日本とユダヤの不思議な関係(15)
2010年 07月 13日
そして彼らが拠点とした近畿地方一帯が、つい400年前まで日本の中心として繁栄し政治・文化の中心であった。
政治の中枢が江戸に移ってからも、経済の中心として命脈を保ち続けたことは奇跡的な出来事といえるのかも知れない。
その理由として私的には、やはりユダヤ以前から続く大きな文化的なベースが存在し、それがユダヤに残った伝統的なものと重なったことにより更に強化されたからだと考える。
(八)弓月の君と秦氏
秦の始皇帝の子孫とされる融通王が韓半島から来日したとされるのが、王神天皇の御世だったとされる。融通王は国ごとの日本への移住を求めており、その交渉のために来朝したといわれている。
彼の願いはあっさりと聞き入れられ、天皇は多くの船を派遣して彼の国の民と財宝を様々な困難を排して日本へ運んで来たのである。
それは人道的な或いは義侠心ということではなく、融通王が差し出した多くの財宝の力によるものだった。
朝廷、天皇と強がったところで日本はまだ貧しく、融通王たち難民の方が遥かに多くの富を有していたのだった。
さて中国の古代史に潸然と輝く統一国家『秦』とは、いったい如何なる国であったのだろうか。水上氏の指摘では『秦』の歴史とは、ひとつの国を指しているのではない。
有体に言えば真実の『秦』とは、アケメネス朝ペルシャを指すものであるという。
中国は古代には大帝国ペルシャの植民地であり、ペルシャを圧倒したアレクサンダーの殖民地でもあったとする研究も存在するらしい。
そういえば、以前に読んだペルシャ系アメリカ人の著作でも日本とペルシャの不思議な共通点に感激し、信じていなかった著者の父親の話しを実感したとあった。やはり、秦はペルシャの植民地であったのだろう。
そして始皇帝の建てた『秦』とはアレクサンダー大王のグレゴ・バクトリアの植民地であった『シナ』のことであるらしい。
そうであれば、始皇帝とはグレゴ・バクトリアの将軍か植民地の総督といった立場にあった人物かも知れない。ならば、ユダヤ系の人物であったとしても不思議ではない。
仏典に依ると大秦景教の大秦とは始皇帝の秦のことではなく、グレゴ・バクトリアの方を指しているという。それで始皇帝の子孫が日本へ来ると、その歴史的なコンプレックスまたは誇りの為であろうか、後に与えられた土地に『大秦』(うずまさ)と名付けるのである。