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by levin-ae-111
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北陸の武将たち(九)

九、足羽の合戦と平泉(へいせん)宗徒の寝返り
 新田義貞が拠点とした杣山(そやま)城は、数本の河川に挟まれた山に在り攻めるに難く守るに易い要塞であった。義貞はこれを詰め城として、その麓にある館で再起を図った。
天下を尊氏と二分して戦い続けてきた義貞には、尊氏と同じ源氏の血筋という事もあり、是非とも一族の主流に成りたいという夢があった。それが、打倒尊氏の執念に燃える理由でもあった。
それが竹ノ下、白旗城攻略のミス、金ヶ崎城での敗戦と、尊氏との差は広がるばかりで、義貞は焦っていた。義貞は杣山(そやま)から密かに兵を募集し、一旗揚げようと目論む連中が次第に義貞の許へと集り、城内の兵は3千を越えた。それを察知した尊氏は、義貞追討の命令を国府の斯波氏へ下知した。
斯波は直ちに攻撃を開始したが、要害の杣山(そやま)城を攻めるのに手間取り、一方の義貞も僅かに3千の兵では6千を越える斯波軍に容易に手出しできず、両軍は小勢での小競り合いを繰り返すばかりだった。
この様な時に加賀の畑時能(はたときよし)が、付近の山岸、上木、敷地を勧誘して、斯波軍の陣を攻略した。また津葉五郎は大聖寺(だいしょうじ)の城を攻めて、斯波氏の後方を脅かす動きを見せる。更に平泉寺の宗徒が、突然に新田側へと寝返った。これは斯波氏にとって思いも寄らぬことであった。

 特に平泉寺は、多くの荒法師を抱えており、宗徒を総動員すれぱ、その兵力は1万8千を超えると目される一大勢力である。
喜んだ義貞は、宗徒の篭る三峰城へ弟を筆頭にして500騎を送り込み、これを固めさせる。
この城は三峰集落の南東、標高405メートルの山上にあり、僧兵らは食料を集めたり家屋を焼いたりして斯波軍の後方をかく乱した。斯波軍は二手の敵を迎え撃つことになった。
両陣営が睨み合いを続けるうちに、春は足早に到来し雪に覆われた道も現れ、両軍の動きも活発になる。そして延元三年(1338年)の2月、勝負を決する時が到来した。
義貞は千騎を率いて山(そやま)城から出陣、他にも義貞の部将たちがそれぞれ数百騎の軍を率いて動き出した。待ち受ける斯波軍も押寄せる新田軍も数的にはほぼ同じ3千騎だったが、方々から囲まれる形になった斯波軍の情況は不利であった。
方々で激戦が続いたが、新田軍の一部が戦場を迂回して、国府に火をつけた。それを見た斯波軍
は慌てて新善光寺城に入れてはいれないと、国府へと引き返し、兵力を集中してこれに対処することにした。

 新善光寺城へ入場する道すがら、進撃を邪魔する障害物の突破に手間取り、遂に彼らは城へ入れず、二手に分かれて足羽と若狭へと敗走していった。
この様にして新田義貞と斯波高経(しばたかつね=斯波軍の大将)との立場は逆転し、足羽七城に立て篭もる斯波軍を新田軍が攻略するという戦況へと移り変わって行った。
大将斯波高経が拠点としたのは足羽七城のうちでも最も大きい黒丸城であった。この城は日野川と九頭竜川の合流点にあり、当然のようにそれらの河川から水を引き入れた水濠に囲まれた要害の城である。更には付近の田に水を張り、川に掛かる橋を全て破壊し、新田軍の進撃を阻む。
更に無理に押寄せれば、付近の間道から兵が襲うという、ゲリラ戦に討って出る。
このように黒丸城を中心に、北庄、江守、勝虎、波羅密、藤島、安居の小城が連なる防衛線を形成する。これは新田軍にとっては、一々にこれらの城を攻略しなければ斯波高経が立て篭もる黒丸城には届かないのである。
しかし越前の各地には新田軍勝利の噂が広がり、各地の小武士団が南朝側へと旗色を明確にし、新田義貞は完全に勢いを盛り返したのである。
越前の義貞優勢の報に、鎌倉に居た南朝の部将、北畠顕家の軍は南下し伊勢路から奈良に入った。これに意を強くした新田義貞は、六千騎を率いて斯波高経への総攻撃に出る。各部将にそれぞれに兵を付け、各城への仕掛けを開始した。
だが小城と侮った各将は、思いも掛けずこの攻略に手間取り、二月もの時間を浪費してしまう。
そうしている内に、新田義貞軍にとって大朗報が入る。越後の南朝方の部将である大井田、風間、鳥山など諸将の率いる連合軍が、越中の普門俊清、加賀の富樫軍を撃破して越前に入り、河合荘に陣を整えたというのだ。
義貞は九頭竜川を渡河し、黒丸城の背後へと廻る。そして、斯波高経を挟撃する絶好の機会が訪れた。決戦の期は熟し、総攻撃に移ろうとしたまさにその時、吉野の後醍醐より新田義興と畠山顕信の立て篭もる男山が危ないので、至急援護に向う様にとの勅旨が入る。
 もう一押しという目前で、義貞は無念の転戦を余技なくされた。義貞は先鋒として弟・義助に二万騎を率いさせて国府を出立させた。しかし敦賀まで達した時、男山は陥落していた。そして八幡宮の神殿が炎上したとの報に接する。尊氏軍の怒涛の北進が始まったのだ。
義助はやむなく引き上げる事にした。彼はきびすを返して河合石丸城へと入った。
一方で斯波高経は意を強くし、各城の守りをいっそう固める。この時点で、新田義貞が斯波高経を破るチャンスは永遠に失われたのである。

 後醍醐の勅旨を境に、義貞の運命は決まった。つまり北進する尊氏軍の勢いを止められず、河合石丸城に入った義助軍の様子を聞きつけ、寝返る者が出たからである。
尊氏軍の勢いを推察した平泉寺宗徒たちは、斯波高経への寝返りを決めたからだ。この勢力は一万余で、これは越前における南北朝の勢力を逆転させるには十分であった。寝返りの経緯はこうだ。これは足羽の城が藤島の荘に隣接しており、城郭の半分はこの荘に掛かっていた。宗徒たちが新田軍に加わったのは、藤島荘が欲しいからであった。
この藤島荘は元々は平泉寺の領地であったらしいが、比叡山延暦寺とその所有権を巡って争っていたのである。つまり、平泉寺側に新田軍ではこの土地を取り戻すことが出来ないのでは?との疑念が生じたのである。
 そこで延暦寺から平泉寺へこの土地を返してくれるなら寝返る、と、斯波高経へと打診していたのである。斯波は天の助けとばかりに「土地は返す」と即座に約束した。
この平泉寺宗徒の裏切りは、徐々に義貞軍を追い込んでいく。そして間もなく義貞が灯明寺畷(とうみようじなわで)で悲運の最期をとげる予兆をもたらすのである。
新田義貞と足利尊氏は、いずれも清和源氏の系譜で、源義家の息子を6代前の祖先とする。この祖先は兄弟であり、その兄弟の子孫どうしが争っているという構図である。
 無論、本人同士はそれを知っていたに違いない、だが協力して日本を牛耳るなどとは考えなかった。お互いの意地であったろうか。
by levin-ae-111 | 2011-09-19 07:32 | Comments(0)