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by levin-ae-111
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関ケ原前編

 巨大政党の豊臣党は総裁豊臣秀吉の死去で揺れていた。代わりに党主の息子である豊臣秀頼氏を擁立し、豊臣政権を維持しようとする石田三成官房長官や前田利家副総裁側と党の支配権を手中にしたい徳川家康幹事長との間で争いが始まった。
この両派は全国の有力代議士に味方に付く様に説得工作を繰り広げる。

前田利家副総裁が死去すると、徳川幹事長の攻勢は強まり、石田官房長官は有力代議士とのトラブルを理由に解任され地盤の沢山に蟄居させられる。
一方で家康は官房長官兼副総裁として伏見城に入り、いよいよ徳川政権の実現へと動き出す。しかし建前はあくまでも御曹司、豊臣秀頼氏を擁立し党を守る為としている。

だが石田元官房長官も動きを止めず、御曹司秀頼の出馬を喧伝し有力代議士を味方につけていく。上杉景勝、毛利輝元、小早川秀秋、島津義弘らが賛同し、毛利輝元を派閥の領袖に担ぎあげた。官僚出身で今や官房長官ですらなくなった自分よりも、閣僚である毛利輝元の方が大将に相応しいと考えたのだろう (選挙戦を戦うには石田氏は人気が無いから)。

家康方は首相子飼いの福島や黒田などを抱きこみ、彼らに自分の大儀を信じ込ませた。
家康は伏見から大阪へ移り、いよいよその政権への欲望を露わにし、反対勢力の反感を募らせておいてから、大阪を去り江戸へ閉じ篭ってしまう。
無論、各代議士への説得工作と密約をより頻繁に行うためであり、反対勢力の決起を促すためでもあった。

更に決定的な仕掛けとして、家康は時期を見て上杉征伐に出陣し、わざと自分の背後を狙わせ三成の挙兵を誘う。
それに乗った三成が挙兵し、かくして福島を先頭に戦端を開かせ、自分は江戸に引き返してのんびりと頃合を見計らっていた。福島らは強く、石田方の戦略は次々と潰えていく。

加えて御曹司、秀頼の出馬は遂に無く、石田方の意気は上がらない。派閥のドンに担ぎ上げた毛利輝元は家康退去の後に入った大阪城を出ず、現場には姿を見せない(全く何を考えているのか。やる気ゼロ?)。
三成らは大垣市(岐阜県)と岐阜市を結ぶラインを最終防衛ラインとしていたが、これもあっさりと突破されてしまう。

そして満を持した家康の出陣で、東軍の勢いは更に増し西進の速度も自然と速まる。
慌てた三成も軍を東進させ、期せずして(三成にとって)両軍は関ケ原での決戦に及ぶのだった。西暦1600年、天下分け目の総裁選挙の始まりである。
後年の面白いエピソードに、こんな話しがある。関ケ原の布陣を見せられて、どちらが勝利したかと問われたドイツ軍仕官は「間違いなく西軍」と答えたという。
布陣だけなら、誰でもそう思うに違いない。
周囲から東軍を包み込むように布陣した西軍に対し、東軍は完全に包囲されている形だからだ。

その常識的な見解とは異なる結果に終わった事は皆さんご存知だろうが、どうして毛利さんは動かなかったか、秀頼さんは出撃しなかったのだろう。
勿論、負ければ命が無いので、石田方の勝利に確信が持てなかったのだろうが、これでは勝てる目は最初から無い。石田三成が誰の為に決起したのか、坊ちゃまには判らなかったらしい(お母さんの過保護が祟ったのかな)。秀頼が三成に付けば、家康は賊軍となり戦の大儀名分を無くする。従って、福島など豊臣恩顧の武将たちが集って来た可能性も高いと思われるからだ。

毛利輝元は一族の間で東西どちらに付くか意見が分かれており、こちらも悩まししい立場にいたらしい。毛利両川といわれる吉川(広家)と小早川(秀秋)が対立しており、輝元としては中立か日和見を決め込みたかったに違いない。それが総大将に担がれ、内心は困っていたのかも知れない。彼は結局、戦場に向かわず静観していた。
by levin-ae-111 | 2010-03-21 21:30 | Comments(0)