身の回りの出来事から、精神世界まで、何でもありのブログです。


by levin-ae-111
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ETソウル外伝(6)

スコットは清貧の誓いを立てたかった。樹皮の衣をまとい、一日に一回だけの食事をし
頭を剃り「ああ素晴らしきかな修行の輩よ、頭上には何と素晴らしき空が・・・」と、言うような言葉を口ずさんだであろう古代の修行者の道を辿りたかったのだ。
そういう人々は心の自由だけを求めていたし、自分が満足するものを求めようとする気持ちには、只ならぬものが有ったとスコットは信じていた。彼らは何も恐れにかった、スコットは彼らが羨ましいと思っていたのだ。
こうしてスコットは、もう決して世俗的なものだけを追及する、こんな空虚な物質主義の国には帰らないと心に期して、デンバーの寺院へと向かったのだった。
この頃にはアラン・ワッツや鈴木大拙のような著者たちのやや一般的な禅の入門書は読み終わって、彼なりにもっと奥義を極めたものを研究したいと欲していた。それで、パーリー語の仏教原典をビクトリア朝時代に翻訳したものに没頭するまでになっていた。
スコットは、最後には彼の無知、恐怖、欲望、苦痛、混乱を焼き尽くしてくれると信じて瞑想の修行を続けた。

 デンバーの寺院では、セラバーダの教えに則り、一日8時間もの瞑想に真剣に取り組んだ。しかし、有ろうことか、そこに居た何名かの修行僧たちは、一人として瞑想に参加せず、何時間もテレビを観て過ごしていた。彼らは、スコットが感じている身を焼くような不満など微塵も感じてはいなかったのだ。
スコットはいたたまれなくて、瞑想に励んだ。自分の時間を余り集中しないで過ごすことに罪悪感があったし、何よりも瞑想をしないと自分自身に怒りを感じてしまいそうだった。
 確かに習慣として身についたものを、一時でも行わないという事には、一種の罪悪感にも似た葛藤が伴うものだ。スコット程ではないが、私も毎日の瞑想が習慣化していた頃には、似たような気持ちになったものだった。
セラバーダ宗派の瞑想は、両方の足先を反対の膝に乗せ眼は半眼にして口を閉じ、自分の鼻先に意識を集中するという方法だった。こんな風にすると、呼吸以外は何も気にならなくなる。この手順により、遂にはより高次の意識状態に達するのである。
その道筋は、概ね以下のようになっている。
最初の状態で、それまで近づけなかった心理的な問題に対しても『浸透できる』ようになる。そして、苦痛、不和、恐怖や記憶といったものに対処する。この状態を脱出するまで、少し時間が掛かるが、やがては『静寂の気』に触れることが可能になる。すると、更に高い意識状態になり、自分の身体で一種の祝福されたような感じを体験する。そして『晴れやかな心』としか言いようの無い気分、つまり、ある種の歓び、愛、そして幸福感に包まれるようになる。
この感覚は私たちの外部にあるものでこういった感じは創れない、それはごく自然に、それ自体が心理的な拘りから抜け出した時に生まれて来るものなのだ。
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by levin-ae-111 | 2011-01-22 05:56 | Comments(0)