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by levin-ae-111
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ワンコインの歴史「劇薬の戦国史」より

①太閤豊臣秀吉人気
  豊臣秀吉といえばその名を知らない人は無い程に有名な天下人だが、この豊臣秀吉は江戸時代には全く無名だったらしい。その故は徳川幕府からその存在を意図的に抹殺されていたからだ。
徳川幕府は京や大阪、長浜など秀吉縁の地に存在した「豊国神社」を破壊し、社領を没収して弾圧した。結果、江戸時代には秀吉の話題はタブーとなり、人々の記憶から消えていった。
それが明治維新とともに復活した。何故かといえば、徳川幕府を悪者にしたい明治新政府の思惑に利用されたからである。この頃に各地の「豊国神社」も再建され、秀吉の業績も盛んにピーアールされたのだ。その甲斐あって、現在の秀吉人気が存在している。
もっとも現代に伝えられている秀吉のエピソードは、大方が嘘であろう。
百姓から天下人に上り詰めたとか、草履を懐で温めた、猿に似ていた、墨俣(すのまた)一夜城の建設などは、まことしやかに伝えられているが眉唾物である。
ただ女好きや軍略の上手さは、本当であろう。

②敵に塩を送った謙信の本心は?
 宿敵であった信玄の甲斐で、塩が不足して困っていると知った謙信が塩を送ったとされる美談がある。いかにも義を旗印に戦った謙信らしいし逸話だが、しかしこれも本当のところはかなり怪しい。
塩は謙信にとって大切な財源であり、これからの収入はバカにならない。必然的に塩の売買を禁止する理由もない。加えて塩商人は敵国にも自由に出入りが可能で、スパイにも好都合である。更には武田の軍資金も幾分かは減らせる。
こう見ると謙信は心情的な動機からでなく、極めて合理的な考えから武田の領内への塩の流通を止めなかったとする方が判り易い。そこは超一流の戦国大名である、「義」を旗印に掲げていても腹黒いのだ。

③謙信が他国を領有しなかった訳
 上杉謙信は関東や信州へ侵攻しながら、他国を領土として組み入れなかった。
その事実は「無欲」として賞賛されているが、その裏にはどんな事情があったのか。
どうも冬場の出稼ぎ先として、関東や信州を見ていたらしい。
謙信の遠征は農閑期に行われたものが多いが、短期は信州、長期は関東と相場が決まっていたらしい。
それは冬に成ると深い雪に閉ざされる越後の民にとって、就職先が必要であり、それを謙信が軍兵として雇うかたちを採ったからだろう。
従って略奪先が必要であり、関東や信州を領有してしまっては略奪する相手が無くなってしまい甚だ都合が悪くなる。
この様な理由から謙信は関東、信州を領有しなかったのだろう。上杉家は関東管領の役目もあり、本来ならば領有しても然るべきはずだ。関東・信州の人々にとって、上杉謙信は定期的に来襲する野党の親分に等しかったに違いない。

④墨俣一夜城の嘘
  今川義元を桶狭間で討ち取った信長は、美濃斉藤氏を攻略するのに手間取っていた。戦況の悪さに業を煮やした信長は、居城を小牧山城に移動し、濃尾国境の墨俣に砦となる出城の築城を命じた。名だたる信長配下の武将がそれに挑んだが、ことごとく失敗した。そこへ秀吉が自ら進み出て、これを引き受けみごとに一夜で城を完成させ織田軍の勝利に貢献したとするエピソードである。
  しかし、この話し少し、否かなり怪しい。この話しの出所は、江戸時代に書かれた『武功夜話』と『絵本太閤記』であるが、これらの証拠とされる文献自体が怪しいのである。
 近年の研究によれば『武功夜話』は、何と昭和30年代に書かれた偽書である可能性が高いというのだ。その理由として当時は存在しないはずの町村合併により誕生した地名が記されていること、文章表現にも当時は使われていない表現が存在することなどが指摘されているらしい。
 また『絵本太閤記』もその成立年代が、秀吉の時代から遥かに下ることから信憑性が疑われる。一方で信長に関する資料『信長公記』に、秀吉により墨俣に一夜城が造られたとされる年よりも5年も前に墨俣には既に砦があったと記されている。
 秀吉の墨俣一夜城のエピソードは、肯定的要素よりも否定的要素が多いのである。


戦国時代にロマンを求める方の夢を壊して申し訳ありません。でもやはり、厳しい戦国の世を生き抜いた人々はシビアだ。
by levin-ae-111 | 2011-08-03 05:23 | Comments(0)