身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


by levin-ae-111
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

<   2015年 11月 ( 10 )   > この月の画像一覧

冬の幻想

 11月末の寒空とはいえ、今日は久しぶりに晴れ間があった。それで交換したタイヤの感触を試す意図もあり、近所の公園まで出かけてみた。
夏タイヤからスタッドレスに交換した時、私は必ず近所を試走することにしている。ブレーキやハンドリングの違いに慣れるためだ。

公園に着くと先客がいた。その人は白い帽子を被って、紺色のスゥエットに白のスニーカーを履いて、公園の奥にしつらえてあるベンチに座っていた。
駐車場には車が無かったので、きっと歩いて来たのだろう。

私は老人から少し離れた道を通り、その奥へと向かった。暫くすると『おわら節』が聞こえて来た。その哀調を帯びた地元の民謡は、先ほどの老人が唄っているのだ。
稽古をしているのか、何度も同じフレーズを繰り返していた。
「揺れる吊り橋、手に手を取って、渡る井田川おわら風の盆」と唄う歌詞は、おわら節の中でも私の好きな部分だ。

耳に残る老人が唄うおわら節を背にして、私は公園を出る為に愛車へと向かった。紅葉は既に遅く、あらかたの木々は葉を落す寸前だが、寒椿は今が盛りと咲いている。
椿を撮影しようとカメラを取り出した時、私は異変に気が付いた。駐車場からは老人が座っていた場所が見通せるのだが、ベンチに人影は見えない。
周囲を見回してみたが、誰も居ない。僅かに聞こえていた唄も、もう聞こえて来ない。
「幻か!!否、どこかへ移動されたのだろう」自分にそう言い聞かせて、その場を去ったが、まあそんな事もあるだろう。
a0160407_15371928.jpg

[PR]
by levin-ae-111 | 2015-11-29 15:37 | Comments(0)

神様って凄い( ゚Д゚)

 ブロ友のM子さんから坐間神社のお札が届いたのは、先月の中ごろでした。
お札を送って下さったのは、神様から送るように言われたとのことでした。お札が着く前に私は部屋の一角に手作りの神棚を作りました。
神具セットを購入し準備を整えてお札を迎え入れ、庭の榊を切って来てお供えしました。

2~3日くらいで花瓶の水を取り替えていますが、不思議にも未だに榊は青々としています。
11月にはいってからは、ストーブも焚いていますから、部屋はそこそこ暖かいです。
無論、榊の生命力の強さも有りますが、これが神札の力なのかは分かりませんが、神様って凄いと素直に思っています(^^♪
[PR]
by levin-ae-111 | 2015-11-29 10:58 | Comments(0)

ホツマツタヱとアワの歌

 神とは何かなどと言いながら、神事には全く無知だった自分が、唯一興味を持ち実践してみたのが最古の祝詞といわれている『アワの歌』だった。
興味を持ったきっかけは、ブロ友さんの記事だった。貼り付けてあった動画を観て、良い感じがしたので、どうにか覚えてみようと思った。
しかし、48音からなるこの歌は文字の並びに馴染みがなく、覚えるのに苦労した。

 そして覚えたての歌を地元の神社で歌ってみた。最初に歌った時、不思議な事に誰も聞いていないのにドキドキした。つっかえながら何とか3度歌うと、二羽の蝶が絡み合う様に舞いながら現れ、大きな鳥が神社の森の上を鳴きながら円を描いて何度も飛んだ。
歌った途端にこれだから、何かあると感じた。
それから地元の山村にあるお不動様を祭った滝では、アワの歌を歌った後に撮影した写真は無数の薄紫色の球体で埋め尽くされていた。また突然にシャッターが切れなくなり、四苦八苦して、どうにかシャッターが切れた。その時に写った写真は、その場には無かった光が写り込んでいた。歌う以前には何事もなかったのに、不思議だった。

そこでもっと『アワの歌』を知りたくなり、ネットで調べた。どうやら歌い方に特に制約はないらしく、どの動画を観ても節はバラバラだった。という事は、どう歌おうが自由なのだと解釈した。
それに、そもそも既知の祝詞の中で日本最古といわれているらしいが、出典は何?などと疑問も噴出して来た。
調べると出典は『ホツマツタヱ』であり、その意味は関東一円の地方を指し、広義には日本全体を指すのだという。ホツマとは秀真と記し優れていて美しい様を言うが、それを伝えるという意味で『ホツマツタヱ』となる。

『ホツマツタヱ』は全編五七調の歌で記してある古文書だが、実際には『ヲシデ』と呼ばれる独特の古代文字で書かれている。更に著者と記述された年代も明確であるとされている。
著者は三輪臣大値根子命(みわのとねおおたたねこのみこと)で、景行五十六年に編纂し献上したものだとされる。日本書記の年代記を基準にして、大まかにみて紀元前七世紀に書かれたものだとされている。
大別してアの巻、ワの巻、ヤの巻に分かれている。大値根子命は祖先であるクシミカタマノ命によって書かれたアの巻とワの巻に加え、自らヤの巻を著して合わせて献上したらしい。

『ホツマツタヱ』によれば『アワの歌』は伊弉諾・伊弉冉の二神が乱れた国を立て直す際に、まずは言葉の乱れを正そうと考案され、これを国中の民に教えて回られた。
上の句二十四文字を伊弉諾命が、下の句二十四文字を伊弉冉命が歌われ、これにより言葉の乱れも正された。
元々は面足尊(おもだるのみこと)の治世の時、後を継ぐ嫡男が居らず、政事(秀真の道)の力が衰えて国の規範が乱れた。その事態に葦原近江の国を治めるようにと指名されて、ヲシデの卜と矛を賜って伊弉諾・伊弉冉の二神が政事(まつりごと)を司るために赴かれたという。政事とは政治ではなく、宮中を中心にした祭政のことである。

私は3Kの仕事をしている。製品試験などでは1回5分×10回の研削などもあり、体調の悪い時や疲れている時などは非常に辛い。重いグラインダーで5分間連続して鉄を削ることを10回繰り返して、製品や試作品の性能試験をする。
辛い時は『アワの歌』を口ずさみながら行う。するとスーッと楽になり、時間も短く感じられるのが不思議である。これに神社や滝での出来事を考えると、『アワの歌』に宿る言霊の力が現れているのかも知れない。


『アワの歌』
アカハナマ  イキヒニミウク
フヌムエケ  ヘネメオコノホ
モトロソヨ  ヲテレセヱツル
スユンチリ  シイタラサワヤ

a0160407_1413897.jpg

a0160407_14133029.gif

[PR]
by levin-ae-111 | 2015-11-21 14:13 | Comments(0)

それにしても(;゚Д゚)

 私は会社でキツイ・汚い・危険という3Kの仕事をしています。本来は品質管理なのですが、小さな会社ではそんな事も言って居られず、人手が足りない部署に応援に出ています。
会社の方もどうにか人手不足を補おうと、人材派遣を依頼しています。

しかし来る人、来る人、次々と一日か二日でギブアップし、終業の時に元気よく帰って行ったと思ったら翌日から出社せず結局は辞めてしまいます。
そして今週三人目の派遣の人が来ました。若くて体格も良く力も有りそうです。
しかし初日から遅刻、二日目も朝礼に間に合わず、注意をされて三日目にようやく朝礼に間に合う始末です。

どうやら始業10分前程度には出社するとか、朝礼に出るとか、そういう常識的なことが眼中に無いようです。ズボンの履き方はイワユル『腰パン』で、顏を観ても顎髭を薄らと生やして如何にも現代風の若者です。
だらしないのはさて置いて、仕事振りが良ければ文句はないのですが、これがどうにも老人の様に動きが遅いのです。三日間ほど勤務しましたが、何ら変わりませんでした。

作業そのものは簡単なもので、ゴムシートを裁断機で裁断するだけです。教えられた通りにしない(できない?)し、何度も教えても変わらないので、私も同僚たちも諦めました。
そして今日は「渋滞で遅刻します」と連絡があったらしい。工場長は少し小言を言って、もう来なくて良いと伝えたそうです。
後で聞いたところ若いと思っていましたが、その人は30歳だったそうです。「えっ、30!!」他人事ながら30にも成ってあの様子では、今後の人生が危ぶまれます。

優秀な人は我が社の様な3Kの仕事には来ないのでしょうが、それにしても彼らの様な若者がゴロゴロ居るかも知れないと思うと、日本の将来も明るくないですね。
そうかと思えば高校生でも真剣に考えて、政府に物言う若者も居る、人それぞれですが・・・・。
自分の若い頃を振り返ると、まあ派遣の若者と似た様なものだったかも知れません。今だから言える事だろうと思います。ただやる気の無い態度だけは覚えはありません。
[PR]
by levin-ae-111 | 2015-11-13 19:32 | Comments(0)

私の神様考-6-

 神=祖霊と簡単に書いたが、無論、それ以外にも神様領域に存在する者たちがいる。また人間界と神界の中間にも無数の領域が存在しているに違いない。
どの世界に属するかは、その意識(魂)の段階に因るのだろうし、電磁波の周波数と同様にそれこそ無数の段階が在るだろうと想像している。

 さて本当のところ、この宇宙で真実『神』と呼べるのは、一つの存在しかないと考えている。それは、この宇宙を創造し維持している意識のことだ。
如何に進化した祖霊=神様といっても、この宇宙から生まれ進化発展した魂だ。この神々たちも宇宙意識から産み出され、その子供であることは私たちと何ら変わらない。
要するに宇宙人や異次元人も私たちと同様であり、この宇宙創造の意識の内から一歩も逸脱するものではない。

つまり私の現在までの神とは?という愚考の結論がこれだ。この宇宙に存在する全てを包括し、それを支え維持している存在が、唯一の『神』であるという結論だ。
ある意味では全ての存在に神が宿るとする日本人の感覚は、非常に優れていたといえる。
というのも宇宙創造の意識の作用は、無論のこと地球にも及んでいるからだ。言い換えれば、全ての存在が宇宙意識の表現であり、そこには宇宙意識の想念が宿っている。

人間に限らず動植物や無機物にさえも、宇宙意識が宿っており、それ故にその物が存在するのだと私は考える。あらゆる物理的作用も反応も、その意識が存在するからある一定の規則性をもって存在し得る。
この世界の物質も、宇宙意識が「各在れ」と念じたので、そう成っている。全てが同様であると私は考えている。
この様に観ていくと、やはり宇宙意識こそがこの宇宙では唯一絶対の『神』と考えざるを得なくなる。しかし私たちの大元であるその宇宙意識も、より大きな何者かに包み込まれている存在かも知れないなどと、人間の分際で思いを巡らすこの頃である。
a0160407_0284692.jpg

終わり
[PR]
by levin-ae-111 | 2015-11-08 00:29 | Comments(2)

私の神様考-5-

 前回に神とは古代の祖霊であると書いた。そうであれば遺伝的な繋がりの有る人間も居ることだろう。しかし、そればかりが重要なのではない。
肉体的な繋がり以上に精神的な繋がりが重要であると私は考える。古い時代から脈々と受け継がれている神事や祭は、そういう精神的な繋がりを人々が重視した証であろう。
祖霊は見えない、語り合えないからこそ、祭は大切な祖先との接点として維持されて来たのだと思う。今日イベント化している祭だが、それでも底流には先述した精神が流れていると信じたい。

敢えて言えば、祖霊にとって本当はその様な行事や祭は必要が無いものだと思っている。それは人間側が認識を新たにする機会なのであり、人間のためのそれなのだ。
あらゆる伝統的な神事の形式や作法も、本来は神にとっては必要が無いことかも知れない。
それらは人間が居住まいを正し、身を清くすることで心を改めて引き締め、神である祖霊と触れ合うために必要なだけである。要するに、そうする事で波動を少しでも高くして、神と接する可能性を上げるためなのだろう。

しかし今や神と呼ばれる高い領域に存在する祖霊たちも、相変わらず努力を続けてより高い領域を目指す意識(魂)である。神様が常に我々を見守り、必要とあらばその御手を差し伸べて下さるのも神様ご自身の修業の一環なのであろう。
上の者が下の者の面倒を見る、それは人と人間に分かれても相変わらず人類の普遍的な愛の要素として存在するのだろう。
無論、二元性の支配する陰陽の宇宙である限り、その逆も存在すると考えねば成らない。
上の者が下の者を搾取する、そういう世界である。

よくよく観察すれば、この人間社会にはその両方が現に存在している。私は足りない頭で麗らかな晩秋の日中に自分の愚説を書き連ねているが、他方に目を向ければ病人、怪我人、虐め、戦乱などなど、この瞬間にも苦しんでいる人々がいる。
この世界では悪の方が善よりも力を持っている様に感じる。それは神となった祖霊が助けてくれないからだろうか?神様は修業をサボっているからか?否、決してその様なことはない。祖霊たちは努力を重ねている。
ただ私たちが自力で出来る限界まで頑張らないと、神は力を貸してくれない。また、私たち主体のこの世では、神の出来ることも限られている。
精々が分かる者に伝えて、その人間に行動して貰って事態を打開する、存在する領域が違い過ぎるので、そういう事に成るのだと思う。

反対に悪しき人間が力を持っている様に見えるのは、精神的に堕落するのは簡単で、そういう領域の存在(悪神)と人間が波動的に同調し易いからだろう。
この人間世界の波動が低く荒いために、そういう領域の神霊たちが力を発揮し易いのだ。
ある意味で悪人たちは、神の後押しを善人よりも得ているといえるのかも知れない。但しその対価は必ず要求され、この世を去れば地獄が待っている。
a0160407_17254.jpg

[PR]
by levin-ae-111 | 2015-11-07 01:07 | Comments(0)

私の神様考-4-

 予想どおり、無知な私の思考はドンドンと迷路に迷い込み、簡単に済ませる積りが長くなってしまいそうだ。昨今では人間は宇宙人によって創られ、現在も彼らの支配下に有るという主張をする人々が存在する。
その宇宙人たちの支配下で、人間は家畜同様の扱いであるというのだ。その説にも様々あり、直接に人肉を喰らう連中であるとか、人間の怒りや恐怖など負の感情エネルギーを摂取する連中も存在するという。その為に戦争や紛争、災害などを絶えず引き起こしているのだという。この許し難い連中が神と名乗り、人類を支配しているらしい。

また選民意識から神との約束を成就する為に奔走する人間たちもいて、自分たちだけの千年王国を夢見て暗躍しているらしい。
その人々は感情の乏しい所謂サイコパスで、他者の状況を考慮しない。それだから戦争や災害を起こし、多くの人々を塗炭の苦しみに陥れることに少しも躊躇しない。
アセンションで考えられていた『空中携挙』の説の中には、自分たちと遺伝的に関係の有る人間だけを各々の宇宙種族が拾い上げるなどという説も聞いたことがある。
こういう連中が神と名乗っているのであれば、有史以来の残虐な『神』の所業も理解できるというものだ。

但しこいつらは本物の神ではない。神の名を語る罪人である。
とは言っても神にも善神と悪神が存在し、どちらも甲乙つけ難い力と知恵を持っている様である。我々に対して悪行を成す宇宙人や異次元人が『悪神』であるならば、宇宙発展のために我々に目覚めの手を差し伸べてくれる宇宙人や異次元人は『善神』であろう。
だが何れにしても陰陽という宇宙の二元論的構図から抜け出せず、各々の役割を演じさせられているに過ぎない気がする。

善悪といった処で、誰かにとっての善は誰かにとっての悪かも知れず、何れも相対的なものなのだ。そういう葛藤は私たち一人一人の中にも存在することは、否定できないだろう。
お宮に行けば『神』は不在で、留守宅に『魔』が入り込んでいたりするとも聞く。各も複雑怪奇な世の中で、神は本当に存在するのか?神とは何か、私たちの求める善き神様は何処にいらっしゃるのだろう。

などと言いながら、私自身は神々の存在を信じている。それは霊的に高い領域に存在する人々とでも言うべきだろう。私たち現世の人間とは比較にも成らない見識とパワー、慈しむ心を持った雲の上の存在である。その多くは古代の祖霊である。
その人々は長い年月を繰り返し生きて(輪廻転生)、苦しみ、悲しみ、喜びなどあらゆる事柄を体験して学び、それらの全てを精神的に昇華させたのであろう。
その祖霊たちは振動数が高く(いわゆる波動という)、私たちは低い。そのために、繋がることは困難だ。祖霊たちは人間ではなく『人』であり、私たちは人に成る前の存在、即ち人間であると私は考えている。
つまり神に成る過程の修行者が人間であり、故に人生を精一杯に生きることが求められているのだと愚考している。
a0160407_515958.jpg

[PR]
by levin-ae-111 | 2015-11-06 05:15 | Comments(0)

私の神様考-3-

 私たち日本人は外国の人々に比べて信仰心が薄い印象があるが、果してそうなのだろうか?自分は無神論者で特に信仰している宗派は無いという人でも、初詣に出掛けるだろうし、仏式の葬儀に参列し、キリスト教やケルトの行事も楽しむであろう。
私たち日本人は『多神教』の民族だから、どの宗教の神様を拝むのも自由と言ってしまえばそれまでだが、ではその『多神教』のルーツは何処に在るのだろう。

日本人の信仰の原点は何れにあるのかと考えるとき、本居宣長が述べている様に「世のつねならず、すぐれたる徳のありてかしこきもの」という表現が適切だろう。
「すぐれたるもの」は物事の程度の激しいことを、「徳」とは働きを指しているという。つまり神とは善悪の枠を超え、人知の及ばない力を発揮するもの、偉大で恐ろしい反面、豊穣な実りをもたらしてくれるもの、即ち大自然である。

古代人はその様な自然の中に人知の及ばぬ神秘の力を見出し、それを恐れつつも祭りあげる事により恩恵を与えてくれる自然の優しい面にも目を向けたのであろう。それが今風にはアミニズムというべき信仰のはしりであり、多神教の始まりであろう。
学者の中には日本の信仰の原点を縄文時代に求めている人もいる。それを知るために、アイヌの信仰を調査したのは久保田展弘氏であるという。

アイヌの人々にとって日常と非日常の境目は薄く、常に神と共にあって神は人と同様に喜び、悲しみ、怒る存在であった。『霊』はこの世とあの世を往復し、誰にも『憑神』(つきがみ)が寄り添っていた。神=カムイは太陽、月、星、海、山、川、樹木、動物などあらゆるものに宿ると信じられていた。(関裕二著・神社が語る古代12氏族の正体より)
このアイヌの人々の信仰は現在に続く神道にも多くの影響を与えており、知らぬ間に私たち現代人の意識の底に沁み込んでいる。
長年使った物を捨てる時、無意識に「ありがとう」と礼を言ったり、針供養をはじめとする物に対する供養は単に感謝の表れではない。全てに神が宿るという、古代から日本人の無意識の底に張り付いた信仰心の現れである、と私は思う。

 現代でも耳にする『守護霊』や『背後霊』といった心霊用語は、誰にでも憑神が居るというアイヌ的な信仰に一致する。また憑神はあの世とこの世を何度も往復するという考えなどは、私が子供の頃に聞かされた「両肩に仏様がいて、悪事や良い事をした時に報告にあの世へ飛んで行く」などの素朴な云い伝えもアイヌの信仰による影響かも知れない。
私たち日本人は空に海に山に、野生動物や植物に更には日常生活に使用する道具にも神あるいは霊が宿ると信じる、実は誠に信仰心に溢れる民族なのである。
a0160407_5261681.jpg

[PR]
by levin-ae-111 | 2015-11-05 05:26 | Comments(0)

私の神様考-2-

 スピリチュアルな世界では、神々がチャネリングやお筆先、異言など様々な形式で人間に意志を伝えてくれる。岡本天明氏に掛かった神は国之常立之神で、そのお筆先からは後に『日月神事』と呼ばれる膨大な予言と人間に対する忠告が紡ぎ出された。大本教の開祖、出口ナオ氏もお筆先により神事を伝えた。『日月神事』の他には『火水伝文』(ひみつつたえふみ)などがある。何れも神が一人の人間に掛かって(憑依して)書かせたものだという。俄かには信じ難いが、その内容は改心しなければ今に酷い災いが人類を襲うというものらしい。

どうも人間社会のモラルが崩壊すると神々はこれを破滅させてしまう、そういう風な考えが私たちの潜在意識の根底に刷り込まれている様だ。古代ソドムとゴモラの街は繁栄を誇ったが退廃し、遂には神の怒りに触れて焼き尽くされてしまった。
天空の神に近づこうとして人間が築いたバベルの塔は、神の怒りに触れて傾き、それまで一つだった言語が別けられて人間たちは意志の疎通が出来なくされたと伝わる。
今また『日月神事』の神は『世の建て替え直し』を宣言し、改心しなければ天地をひっくり返し人間はおろか生き物を一掃する様な事が記してあるらしい。
「らしい」というのはこれを読んだことがないからであるが、私が知る限り神とは如何にも身勝手な存在である。

古来『神』とは儘ならぬ者、身勝手で恐ろしい存在という意味であったという。故に古代では神々の怒りを鎮め、許しを請う為に人間は人身御供を捧げたのである。
これは人知の及ばぬ自然現象に対する畏怖なのだろうか?それともデニケンが主張する様に、近代のコンタクティーたちや神秘家がいう様に、異星人や異次元人たち人間的な存在の横暴振りを表しているのか?
どちらにしても神がこの宇宙を創造したのであれば(少なくともとも地球を)人間の退廃も傲慢や我儘も、それがもたらした結果も全ての責任は神々に帰するべきである、と私は思う。
陰謀論者たちが主張する様に陰で蠢く連中が圧倒的多数の大衆を苦しめているとしたら、それすらも神々の責任である。何故に悪を野放しにしているのか。神とは何なのか、ますます分らなくなる。
それでもこれらの神の所業は、人間心が反映された神の極ごく一部分に過ぎないのではないかと思えて仕方がない。
a0160407_5251538.jpg

[PR]
by levin-ae-111 | 2015-11-04 05:25 | Comments(0)

私の神様考-1-

 暇に任せて今更のように、神様とはどんな存在だろうと考えた。
私たちは洋の東西を問わず、実に多くの神様を祭っている。この日本だけでも『八百万の神』(やおよろずのかみ)と称される程に多くの神様が祭られている。
『八百万の神』とは800万柱の神という意味ではない。余談だがブロ友Kさんのお師匠様A氏とお会いした時のこと。
「この地球に神様がたった800万しか居ないというのは変だろう。そんな少ない筈はない」といきなり言われた。その時は意味が解らず、ただ相槌を打っていたが後にその意味が解った。それは毎日の私の祈り方に対する指摘だったのだろう。
私は祈りの時に「宇宙の神々様、八百万の神々様・・・」という祈り方をしていた。無論のことそれは多くの神々様という意味で使っていたのだが、ご指摘を受けて改めた。

 さて私たちの世界ではキリスト教やユダヤ教、イスラム教の様な唯一絶対神を信仰する世界観と、日本の神道や仏教の様に多数の神仏を信仰対象とする世界観が存在する。
大まかにではあるが、前者は主に自然環境の厳しい地域で発生し、後者は自然の恩恵豊かな地域で発生したといえるかも知れない。
厳しい生活環境に身を置いて生きねば成らなかった人々には、自分たちを守ってくれる、或は生活の指針を明確に示してくれる絶対的な存在が必要だったのだろう。
対して東南アジアや日本の様な自然豊かな環境では、自然の恩恵に感謝しその中に神を見出すのは当然の成り行きだ。従って何事にも神秘の存在を感じ、多くの神々が生まれた。

一般的に認識されている神様は、人格を持った人格神である。これは唯一神を信仰する世界においても、多神教の世界においても同様である。
古代世界ではシャーマンを通して神々は人間と話しをする、様々な事柄について指示をしてくれるそんな存在であった。絶対的な力と知恵を持ちながら、時には怒り時には喜ぶそんな神々である。しかし、それは現象に対する人間心の投影であったのかも知れないと考える。
だが他方においては、真実その様な人間的な感情を持った神々が存在していた(している)可能性も十分に在るとも感じる。

『神様とは何か?』という疑問に対する考察は、果て無いカオスの迷路に迷い込む様なものだし、時として罰当たりな表現をするかも知れないが、頑張ってチャレンジしてみたい。
a0160407_1753864.jpg

[PR]
by levin-ae-111 | 2015-11-03 17:05 | Comments(2)