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by levin-ae-111
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太平洋戦争「日本海軍の矛盾と山本五十六」(リバイバル)

 日本海軍の真珠湾奇襲作戦で開幕したアメリカとの太平洋戦争、この戦争で日本海軍は空前の大航空作戦を実施して見事に緒戦を大勝利で飾った。
水深の浅い真珠湾でも雷撃が可能なように改造した、航空魚雷は停泊中のアメリカ太平洋艦隊の艦船に面白いように命中した。
ホイラーやヒッカムといった飛行基地には、急降下爆撃機が殺到し駐機中の戦闘機や滑走路に爆弾の雨を降らせ敵の航空戦力を叩き潰した。
僅かに迎撃に上がったアメリカ軍機も、高性能な零戦(11型)にあえなく撃墜される。

二度に渡る攻撃で一定の戦果を収めたものの、第一目標だった航空母艦は不在だった為に打ち漏らしてしまった。
それでも当時の軍部はこの戦果に踊りあがって喜び、大々的に発表し大勝利の提灯行列が各地に溢れた。
提灯行列はともかく、何故に日本の機動部隊は敵の戦力を徹底して潰しておきながら、慌てて帰還の途に就いたのだろう。その訳は機動部隊の指揮官たる南雲忠一中将に、軍令部及び連合艦隊から「絶対に空母を失うな」と厳命されていたからと言われている。
参謀の中には三次攻撃を主張する者も居たというが、南雲は頑として受け付なかった。

そしてこれだけの大作戦にも係わらず、戦略性が欠如していることが最も不可解な部分である。戦術的には敵空母の不在だったこと以外は、大成功と言ってよいこの作戦だが、何故に港湾施設や燃料基地を叩かなかったのだろう。
戦略的には軍艦の半分以上を見逃しても、燃料基地と港湾施設を破壊してしまえば何の問題も無い。至極あたりまえだが戦艦や空母が何隻存在しても、燃料が無ければ作戦の立てようもない。
この作戦に関して最大の疑問であり、矛盾を感じるのはこの部分である。
どうして、この重要な点を名司令官と謳われた山本五十六が見逃したのか。
山本は巨大戦艦の建艦競争の最中にも、今後は飛行機の時代だと看破した先見性の人である筈だ。周囲が不可能と断言する真珠湾攻撃も、職を賭して主張し実施した不屈の信念と日本海軍の中でもアメリカの実力を知悉し、勝利を重ねる事で講和への道を拓こうと考えた有能な人物である。
当時、日本海軍はおろか世界の海軍が航空機で戦艦を沈めるのは無理だと信じ切っていた。

しかし山本の予見どおり、時代は戦艦から航空機へと確実に移り変って行った。
日本海軍は先進的な作戦で、航空機が戦艦を沈められる事実を世界に示してみせた。
その象徴的な勝利が、イギリスの誇りイギリス東洋艦隊の象徴である『プリンス・オブ・ウエールズ』と『レパルス』の二隻の戦艦を、一式陸攻と97式陸攻の混成部隊の雷撃により撃沈したことだ。
更には間を置かず軽空母『ハーミス』と護衛の駆逐艦『バンパイヤ』も、ついでの様に事もなげに撃沈している。
この様に山本五十六の指揮の下、日本海軍は航空機という新兵器の有用性を世界に見せつけながら勝利を重ねた。
その裏には航空機の卓越した性能に加え、十分に訓練を重ねた優秀な搭乗員の技量の高かさが存在した。
太平洋戦争初期に活躍したパイロット達は十年近くも訓練され、実戦部隊に配属されるまでに500時間以上もの飛行を経験していたのだった。

こうして航空機の優位を見たアメリカは、真珠湾の復興を急ぐ一方でパイロットの大量養成、高性能な航空機の開発と大量の空母の建造を開始した。
真珠湾では座礁した損傷艦を復元し、修理不能なものはいち早く解体・廃棄した。飛行基地も完全に復興させ、新編成の飛行隊を次々と送り込んだ。
これらの迅速な復興の理由のひとつは、港湾施設のダメージが少なかったことに加えて、燃料基地が無傷であったからである。
 一方で日本は勝利に酔い、新型航空機の開発も進まず、あろう事か巨大戦艦の建造を推進する。『大和』『武蔵』『信濃』という6万トンクラスの世界最大級の戦艦がそれで、真珠湾攻撃以前には既に大和・武蔵が完成して配備されていたが、自ら航空攻撃の威力を示しながら、三隻目の信濃(後に空母へ改装)の建造に掛かっていたのだ。

そして貴重なパイロットの扱いにも、彼我の間に大きな違いがあった。日本軍はパイロットの生命を軽視し、積極的な救助活動を行わなかった。航空機の設計についてもパイロットの保護を考慮しだしたのは、敗戦が濃厚と成ってからのことだ。
育成に十年近くの歳月と多くの予算を要するパイロットを、日本軍は使い捨て同様に扱っていた。結果として空母へ着艦可能な技術を持つパイロットは激減し、訓練時間の少ない未熟なパイロットが多くなり、日本の航空戦力は質、量ともに下降の一途を辿った。
対して連合軍では、パイロットの救出に努力し、パイロットを保護する装備を積極的に導入している。しかし、これは人道主義的な見地からではなく、あくまでもパイロットを戦力として捉えていたからに他ならない。

この様に日本は航空機時代に先鞭を付けたが、何故だか再び大艦巨砲主義へと逆行している。国力の無さと言ってしまえばそれまでだが、連戦連勝で気が緩んだ日本海軍はミッドウェーという小島の争奪戦で正規空母を4隻も失った。
そればかりか、貴重な歴戦のベテランパイロットも多数を失った。この敗戦では空母の喪失よりも大きな損害は、飛行隊長クラスのベテランを幾人も失ったことだ。
この熟練パイロットの損失が後に致命的なダメージになった。

この敗戦を境に、連合国の攻勢は強まり、日本軍は南太平洋から駆逐されていった。
ジリジリと敗北が続く中、こともあろうに山本五十六長官が前線視察の途上で戦死するという事態が発生した。これはアメリカの暗号解読の勝利であり、山本を乗せた一式陸攻はアメリカ軍戦闘機の待ち伏せに遭遇し敢え無く撃墜されたのだった。

皮肉な運命を辿ったのは山本ばかりではない。海軍自体も、否、日本軍自体がそうだった。
世界で最初の空母を建造し、大艦巨砲主義の幻想を打破したはずの日本軍が、最後までその幻想を振り払えなかったとはジョークにもならない。
航空機の開発に関しては、海軍よりも陸軍の方に柔軟性が在った様に思う。陸軍の四式戦闘機『疾風(はやて)』は、武装、防御、速度ともに日本最高の傑作機である。
鹵獲(ろかく)されて米軍にテストされた疾風は、時速700キロ近くもの速度を記録したとされる(零戦は550キロ程度)。
海軍では零戦の改良(21型・32型・52型など)を進めたが、遂に終戦まで零戦に次ぐ艦上戦闘機は登場しなかった。海軍が後に登場させた航空機は、インターセプター(迎撃機)ばかりであった。

それにしても不可解なのは、山本長官の手腕で得た勝利で、航空機の優位性を認識したはずの日本軍が新型機の開発を怠り、ろくに講和工作も行わず、しかも戦術にのみ拘泥し戦略を疎かにしたことだ。その主な要因は、近視眼的な発想しか出来なかったことだ。
目先の戦術的勝利ばかりを求める、そんな傾向が在ったのではないだろうか。
故に戦線は太平洋一面に伸び切り、もう少しでオーストラリア大陸へ届くくらいまで拡大している。これは事態のコントロールを怠り、勢いに任せただけの愚行の結果である。
戦線の不要な拡大を防ぐという発想が無かったのか、それとも流石の山本長官にも、それ以上の戦略は望めなかったのだろうか。いかな山本の主張でも日本軍独特の年功序列で、こと無かれ主義の官僚的思想の壁に跳ね返されてしまったのか。
いや、それよりも彼の思想の根底に、何か当時の日本を変革したいとの考えでも在ったのかも知れない。それには何より先に、日本の体制を破壊する必要がある。

山本には大使館付きの武官として、数年のアメリカ滞在経験がある。
その時の経験が、山本の思考に何か影響を与えたのではないだろうか。
駐在武官ともなれば、パーティなどで先進的な考えに触れる機会も多かっただろう。
そこで、どんな人物と出会い、どんな思想に触れたのかは分からない。
徹底して開戦に不賛成だった態度を一変させた理由は、昭和天皇の許での御前会議での開戦決定の知らせだけではあるまい、と思うのは考え過ぎか。
山本は開戦には心底から反対していたのだが、遣ると成れば最善を尽くすという気持ちだったに違いないと信じたい。
だが、何度失敗しても一人の参謀(黒島亀人大佐)の作戦案に拘り続け、他の参謀の意見を退け続けた態度は、いかにも山本らしくない。
真珠湾奇襲は成功するべくして成功した、打ち合わせ済みの様な作戦であった。
山本が特段に燃料基地や港湾施設への徹底した攻撃を命じず、敢えて戦力としては二級の戦艦ばかり狙わせた(放っておけば、自然にそうなると知っていた)のには何か理由が在ったに違いない。

先月のことだったか、面白い話しを小耳にはさんだ。
終戦後のこと、ベルリンで自決したはずのヒトラーと恋人エヴァが密かに脱出していて、何処かで華燭の展を挙行したそうだ。その媒酌人が、何と山本五十六その人であったとか。
死亡したとされる人々の結婚と、その媒酌人は一体だれに匿われていたのだろうか。
もしこれが事実であったとすれば、どうしても釈然としない想いばかりが残る。
仕組まれた人類史とそのピースのひとつに過ぎない戦争、多くのと表現するには余りに累々たる人数の人々に犠牲を強いて、歴史の支配者はその血塗られた両手で何を掴んだのだろうか。
by levin-ae-111 | 2011-08-05 05:18 | Comments(0)