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by levin-ae-111
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人格者前田利家は本当か?「劇薬の戦国史」より

 前田利家といえば、晩年には豊臣政権の五大老の一人に名を連ね、秀吉から子の秀頼の後見を託される程の人格者として知られている。大河ドラマでもその様に描かれていたが、果たして本当にそんな人物だったのだろうか。一説には家康の暗殺を企て、息子の利長と家老に反対され断念したが、後にこの家老を手打ちにしたとされている。

利家は羽柴秀吉や佐々成政らと同郷で、若いころから織田信長に仕えていた。戦場では勇敢で長槍を手放さず「槍の又左」として知られていた。彼の本名は前田又左衛門といい、若い頃は信長に負けず劣らず華美で奇想天外な身なりをしていたと伝えられている。
さらに極めて短気で直ぐにキレル性格で、とても残酷であったらしい。
ある時、信長の茶坊主と些細な事で口論になり、この茶坊主を斬殺して逃走し、何年も行方不明だった事がある。

当然、この時点で織田家をクビに成っていたが、浪人のまま桶狭間の合戦に参加して手柄を立て、帰参を許された。大名に成ってからは流石に大人しかったらしいが、領地の加賀や能登の地は一向一揆が盛んな土地でその制圧に苦労した。
見せしめの為か、時には捕らえた一向宗を公開で釜茹での刑に処したこともあった。こういう残酷な事をしておいて、全く悔やむこともなかったという。それから秀吉を裏切って敵方に付いた事もあるらしいが、何ら悪びれることもなく秀吉傘下に復帰している。

死の間際「わしは故無くして人を殺したことは無い。もし地獄に落ちるなら、閻魔大王を相手に闘うぞ」と言ったとか。度胸があるのか空気が読めないのか、恐らくこういった点に関して天然の鈍さを持っていたのだろうという人もいる。
ともあれ利家の存命中は家康も動けず、秀吉亡き後の実質的な豊臣政権の屋台骨であった。つまり所領が100万石という大大名というだけでなく、大名他家との信頼関係が篤かったと推測できる。その点では人格者という定評は嘘ではなかったのであろう。
そして利家が亡くなると、家康が天下取りへと動き始める。天下を手中に収めた後は、何度も息子の利長を挑発し取り潰しを狙っている。利長は時には母親の松を人質に差し出したりしながら、家の存続を図っている。
家康にとって、利家が亡くなっても加賀100万石は目の上のコブであったらしい。
それにしても若い頃は傍若無人、晩年は人格者とは現在でも時折耳にする話しである。
人間とは今も昔も余り変わらないものらしい。
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by levin-ae-111 | 2011-10-12 05:26 | Comments(0)