に参加しない飛行機や予備機を一番下に格納していた。

飛行甲板が比較的長い正規空母で、速力も十分な空母でさえ搭載機の発進は大変な作業であったから、行足の遅い改造空母や飛行甲板の短い軽空母では更に困難だったことだろう。
加えて速度を上げればローリングやピッチングが激しくなり、身重の艦攻(空荷より1.6t程度は重い)などはピッチングで艦首が下を向いている場合には発進が出来なかった。
パールハーバー前の夜間訓練では、ベテランパイロットの操縦する艦攻が海に墜落し、搭乗員が死亡するという事故も起きている。この原因は夜間であり、ピッチングの状況がパイロットから確認出来なかったものと考えられている。

 簡単に発進準備といっても、これがとても大変な作業であったらしい。格納庫で可能な準備を行いエレベーターで甲板に上げるのだが、この時に機付の整備員(7~8名)も一緒に甲板に出る。甲板に出たら全員で飛行機を指定された位置へと押して行く(米軍はトラクターで牽引)。
位置に着いたら左右の車輪の車止めを押さえる(左右1名ずつ)。一人は操縦席に乗り込み、エンジンを掛ける。更に折りたたまれている両翼を、手動で展張する(米軍機は油圧)。その以前にワイヤで甲板に飛行機を固定する作業もあった。

非常に密集した飛行甲板上での作業は、大変であり危険でもあった。母艦が風に立って増速する間に、並んだ飛行機は一斉にエンジンを掛けて暖機運転を行う。その理由は各機バラバラに行うと、回転するプロペラで非常に危険だからだ。
発進の合図が出ると整備員は車輪止めを外し、これをパイロットに示し、魚雷や爆弾の安全ピンを外した整備員もこれを飛行クルーの責任者に示した。
発進の手順を終えた整備員たちは、舷側のスペースに避難したが、間に合わない場合はその場に伏せた。
飛行機一機につき7~8名もの整備員が必要であり、米軍が機械化していた多くの作業も手作業であったというのだから、整備員たちの苦労は大変なものであった。
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by levin-ae-111 | 2014-11-16 14:42 | Comments(0)

意外な展開

 今日は出向で来ていたO君とT君の送別会があった。地元の小さな焼肉屋の座敷で行ったのだが、その時にもっと早く知っていれば・・・という想いに駆られる出来事があった。
私は歴史好きなのだが、意外にも若いO君も歴史好きだったという事実が、最後の日に成って判明したのだ。

 O君とは座敷で隣り合って座ったのだが、何かの拍子にO君も歴史好きという事が分かったのだった。それからのO君と私は、周囲のバカ話しとは隔絶されて異次元に入った。
長野県出身のO君と私とは随分と歳が離れているが、歴史に関しては意気投合した。
戦国時代の話し、第二次大戦の話し、日ユ同祖論的な話しなど、周囲とは完全に異次元の話しに二人で没頭してしまった。

話の端緒は私の町の祭りだったか、兎に角私にとっては楽しい飲み会だった。実はいつも飲み会で、詰まらないバカ話に平行していた。
まあ、飲み会だからそれで良いのだろうが、他人の下らない話に合わせるのも辛いものがあった。

O君T君ともに、とても良く働いてくれた。二人が厳しい冬を前に帰郷出来るのは喜ばしいが、後の事を考えると少し複雑な心境に成った。
二人とも指示に無くとも自分で考えて作業をするタイプで、安易な指示では納得しない人たちだと思う。ロボットの様に指示された事だけする人は扱い易いが、反面で融通が利かず取り返しのつかない事態も招きかねない。

彼らの様に自分で考えて作業をする人は、貴重な人材である。恐らくは二人とも将来は会社の屋台骨として活躍してくるのは間違いがない事だと感じた。
私はドロップアウトしているので何も出来ないが、二人の将来が楽しみだ。
O君には私のブログも教えたので、この記事も読んでくれるものと思うが、無断で書いて申し訳ない(笑)
二人には下らない雑音には気を取られずに、今何を第一にするべきかを考え、出来るだけ俯瞰的な視点で物事を捉えて判断できる人に成ってもらいたい。
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by levin-ae-111 | 2014-11-14 23:04 | Comments(0)
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 第一次世界大戦が始まると、イギリスと同盟していた日本は、直ちに参戦する。主戦場はヨーロッパであったが、日本は敵国ドイツの植民地であった青島(チンタオ)を攻めた。
海軍は地中海に小規模ながら艦隊を出し、戦死者も出ている。
日本はまた軍隊だけでなく、赤十字社から医師と看護婦をイギリスやフランスへ送り出していた。

今年になって、パリへ看護婦として派遣された竹田ハツメさんの日記やメモなどの遺品が発見されたという。
日本赤十字社は元々軍の衛生活動の補助を担う目的で、西郷隆盛らが関わって設立された。
さてパリに派遣された竹田さんたちは、最も重症な人々が運び込まれる外科をまかされた。
当時フランスは近代戦での戦傷者を治療した経験がなく、日露戦争で経験のある日本がその任についたのである。

 第一次大戦は、死傷者の数、負傷の程度がそれ以前の戦争とは異次元のものだった。兵器の進歩は著しく、機関銃や戦車、毒ガス、飛行機などの新しい兵器が使われ人的被害は未曽有の数に上った。加えて、負傷の程度も以前とは比較できない程に酷いものだった。
日本から派遣された人々は、パリで1年半に渡り述べ5万5千名もの負傷者の治療に当たったという。

竹田ハツメさんは日露戦争での経験を買われ、熊本の赤十字からパリへの派遣団の一員に選ばれた。派遣された人々は行の船で、フランス語の猛勉強をしたという。
日本は凱旋門の近くのホテルを借り受け、そこを病院にした。人員ばかりでなく、膨大な医薬品や器具も持ち込んだ。ベッド数は150床というから、大変なものである。
そこで竹田さんたち日本人スタッフは、昼夜を分かたず働き続けた。当時は傷口が化膿して死亡する人も多く、衛生を保つためにシーツや枕、包帯の取り換えを欠かさなかった。

重症患者には付きっ切りで、シーツや包帯を替えたし、容体によっては数時間も出血箇所を圧迫し、失血を防いだ。また不衛生な身なりで運び込まれる負傷兵には、看護婦たちが手ずから着物を縫い上げて着せた。
戦争が激しさを増し、パリにも空襲が始まった。竹田さんは「異国の地で死ぬかも知れない」という恐怖と覚悟を綴っている。

当初は言葉も通じない日本人から治療を受けることを拒んだ人もいたが、竹田さんたちの献身的な態度にフランス人たちも心を開いていった。ドイツの攻勢の前にフランス軍は苦戦に陥り、益々負傷者が増えていた時、日本から帰還命令が届く。当初の派遣期間を過ぎたからであったが、スタッフたちは「戦争終結まで、フランスで頑張る」と嘆願し帰国を拒み派遣期間の延長が成された。

だが戦況は一進一退から崩れ、ドイツ国境の街では凄惨な攻防が続いていた。運びこまれる負傷兵も増え、おまけに傷の程度も酷い者ばかりだった。病院では日本人たちの活動が続いていたが、医薬品も底を突き、看護婦の中にも疲労から倒れる者も出始めていた。
事ここに至り、遂に日本赤十字社は派遣した人員の帰還を決定した。竹田さんたちは患者や退院した人々から見送られながら、事半ばでの悔しい帰国となった。

 その後の戦争でも3万2千名もの看護婦が従軍し、千名以上もの看護婦さんが亡くなった。竹田さんの帰国後、現在の熊本大医学部付属病院で、看護と後進の指導に当たられた。昭和48年92歳で亡くなられた。
またフランスで竹田さんと一緒だった加藤きんさんは、シベリアへ派遣されチェコ兵などの救護に当たり、日中戦争では病院船の婦長として中国との間を数十回も往復された。
戦後には看護に携わる人にとって最高の栄誉である『フローレンス・ナイチンゲール記章』を授与されている。だが、パリでの看護体験を家族にすら語らなかった。

 優しく強い看護婦さんたちの勇気は見上げたものだが、加藤さんが家族にもパリでの事を語らなかったのは、その体験が余程の衝撃だったからだろう。
何を隠そう、私の祖母の妹も日中戦争に従軍看護婦として招集され、帰らぬ人となった。
祖母たち姉妹の中で、最も美しく賢明だったその人は、『うた』という名前だった。我が家では、祖父と『うた』さんの二人を日中戦争で亡くしている。

パリでの竹田さんたちの奮闘は、大手術を乗り越えた兵士の子孫たちの感謝に繋がっている。竹田さんが傷口を数時間にも渡り押さえて止血した兵士は、その後に6人もの子供を授かっていた。しかし良い話しばかりではない。
パリへの看護婦の派遣は、後の戦争でも戦地へ看護婦を派遣する契機ともなった。その犠牲者の一人が私の祖母の妹だとは、少し複雑な想いがする。
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by levin-ae-111 | 2014-11-12 20:42 | Comments(0)