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by levin-ae-111
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連合艦隊


 旧日本帝国海軍はどうして、自軍の艦隊を「連合艦隊」と呼称したのだろう。
別に何処か他国の艦隊と連合していた訳でもなく、この変な呼称が昔から疑問だった。
どうやら艦隊発足当時には、新鋭艦や主力艦で構成された「常備艦隊」と二線級の老朽艦で編成された「警備艦隊」の二つの区割りが存在していた。
それが戦雲急を告げる事態が予想された時、この二つの艦隊の名称は事態に対し相応しくないとの意見が出た。

そんな事はどうでも良い気もするが、兎に角、新しい呼称が決定された。
即ち「連合艦隊」である。命名は山本権兵衛による候補の中から決定された。
この時は呼称だけでなく、性能の異なる艦船の運用面での問題も考慮されていたという。
この新しい呼称のもと、日進戦争、日露戦争と圧倒的な敵艦隊を向こうにまわして連勝し、第一次大戦では地中海にまで艦船を派遣した。こうして連戦連勝の栄光は、連合艦隊の名を輝かせ不動のものにした。
この光輝満る珠玉の呼称は、第二次大戦での敗戦により消滅するまで続いた。

対外戦の緒戦は、日進戦争である。
日本は数度の会戦や旅順港の閉塞作戦などを敢行し、遂に勝利した。
日清戦争以前に、清国海軍は最新鋭の巨艦2隻で日本を親善訪問し、威圧してきた。
当時7千トンクラスで主砲は30センチ砲を4門と、圧倒的な威容を見せ付けに来たのだ。
対して日本は、3千トンクラスが精々で、30センチ砲など一隻も装備していなかった。
そこで無理やりに1門だけ30センチ砲を装備した艦を造り(松島、厳島、橋立=三景艦)戦いに向かったが、これが皮肉にも活躍しなかった。砲を旋回させると、その方向に艦が傾く、重量物や人員が反対側に移動してバランスを取るが、それでも傾く。それで砲身の仰角を目一杯に上げて使用するしか無かった。

しかし30センチ砲を発射すれば、反動であらぬ方向に艦が動いてしまい命中などおぼつかず、艦が揺れて次の射撃がいつ出来るかも判らない(笑)。そこで考えたのは小口径だが、発射間隔が短く命中精度の高い速射砲に頼ることだった。
これが実践では有効で、小型砲の絶え間ない発砲で敵に大打撃を与える。

カクシテ清国艦隊は旅順港へ逃走し、二度と外海へ出なかった。
出て来ないなら、と古い船体を旅順港の出入り口に沈めて清国艦隊の動きを封じる作戦がとられた。旅順港の出入り口は水深が浅く、沈没船は立派な障害物となるからだ。

しかし旅順港は陸上の砲台に守られており、幾多の犠牲を出しながらもこの作戦は結局失敗した。
ならば、と陸軍に艦砲を渡し陸上からの砲撃を加える。これが功を奏し、港内で敵艦隊は被害を受けて降伏した。
ここに「連合艦隊」の名に最初の栄光が刻まれたのである。
by levin-ae-111 | 2010-03-29 05:09 | Comments(0)