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by levin-ae-111
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日本とユダヤの不思議な関係(リバイバル)

(六)神話と古代史に見る日・ユの関係


  どうにもユダヤと日本には不思議と共通点や酷似していると思われる事例が多いが、記紀や伊勢神宮、平安京となれば日本そのものとも言える伝統に係わる話しである。
それは私達の精神的な骨格に及ぶ話しであり、興味をそそると同時に少なからず恐怖をも感じる様な話しになってきた。
私達の祖先は本当にユダヤの失われた部族なのであろうか、それとも日本人特有の柔軟性でもって僅かに渡来したユダヤ人の文化を積極的に取り入れた結果なのだろうか。

古代の世界史は私達にとって混沌としていて、一向に想像も出来ないが、どうやら現代人が考える以上に広範囲に渡って交流が行われていたらしいことは確かだ。
日本の縄文人が南太平洋からオーストラリア大陸付近まで進出していたかも知れない、という証拠が発見されたとする情報や、紀元前3000年頃には中国とエジプトの交易が行われていたとする説もある。
古代人達は幾世代にも及ぶ旅の途中で対立し、或いは融合しながらその文明・文化は世界に拡散されて行ったのであろう。
各々の持つ文化的特長が強く残る場合もあれば、次第に弱くなり失われたものも多かったに違いない。
様々な文化の中でもシュメールに始まり、エジプトへと受け継がれた巨大な文明の奔流は中東・アジアへと大いなる広がりを持ち、最終的には四方を海洋により斜断された日本という巨大な島で保管されることになったのだろう。
先述したように古代人の行動範囲は私達が想像するより桁外れに広く、アメリカ大陸の発見者はコロンブスなどという歴史の常識はもはや通用しない。
私には古代人の持っていたエネルギッシュな行動力が歴史を下るにつれ著しく衰退してしまっていたのが、大航海時代などと呼ばれる時期に復活の兆しが見えたに過ぎないものだと思えてくる。

 それはさておき、日本とユダヤ神話や信仰ばかりが共通点を多く持っているとは言い切れないことも事実である。ユダヤはその始原に多くの人種的・民族的・文化的な影響を受けているのであり、本来ユダヤ的とされる事柄もまた当然ながら何処かにその始原を持っている筈である。
それは日本的とされる事柄が、ユダヤ的な特徴を持っているのと同じであり、元を正せば日本的とはユダヤ的な特徴とは必ずしも言い得なくなるという意味でもあろう。
日本の太陽信仰はエジプトと共通するし、吉野ヶ里などから発見された埋葬の様式は拝火教の影響を感じさせる。
またヘビ信仰はユダヤのソロモン王の時代にユダヤ的でないとして、破棄されたらしい
形跡が在るが日本では残っている。
日・ユの共通点ばかりがクローズアップされるが、その他にも日本に有ってユダヤに無いものが多いのも事実である。
それ等の事柄は中東やアジアを舞台に繰り広げられた様々な民族の様々な闘争が、後に舞台を東洋の島国へと移して行われた結果かも知れない。
無論ユダヤ人同士の民族対立が繰り広げられたことだろうし、またユダヤ系渡来人と他の渡来人や日本人の争いも当然のこと在ったことだろう。
古代史の事件が、そんな部族間の勢力争いの結果だと捉えその争いの中に古代日本の歴史の一端が垣間見えるとすれば、非常に興味深く面白い。

それは同時に私達日本人のルーツを探る手掛かりでもあり、混沌として一向に明瞭ではない日本人の歴史に迫る機会でもある。

 日・ユの神話には確かに共通点が存在するが、世界的な視点からはどうなのだろうか。
豊穣の神と太陽神にまつわる伝説などでは、豊穣神が毎年、春に蘇り秋に殺される。
そしてまた春に復活するのだが、それを迎えに妻であり母である太陽神が冥界へと下るのだという。その太陽神が冥界へ行っている間は、世界は暗闇に閉ざされ家畜は子を産まず人々は困窮する。そこへ冥界から帰った太陽神と豊穣神が登場し、世界は光と安寧を取り戻すというものだ。この神話などは天の岩戸神話を彷彿とさせる。
ファラオの命を脅かすとして子供を皆殺しにされそうになった時に、神の助けによりユダヤの子供が救われたとする伝説に基づくとされる『過ぎ越しの祭り』も、その発端は遠くユダヤ以前に存在するものの様であり、それが形を変えて日本では『蘇民将来』の祭りとなっている。

とはいえ、ユダヤ的なものとの共通点は余りに多く、太陽を拝む習慣や正月に餅を食する習慣、大掃除の習慣など、その共通項は日常生活にまで及んでいる。
しかしだからといって、その全てが決してユダヤのオリジナルでなく、かつての世界的な文化の名残が、日本とユダヤにのみ色濃く残っているに過ぎないという可能性も存在するのだということも忘れないで欲しい。
 つまり私の考えでは、日・ユを含めた更に大きな文明文化のベースが存在し、その名残の一部分がユダヤ系の人々を経由して日本にもたらされた。
そして世界的に散逸し消えてしまったその文明の残光が、ユダヤ系渡来人が力を得た日本で強く残っているのではないかというものだ。
いかにエネルギッシュな古代人にとっても、海という障害で隔てられた日本に渡来するにはやはり相当な覚悟と幸運が必要だったことであろう。
だとすれば、もたらされた情報が海で閉ざされた日本で、既存の情報と混合し熟成され、或いはより純化されていったのではないかと想像するに難くない。

それはイスラエル十部族が失踪する以前の話しであり、失踪した十部族の一部が日本に渡来する以前にも土台として今日でいうユダヤ的な習慣の多くが既に日本に存在したかも知れず、それが渡来したユダヤ系の人々により強化され残ったのではないかとの考えである。
日本に既存していたその文化は、恐らくはユダヤ民族という概念が誕生する以前に遡る時代の話しである。
その証拠に私達にはユダヤに見られる『神との契約』の記憶が無く、選民意識も存在しない。『神との契約』という衝撃的な出来事が起こっていたならば、ユダヤ民族に見られる様に決して忘れることなど出来ないであろうからだ。
中世あたりから『神州日本』的な考えは存在するが、それは恐らくは『元寇』辺りから一般的になったものだろう。そして帝国政府が戦争遂行の為にそれを利用し、最後は
『神風特別攻撃隊』なる理不尽な攻撃の大儀名分として大日本帝国とともに絶命した。

偽書とされる幾つかの古文書では、視点が政治的な主流に逆らっている為に内容の如何に係わらず一切認められていない。
そこでは世界的に活躍する私達の祖先の姿が活写されていたりするが、アカデミズムからは一笑にふされ、顧みられることはない。
正史的な解釈からは当然であろうが、その正史として唯一認められている『記紀』にしても多くの矛盾と欺瞞に満ちているであろうことは否めない。

日本神話では妻のことを妹というが、ユダヤでもやはり同じである。またソロモンが契約の箱をダビデの町から神殿に移した時に雲が神殿に満ちたという。
その時にソロモンが述べた誓いと、スサノオが詠んだとされる和歌『八雲たつ出雲やえがきつまごみに やえがきつくるそのやえがきを』が殆ど同じ意味だという。
研究者の中にはヤクモとイズモはヤコブとエドムであると指摘する人もいるらしい。

『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)には何と1~2万年前の亜氷期の記憶が記されている。この時期に温暖だった気候が寒冷化し、平均気温が低下したのだが、このことは山の幸で十分に暮らしていけたものが、農耕による食料生産の必要に迫られたことを意味している
 ディテールは異なるが、山本建造氏も乗鞍岳(のりくらだけ)付近に生活していた人々が気候の寒冷化により平地(現在の岐阜県・高山市付近)に移住したという説を発表されている。
山本氏の場合は乗鞍山麓に居住していた人々が原日本人だとされていて、飛騨から出雲や奈良へ人々が遣わされ、外国からの脅威に備えていたのだとされている。

 しかし平地に降りて農耕が必要となれば、武力以上に権力を握る武器となるものがある。農耕技術がそれだが、九州に渡来して日向に拠点を築いていた日向族にとって日本を支配する絶好のチャンスが到来することになった。
この日向族は恐らくはヨセフ族であり、増長した彼らは自らを天から下ったもの天孫族と呼称するようになる。高千穂に降臨した天孫とは日向族であったが、彼らの覇権を目指す闘争は未だに全国に広がる様なものではなく、九州の一地方での戦いでしかなかった。後に東征して近畿地方で天下の覇権争いを繰り広げた相手は、皮肉にも後に同じユダヤ系渡来氏族といわれる人々であった。

結局は日向族が勝利したが、日向族もナガスネヒコも自分達が後世には同じ部族としてひと括りにされるとは知る由も無かった。
この闘いの後に近畿に勢力を築いた日向族は、ワカミケヌ(神武)の時代に最盛期を迎える。そして神武は彼の詠んだ和歌のなかで、自身の妻を妹と表現している。
これはユダヤ独特の表現であり、日向族とはその昔、僅かの種籾を携えて日本に渡来してきたユダヤ系の人々であった証拠でもある。
そして神武を先頭に日向族の東進が始まる、古代史に有名な神武の東征である。
 しかし、これには異説も存在する。山本建造氏は岐阜県の飛騨地方にある『位山』に神武の墓があり、神武の本当の名は『サヌ』であり、その昔は地元の古老が嫁にその経緯を語って聞かせたという。
山本説によると神武は東進した大和でニギハヤヒと対峙するが、やがて神武とニギハヤヒはお互いの先祖が同じであり、かつては陸路と海路に分かれて出発した同じ一族の同胞であると判明する。更に出発前に先祖同士が交わした約束により、ニギハヤヒは都を神武に譲ったとされている。
つまり、ここでも渡来人が既に大和に居住していた可能性が示されている。しかも先祖同士の約束をちゃんと履行する律儀さは、多分に日本人らしさを示している様に感じさせる。
by levin-ae-111 | 2011-09-08 05:28 | Comments(0)