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by levin-ae-111
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長い題名の本20

科学者たちの反論
 臨死体験とは一連の意識の経験であり、直接的な物理的証拠が存在するわけではない。臨死体験者が目撃した自身を蘇らせようと必死に努力する医療スタッフの会話や、周囲の状況を幾ら提示したところで唯物科学はそれを取り合わなかった。
しかし、現代に到って、それを科学的に実証しようとする動きもある。英国ブリストル大学の脳知覚研究所の講師で、異常心理学・体外離脱現象の科学的解明を専門とするスーザン・ブラックモアは言う。
「近年、国際臨死研究協会は臨死体験は人間の五感による知覚から開放され、テレパシーによるコミュニケーションを意識レベルにまで移行させる超常体験である。
そして臨死体験者は自分が日常世界とは時間、空間的に異なる周波数の高い次元にいる者と定義するに至った」

だが多くの学者たちはその対極にいて、臨死体験の正体をあくまでも苦しみや恐怖を和らげるための脳内現象であるとする見解を指示している。彼らによれば、これまで見て来た臨死体験は、脳内麻薬による幻覚や幻聴であるらしい。
アメリカの心理学者ロン・シーゲルは、どれほど麻薬中毒者が陥る幻覚や幻聴と、臨死体験が似ているかを示して、臨死体験は脳内麻薬による幻覚、幻想であると結論づけている。
また英国の精神科医は、この種の報告をした人に「本当に死んでいる人はいない」とし、臨死体験は生命が脅かされた状態でなくとも起こり得ることであり、化学的にもその状態をつくりだすことは可能だとしている。

臨死体験否定派の考えは、以下のように要約できる。
臨死体験の全ては「死にゆく脳の作用」によるもので、死の苦痛を和らげる脳内分泌物が生み出す幻覚であり、脳が死ねば最終的にストップする。従って臨死体験は、死後の生について何も語っていないことになる。例えギャラップ調査でアメリカ人の70%が死後の生を信じているからといって、臨死体験の証拠にはならないのだ。
そして臨死体験を肯定する根拠に対して、以下のように反論している。
これらの肯定派と否定派の攻防を、あなたはどうお感じになるであろうか。これだけを見れば、如何にも否定派の主張の方が優位なように見える。
だがそれは臨死体験(体外離脱体験を含めて)なる極めて個人的で主観的な体験を、誰にも分かる様に説明し、それが真実であると証明せよという極めて困難な課題の故である。
 
肯定派の根拠
・臨死体験は古今東西同じで、一貫性がある。
・臨死体験は極めてリアルで、現実感がある。
・臨死体験には、科学で説明不能な超常的な体験が含まれている。
・臨死体験で人が変わり良い方向に変わる。精神主義的になり、物質主義的でなくなる。
否定派の反論
・脳やホルモンは神経系など共通であり、従って同じような体験をするのは当然である。
・そう言っても、未体験の人には分からない。
・これも、体験したと主張する当人にしか分からない。
・化学物質の投与で、これらの事は容易に可能である。

こういった状況は、実は臨死体験などのデリケートな事柄に関してだけ発生するものではない。それどころか、私達の日常の行動や考えに常に付きまとう問題なのだ。
臨死体験を否定する学者たちの身にも、当然のようにその問題は降りかかる。と言うのはあの時、あなたはどうして、あの行動をとったのか科学的に証明しなさい、と言われているのと同様であるからだ。無意識の行動を如何に科学的に分析し、証明してみたところで無意味である。
「あの時、こう考えて、ああした」と分析しても、殆ど無数に存在したであろう行動パターンの一つを選択した真実の原因など現代唯物科学で正確に解き明かし、証明することなど本当は不可能なのである。

学者や発明家、芸術家などには時として閃きなるアイディアが何処かから降ってくるものらしい。現実にそういう閃きの恩恵を私達は受けているのである。
不思議なことに、自分の知識では到底及ぶはずのないこういう文章を記述している私(ブログ筆者)にも、正に今、同様のことが発生している。
今日の記述はコンノケンイチ氏の著書に従えば、上記に掲げた肯定派と否定派の部分で終わっている。
閃きというのは少々オーバーであるが、何か不思議な感覚に導かれて今日の記述を続けている。こういう状態は何度も経験しているが、それを証明せよと言われても不可能である。
私達の物質世界の実態とは、唯物化学が主張するような単純な、或いは複雑過ぎる理論では表現し切れるものではないのだ。
 私達の世界は画一的に表現できる事柄など、皆無であると私は考えている。この世界は私達の合意に基く一定のルールにより形成されているに過ぎないと私は思う。
そこにこそ、意識(魂)としての進化発展の余地が存在するのである。確たる物質的法則で縛られているかに見える私達の世界だが、本当は人間個々の意識が強く働く余地が十分に残されている世界なのである。
by levin-ae-111 | 2012-01-29 12:42 | Comments(0)