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by levin-ae-111
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北陸の武将たちⅣ

四、粟津(あわづ)ケ原で義仲主従討ち死に 
  寿永二年(1183)義仲は、北陸の武士団6万を引き連れて、ついに念願の京入りを果たした。京の風に源氏の白旗が颯爽とはためく様は、実に二十年ぶりの光景であった。
義仲は頼朝を制して、いち早く都へ入ったことで、胸のすく想いだったに違いない。義仲の精鋭部隊を迎え撃つ兵力は、京には既になかった。
平家は義仲が来る三日前に幼い天皇を連れ、都落ちして西方へと逃走していたからである。
それを知った後白河法皇は都へと立ち戻り、蓮華王院へ入り義仲の到着を待っていた。
義仲には八月十日に法皇から四位下左馬守兼伊予守(しいげ・さまのかみ・けん・いよのかみ)に任ぜられ、その数日後には院宣をもって、旭将軍(あさひしょうぐん)の称号を賜った。
 義仲と後白河上皇の関係は、初めの内こそは上手くいった。が、二人の関係は次第に悪化し、後に憎しみ合うまでに悪化して行った。それが表面化したのは平家が連れ去った安徳天皇の後継を決定するにあたり、義仲等が推した北陸の宮を後白河上皇が拒否し、別の人物を皇位につけた出来事からである。
更には武士たちの態度の悪さが目立ち始め、公卿や町の人々から「粗野な田舎者」として避難があがり、これが都ぐるみで義仲軍を排斥する雰囲気へと繋がって行った。
 山野を自由に駆け回り、武勇を至上としてきた木曽の武士たちにとって、京風の儀礼や習慣が分かる筈もなく、これに加え武士たちの教養不足も拍車をかけた様である。
従って戦勝の勢いのままに都の財物を掠め取ったり、女性を暴行したりする事件が頻発した。これでは、大将たる義仲の評判は落ちるばかりである。

 義仲の軍勢の中身は、友情により手勢に加わった数名の豪族を除き、他の大部分は寄せ集めに過ぎなかった。つまり信濃、越中、加賀、越前と勝ち進む内に、各地の武士団を吸収して膨れ上がった混成部隊なのである。そして北陸の武士団には僧兵が多く加わっており、これが性質の悪さではピカイチであった。元々は利害関係だけで義仲の軍に加わった連中であり、情勢次第で敵味方、どちらにも転ぶ連中だった。
 それに対するライバル源頼朝は、八幡太郎義家の代から東国武士との強い結びつきの上に結成された軍団であった。西は遠州から東は常陸までの武士団は、頼朝にとって最も信頼の置ける力強い味方であった。
挙兵して約二月後に戦った富士川の合戦では、迎え撃つ平家7万に対し、頼朝の軍勢は20万とも言われている。そして統制の取れた軍団であり、主従の信頼関係で結ばれた頼朝の軍は、義仲のそれとは質量ともに比較に成らない内容だった。
義仲にとって、平家軍、頼朝軍、法皇という三つの敵を突破せねば成らないという厳しい状況であったのだ。

 平家打倒を夢見る後白河法皇にとって、最初はその役目が義仲でも頼朝でも良かった。しかし都入りした義仲軍の態度を見るにつけ、義仲に統率力が無いと判断した法皇は、頼朝を迎えることにして、画策を始めた。
義仲はこうした情勢を見極められず、また進言する教養ある参謀役も不在であった為に、何ら手を打つ事もなく二月ほどを無駄に過ごすことになる。
その内に都落ちした平家軍は讃岐の屋島(現在の高松市あたり)を拠点にして、四方の国々を制圧し、次第にその勢力を盛り返しつつあった。
この時期は京の義仲は、東の頼朝、西の平家に挟撃される様な立場だったが、それでも三者の勢力は拮抗して、三竦みの様な状況にあった。
だがこの状況も十月一日に水島合戦(岡山県)で木曽勢が大敗を喫するに及んで均衡状態が崩れ始める。この戦で、北陸勢の多くが戦士したと伝えられている。
備中に進軍した義仲だが、頼朝の代官義経と範頼(よしつね・と・のりより)の軍勢が京へ迫っているとの報告が入り、十五日には急ぎ帰京している。
勿論、義経らが都へと近づいたのは後白河上皇の画策である。これにより、法皇の信頼が義仲に無いことが判明すると、南都の僧兵も動きを見せ始め比叡山の動きも怪しくなる。
それにとも無い義仲の叔父、行家も反旗を翻し、次第に義仲から軍勢が離れ始める。
そうした状況下で法皇より、平家追討の命が義仲に下されたのだが、明らかに義仲を都から追い出すための下知に他成らなかった。

 義仲は自分の立場を惨めに想い、遂に法皇に対して謀反を起こすに至る。即ち、法王の御所を焼き払い、これを捉えて監禁した。そして円恵法親王を始め、南都の僧の多くを殺害した。この時、僧兵に信頼の厚い天台座主明雲僧正を射殺したことが、義仲の破局を早めたと言われている。そのことで、義仲が頼みとしていた僧兵の多くが義仲軍から離反してしまったからである。北陸武士団の中にも、義仲の旗色が悪いと見て離脱する者が多くいたが、それでも越中の宮崎、南保、高盾、加賀の倉地などの有力武士団が義仲に従っていた。いよいよ困り果てた義仲は、永寿三年の正月に仇敵平家と和睦し、頼朝に当たろうと画策したが、この交渉は敢え無く失敗に終わる。この時点で義仲の取るべき道は、北陸へ帰り再起を期すか、堂々と頼朝の大軍に当たるかしかなかったが、義仲は迷い続けて松の内を過ごす。周囲からは様々な意見が出るが、朝の決意を昼に翻意するという様に狼狽する義仲の姿が伝わっている。
この間にも義経、範頼に率いられた鎌倉勢5万5千は、一月十五日には宇治、瀬田に迫っていた。義仲は宇治と瀬田に数百騎の軍勢を送り、鎌倉勢の撃退を試みるが、兵力に劣る義仲軍は各所で敗北を喫する。
この報に接してようやく法皇を奪って北陸へ落ちる事を決意した義仲だったが、既に遅く法皇は鎌倉勢にガッチリとガードされていた。
義仲は反転するも、鎌倉勢に追われ七条の河原伝いに逃走を図る。越中の有力武士、石黒光弘(福光城主)を失ったのはこの時と伝わる。
六条河原を過ぎようとした頃、鎌倉勢800騎と出会う、この時、義仲は僅かに40騎。
越中の高盾次郎光延、宮崎太郎、南条次郎家隆(新川郡南保)など、最後まで義仲に付き従っていた武士たちは次々と義仲の馬前で戦死して行った。

 多くの犠牲を出しながら、やっと鎌倉勢を突破した義仲に従う者は僅かに7騎だったと言う。この中には、巴も含まれていたという。
大津の打ち出浜で義仲は消息不明だった今井兼平と出会い、両者は涙して再会を喜んだと伝わっている。兼平もまた800騎の手勢を50騎程に減らされていたが、兼平は討ち死にすべきところだが、最期にひと目、義仲に会いたいと引き返してきたのだった。
この時に今井の旗を揚げると、周囲に散らばっていた者が集り、300騎ほどに成った。だが、敵中を突破して琵琶湖南岸の粟津ケ浜に落のびた時、義仲に従っていたのは今井兼平ただ一騎であった。勇猛を誇った木曽の主従も、流石に最期と悟り、兼平は単騎で敵中へと切り込み、義仲は切腹せんと松原へと逃げ込もうとした。
途中で深田に馬を乗り入れ、立ち往生したところを相模の国、石田次郎に組み敷かれて首を取られた。兼平は遠くでこれを目撃し、口に刀を咥え馬上から飛び降りて死んだ。
義仲31歳、兼平33歳の時であった。
義仲の墓は現在の大津市馬場町の義仲寺(ぎちゅうじ)にある。天文二十二年(1553)に、当地の守護職となった佐々木高頼が畑の中に放置されてある義仲の墓を哀れに想い、義仲寺を建立したという。また兼平の墓所は、JR石山駅から程近い住宅地の中にある。
by levin-ae-111 | 2011-09-02 05:33 | Comments(0)